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『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編

 投稿者:やす  投稿日:2013年 8月18日(日)01時25分37秒
編集済
 


『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編 全434p 電子出版 晩霞舎刊

 開設草創時から拙ないサイトを見守って下さってゐる西岡勝彦様(「従吾所好」管理人) よりは、これも戦前の翻訳文学者による変り種の新刊本を御寄贈いただきました。『リルケ詩抄』(1927)の訳者として有名なドイツ文学者である茅野蕭々(1883-1946)の、これは訳詩集ではなく其のひと本人の詩集で、変り種と申しましたのは、なんとe-Bookであるからです。抑も、紙・電子を通してこのたびが初めての集成となるわけですが、分量400ページにも垂んとする作品の探索を、初出底本の一覧年譜とともに地道にまとめ上げられた努力にまず脱帽、言葉がありません。「明星」「スバル」に籍を置いて出発した作品は、もちろん大半が文語詩なのですが、今日このやうな内容を商業出版に乗せることは、確かにむつかしいことでありませう。電子出版に上した意義と可能性についてサイト上に刊行メモが記されてありました。

 わが任に余る文語詩の感想・評価は避けますが、巻末には編集作業を通じてみえてきた作風の変化や特徴を、当時の状況と、それから作品に即して、西岡様が概括を試みた覚書ノート「蕭々私記」が付せられてゐます。これまた初めての詩人論となりませうが、浩瀚な本書をひもとく際の、初学者にはまことに懇切なガイドになってをります。

 さて私にとって茅野蕭々といへば、詩人津村信夫の庇護者としての側面、つまり『北信濃の歌』のなかで紹介された、津村信夫の婚約者昌子さんのために世話を焼く養家夫妻としてのエピソードに親しんでをりますが、やはり一般には前述した『リルケ詩抄』、あの天地を少し落とした私好みの究極の版型(笑)の、豪華な革背本一冊の印象につきるやうです。透かし入りの洋紙に余白を充分にとり、十全の吟味を経て選ばれた一語一語の活字が、やや間をとって布置されたレイアウト。それは歴史的仮名遣ひとともに、思索的で、沈潜する詩境を強調するに適した印刷効果を発揮して、内容の解釈に先立ち、何がなしリルケの四季派的な受容が、高雅な装釘と相俟って嚮導された、さう呼んでも大げさではないやうな気がするわけです。新しい抒情詩人たちに与へた影響は、同じく押し出し満点の第一書房版の豪華本であった、堀口大学の『月下の一群』(1925)や『フランシスジャム詩抄』(1928)に劣るものではなかったでせう。訳詩の妙諦は詩心を写すことを最優先に心得てゐたに違ひない彼の訳業によって、リルケの受容史がどのやうに偏ったとか、そんなことはどうでもよく、覚書の冒頭、西岡様もこの詩人に興味を持つ発端となった口語詩「秋の一日」について、ゲオルゲの訳詩との関係から説き起こされてゐますが、季節の移り変りを人心になぞらへて思索する流儀など、また尾崎喜八の語り口にも親近するものを感じさせます。・・・などと三流詩人によるハッタリ紹介はこれ位にします(汗)。


 しかし学者詩人の詩人たる前身の風貌を辿ったこのたびの一冊の俯瞰を通じて、西岡様がされた次のやうな指摘、

「しかし、泣菫と違い蕭々は詩作をやめなかった。一時代を築いた有明・泣菫と違い、蕭々はまだ何事も成していないのだから、簡単に野心を捨てることはできなかったろう。」

「蕭々の詩作への意欲は未完に終わった。とはいえ、残された詩業を通観すると、文語定型詩から文語自由詩、そして口語自由詩へと、日本の近代詩とともに変転してきた二十年の詩歴に未完の印象はない。」


 かうした、詩人の位置をざっくり捉へて最初に語り得た意義は大きく、真の愛読者にしかできないことを大書したいです。『クラブント詩集』は刊行物ではないため図書館でも閲覧不可ですが、同じく図書館には所蔵のないものの、こちらは手軽に読むことができます。以上、ここにても御礼かたがた御紹介させていただきます。ありがたうございました。

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『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳

