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豆馬亭訪問記

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年 4月25日(火)10時21分8秒
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  「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」   『芸窓日録』明治十四年四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したのが明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向きをお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。
 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍した浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げられてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますから、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額(同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時代の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろいろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じてをり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参りました。( 『芸窓日録』に追加upした他の写真とともに御覧下さい。)

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351
 
 
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