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『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年10月13日(金)21時57分26秒
編集済
   八戸の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』の寄贈に与りました。

 今回は詩人が代用教員をしてゐた黒石高等小学校時代(大正9,10年)22,23歳の、詩を発表し始めた当時のことをとりあげてゐます。親戚・思ひ人・文壇・教へ子と人間関係を幅広く紹介してゐる内容が興味深いのですが、東北の詩壇にも土地勘にも事情の暗い私においては、刊行された分もふくめてこれまでの目次を下記に掲げて公開するに留めたいと思ひます。
 ひとつだけ記すとして興味深く思ったのは、私は常々「詩人の出発あるある」と称して、魅惑の女性との破局が詩人のトラウマとなってゐること、そして母方の叔父に変人が居て詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へてゐること、この二点をいつも注目しながら伝記を読んでゐるのですが、一戸謙三に於いてはその両つともが該当してゐたといふことです。

 さて今回、わが詩集サイトとして内容からとりあげたのは、職場のガリ版印刷機を使ってたった二十三冊印刷されたといふ第一詩集『哀しき魚はゆめみる』。 冊子では書影の紹介のみですが、晃様の許可を得ましたので今回、全文のPDF画像を公開させて頂けることになりました。
 http://cogito.jp.net/library/0i/ichinohe-kanashiki.pdf

 当時の詩壇を風靡した萩原朔太郎や室生犀星の影響が色濃い、「詩人の出発期」を感じさせる一冊ですが、語感の滑らかさや言葉の抽斗・繊細なその選択は、単なる摸倣から一歩抜きん出た様相をみせてをり、詩人の天稟を感じさせます。

 いったいに詩風に幾変転はあっても、所謂駄作を残さない、知的で潔癖な印象を読者に与へ続けて来た詩人ですが、この処女詩集にまでさかのぼって見てみても、いとけない情感はさりながら、さうして朔太郎の語感、犀星の語調の痕はありながらも、完成品として眺めることが可能であり、その審美眼が確かであった証拠品といへるのではないでしょうか。そしてまたこれはテキストに翻字してしまふより、かうして詩人のあはあはしい筆跡のままに、より強く感じられるところのデリケートな原質を大切にしたい。そんな風にも思はれたことです。

 またこれを読んで考へさせられたのは、さきに『玲』163号でも公開されたパストラル詩社時代の添削詩稿のことです。福士幸次郎からの先輩詩人としての指摘は、摸倣を脱するようにとの真っ当な助言であるとともに、彼に理知を以てまとまってしまふ危険を感じて不満を呈した、世代の差異によるところがあったかもしれません(『玲』163号より抄出↓を参照のこと)。

 この利発さはこののち、ガサツに過ぎるプロレタリア文学ではなくモダニズム文学へと彼を誘ひ、さらにその利発さにさへ自己嫌悪を覚えた挙句、折角身につけたモダニズム手法を破産・放棄させ、郷土詩や定型詩といふ古典的な「殻」を身に纏って防禦的な決着へと彼を導いていったやうに思ひます。エロチシズムにも領されながら、ここにみられる一種の端正な佇ひは、謂はば詩人の原初にしてその最初からの発現ではなかったかと思はれてならないのです。

 潔癖に過ぎる審美眼が、この初期作品群を羞恥とみなし、在世中には長らく纏められることもなく、坂口昌明氏によって『朔』誌上に於いて再評価されるまでそのままにあったことは残念なことではありましたけれど、その純情で知的な詩心は、時代をもう少しだけ下ってゐれば、(戦争中の詩作がそれを証してゐるのですが)、必ずや含羞をこととする『四季』のグループに交はってゐたものとは、私の常々直感するところです。

 一方、朔太郎のエロチシズムや犀星の望郷調が語彙語法として盛り込められなかった歌の方には、詩人の素質としてのオリジナリティが、純情な感受性と共にそのまま豊穣に感知されます。