 投稿者:やす  投稿日:2013年 8月17日(土)23時41分16秒
編集済
 

 残暑お見舞申し上げます。

 お盆も終はり、まだまだ秋の気配には遠いですが、拙詩集に対し皆様から頂いた温かい御言葉を読み返し、また合せて御返礼にお送り頂いた編著書・刊行物の数々をゆるゆる拝読してをります。

『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳 全141p 21cm和綴

 和紙二色刷りの、まことに瀟洒な装釘の和本仕立ての詩集をお送り頂きました。なぜか刊記(奥付)がありません。なのでどこの図書館にも所蔵はありません。せめて制作メモのやうなものでも巻末に付されるとよかったのですが、おそらく刊行時のものと思はれるレポートがありましたので参照ください(daily-sumus2009/12/08)。御寄贈頂きました制作者の津田京一郎様には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 クラブント(Klabund :1890-1928)はドイツの詩人ですが、これも板倉鞆音氏の訳で有名なリンゲルナッツ(1883‐1934)と同様、第一次大戦後の混乱期、批判精神とペーソスたっぷりの青春を謳歌し、ナチスによって“退廃芸術”が一掃される前に、さっさとこの世から退場してしまった無頼派の詩人のやうです。生前すでに鴎外の『紗羅の木』(1915)に訳出されてをり、このブログでも紹介した『布野謙爾遺稿集』でも度々の言及のある、戦前の詩人たちにとっては同時代の最先端海外詩人の一人だったことがわかります。

 内容が5つの“圏”に分かたれてゐるのは原書に倣ったもののやうですが、ところどころ「落丁」があるのは遺された原稿のままを写してゐるからでありませう、訳者板倉鞆音氏に対する謹飭な私淑態度が示されてゐます。むしろこれを以て定本原稿と認めて欲しくない、といふ制作者のメッセージを読み取るべきかも。だからこそ、これだけ立派な内容をも「刊行物」とはならぬやう、奥付を廃した「複製」の体裁にしたのでありませう。さても何冊つくられたのか、これを“簡易製本”と称せらるゆかしき事情を慮っては、寄贈に与り胸がいっぱいになってしまった一冊。私は純愛を盛った第3の圏が好きです。


  さあ お前の手を

さあ お前の手をおだし
春が牧場に燃えている
お前を濫費せよ
この一日を濫費せよ

お前の膝に寝て おれは
お前の視線をさがす
お前の眼は霞んで空を
空はお前を投げかえす

ああ 白熱して縁をこえて
お前たちは休みなく流れ去る
空がお前になった
お前が空になった



  果てしない波

海の波が
上を下へと打ちよせるように
お前を捕えたい 抱きたい
おれの願いは果てしなく浪だつ

この妄想をどう逃れたらいいか
船から下をのぞけば
たった一つのこの思いが
海の中で上を下へと揺らいでいる


 板倉鞆音氏(1907-1990.1.19)はリンゲルナッツのほかにも、昭和11~12年の初期の「コギト」誌上に於いて、すでに服部正己のマイヤーや田中克己のハイネとならんで「ケストナァ詩抄」を連載されてゐます。クラブントにせよリンゲルナッツにせよケストナーにせよ、戦前から一貫して反骨の詩人ばかりを対象に据ゑてゐるのは、自身は政治的態度を誇示する人ではなかっただけに、却って特筆に値するかと思ひます。雑誌「四季」をめぐる先達文学者のなかでも、燻し銀的な存在であり、戦後は丸山薫のゐる愛知大学にあって、ふたたび服部氏とは官舎を隣にしてをられた由。私は処女詩集をお送りしましたが、眼病すでに篤くお目を通していただけたかどうか、大きな文字の受領葉書が唯一度きり賜ったお言葉となりました。

【板倉鞆音 参考文献】 雑誌『Spin』vol.22007.8発行 津田京一郎「板倉鞆音捜索」27-41p

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【追記】 2013.8.25 津田京一郎様より頂いた訂正コメントを付します。ありがたうございます。

