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『日本近代詩の成立』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 2月 6日(月)10時51分11秒
  通報 編集済
  市立図書館の新刊コーナーに、職場の大学院にも出講される亀井俊介先生の『日本近代詩の成立』(南雲堂 2016)をみつけました。アメリカ文学とその受容史に取り組んでこられた比較文学界の泰斗にして、このたびは日本の明治大正詩人を縦横に解釈されてゐます。近代詩に縁の深いフランス詩のみならず、漢詩にまで踏み込まれた内容に興味津津、早速借り出してきました。

600頁にものぼる内容の約半分が、80歳以降に脱稿された書き下ろしであることに先ず驚かされ、当ホームページの興味を惹く章から繙き、残りは半ば勉強のつもりで読んでゆきましたが、七五調の文語詩に疎い上、翻訳の機微に触れる考察等にも歯が立たず、果たして他の部分も理解できたかどうか怪しいところ。ですが目をつむって拙い紹介を試みてみます。

『日本近代詩の成立』といふ、たいへん大きなテーマのもとに各章が配置されてゐますが、浩瀚な分量かつ広範なジャンルにわたる文章は、執筆時期も半世紀にわたる著者のライフワーク集成であります。
序章に述べられてゐるやうに、そもそも岐阜県は東濃の田舎町から詩人を志されたといふ先生、若き日には日夏耿之介の大著『明治大正詩史』を読み、多大な感化を蒙られたと云ひます。そして学識と主観とを前面に打ち出した、あの佶屈聱牙な「入念芸術派」の論旨に対して信頼と敬意とを払ふ一方、切り捨てられた詩人たちについてはやはり納得ゆかない気持を持ち続けてこられたとのこと。ならば自らは「入念芸術派」でなく「シンプル自然派」の感性を以て、その補完を試みてみたいと謙遜の辞を述べ、過去に書かれた論文を集めて時代ごとに配し、足りない部分は書き下ろして、ここにやうやく完結をみた本であるといふことです。

なるほど島田謹二を介して日夏耿之介とは専門を同じくする孫弟子にあたる亀井先生ですが、『明治大正詩史』を「補完」するといふ趣旨に極めて忠実、忠実すぎるといふべきか、かの大冊において詳述されてゐる「浪曼運動」から「象徴詩潮」の条り、近代詩の立役者といふべき薄田泣菫・蒲原有明、北原白秋・三木露風、そしてトップスターの萩原朔太郎さへもすっぽり省略されてゐる目次を、まずはご覧ください。

『日本近代詩の成立』亀井俊介著 2016.11南雲堂刊行  B6版574p ¥ 4,860

序 章 日本近代詩の展開 書き下ろし(平成27年2月脱稿)

第1章 『新体詩抄』の意義 書き下ろし(平成27年12月脱稿)

第2章 草創期の近代詩歌と「自由」 (昭和51年2月『文学』岩波書店)

第3章 『於母影』の活動 書き下ろし(平成25年11月脱稿)

第4章 北村透谷の詩業 (昭和50年4月『現代詩手帖』思潮社)

第5章 近代の漢詩人、中野逍遥を読む (平成25年10月『こころ』平凡社)

第6章 『若菜集』の浪漫主義 (昭和32年2月『比較文学研究』東大比較文学會)

第7章 内村鑑三訳詩集『愛吟』 (昭和57年1月『文学』岩波書店)

第8章 正岡子規の詩歌革新 書き下ろし(平成25年7月脱稿)

第9章 ヨネ・ノグチの英詩 (昭和48年10月『講座比較文学5』東京大学出版会)

第10章 「あやめ会」の詩人たち (昭和40年8月『英語青年』研究社)

第11章 『海潮音』の「清新」の風 書き下ろし(平成26年5月脱稿)

第12章 『珊瑚集』の官能と憂愁 (平成15年3月『知の新世界』南雲堂)

第13章 「異端」詩人岩野泡鳴 (昭和48年7月『講座比較文学2』東京大学出版会)

第14章 昭和の小ホイットマンたち (昭和44年11月『東洋の詩・西洋の詩』朝日出版社)

