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『感泣亭秋報 11』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年11月24日(木)08時44分16秒
  詩人小山正孝の子息正見様より、今年も『感泣亭秋報 11』の御寄贈に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

特集は“『四季』の若き詩人たち”。すなはち戦前の第2次『四季』の常連投稿者のなかで個人詩集を持つことがなかった当時の青年詩人たち、そしてその後の第4次『四季』――戦後詩史上、抒情詩の牙城を守る“真田丸”的存在となった、丸山薫の『四季』――に鳩合することをも得なかった詩人たちの中から、今回は村中測太郎(むらなかそくたろう)、木村宙平(きむらちゅうへい)、能美九末夫(のうみくすお)、日塔聰(にっとうさとし)の4名が選ばれ、それぞれ作品の紹介と解説とがなされ、不遇が弔はれてゐます。

限られたスペースで、紹介作品は『四季』掲載以外のものがあれば積極的に掲げ、プロフィールも複数の書誌を校合して加筆されてゐますが、執筆担当の“信天翁”氏は蓜島亘氏と思しく、自身が抱へる連載とは別に今回は特集全体のオーガナイズを任された趣きです。今後も主宰者正見氏の信を得て坂口昌明氏の亡きあとの『感泣亭秋報』を守り、坂口氏と同様、在野研究者ながら書誌的正確さと資料の博捜を以て、大学で禄を食む研究者からは、畏るべき目を持つ“候鳥”の存在が一目置かれてゆくことでしょう。
連載中の「小山正孝の周辺 その5」において傾けられる蘊蓄にも、氏らしい謹飭さが窺はれますが、戦後復刊した第3次『四季』とは詩的精神を同じくし、主に散文を扱った雑誌だった『高原』について、そこによった山室静や片山敏彦といった正に四季派周辺のことが触れられてゐます。そして彼等が傾倒したシュティフターをはじめとするドイツ語圏の詩的精神が、昭和初期の読書人におよぼしたブームの受容史について。特集にも呼応させるべく何人ものマイナーポエットの名が挙げられてをります。

また現在の四季派研究の先頭に立つ國中治氏からの寄稿を今号でも読めることが、戦前抒情詩の愛好者には嬉しい限りです。
「四季派詩人」の中で「詩集を持たぬ小惑星中の最大」ともいふべき能美九末夫の作品を『四季』誌上にたどり、一篇一篇考察を試みてゐるのですが、自身が詩人である鋭い直感から、このマイナーポエットが伊東静雄や中原中也に対して反対に影響を与へたかもしれない可能性を示唆してみせる条りなど、刺戟に富んだ内容となってゐます。

そして特集以外でも、小山正孝詩との正対を続けてゐる近藤晴彦・渡邊啓史両氏の連載論文が今回も充実してゐます。現代詩音痴の私が敬遠してゐる「戦後詩集における変転」に対し、継続して取り組んでをられるのですが、入る者を韜晦で迷はす、決して“小山”と侮れない山水のなかで試みられたアプローチの論点が、道筋をつけるべく多岐点々と道標のやうに提示されてゐます。

近藤晴彦氏は『未刊ソネット』の成立事情について、主体的抒情に耽ってゐた詩人が抒情を客観視し凝視できる視点をもつまでの過渡期的作品として、
「『雪つぶて』の谺を含みながら、大部分が『逃げ水』の定稿を定めるほぼ9年間に製作されたものではないか」
との推定を下してをられますが、膨大なこれら愛の詩篇たちの向ふには、無垢な四季派詩人で居ることがもはや出来なくなった小山正孝の「立原道造との暗闘」が、対象を愛人に、ソネットといふ形式をとりつつ息苦しく横たはってゐるやうな気分が、私にも感じられます。

一方、質量ともに瞠目すべきは、第六詩集『風毛と雨血』を紹介する渡邊啓史氏の論文「精神の振幅」でしょう。50代を迎へた初老の詩人が描く、理想郷とは呼べぬ心象世界が、実存の深みを指し示すと同時に、それとの距離のとりかたを摸索してゐるやうだと、翻訳を通じて関ってきた中国の古典との関係を挙げながら語られてゐるのですが、現実でも去りゆく「若さ」に対する嫉妬や屈辱があったのではとの指摘には、『唐代詩集』を共訳した田中克己の同時期の境遇を思ひやり、或ひは詩を書けなくなった同世代の自分自身の葛藤をも投影してみたことでした。
加へて渡邊氏には、今回の特集でも日塔聰の宗教観に触れてをられ、彼や、亡き配偶者の貞子や、同じく山形へ帰郷した加藤千晴にも宿ってゐるところの、早春の氷柱に雫するが如き“『四季』の若き詩人たち”に共通する内省する抒情に対して、共感をあらたにしました。