 『クラブント詩集』のご紹介ありがとうございました。この詩集の成り立ちにつき少し説明させて戴きます。
 板倉鞆音の未完訳詩集『クラブント詩集』の原稿コピーは板倉鞆音の『リンゲルナッツ抄 動物園の麒麟』(国書刊行会、1988)『ドイツ現代詩抄 ぼくが生きるに必要なもの』(書肆山田、1989)を編集された川村 之さんより戴いたものです。板倉さんより預かった生原稿をオートシートフィーダーでコピーをとった際に、紙送りの不具合により残念なことに“落丁”と記した部分が失われました(ノンブル入り原稿だったためノンブルが飛んでいることで判明)。また“あとがき”部分は未完のまま板倉鞆音さんは亡くなりました。返却された生原稿の行方も不明のままです。
 原書についてはタイトルとして『クラブント詩集』で「第1の圏」「第2の圏」…という章立てになっているものは見当たらないとのことです。収録されている詩篇の多くはそれぞれほかのクラブントの詩集に収録されていることが判明しているため、この詩集は過去の複数のクラブント詩集から再編集されたものではないか、と考えられています。
 まだ実現はしていませんが、川村さんはこの詩集としては膨大な再編集詩集をまるごと1冊にするよりも、(1)可能なかぎり原詩を集める、(2)原典がわかった詩篇をふるいにかけて、(3)適度な分量でうまく編集して1冊にまとめて刊行したいと考えています。
 それまでの“仮の詩集”としてテキスト化したものを簡易製本(20部くらい)したため刊記はつけなかったのです。
 『沙羅の木』については、ミクシィに以下のように書きました。

『沙羅の木』 2011年04月29日14:29
 Mさんのご教示で、森林太郎『沙羅の木』にクラブントの訳詩十篇が収録されていることを知った。早速復刻版を入手し調べてみると、板倉鞆音も訳しているものが四篇あった。以下に両者をひく。(原詩略)

Ich kam 「己は来た」

己は来た。
己は往く。
母と云ふものが己を抱いたことがあるかしら。
父と云ふものを己の見ることがあるかしら。
只己の側には大勢の娘がゐる。
娘達は己の大きい目を好いてゐる。
どうやら奇蹟を見るに都合の好さそうな目だ。
己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。
                                                    森林太郎『沙羅の木』

Ich kam 「おれは来た おれは行く」

おれは来た
おれは行く
いつか母の腕に抱かれたことがあるだろうか
いつか父を見かけることがあるだろうか

ただ大勢の女どもがおれのそばにいる
みんなおれの大きな目が好きだという
恐らく奇蹟を見るのに役だつのだろう
おれは人か 森か 動物か
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』


Fieber 「熱」

折折道普請の人夫が來て
石を小さく割つてゐる。
そいつが梯子を掛けて、
己の脳天に其石を敲き込む。

己の脳天はとうとう往来のやうに堅くなつて、
其上を電車が通る、五味車が通る、柩車が通る。

                                                    森林太郎『沙羅の木』


Fieber 「熱」

ときどき道路工夫が来て
石を砕き
梯子をかけて
おれの脳天に石を打ちこむ

頭が街路のように固くなり
その上を市電が、堆肥車が、霊柩車がかたかた走ってゆく
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』

 


Still schleicht der Strom 「川は静に流れ行く」

川は静に流れ行く、
同じ速さに、
波頭の
白きも見えず。

覗けば黒く、
渦巻く淵の険しさよ。
こはいかに。いづくゆか
我を呼ぶ。

顧みてわれ
色を失ふ。
漂へるは
我骸ゆゑ。
                                                    森林太郎『沙羅の木』


Still schleicht der Strom 「川は静かに」

川は静かに
同じ早さで流れている
流れに
白い波頭も立たぬ

一と所 黒い淵が
激しく渦巻いて
おれを呼ぶ声が
聞こえるようだ

おれは顔をそむけて
蒼ざめる
おれのなきがらが
流れてゆく-----
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』

 

