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八木憲爾潮流社会長を悼む

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 3月31日(金)09時07分40秒
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   八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂きましたが、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お電話のたびに仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りした最初の詩集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上にあった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態だったにも拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩人の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を冠する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐさめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありません。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とすることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
 
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