草色の肩掛けかけて池の辺に鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの葉陰にさびし尾をふれる馬

月のした輪をなしめぐる踊り子の足袋一様に白く動けり

うす苦き珈琲をのみつしみじみと大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

鏡屋の鏡々にうつりたる真青き冬のひるの空かな


 東北の一角より個人的に刊行され、中々手にすることの難しい冊子でありますが、昭和前期を中心に、詩人が遺してきたモダニズム文学・郷土文学の業績に対して真摯な思ひがおありの方には、まづは書簡等にて挨拶申し上げて送付を乞ひ、この奇特な私家版らしい風合を身上とした詩人顕彰の営みにふれてみられるのも、資料的側面にとどまらずまことに有意義のことのやうに思ひます。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。


『詩人一戸謙三の軌跡』(非売品)

第一集 平成28年11月3日発行

詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し(少年時代)」 5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い)」 77-104p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p

第二集 平成29年4月25日発行

方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p


第三集 平成29年8月18日発行

第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p


第四集 平成29年9月30日発行

第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 1-122p


すべて著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11

http://

 
 

映画評

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年10月 5日(木)00時19分43秒
編集済
   期待したモダニズム雑誌や稀覯本が次々に繰られるものの、戦前の知性的な詩は目で味はふ要素が強いから朗読はそぐはず、BGMの前衛ピアノも(昔のNHK「新日本紀行」みたいに陰気で)いただけなかった。

 本場シュルレアリストの絵画作品とのコラボや、フィルムの逆回しといふ古典的手法による新たに追加された映像も、この映画の主人公たち──『椎の木』に拠った楊熾昌(水蔭萍)にせよ、『四季』執筆者には名前がみつからなかった林永修(林修二、南山修)にせよ──彼らとは気質を異にするもののやうに、私には思はれた。

 監督の手腕にかかるドラマ演出部分であるが、役者の顔が見えないのはよいとして、ならば西川満をしっかり役に入れ、日本人との交流、日本人による日本語を絡ませてほしかったところ。何より詩人の実生活が(食卓と子供が纔かに描写されてゐたものの)殆ど描かれてゐないことが惜しまれた。後半の歴史的事実が告げるやうに、さうして監督がパンフレットのインタビューのなかで語ってゐるやうに(これは読みごたへあり)、この映画は、単なるシュルレアリスム的手法によりかかった芸術映画であってはいけない内容だからである。

 画面の中で、当時の彼ら学生らしい視点を垣間見せてくれてゐるのは、同世代人である師岡宏次といふ孤独な青年写真家によって切り取られたアングルの視覚的効果に拠るところが大きい。これだけは成功してゐた。

 もろ手を挙げて好意的に迎へたい内容であるだけに、期待が大きすぎたのだらうか。パンフレットにおける巖谷國士氏の解説も、あらためてよく読み返してみれば、「ああ、確かにさうとも言へるなあ」と、苦笑をさそふ誉め方において関心させられたことであった。★★☆☆☆
 

東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 9月 4日(月)17時04分35秒
  【四季派の外縁を散歩する】
第22回 東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって をupしました。
 

『絶対平和論』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 7月 4日(火)21時32分5秒
編集済
   このたび保田與重郎の本で、永らく探し求めてゐた一冊を入手しました。『絶対平和論』といふ本です。

 そのむかし大阪の『浪速書林古書目録32号』で「保田與重郎特輯」が組まれた際(平成13年11月)にも、入手困難で有名な『校註祝詞』や『炫火頌歌巻柵』など珍しい私家版本が現れ目を瞠りましたが、世間に訴へるべく刷られたこの市販本は載ってゐませんでした。
 自分が現物を目にしたのも、その更に10年以上も前に神田の田村書店で一度きり。笑顔で「それ珍しいよ」とわざわざ店主が教へて下さったのに、同じ祖国社から同時に出された函入り上製本の『日本に祈る』の方だけ買って、並製本のこちらは「また今度」といって手を出さなかった。以来三十年です(笑)。
 雑誌『祖國』での無署名の匿名連載が本になったものであり、表題も政治的なら内容も純粋な保田與重郎の著作としては認められぬまま、古書市場に残らなかった事情があったのかもしれません。