Hinter dem grossen Spiegelfenster 「ガラスの大窓の内に」

己はカツフエエのガラスの大窓の内にすわつて、
往来の敷石の上をぢつと見てゐる。
色と形の動くので、己の情を慰めようとしてゐる。
女やら、他所者やら、士官、盗坊、日本人、黒ん坊も通つて行く。
皆己の方を見て、内で奏する樂に心を傾けて、
夢のやうな、優しい追憶に耽らうとするらしい。
だが己は椅子に縛り付けられたやうになつて、
ぢつと外を見詰めてゐる。
誰ぞひとりでに這入つて來れば好い。
髪の明るい娘でも、髪の黒い地獄でも、
赤の、黄いろの、紫の、どの衣を着た女でも、
いつその事、脳髄までが脂肪化した、
でぶでぶの金持の外道でも好い。
只這入つて來て五分間程相手になってくれれば好い。
己はほんに寂しい。あの甘つたるい曲を聞けば、
一層寂しい。ああ己がどこか暗い所の
小さい寝臺のなかの赤ん坊で、
母親がねんねこよでも歌つてくれれば好い。
                                                    森林太郎『沙羅の木』


Hinter dem grossen Spiegelfenster 「大きな鏡窓の中で」

喫茶店の大きな鏡窓のなかに坐って
おれはじっと大通りの舗道を眺めやり
色彩と物体の混雑のなかに感傷的な悲しみの治療を求めている
大勢の女、見なれぬ男、はでな将校、詐欺師、日本人、
ニグロのマスターまで通る
みんなおれの方を見て中の音楽をうらやみ
夢のような和やかな音(おん)を思い出そうとする
だが、おれは椅子に縛りつけられ燃えつきて
目もそらさず外を見つめて見とれている
誰かこないものか 無理強いでなくて自発的に
金髪の少女 -----褐色の娼婦-----
ピンクの、黄色の、すみれ色のシュミーズなんか着て------
----- いや、太っちょの扶助料暮しのごろつきの
脂ぎった、脳にコレステロールのたまった奴だって
ただおれの前に五分間だけ姿を現してくれたら――
おれはとても孤独だ 甘いオペレッタがおれを一層孤独にする
ああ、どこかの夜の暗がりで寝たいものだ
子供ベッドの中の子供になって
母親にやさしく寝かしつけられて
                                                    板倉鞆音『クラブント詩集』


 クラブント(Klabund, 本名 Alfred Henschke)はドイツの小説家・詩人で1890年11月4日にクロッセンで生まれ、1928年8月14日に結核のためスイスのダヴォスの結核療養所で亡くなった。1913年に第一詩集『朝焼け!クラブント!夜が明ける!(Morgenrot! Klabund!Die Tage dämmern!)』(Erstdruck: Berlin (Erich Reiss))を出版、『沙羅の木』に訳出されている詩は全てこの詩集から、並び順に訳されている。クラブントの略歴、著作目録、著作内容については以下のサイトが詳しい。

 (略) 

 またユルゲン・ゼルケ著・浅野洋 訳・叢書・20世紀の芸術と文学
『焚かれた詩人たち ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像』(アルファベータ、1999)P153-175でクラブントの生涯と作品が紹介されている。


クラブントが生前に刊行した詩集は以下の4冊のようです。
1. Morgenrot! Klabund! Die Tage dämmern!  [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1913.]
2. Der himmlische Vagant [Erstdruck: München (Roland-Verlag) 1919.]
3. Das heisse Herz [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1922.]
4. Die Harfenjule [Erstdruck: Berlin (Verlag Die Schmiede) 1927.]

 

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承前 『クラブント詩集』目次

 投稿者:やす  投稿日:2013年 8月17日(土)23時38分30秒
  序詩
 どこから
 言葉がなかったら

第一の圏より
 おれは来た おれは行く
 哀れなカスパール
 どんな町にも
 反語的風景
  褐色の畑の波だつ連り
  灰色のぼろを着たごろつきの列のように
 大きな鏡窓の中で
 眠れぬ夜
 夜明けに
 川は静かに
 トルコ椅子の上で
 ハンブルクの娼婦の歌
  バラッド
  ソマリーの女ども
  アパッチの別れ
  酔っぱらいの歌
  神々しい放浪歌人
   1.おれのからだは毒の飲物が
   2.おれは臆面もなく
   3.おれは一人の女を
   4.お前の持っているものは
   5.おれは良心の呵責に
   6.これを名残りと
   7.ああ失ったものは
   (8.もう一度お前の鳥を) 落丁
 酒飲みの歌
 沈みゆく感惰のなかに
 おれは全くのひとりぼっち
 夜な夜なさすらうおれは
 アローザヘの馬車の旅
 ルガノ湖畔にて
 谷を見下して
 イタリアのドイツ人
 初冬
 田舎町のクリスマス
 いつかはこんなになるだろう
 (おれは白昼に眠った) 落丁

