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『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 4月11日(火)12時20分32秒
  通報 編集済
   愛知大学丸山薫の会代表の安智史様より、会の編集発行に係る非売品の新刊『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』(2017.3.31発行 149p,21cm)の寄贈に与りました。
故八木憲爾潮流社会長との御縁を以て、私のやうなものにまでお送り頂き感謝に堪へません。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 内容ですが、「初期作品より」「詩集より」「豊橋関連エッセイより」「インタビュー、講演筆記より」と4つに分けて詩人の作品が収録され、「丸山薫作詞団体歌・校歌」「略年譜」が資料として付録されてゐます。

 主たる分量を占めるのは「詩集より」ですが、戦前に刊行された7冊の詩集の殆ど全てに、戦後山形県岩根沢での生活を写した『仙境』を加へた陣容は、エッセンスといふより全詩集に近いものであり、丸山薫のやうなゆったり余白を活かした詩篇も、2段組になれば全体が100ページに収まってしまふものであることを知っては、意外にも思はれたことでした。

 編集のみせどころは「詩篇」以外からの選択に表れてゐるといってよいでしょう。
 すなはち冒頭の「初期作品より」の2編「両球挿話」「オトギバナシ文学の抬頭」は、旧全集しか持ってゐない多くの人々が初めて目にする文章であり、丸山薫が花鳥風月の抒情詩を嫌った“物象詩人”とならざるを得なかった消息を、稲垣足穂との気質的な親和性や既存文壇への不満を綴ることによって示したもの。
 また後半の「エッセイ」2編は、後半生を豊橋で暮した詩人にゆかりの、地元ならではの文章が選ばれてゐるのですが、

 戦後、ふたたびここに12年間も住みつづけた現在、曾住の地のどこよりも親しみは感じるけれども、ここが自分の故郷だという、胸を締めつけるような愛情は湧かない。むしろ親しみと同時に、多分の反発感や冷淡な感情を持ち合わせている。そんな事を言うと、土地の人達の不愉快を買うだろうし、みずからの不利益になることは解っていても、それが偽りのない気持であるなら仕方ないではないか。(中略)
 その代りいつしかエトランゼエの思いがはぐくまれていた。私は、いつも近くに在るものを無視して遠方だけをあこがれる子供になっていた。(「伊良子岬」『岬』1960年11月刊) 110-111p


 といふ、中京文化圏に対する“よそ者”感、中部日本詩人連盟の頭(かしら)に担がれることに対しても、当初辞退しようとしたのも解らうといふ述懐に思はず目がとまります。この文章を肯へて選ばれたところに編者の見識を感じないではゐられません。豊橋は、子供のころ暮したことのあった縁故の地には違ひありませんが、戦後、疎開先から上京する繋ぎに一時の落着き先と思ひなしてゐた場所でした。そのまま“大いなる田舎”名古屋の文化圏に居ついてしまふことになったのは、「オトギバナシ文学の抬頭」にみるやうに、最初に私小説の理念を否定して詩人一本で立った彼が、外国語にも手を染めなかったために、小説や翻訳といった原稿料での生活の目途が立たなくなってしまったことにあったと思ひます。
 そんな彼を特別待遇を以て手を差し伸べてくれた愛知大学は、恩誼の対象であるとともにそれ故にこそ、彼を慕ってやってくる素質のよい文学青年たちを前に、本心複雑な思ひは欝々として抱いてゐたのではないかと忖度するものです。
 コスモポリタンの夢を抱く故郷喪失者であるとともに、同時に日本人たる自覚を強く持してゐた彼は、やはり東京か、それとも“先生”と呼ばれる職業に尊敬が無条件に集まるやうな、人心の純朴な僻村か、そのどちらかに本来定住すべき詩人であったと、私には思はれてなりません。