さて『浪速書林古書目録』は毎度特輯にまつはり専門家による一文が巻頭を飾ることで有名ですが、この特輯でも「保田與重郎の「戦争」」と題して、鷲田小彌太氏の読みごたへある一文が掲げられてゐます。さうして「絶対平和論」のことにもふれ、最後にかう総括されてゐます。

「国防であれ戦闘であれ、その実行ならびに精神はつねに実用を基盤とする。それは、絶対平和を体現するとされる米作りが実用を基盤とするのと、変わるところがない。喫茶や稲作をはじめ、実用(技術神経)を無視、ないし放棄した精神は、ついに、虚妄にいたる、という生活の仕方をしたのは、戦後の保田自身であった、と私は考える。保田の光栄の一つである。」


 保田與重郎は実用を「無視、ないし放棄」した。そのアナクロニズムこそが彼の「光栄」だったと皮肉ってゐるのですが、たとへば“新幹線をなくせと云ってゐるのではない、あるならあってもいい、ただなくても一向構はない”、といふ処世を、私はアナクロニズムとも無責任な放言とも思はない。実用を決して「無視」はしないし、「放棄」したのは実用(利便性)そのものでなく、利便性に胡坐をかくことだと云ってゐるにすぎないからです。

 鷲田氏の一文においても言及されてゐますが、保田與重郎は口を酸っぱくして「共産主義とアメリカニズムとを“一挙に”叩かなくてはならない」と日本の針路に対する警鐘を鳴らし続けてきました。そんな彼が敗戦を経てたどり着いた、近代生活を羨望せぬ、米作りを旨とした社会に道徳文明の理想を託した「絶対平和論」。
 これを現代に活かして具現化するとならば、少人数ながら、つましくサステナブルな、平和で平等なエコロジー文化国家を守り続けること、につきるのではないでしょうか。
 保田與重郎はもちろんその眼目として天皇制の意義を説いてゐるのですが、彼の農本主義がアナクロニズムならば、とまれ過去の遺産だけでなく、生きて居る日本人そのものが (卑下するなら人倫の見せ物として、自慢するなら人倫の手本として) 観光資源になってみせる位の、“世界に対して肚を括りなさい”といふ意味のことを、彼は戦争に負けてまづ最初に提言してゐるわけであります。

 日を追ってキナ臭い袋小路に迷い込みつつあるやうな今日の日本。まじめに2025年問題も心配です。
 今年(左翼フェミニストである筈の)上野千鶴子氏が「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」公言して物議をかもしました。が、さういふコンセプトが国民にひろく認知されるやう、左右の思想を越えた「非コマーシャル」な文化運動が興らなくては(起こさなくては)ならないと、私もさう思ってゐたところです。「絶対平和論」の覚悟の立ち位置とはさういふものです。
 日本が国柄(アイデンティティ)を保ちながらグローバル世界の中で生き残るにはこれしかありません。
 里山の田圃が消え、国民統合など眼中にない移民がなし崩しに許可され、原発事故が連発してからではもう遅い。日本はアメリカのやうな移民格差社会になり果ててはもらひたくありません。

 現在の左・右のリベラル勢力はグローバリズムとコマーシャリズムを是とし、彼らに支へられてきたマスコミと経済界は、企業や富裕層の富が非正規雇用者へ再分配されること、過疎化してゆく地方を都会から護り助けようとすることを、実のところ望んでゐません。さうして肝心の日本政府もいったい何処に顔を向け、国益の何を守ってゐるのか全く判らないといふのが現状です。
 弱肉強食を本分とするグローバリズム(安易な移民受け入れ)とコマーシャリズム(浪費社会)と、その両方を“一挙に”叩き、リベラル勢力と政府に今一度反省をうながしてもらふこと。
 保田與重郎の絶対平和論を担保したのは「天皇制」でしたが、老鋪看板の権威を担保するのは政府ではなく、国民の総意であることを「日本国憲法」はうたってゐます。