 お前だけ

第二の圏より

 おれは愛情のみでこの世に生れたのに
 皇帝の歌(アダム・ミツキエヴィツチュにより自由に)
 朝が赤いトランペットを
 おれは音この国にいたことがある
 秋の歌
 瀕死の兵士
 ドイツの傭兵の歌
 墓掘り人夫
 おれは故里へ帰ってきた
 葉が落ちる
 支那の戦争詩
  別離
  徴兵官(杜甫により白由に)
  ゴビの砂漠の戦い(李太白により自由に)

第三の圏より

 小さな歌をうたつてあげようか
 さあお前の手を
 あたりはお前の香りで一ぱいだ
 もとのように
 果しない波
 許してくれ
 夏が来ると
 熱
  1.ときどき道路工夫が
  2.金髪の女よ
  3.シスター
 (時間が止まる) 落丁

 ぶらんこ
 お前も
 毎日おれは改めて
 白頭の歌
 今は苦情もない
 放たれた矢(ハーフィスにより自由に)
 すべてこの世のことは

第四の圏より

 原人
 おれは見た
 春の雲
 イレーネ頒歌
 すばらしいことではないか
 お前は永遠に愛するか
 まだおれの指先に
 さあ黙って坐って
 樽で明るく
 マロニエの燭台に
 谷で小さな山羊を見た
 おれの悲惨の歌を
 おれは女房を失った
 抱いてくれ
 おれの足許に
 おれの小さな妹を
 樹林教会の合唱席で梨が
 草原から霧がのぼる
 人間より何が
 手で顔を覆って

第五の圏より

 芸者
  夜の叫び
  私はこわい
  漆塗りの酒器の中に
  夜が白む
  釜は歌う
 荒くれ猟師
 老人
 盲人
 主なる神がこの世を回られたとき
 少女と聖母
 クリスマス物語
 杜甫より李太白に
 老子
 神様のところへ行くとき

(あとがき) 未完
 

『多喜さん詩集』

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月19日(金)09時53分23秒
編集済
   詩集をお送りした方々から少しづつ受領のお便りを頂戴してをります。普段はSNSでやりとりしてゐる方からも、郵便で礼儀をつくされるのは嬉しいことです。
 またお返しに新刊本をお送り頂きました方々には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 サイト関連の詩書では、金沢の亀鳴屋、勝井隆則様から頂いた新刊詩集『多喜さん詩集』(外村彰編)に感銘しました。『井上多喜三郎全集』も『近江の詩人 井上多喜三郎』も、それから詩人に宛てた『高祖保書簡集』も職場の図書館へ寄贈してしまって、手許には詩人に関する本が一冊もなくなってしまったので、此度の選詩集は末永く愛蔵します。またそのやうに手許におきたい手触りやサイズは、限定本出版をこととする亀鳴屋が常に心掛けてゐるところ、このたびも詩人と編者と刊行者とのいみじい三位一体の産物であります。披けば巻頭の、詩人が縁側で和んでゐる写真、そして詩篇では選者の眼のつけどころでせうか、小動物によせるユーモア・ペーソスがなんともいへません。

