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『敗戦日本と浪曼派の態度』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 3月20日(月)12時42分19秒
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   同人雑誌『コギト』の事務的・経済的サポートを唯一人で負ってゐた発行者、肥下恒夫の初めての評伝『悲傷の追想』(2012.10ライトハウス開港社)が出たことには、本当に驚きましたが、その後、続篇といふべき『敗戦日本と浪曼派の態度』(2015.12同)が刊行されてゐたことを知り、先師田中克己の盟友であった肥下氏の数奇な生涯が、さらに詳しく明らかにされ、そして顕彰されてゐるのを目の当たりにしました。

 前著同様、引用されてゐる日記と原稿は、著者澤村修治氏のフィールドワークによって発掘された肥下家に遺されてゐた初公開資料であり、日記には保田與重郎や田中克己の名も頻出してゐます。
 喜びと、不思議な懐かしさも伴っての読後感を、遅まきながら澤村様にお便り申し上げたところ、折返しの御挨拶と、わがライフワーク(田中克己日記)に対する激励のお言葉を賜りました。そして、肥下氏の御遺族とは現在もやりとりが続いてゐること、またこのサイトの存在についてもお報せ頂いたとのことに恐縮しました。
 けだし肥下氏の「戦後日記」の内容は、当然ですが「田中克己日記」の記述と符合するものですし、戦前の「コギトメモ」の方は、恰度詩人が日記を書かなかった時期にあたり、文学史の中心に『コギト』があった時代の、貴重かつたいへん興味深い証言資料です。
おそるおそる澤村様を通じてお尋ねしたところ、二冊の著書に引用されている「肥下恒夫日記」の“田中克己の出て来る個所”について、「田中克己日記」に併記する形でネット上に転載してもよろしい、との許可を頂いて、御二方に感謝してページを更新、喜んでゐる次第です。

 当時の肥下恒夫、田中克己、保田與重郎(そして中島栄次郎・松下武夫・服部正己)らは、旧制高校らしい友情のむすびつきにおいて、今ではみることのできない、濃い文学上の同志関係を築いてゐました。
 なかでも一番の富裕で年長者でもあった肥下氏は、学業からも創作活動からも離れ、自分たちが興した雑誌『コギト』の編集・発行者として自ら黒子に徹することで“共同の営為”の舞台を支へ、保田與重郎と二人三脚で戦前文学史に於いてノブレスオブリージュを果たしたと呼ぶべき奇特な同人でした。その驕ることのない穏健な性格には、君子然の視線が感じられ、年少の庶民階級出身の田中克己を、才気煥発の直情詩人として終始大らかに見守ってくれてゐた様子は、例へば『大陸遠望』のゲラを読んでの感想(昭和15年9月8日)にも、

「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」(『敗戦日本と浪曼派の態度』154p)

と、偽らざるメモ書きのうちにも表れてゐます。
 ところが田中克己の方では、彼らの伯父叔母同士が夫婦であった遠戚の気安さも手伝って同級の肥下氏にはぞんざいなところがあり、敗戦間近の昭和19年4月9日には、『コギト』の存続問題に関して談判にいったものの意見が容れられず、癇癪をおこして一方的に絶交を突き付けてしまひます。

「15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。」(田中克己日記)

 もちろん肥下氏は絶交するつもりなどなかったのですが、二人はそのまま出征。生きて帰国した後も、近くに住みながら、会ひに来ない往かないといふ気まづい事情がしばらくわだかまってゐたやうです。
その肥下さんの、昭和22年4月16日の日記に記された「夢」の一件が面白い。

「今暁田中の夢を見る。保田の家に泊つて寐てゐると田中が来る。ベッドに腰を降して寐てゐる身体に手をかける。こちらは前から知つてゐるので少し笑ひたくなつたが眠つた振をしてゐると身をもたせかけて来るので目を開くと彼の顔が間近にあつた。福々とく肥えてゐた。抱き合つて横たはると二人は期せずして目から涙が流れ出て来た。」(『敗戦日本と浪曼派の態度』89p)

 復縁への期待が深層心理に働いてゐるのでしょうね。「コツ」と綽名された田中克己が夢の中で太って現れたのは、復員した保田與重郎に遭った時の驚きが投映されてゐるのかもしれません。事実、田中先生も別人のやうな頑丈な姿で家族を驚かせたさうですから。
 結局昭和22年になって田中克己が反省し、旧交は無事復活したのですが、農地解放で資産を失ひ、学業を中途放棄したため再就職もままならず、『コギト』の復活が自分の元ではできなくなってしまったことにより、戦後の肥下さんの周りからは文学的な交遊が消えてゆきます。
 帰農した肥下さんの立場がふさがる一方で、田中克己は出世街道を歩む旧友たちに伝手を求めながら、大学人としてなんとか「社会に順応」してゆきました。尤も縁戚である二人は他の友人等とは異なり、気の置けない間柄は両者の日記からも窺はれはするのですが、次第に二人が疎遠になっていったには、お互ひの生活に手一杯だったことに加へ、気心の知れすぎた気安さもこの際には仇となり、却って無関心で済ますことができたといふ事情もありはしなかったか、そんな思ひを日記を翻刻しながら肥下さんの名が現れるたびに私は感じてをりました。もし田中克己が上京せず、帝塚山もしくは関西の大学に残って居ればどうなってゐたでしょうか。

 引き続き一年一年の日記に解説を付すにあたっては、澤村氏と同じく、私も田中克己長女の依子さんと連絡をとり、断片的な記述を御遺族の記憶によっておぎなふことで、出来るかぎりの正確を期すべく心掛けてゐます。そんな日記も只今1959年までの公開を了へました。肥下さんの最期を伝ふるまであと3年。本日は山川京子様と日を同じくしての祥月命日です。
 御冥福をお祈りするとともに、ここに澤村修治様、肥下里子様に対し、厚く御礼を申し上げる次第です。ありがたうございました。

追而
澤村様からは別途、編集に携はる論壇誌『表現者71号』と御著『八木重吉のことば』もお送りいただきました。『表現者』には対談「今こそ問われるべき日本浪曼派の意味」が載せられ、一世代前の研究者たちがたどりついた共通認識を踏まへた論点が、再確認されながら総括されてゐます。『コギト』の意義について話して下さった澤村氏の発言が、日本浪曼派に対する関心を『コギト』の同人にまで拡げ、無償の営為に殉じた肥下恒夫の生涯に思ひを致してくれる人が一人でも増へてくれればと期待いたします。
 
 
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