 棟方志功の装釘で飾られた述志の一冊をながめながら、よせばいいのに皆さんに不評な床屋談義をまた一席ぶってしまひました。

http://

 

杉山美都枝「高原の星二つ 立原道造と沢西健」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 6月26日(月)00時24分24秒
   先日購入した古本雑誌『ポリタイア』第4号(昭和43年12月1日発行)。特集とは銘打ってゐないものの編集後記には、
「本誌の同人にゆかりの深い師友先達についての心のこもった寄稿を中心に編集した。」
 とあり、『四季』や『コギト』に拠った詩人たちについて論考と回想が並んでゐました。

 なかんづく杉山美都枝(若林つや)氏による立原道造の回想は、『四季』追悼号で有名になった“5月のそよ風をゼリーにして”ほかのエピソードの詳細を、親しく詩人と交はった著者にしてさらに細かく、複雑な心情を交へて吐露してゐて、そのためか以後の「特集誌」で再録の機会もなかったやうに思はれるので、報知かたがたここに紹介したいと思ひました。

杉山美都枝(若林つや)「高原の星二つ 立原道造と沢西健」92-100p

 文中「誰かの出版記念会」とは『詩集西康省』の出版記念会のことであり、「『四季の人々』という誰かの書いたもの」も、立原道造入院中の「ベッドのわきの弥勒菩薩の思惟像の写真」も田中克己からのものなのですが、この文章が書かれた当時、『ポリタイア』の創刊同人である芳賀檀と田中克己とはすでに折合が悪かったらしく、名前が伏せられてしまってゐます。
 逆に芳賀檀については、立原道造の親炙する様子が、油屋での“首吊りびと”のエピソードなどとともに面白く活写されてをり、ことほど左様にいろいろな忖度がなされた上で当時の思ひ出が書かれてゐるやうです。
 立原道造詩集の刊行を、没後最初に堀辰雄に相談したのは出版社「ぐろりあそさえて」に勤めてゐたこの杉山氏であったといふことですが、その場で“きっぱり”反対されたことも書かれてゐます。
 「新ぐろりあ叢書」で展開された、日本浪曼派を象徴するやうな棟方志功による装釘が、堀辰雄や立原道造の「このみ」に合はなかったのは確かでしょう。しかし思想的に峻拒したからと考へるのは、戦後リベラル派らしい付会にすぎるのではないでしょうか。
 一番弟子であった立原道造が自分と決別して傾倒していった先に待ってゐたのは若きカリスマ文芸評論家、保田與重郎でした。ぐろりあそさえて顧問だった彼の用向きを社員として彼女が携へてやってきたとなれば、さうしてその内容が自分の影響下で育った愛弟子の詩業集成を、商業出版にしてまるごともってゆくといふことであってみれば、反対するのは無理からぬ気がいたします。
 彼は結局、山本書店版『立原道造全集』3巻本の刊行に、用紙の手配から腐心するとともに、逆に弟子によって理由付けされた自分の詩集を出版することまで行って、立原道造と共に創り上げた四季派の抒情世界を戦時下の世相から激しく守らうと尽力します。
 『四季』と『日本浪曼派』と両方の気圏にもっとも気安いかたちで住んでゐたといへる彼女は、彼らの無防備な日常会話や挙措のうちにも顕れる心の機微を、女性として感じとる機会が多々あったといへるでしょう。堀多恵子夫人をのぞき周りがすべて自分たちより年長の師友であること――室生犀星や中里恒子やの言動に対しても、同様に憚りつつ、羸弱な詩人を慮るやうに草されてゐるこの回想は、『四季』同人のマイナーポエットである沢西健の消息を伝へる貴重な回想とともに、まことに興味深い行間を味はった一文にも思はれたことです。