 井上多喜三郎(1902-1966)は、高祖保や田中冬二と親近してゐたといふことからも分かるやうに、堀口大学の『月下の一群』初版1925新編再版1928刊行時にリアルタイムで決定的な影響を受けた(「四季」で育った詩人達よりはやや先輩の、)知的抒情詩をものした詩人、そして木下夕爾同様、家業のために田舎に隠棲を余儀なくされた典型的なマイナーポエットの一人です。戦前は作品よりも地方発の瀟洒な装釘の刊行物で書痴詩人たちを喜び驚かす趣味的なディレッタントとしての位置づけに甘んじた詩人ですが、過酷なシベリア抑留体験を経て詩風が変貌。それが批評精神を身に帯びた戦後現代詩風にではなく、人柄も変わらぬまま優しさを帯び、人間の懐が深くなったところを示して、詩人として一皮むけたのは稀有のことに思ひます。若年には彼を苦しめただらう地方暮らしも、抒情全否定の中央詩壇から遠ざかる環境として彼を守りました。
 昭和41年に突然みまった輪禍、関西詩壇の重鎮に推されるのは時間の問題だった詩人の早すぎる死を、コルボウ詩話会、近江詩人会にあった天野忠から田中克己 をはじめ、様々な詩風の多くの詩人達が悼みました。詩作品に先行してその人柄が、地域の人々に、そして詩壇の気難しい誰彼からも愛された詩人の作品集は、どれもこれも極少部数の限定版ばかりでしたが、今、現代の読者に愛されるための詩集が、資料的な側面の強い全詩集とは別に一冊、彼の造本センスを襲った姿を得て世に送り出されたことに、慶びを申し上げる次第です。ありがたうございました。

  犬

炎天の道の辺で
うんこをしている犬

少しばかりのぞいているのだが
うんこはかたくて なかなかでてこない

彼はうらめしそうに 蝶々をながめながら
排泄と取り組んでいた



  慣

雄鶏の首をひねる
ぎょろりと目をむいているそいつの 羽毛をむしる
じゃけんになれたそのしぐさ

手にあまった抵抗が
急に抜ける
私はとまどう
神さまこれでよいのでしょうか

雌鶏たちは
相かわらず玉子を産んでいる



  夕

ときどき山雨(やませ)がゆきすぎる
竹樋が咳をする

捻飴(ねじりあめ)のようにでてくる水だ
ちよっぴり苔のにおいがする

水溜には豆腐が泳いでいた




『多喜さん詩集』井上多喜三郎  外村彰 編
15.2cm 並製 糸かがり 208頁 限定536部 1600円(税・送料別)
 

『菱』182号 モダニズム詩人荘原照子 聞書

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 9日(火)22時49分12秒
編集済
   鳥取の手皮小四郎様より『菱』182号をお送り頂きました。今回の荘原照子の伝記連載、看板である聞書がないのに内容がいつもにもまして濃く思はれたのは、連載も終盤に入り、手皮様が荘原照子の詩のありかた、つまり詩人の姿勢に対して正面から取り組まれてゐるからに相違ありません。丁度雑誌を頂く前に、文章中に触れられてゐる詩誌『女性詩』について、木原孝一が『詩学』(昭和26年8月号)の批評欄で江間章子らに散々噛みついてゐる様子を紹介したばかりだったので、その符合にまづ吃驚。
 そしてその荒地派の詩学に馴染んでこられた手皮様が、自身の立場とは異なるのは承知の上で、荘原照子が戦後復帰し綴った随想「ちんぷんかん」で韜晦してみせた自恃を俎上に上します。

 荘原は六十年の半生を振り返った時、自分を「旅人」「異邦人」「ちんぷんかん」と観じなければ、どうにも説明できなかったし、むしろそこに自己のアイデンティティーを求めるほかなかったんだと思う。

 ただここで改めて問い直したいのは、荘原にとってあの戦争はなんだったかということである。


 たしかに彼女の詩が作られるのは、抒情詩人のやうな求心的な在り方でも、社会詩人のやうな糺弾的な在り方でもない。その拡散的手法に対しては意図の不明瞭を難じつつも、手皮様はしかし、モダニズムによる豊穣なイメージ効果については惜しみない賞讃を、また現実逃避のその切実さについては同情を寄せられてゐる。つまり総括してやはり他のモダニズム詩人達とは違ったものを感じ取られてゐる。それは伝記事項の探索を通じて深められてきた詩人に対する理解の結果でありませうし、モダニズム詩が作られるモチベーションを作品だけから窺ふことには限界がある、といふことでありませう。モダニズム作品には的外れな断定評価の危険が常にあるといふこと、それは例へば神戸詩人事件で起きたやうな、当てこすりを邪推する検閲の側からばかりでなく、積極的に評価したい場合にあっても、その人の実際の生活を、つまり木原孝一がいふ「作品以前」の詩人の生き様をみてみないとわからないといふこと。喩へてみるなら童話の「ごんぎつね」のやうなところがあるのかもしれません。詩句の意味を完全に解説することができない彼女の作品の数々、その背景への探訪を、モダニズムに疎い私ですが、これまで手皮様の後に就いて御一緒させて頂いてきました。そのなかで私が一番に思ったのは、手皮様が故意に突き放して記すほど明らかになる、彼女のいじらしさでありました。