 巻末には、新修全集でもお蔵入りにされたといふ「私の足迹」と題された最晩年の講演の様子(1973年6月17日第13回中日詩祭にて)が収められてゐます。
 中京詩人たちの前で話すのですから、地元が悲しむことは言ってませんが、その代りに、心の中で大切にしてゐた岩根沢の風景が、経済優先の世相の中で変はり果ててしまったことに対する、もはや面に表すことが許されない嘆きや、第四次の潮流社版『四季』をこれまで五年続けてきたものの、若い詩人たちは『四季』より『現代詩手帖』を好むことが語られてゐます。
 岩根沢だって教へ子たちの心は変りなく先生を敬ってゐる。また当時は詩と詩集のブームの時期でありました。しかしながら詩人にとっては、尊敬の結果として詩碑が建てられることに抵抗し、もはや詩とは言ってもフォーク“ソング”の世代からは結局、立原道造や津村信夫のやうな詩人が現れなかったことに対する自嘲といふか、もはや諦めのやうなものが窺はれる気もするのです。

 この録音は、本書冒頭の「初期作品」への自註になってゐる稲垣足穂に対する回想や、中盤からの、自らの感想をさしはさみながら萩原朔太郎からもらった手紙を読んでゆく条りが何ともいへず可笑しい読み物ですが、戦後のみちゆきを、何か掛け違ってしまったかやうな旧世代の日本人のさびしさが、詩壇の中心にあった当時の回想を振り返るたびに、笑ひのうちににじみ出てくる、そんな談話になってゐる気がします。
 それはまた「四季派」といふカテゴリー・レッテルに対しても、当事者として微妙なスタンスで話してゐることからも窺はれます。
 戦後昭和28年の時点で編まれたアンソロジー『日本詩人全集』(創元文庫)における解説においては、「詩壇」など詩を書く当事者の主観の中にないことを前提に、『コギト』との密接な関係に言及しつつ「いわゆる「四季派」と呼ばれたオルソドックスの流れ」や、「いわゆる四季派の精髄」として中核をなした詩人の名を挙げることに躊躇のなかった詩人が、いざ『四季』が復刊されて自分が親分に祭り上げられた現状での意識表明となると、一歩引いた様子がみられるのです。

 旧世代らしさは、現在の政治家の講演だったら新聞記者が食ひつきさうな表現にもあらはれてゐます。表現に対して大らかだったこの時代、詩人ならではの拘りない気宇の感じられる話ぶりですが、この講演筆記を本書に収録することを決めた編者の選択をやはり買ひたいです。金子光晴は抵抗詩人ではないと言って、おそらく聴衆をドキッとさせたでしょうが、そんな彼の、戦前には人権や平和に対する、戦後は国威や伝統への目配り・配慮を欠かさない、「ポリティカル・コレクトネス」とは異なる「中庸」の面目が随所に躍如した、貴重でなつかしい詩人の俤に触れ得た気持ちがしました。

 装釘も「暮しの手帖」っぽいロゴが可愛らしい。詩人夫妻の自宅の縁側での睦まじい姿をとらへた表紙写真と共に、愛読者にはぜひ一冊手許に欲しい出来上りとなってゐます。

 非売品なので、罪なことにならないか心配ですが、ひとこと報知させて頂きたく、ここにても御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


【追而1】昭和17年12月~昭和18年9月までの戦艦大和の艦長が丸山薰の義弟であったことも初耳でした。
【追而2】金華山と岐阜城の事が書かれてゐるのは、管理人にとってはうれしいところなので、最後にちょっと引かせていただきます。

 いま私の住む近くで知っている城を語るなら、先にもちょっとふれたが標高330米、金華山のピークに屹立する稲葉城への道は、数年前に架設されたロープウェイのお蔭で、登るのに骨は折れない。城は山の峻嶮と高さと、その山麓を流れる長良川とのゆえに、上からの展望も下からの眺めも絶佳だ。
 そういえば、これらの山と川との美しさによって、岐阜という都市の全休が、いや、その空までがどんなに品格を挙げていることか。有名すぎる鵜飼の情調はともかくとして、山麓河畔一帯の町のニュアンスまでが、なにか京都を連想させるものをもつ。(「城の在る街と豊橋」『市政』1958年11月号)108p

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