 この号には他にも、浅野晃による増田晃の紹介、小田嶽夫による蔵原伸二郎の回想、そしてこの年の8月に亡くなってゐる木山捷平については、小山祐士、村上菊一郎、野長瀬正夫3名の追悼文を併載してゐるので、合せて紹介いたします。

浅野晃「増田晃、その『白鳥』」117-122p
小田嶽夫「随想・蔵原伸二郎」122-131p
小山祐士「木山捷平さんのこと」141-145p
村上菊一郎「夏の果て 木山捷平追悼」145-147p
野長瀬正夫「木山捷平と私」148-157p

野長瀬氏の一文は面白い書き出しで始まってゐます。

 昭和二十四年の秋頃のことである。当時私の家には五歳と三歳になる女の子がいた。毎日部屋じゅう人形や玩具やぼろきれをひきちらかして、 ままごと遊びに夢中の年頃であったが、ある日、その二人の子供が、
「ねえ、木山さんごっこをしようよ」
「うん、しよう」
 と隣りの部屋で話し合っているのが、ふと私の耳にはいった。それきり声は途絶えたが、二人は何かもそもそやっている気配である。「木山さんごっこ」とは何だろう。私は軽い好奇心にかられて、そっと覗いてみた。(後略)
 

豆馬亭訪問記

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 4月25日(火)10時21分8秒
  「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」   『芸窓日録』明治十四年四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したのが明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向きをお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。
 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍した浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げられてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますから、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額(同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時代の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろいろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じてをり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参りました。( 『芸窓日録』に追加upした他の写真とともに御覧下さい。)

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351
 

『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 4月11日(火)12時20分32秒
編集済
   愛知大学丸山薫の会代表の安智史様より、会の編集発行に係る非売品の新刊『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』(2017.3.31発行 149p,21cm)の寄贈に与りました。
故八木憲爾潮流社会長との御縁を以て、私のやうなものにまでお送り頂き感謝に堪へません。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 内容ですが、「初期作品より」「詩集より」「豊橋関連エッセイより」「インタビュー、講演筆記より」と4つに分けて詩人の作品が収録され、「丸山薫作詞団体歌・校歌」「略年譜」が資料として付録されてゐます。

 主たる分量を占めるのは「詩集より」ですが、戦前に刊行された7冊の詩集の殆ど全てに、戦後山形県岩根沢での生活を写した『仙境』を加へた陣容は、エッセンスといふより全詩集に近いものであり、丸山薫のやうなゆったり余白を活かした詩篇も、2段組になれば全体が100ページに収まってしまふものであることを知っては、意外にも思はれたことでした。

 編集のみせどころは「詩篇」以外からの選択に表れてゐるといってよいでしょう。
 すなはち冒頭の「初期作品より」の2編「両球挿話」「オトギバナシ文学の抬頭」は、旧全集しか持ってゐない多くの人々が初めて目にする文章であり、丸山薫が花鳥風月の抒情詩を嫌った“物象詩人”とならざるを得なかった消息を、稲垣足穂との気質的な親和性や既存文壇への不満を綴ることによって示したもの。
 また後半の「エッセイ」2編は、後半生を豊橋で暮した詩人にゆかりの、地元ならではの文章が選ばれてゐるのですが、

 戦後、ふたたびここに12年間も住みつづけた現在、曾住の地のどこよりも親しみは感じるけれども、ここが自分の故郷だという、胸を締めつけるような愛情は湧かない。むしろ親しみと同時に、多分の反発感や冷淡な感情を持ち合わせている。そんな事を言うと、土地の人達の不愉快を買うだろうし、みずからの不利益になることは解っていても、それが偽りのない気持であるなら仕方ないではないか。(中略)
 その代りいつしかエトランゼエの思いがはぐくまれていた。私は、いつも近くに在るものを無視して遠方だけをあこがれる子供になっていた。(「伊良子岬」『岬』1960年11月刊) 110-111p