 次回はたうとう最終回の由。無事の完結をお祈りするとともに、単行本化を見守ってをります。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
 

「ぎふ快人伝」

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 7日(日)20時20分5秒
編集済
   本日岐阜新聞8面「ぎふ快人伝」に、詩人深尾贇之丞紹介記事が掲載されました。

「ほかとは調和のない墓碑は、贇之丞と須磨子を物語っているよう。墓碑を建てることで、須磨子の中で岐阜との決別を打ち立てたのかもしれない(深尾幸雄氏談)」

 職場のあります岐阜市太郎丸出身の詩人、深尾贇之丞の事績がこのやうに大きく紹介されたのは初めてのことです。 これを機会にもっと多くの人に認知されたらと思ひます。取材に訪問下さいました岐阜新聞佐名妙予様に御礼申し上げます。ありがたうございました。


【追記】
 なほ、新聞記事掲載後に佐名妙予様より御連絡あり、元岐阜市教育委員長の後藤左右吉氏よりの指摘として、昭和29年に岐阜で須磨子に会ひ、その際「なぜ岐阜にいらっしゃったのですか」と聞くと、「夫が岐阜出身で、お墓参りに来ました」と話したとのこと。お忍びでだったかもしれませんが、とまれ岐阜に一度も足を運ばなかった訳ではないことについて、事実を追記いたします。
 

【広告 『中嶋康博詩集』 】

 投稿者:やす  投稿日:2013年 7月 7日(日)20時06分9秒
編集済
  背の箔をやりなほした為、刊行日はそのままに、御案内が遅れました。

2013年5月31日 潮流社刊 126p 21cm上製 付録8pつき
内容Ⅰ:夏帽子(1988)よりⅡ:蒸気雲(1993)よりⅢ:雲のある視野(拾遺篇)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024473296-00

A 函つき版(背箔) :販売用1500円
B 函なし版(背題簽):寄贈用

 思ふところあって、自分のこれまでの詩作のあゆみを一冊にまとめることにいたしました。
 版元潮流社には在庫はございません。一般書店では販売してをりません。 amazonにてお求め下さい。

http://

 

山川京子歌碑除幕式

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月26日(水)21時46分35秒
編集済
   岐阜県郡上市旧高鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、身の丈に余る巨大な歌碑が建立されてゐる。

「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」


 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が行はれた。短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか30余名の列席者があったが、末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとときを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。また「斯様な記念物は自分の死後に」「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、まるで夫君を永久(とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱である。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」


 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、靖国神社の存在意義を示した象徴的存在であり、祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。私にとっても杉山平一先生が逝去され、戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。主宰歌誌「桃」が終刊した後に、余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、和歌の良し悪しに疎い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流れ、ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。かつては山々も杉の木が無節操に植林されることはなく、今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

  むかしの谷間
               山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで
屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が
あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき
雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて
とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう
                   詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載


 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、一対の歌碑だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の流れについて、なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、式典後、記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。(2013.6.26)
 

受贈雑誌より 2

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月23日(日)00時37分14秒
  ●「木いちご」 (No.1:昭和4年4月)

わが蔵書中、とびきりお気に入りの一冊が『木苺』(昭和8年 椎の木社刊行)といふ詩集である。その著者である山本信雄自身が主宰者となってゐる昭和初年の詩誌も、また同時にお送り頂いた。もちろん初見である。