第15章 『月下の一群』の世界 書き下ろし(平成26年7月脱稿)

第16章 安西冬衛の「春」 (昭和52年11月『文章の解釈』東京大学出版会)

参考文献 初出一覧 あとがき

もちろん近代詩の歴史は、謂はば西欧詩摂取の歴史でもありますから、著者の専門とする「訳詩」の考察には重きが置かれてゐます。『於母影(明治22年)』、『海潮音(明治38年)』、『珊瑚集(大正2年)』、『月下の一群(大正14年)』とエポックメイキングな訳詩集の4冊が、詩壇へ及ぼした影響もふくめ、詳しく論じられてをりますが、しかし何といっても気になるのは、その影響下に名を連ねるべき明治大正詩人の重鎮たちが、批判対象としても俎上に上ってゐないことではないでしょうか。
一方それとは反対に、北村透谷や内村鑑三、野口米次郎、岩野泡鳴といった、明治以降日本に持ち込まれた“自由”の問題と何らかの意味で格闘して、敗れた感じのある人々ばかりが論はれてゐます。
(先生と同郷の島崎藤村が芸術派で唯一、章を立てられてゐますが昭和32年の旧稿。また変ったところでは、漢詩ゆゑ一般には敬遠されてゐる中野逍遥にも一章を割き、畑違ひにも拘らず、日夏耿之介も認めた「新体詩以上の詩的エフェクト」が論じられてゐます。)

そして読みつつ気づいていったのは、『明治大正詩史』から発せられた無視や批判を「まったく逆転させてはじめて正鵠を射る(435p)」やうな、「品位なるものに支配されない」表現力にあふれた詩集を中心に拾ひあげてゐることであり、「日本近代詩史は、一般に主流的考え方を正統としてうけいれてしまっているので、こういう詩集を無視してきたが、これを検討し直し、再評価することは、近代詩史そのものの内容をどんなにか豊かにすることになるのではなかろうか。(263p)」と、全体を通して各所に説かれてゐる点でありました。ことにも、

「詩人の骨法を持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を欠いてゐるやうであったが、その点が却って我々の心に食ひ入る」(230p)
「これは失敗訳であろう。ただその失敗によって、内村鑑三の思考の在り方は鮮明になっている。」(247p)
「結果だけとらえて批判することは、何の役にも立たぬ。」(418p)
「非「詩的」な表現(=あけすけな「自己」の告白427p)のほうになんと胸に迫るものがあることか。」(425p)
「やがて日本近代史の背骨となるべき現実主義的精神と詩法をもっともよくつかみ、もっとも大胆に実行してゐた詩人」(433p)

と、内村鑑三の訳詩集『愛吟(明治30年)』、岩野泡鳴の口語詩集『恋のしやりかうべ(大正4年)』に対しては、惜しみない言辞が贈られてゐます。

つまりは日本の“近代詩の詩史”における“詩”が、これまで「芸術性」に偏って評価されてきた弊害を匡し、あらたに「現実性」を基にした“近代日本の詩史”を論じようとしたところに本書の眼目があります。「抒情詩」の歴史ではなく「思想詩」の歴史といってもいい。

斯様な詩史を私は読んだことがありませんでした。といふのはそれが、左翼リアリズム史観から放たれる、芸術派への軽侮否定を伴った批判とも異なってゐたからです。さう、これはあくまでも『明治大正詩史』の「補完」。当時の詩壇を決して否定するものではなく、その点では確かに、詩史本流が影響を蒙った訳詩を比較文学者の視点から考察を加へることにより、その歴史性を明らかにしようとしてゐるのです。むしろ詩史の傍流として消えていった詩人たちに対しては、軽侮の念で眺めるのではなく、「思想詩」を開花させられなかった弱さと同時に、可能性を抱へたまま取り残された時代の必然性の問題として保留し、彼らの営為に対しては寄り添ふ姿勢が感じられます。