 といふ、中京文化圏に対する“よそ者”感、中部日本詩人連盟の頭(かしら)に担がれることに対しても、当初辞退しようとしたのも解らうといふ述懐に思はず目がとまります。この文章を肯へて選ばれたところに編者の見識を感じないではゐられません。豊橋は、子供のころ暮したことのあった縁故の地には違ひありませんが、戦後、疎開先から上京する繋ぎに一時の落着き先と思ひなしてゐた場所でした。そのまま“大いなる田舎”名古屋の文化圏に居ついてしまふことになったのは、「オトギバナシ文学の抬頭」にみるやうに、最初に私小説の理念を否定して詩人一本で立った彼が、外国語にも手を染めなかったために、小説や翻訳といった原稿料での生活の目途が立たなくなってしまったことにあったと思ひます。
 そんな彼を特別待遇を以て手を差し伸べてくれた愛知大学は、恩誼の対象であるとともにそれ故にこそ、彼を慕ってやってくる素質のよい文学青年たちを前に、本心複雑な思ひは欝々として抱いてゐたのではないかと忖度するものです。
 コスモポリタンの夢を抱く故郷喪失者であるとともに、同時に日本人たる自覚を強く持してゐた彼は、やはり東京か、それとも“先生”と呼ばれる職業に尊敬が無条件に集まるやうな、人心の純朴な僻村か、そのどちらかに本来定住すべき詩人であったと、私には思はれてなりません。

 巻末には、新修全集でもお蔵入りにされたといふ「私の足迹」と題された最晩年の講演の様子(1973年6月17日第13回中日詩祭にて)が収められてゐます。
 中京詩人たちの前で話すのですから、地元が悲しむことは言ってませんが、その代りに、心の中で大切にしてゐた岩根沢の風景が、経済優先の世相の中で変はり果ててしまったことに対する、もはや面に表すことが許されない嘆きや、第四次の潮流社版『四季』をこれまで五年続けてきたものの、若い詩人たちは『四季』より『現代詩手帖』を好むことが語られてゐます。
 岩根沢だって教へ子たちの心は変りなく先生を敬ってゐる。また当時は詩と詩集のブームの時期でありました。しかしながら詩人にとっては、尊敬の結果として詩碑が建てられることに抵抗し、もはや詩とは言ってもフォーク“ソング”の世代からは結局、立原道造や津村信夫のやうな詩人が現れなかったことに対する自嘲といふか、もはや諦めのやうなものが窺はれる気もするのです。

 この録音は、本書冒頭の「初期作品」への自註になってゐる稲垣足穂に対する回想や、中盤からの、自らの感想をさしはさみながら萩原朔太郎からもらった手紙を読んでゆく条りが何ともいへず可笑しい読み物ですが、戦後のみちゆきを、何か掛け違ってしまったかやうな旧世代の日本人のさびしさが、詩壇の中心にあった当時の回想を振り返るたびに、笑ひのうちににじみ出てくる、そんな談話になってゐる気がします。
 それはまた「四季派」といふカテゴリー・レッテルに対しても、当事者として微妙なスタンスで話してゐることからも窺はれます。
 戦後昭和28年の時点で編まれたアンソロジー『日本詩人全集』(創元文庫)における解説においては、「詩壇」など詩を書く当事者の主観の中にないことを前提に、『コギト』との密接な関係に言及しつつ「いわゆる「四季派」と呼ばれたオルソドックスの流れ」や、「いわゆる四季派の精髄」として中核をなした詩人の名を挙げることに躊躇のなかった詩人が、いざ『四季』が復刊されて自分が親分に祭り上げられた現状での意識表明となると、一歩引いた様子がみられるのです。