以前このサイトで「食パン型」サイズの詩集の系譜について語ったことがあったが(四季派の外縁を散歩する第01回、第13回)、この一冊の発見によって、方形に近い特殊な詩集のサイズが、タイトルとともに永らくこの抒情詩人のうちに温められてゐたことが判明した。詩集中に「木苺」といふ同名タイトルの詩は収められてゐない。名も形も共にまた随分さかのぼったところに偏愛の灯はともされてゐた、といふべきである。まことにささやかなこの雑誌が何号続いたかは知らない。けだしその未来に作られる詩集の原型と、彼の代表作である「紗羅の木」一篇を世に送り出したことにのみ、意義を認め得る雑誌であった、といってよいかもしれない。

内容は出張帰還後、サイト上に公開したい 。
 

受贈雑誌より

 投稿者:やす  投稿日:2013年 6月23日(日)00時00分50秒
編集済
  「稀覯本の世界」管理人様より、杉山平一先生が執筆する種々の詩誌バックナンバーをお送り頂いたので幾つか御紹介。

●「現代詩」(No.24:昭和23年10月)は、戦後まだ出版事情の悪いなか、無傷だった新潟北魚沼郡の淺井十三郎の根拠地「詩と詩人社」を使ひ、編集をそっくり中央に預けて刊行された雑誌。日本現代詩人会の母体となった錚々たる同人の顔ぶれをみるに、巻頭に掲げられた杉山先生の詩論「詩に於ける肉声」の筆致がめづらしく力んでみえる理由もなるほどと納得される貴重な一文。

●「詩学」(No.40:昭和26年8月)は、「現代詩手帖」とともに戦後ながらく詩壇の公器を以て並称された雑誌(2007年に廃刊)。
特集「死んだ仲間の詩」として立原道造以降、亡くなった若い詩人達17名の回顧・紹介が行はれてゐる。死後にデビューしたといってよい森川義信や楠田一郎のほか、加藤千晴、西崎晋、饒正太郎といった人達が挙げられてゐるところに注目。杉山先生は津村信夫について、例の「小扇」から触発されて詩の世界へ入った思ひ出を草されてゐる。
この雑誌、しかし目を引くのは匿名編集子による「詩壇時評」と「MERRY GO ROUND」であらう。ことに木原孝一と思はれる後者の毒舌ぶりが酷い。おそらくは物議を醸し、俎上に載せられた詩人も腹の虫が到底おさまるまいところを添付した(「女性詩をめぐって」の項)。とくに戦前モダニズム傘下にあった江間章子・中村千尾らの「劣化」に対してはげしく不満を爆裂させてゐるのだが、これは批評子が前項で「北園(克衛)氏の娯楽的模倣者」に対して放った攻撃と同様、所謂「荒地派」のポレミックなスタンスを前世代のノンポリ先輩たちに向けて投げつけたものにすぎない。むしろ抒情詩の正道をぶれずに歩んでゆく永瀬清子の作品を、寄稿者でもあるためであらうが、ひき較べて高く評価してゐる。前項でも北園克衛本人については、その独自の純粋性を以てあからさまな批判だけは留保してゐるが、この「マダムブランシュ」ばりの匿名子の毒舌にかかると「アバンゲールvsアプレゲール」といふ対立も皮肉っぽく「アスピリンエイジvsアトムエイジ」などと書き換へられる。
本誌には木下夕爾が戦後に問うた詩集のタイトル詩篇である「笛を吹くひとよ」も載ってゐるが、彼もまた抒情詩系の雑誌「地球」では、そのスタンスを秋谷豊から社会的に飽き足らぬと批評されてゐることを思ひ出した。批評精神の欠如とやらに対する手厳しさといふのは、近親する者に対する程なかなかにやっかいなものであったらしい。

●「詩」 (No.10:昭和52年10月, No.12:昭和53年7月, No.18:昭和55年1月)
第4次「四季」廃刊後、会員たちが東西で「四季」の名を「詩」と「季」に分けあって発刊した、これは関東の方の機関誌である。あんまり漠然と座りが悪いので「東京四季」と改めたのだと聞いた。
10号には杉山平一先生の詩集『ぜぴゅろす』に寄せられた各氏の書評。「ひと世代」前の長江道太郎氏からの一文に感じ入る。
18号では『夜学生』寄贈に対する各氏からの礼状のなかで、明晰を旨とする自負を込めた「ピラミッド」を認めてくれた中野重治に対する私かな恩義と親愛が語られてゐる。

ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

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