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おくやみ 松本和也氏(下町風俗資料館初代館長)

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月13日(土)15時16分54秒
  通報 編集済
   口語自由律俳句の鬼才、嘗てわが上司にして台東区立下町風俗資料館の初代館長でありました、松本和也(まつもとかずや)氏の逝去を、年賀欠礼状によってお知らせいただき、吃驚してをります。さる四月十四日とのこと、二年間の闘病生活を送られてゐたことも存じませんでした。毎年娘さんの描く一風変はったイラストに、一言を添へた年賀状を返していただくのが楽しみでしたが、昨年はお送りした拙詩集に感想もないまま、いただいた賀状の言葉の意味を計りかねてゐた自分を恥かしく思ひかへしてをります。

  思ひ起こせば地方の大学を卒業して仕事も決まらぬまま上京、三月も終りに「来月からどうしよう」と思ひ倦み、上野は不忍池をぶらぶらしてゐたところ、偶然下町風俗資料館の玄関に貼りだしてあった求人広告に目がとまったのでありました。マンガ雑誌「ガロ」の影響で下町風情にあこがれて上京してきたなんぞといふ、学芸員の資格もない訳のわからない男を、よくも一見しただけで採用して下さったものだと、今に当時のことを思って不思議の感にとらはれてなりません。この資料館に私は文化財専門員として1984年から1990年までの間、丸6年お世話になりました。新任職員の賃金を上回ってはならぬといふ待遇規定で毎年更新、区は学芸員を正規採用するつもりはなく、だから私みたいな者が採用されることになった訳ですが、館長が常々仰言る「いつまでもおったらだめだよ」といふ言葉通り、同僚はここをステップにキャリアアップを目指して次々飛びたっていったのに、無目的の私は9時5時勤務で週に三日もあった休みを精神生活の彷徨に費やし(お金はありませんでしたから)、しっかり怠け者の詩人の生活が板についてしまったのでありました。

 「前衛の自負」を標榜された新日本文学派の松本館長にとって四季・コギトの編集同人だった田中克己の門を敲いた私は、謂はば「花鳥風月の詩人」「戦犯詩人」に与する反動派であり、氷炭相容れぬ関係だった筈ですが、一方では公務員らしからぬ無頼派を気取り斜(はす)に構へてみせる。例へば縦縞の入った紫色のスーツで身を固め、職場に通ずるポルノ映画館の路地裏を肩で風を切って、といふか風に吹かれてゐるやうにもみえる、浅草生まれを自負する粋人でもありました。「民主主義は多数決の勝利である」と言挙げしつつ、イデオロギーを超えたロマンとエロスに苛まれた実存を吐き出す場所を求め、あくまでも自由律「俳句」のカオスに拘泥された。お役所体質と公務員気質を心底嫌ってをられましたが、日本で初めてできた下町の文化風俗を展示する博物館(敷地規模のため資料館とされましたが)の、構想から設立・運営の差配をすべて任されたのちは、恐るべき情熱をもってこれに没頭され、明治・大正・昭和の風俗論を実地調査と共に展開して、その成果を公的刊行物らしからぬ言辞の揺曳する図録に次々とまとめてゆかれました。核となった原風景は自身が青春を送った敗戦後の猥雑たる浅草界隈であったと思しく、威圧感を嫌って物腰こそ柔らかいものの、何事につけても独断専行、わくわくするやうなモチベーションが先行した斯様な型破りのキャラクターが、私ら口さがないペーペーの若者職員にとって瞠目・称賛・畏怖・観賞に値するボスでない訳がありませんでした。遠まきに時折り議論めいた詩論をふっかけてくる、何にもわかっちゃいない、歯牙にも掛らぬ若者の生意気な口吻も、たしなめつつ不羈の精神を嘉して、温かく見守って下さった、その御恩を仕事の上で在職中にお返しすることはできませんでした。勇退後の松本館長とはむしろ私が帰郷した後、同人誌や著作のやりとりを通じてお言葉を頂く間に、頑固な四季派それもよろしい、といふ文学上の認可に至ったとも任じてをりました。

 まことに東京砂漠で路頭に迷ふ既の所を救って下さった御恩。そして資料の収集・展示にまつはる面白をかしい失敗譚の数々。当時の同僚や出向事務方との思ひ出とともに、ひさしぶりに三十年前の自分をなつかしく回想してをります。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

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