 旧世代らしさは、現在の政治家の講演だったら新聞記者が食ひつきさうな表現にもあらはれてゐます。表現に対して大らかだったこの時代、詩人ならではの拘りない気宇の感じられる話ぶりですが、この講演筆記を本書に収録することを決めた編者の選択をやはり買ひたいです。金子光晴は抵抗詩人ではないと言って、おそらく聴衆をドキッとさせたでしょうが、そんな彼の、戦前には人権や平和に対する、戦後は国威や伝統への目配り・配慮を欠かさない、「ポリティカル・コレクトネス」とは異なる「中庸」の面目が随所に躍如した、貴重でなつかしい詩人の俤に触れ得た気持ちがしました。

 装釘も「暮しの手帖」っぽいロゴが可愛らしい。詩人夫妻の自宅の縁側での睦まじい姿をとらへた表紙写真と共に、愛読者にはぜひ一冊手許に欲しい出来上りとなってゐます。

 非売品なので、罪なことにならないか心配ですが、ひとこと報知させて頂きたく、ここにても御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


【追而1】昭和17年12月~昭和18年9月までの戦艦大和の艦長が丸山薰の義弟であったことも初耳でした。
【追而2】金華山と岐阜城の事が書かれてゐるのは、管理人にとってはうれしいところなので、最後にちょっと引かせていただきます。

 いま私の住む近くで知っている城を語るなら、先にもちょっとふれたが標高330米、金華山のピークに屹立する稲葉城への道は、数年前に架設されたロープウェイのお蔭で、登るのに骨は折れない。城は山の峻嶮と高さと、その山麓を流れる長良川とのゆえに、上からの展望も下からの眺めも絶佳だ。
 そういえば、これらの山と川との美しさによって、岐阜という都市の全休が、いや、その空までがどんなに品格を挙げていることか。有名すぎる鵜飼の情調はともかくとして、山麓河畔一帯の町のニュアンスまでが、なにか京都を連想させるものをもつ。(「城の在る街と豊橋」『市政』1958年11月号)108p

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『芸窓日録』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 4月 5日(水)20時10分50秒
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  新年の掲示板で予告してをりました、明治期の漢詩人戸田葆逸の写本日記『芸窓日録』ですが、ながらく図書館勤めをしてをりました記念に、職場の研究機関である地域文化研究所の紀要に「資料紹介論文」として載せて頂くことになりました。
写本の原画像とともに公開いたしますので御笑覧ください。
(Twitterフォロワーの鸕野讃良皇女様から早速御教示を賜り、旧蔵者が杉山三郊と判明しました。ここにても御礼申し上げます。)

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八木憲爾潮流社会長を悼む

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 3月31日(金)09時07分40秒
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   八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂きましたが、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お電話のたびに仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りした最初の詩集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上にあった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態だったにも拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩人の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を冠する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐさめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありません。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とすることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 

「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 3月26日(日)16時50分14秒
編集済
 
 西村将洋様より雑誌『昭和文学研究』74集抜刷(42-56p)「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」をお送り頂きました。

 ここにてもあつく御礼を申し上げます。

 保田與重郎が『コギト』を始めるにあたって問うたのは「何を文学する(マルキシズム)」でも「どのように文学する(モダニズム)」でもない「なぜ文学を始めた」といふ問題意識でした。それを鮮明に他者へ伝へるために発動された「イロニー」は、読者の偽善や安穏を暴き、当事者性を掻き立てる、挑発的な表現手法といってよいでしょう。

 今回、俎上に上げられたテキストは、ペンネーム「松尾苳成」名義の保田與重郎の一文「文明と野蛮についての研究──ダホミーのベベンチュ陛下の物語の解説」(『コギト』昭和13年1月号)です。