これは著者が詩文学を評価する規範として掲げた“自由”の概念が、プロレタリア文学の叫ぶ政治的“自由”よりも大きな、ホイットマンが掲げたやうな、全人的な“自由”であったことに由来してゐるのだらうと思ひます。
(本書では訳詩者としての有島武郎や富田碎花も萩原朔太郎同様にスルーされてゐますが、ホイットマンの受容史については、別に『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970研究社出版)といふ、若き日の著者が心魂を傾けて成った一冊があり、そちらを読んでほしいといふことになりましょう。)

書き起こしこそ、どの通史でも嚆矢に挙げる『新体詩鈔』から論じられてゐるものの、ホイットマンを持ち得たアメリカとは異なる近代日本における“自由”をめぐる問題を、「近代詩」が取り組むべきだったなまなましい歴史的課題として据ゑ、表現が担った意義や切実さによって、論じられる(再評価される)詩人が選ばれていったのではないでしょうか。
この基準は、通常の詩史では問題にもされない、自由民権運動と呼応しつつ消えていった新体詩草創期の歌謡詩人たちの動向や、ホイットマン熱が冷めていった昭和初期の詩壇激変期に、自然に返る生活を固守し続けた「小ホイットマン」たちの動向を紹介する条りにおいて、彼らが無名に終ってゐるだけに一層強く感じられるところとなってゐるやうです。

ですから本書の『日本近代詩の成立』といふタイトルが、内容を示すに果たして適切な命名だったのかどうかは、正直なところ意見が分かれるのではないでしょうか。『日本近代思想詩の可能性』とでもいふ題名だったら、とさへ思へる著者の強い反骨の気構へが私には感じられました。

このホームページに関するところで申し上げると、日夏耿之介が勝手に癇癪を起こして絶交した堀口大学のために、一章が新たに書き下ろされ、これまた専門外のフランス文学にも拘らず、訳詩集『月下の一群』が俎上に上されてをります。
著者は堀口大学について、名前こそ「大学」といふものの、官立大学とは縁もゆかりもなく、長きにわたる海外生活のなかで「自由人」として「筆のすさび」の訳業を愉しみながら取り組んだ『月下の一群』の成立事情のことをとりあげてゐる訳ですが、これとて「ほとんどの文章がエロチシズムとウイチシスムを強調している。私もこれに同感だ」と従来の評価をなぞりつつも、世界大戦と対峙したヨーロッパモダニズムが背負った問題意識を翻訳上に表現することを、彼は決して忘れた訳ではなかったと指摘。堀口大学を「いろんな批評でいわれるよりはるかに広い詩的世界を包み込み、精神的なたかまりをもっている」詩人であったと評してゐます。次世代のモダニズム詩派のウィットや、四季派の主知的抒情の揺籃としての役割にとどまらぬ、その訳業から継承されずに終った精神面を強調する切り口が提示されてゐる訳であります。

最後には安西冬衛の短詩「春」一篇をもってモダニズムが論じられ、現代詩への移り変りへの感想が示されてゐますが、こと現代詩については、少年時に『詩の話』といふ啓蒙書で世界を啓いてくれた北川冬彦についても、恩は恩として「北川冬彦は日本における現代詩の興行師的なところがあり、自分たちの詩的実験をいつも「運動」に仕立てた。(527p)」となかなかに手厳しい。日夏詩観だけでなく、戦後史観に沿ったおざなりの詩史を書くつもりも無いことが、あらためて伝はってきて私は嬉しくなりました。

巻末に添へられた「参考文献」も、書名をただ列記するでなく、各文献の特徴を一言で評しながら、ものによってはその装釘にさへ言及する独特の手引きとなってゐます。ことにもこれまで数多く発表されてきた詩史についての、「私は個人による詩史に積極的な関心をそそられる。532p」と断った上で記された、感想の数々が興味深いです。さうしてこの参考文献に自著を挙げられた章、そして参考文献がないと述べられてゐる章などは、著者の創見が打ち出された一番の読みどころかもしれないと思ったことです。

ふたたび申しますが、タイトルと本冊の厚みによってこの本を、東京大学名誉教授のオーソリティーが教科書的・辞書的なテキストとしてまとめ上げたもの、などと判断するのは早計、かつもったいないことに思はれ、是非手に取って中身を御覧いただきたく、ここに紹介・宣伝をいたします。

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