 このなかで「解説」が施されてゐるのが、いつもの日本の歴史や古典、或ひはドイツロマン派でもなく、アフリカの一王国の野蛮な逸話であることに、先づ驚きがありました。しかし蘊蓄を封印した分、一文のイロニーも直截です。さうして斯様な表現をするためには、自身が先づ「過剰な読解者」でなければならなかったといふことを西村さんは指摘します。けだし表現と読解とはコインの裏表である筈で、過激な表現で読者に噛み付く彼は、いったい何を読み取った上でそのやうな言挙げをしてくるのか、その剥き出しの表現の手前でおさめてゐるものは何なんだ、それこそが問題なんじゃないかとの洞察に感じ入りました。

 一文の趣旨は、列強視点の「野蛮人」を擁護するべく、宗主国への反証を敢へて試みたものなのですが、他者を自分の尺度で「野蛮人」として見くびる「文明人」のことを非難する論者自身は、ならば文明人なのか野蛮人なのか。謂はば「上から目線」で彼らのことを勝手に忖度する矛盾を犯してゐるのを指摘したところで、「だからペンネームなんです」と逃げ道の絵解きがされてをり、なるほどと、再び驚いた次第です。

 中盤には「何が文明で、何が野蛮か」といふ同趣旨で開陳を試みた、スペイン人民戦線が冒した野蛮行為を嫌悪する一文(「文芸時評 法王庁の発表」『日本浪曼派』昭和11年10月号)が上げられてゐますが、教会への破壊行為を敢行する彼らの野蛮と、やはり当時党員の粛清を始めたスターリンの野蛮とは、新たな文明のために払はなければならぬ犠牲といふ意味において何ら変るものでないと言及、まんまと挑発にかかって噛みついてきた、人民戦線を擁護する三者(林房雄・亀井勝一郎・三波利夫)を、犠牲者に寄り添ふ濃度によって色分けをし、斬り捨ててゐます。

 しかし保田與重郎が三者のなかで同情を寄せた林房雄が語った、犠牲物でなく犠牲者に心を寄せる「庶民の血」とは、言ってみればポピュリズムそのものではないでしょうか。さうして「何が文明で、何が野蛮か」「何が犠牲者で、何が侵略者か」の議論は、ポピュリズムにおいてどちら側にも横滑りしてゆく危険があることを、西村さんは「マルクス主義民族論(植民地解放闘争)の問題意識を共有していた」中野重治との意識の差異を通して明らかにしてくれました。中野重治と保田與重郎と、世代の異なる両者が意識するところの「植民地(犠牲者)」が、日本に対する朝鮮なのか、欧米に対するアジア諸国なのか、そこから発動される倫理は「他者(の立場)を想像せよ」と傲慢を弾ずることなのか「たやすく他者(の心)を想像するな」と軽佻を戒めることなのか。

 左翼思想が後退を余儀なくされたインテリゲンチャ世代の心情が、自他ともに対する厳しい自己責任論の上に立ち、当事者として「命がけの立場に立つか、さうでないか」「命がけの立場に立てば犠牲者が出ても仕方がないのか、そんな犠牲がでるようなものは正義でも何でもないのか」の決意表明や選択を次々に迫られていった時代下でのお話です。

 西村さんは最後に己の決意の純粋のみによりかかる保田與重郎のレトリックを、「決断の修辞学」「野蛮の倫理学」と呼び、時代によっては「極めて危険な言葉」となって飛び出すと心配してをられますが、──さて警鐘は時を隔て、現在の日本でも鳴らされる可能性があるものかどうか。

 現在の日本は、金権政治家とマスコミとが反目しつつも一致して掲げるグローバリズムへと巻き込まれてゆくやうにもみえます。このまま欧米と同様の格差社会・分断社会への途を進んでゆくのではないか、本当に不安ですが、もしも保田與重郎が再び現れ、イロニーを弄してタブーの告発を行ったとして、飽食文化と自虐史観に馴らされた国民が「炎上」し、目醒めることなどあるでしょうか。このたびはポピュリズムによって潰されてしまふのではないでしょうか。

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