渡邊氏は蓜島氏とともに、この『感泣亭秋報』において懐刀と呼ぶべき、なくてはならぬ存在となってゐます。研究業績の点数かせぎとは無縁の雑誌であればこその御活躍を、今後も期待せずにはゐられません。

それから今号には、詩人小山正孝の最大の理解者でありながら、当の本人についてどんな方だったのか分からぬまま、その学際的博識を畏怖申し上げてゐた坂口昌明氏について、杜実夫人の回想が掲げられてゐます。
亡き詩人の人となりを、たとへば小山常子氏からのレクイエムと比するなら、やはりこの教養詩人にしてこの夫人ありとの印象を表現に感じました。鈴木亨氏など周辺にあった詩人の名も現れる、何回にも分けて聞きたいやうな濃い内容の文章には、
「坂口の詩は読むのに少々努力がいる。(中略)日常の経験を書いても彼の意識はいろいろな要素が相互に浸透しあい多様な変化で詩に象徴される」
とありましたが、これって全く盟友である小山正孝と同じではないかとも思ったことでした。

一方で教育者としての小山正孝のおもかげについて、
「先生のユニークなところは講義に出席さえすれば及第点をいただけるというところで、非常に人気がございました。開始から終了まで真剣勝負、学生は先生の豊富な文学に圧倒されたと聞いております」
とは、関東短期大学在職中の様子を伝へる高橋豊氏の一文。同じく女子大に勤め、畏れられ慕はれた田中克己の日記を現在翻刻中の私には興味深く、頬笑ましい消息にも思はれたことです。

この個人誌がすでに『四季派学会論集』をしのぐ学術研究誌の域にまで達してゐることについては、一詩人の顕彰にとどまらぬ、彼の生きた時代の「特異な人たちの群像(173p)」へと対象をひろげてゆかうとする主宰者正見氏の姿勢において、後記に語られてゐるとほりなのですが、ここ数年の内容を一覧するにあらためて瞠目を禁じ得ません。
全ての文章にコメントをする余裕がありませんが、つまらぬ紹介は措いて、前号を上回るページ数を毎度更新してゐる、この恐ろしい雑誌の目次を以下に掲げます。実際に手にとって頂く機会があれば幸ひです。


年刊雑誌『感泣亭秋報 11』 2016年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行 174p  定価\1,000  問合せ先HP:http://kankyutei.la.coocan.jp/

詩稿・・・・・・小山正孝 3p

【特集『四季』の若き詩人たち】

序にかえて・・・・・・信天翁 5p
「四季派」とは・・・・・・小山正孝 10p
〈村中測太郎詩抄〉12p
詩人・村中測太郎・・・・・・信天翁 15p
〈木村宙平詩抄〉18p
もう一人の九州詩人・木村宙平・・・・・・信天翁 22p
〈能美九末夫詩抄〉24p
能美九末夫と『四季』 たゆみない挑戦・・・・・・國中治 28p
能美九末夫の源流・・・・・・信天翁 41p
〈日塔聰詩抄〉44p
日塔聰 詩および詩人・・・・・・渡邊啓史 47p
詩人日塔聰にまつわることなど・・・・・・布川鴇 50p

盛岡の立原道造・・・・・・岡村民夫 58p
『四季』立原道造と小山正孝と村次郎・・・・・・深澤茂樹 73p

精神の振幅 詩集『風毛と雨血』のために・・・・・・渡邊啓史 77p
小山正孝の詩世界10『未刊ソネット史』・・・・・・近藤晴彦 117p

【詩】
 長い坂・・・・・・山崎剛太郎 126p
 「出てきて おくれ」亡き妻に・・・・・・比留間一成 128p
 手紙・・・・・・大坂宏子 130p
 風・・・・・・里中智沙 132p
 便り・・・・・・森永かず子 134p

【わたしの好きな小山正孝】
漂泊する詩人の魂・・・・・・岩淵真智子 137p
詩になった内部空間・・・・・・松木文子 139p

「浅は与に深を測るに足らず」・・・・・・坂口杜実 141p
常子抄・・・・・・絲りつ 153p
小山正孝先生の思い出とその当時の関東短期大学について・・・・・・高橋豊 155p
鑑賞旅行覚え書1 キネマの招き・・・・・・武田ミモザ 158p

小山正孝の周辺5 『高原』をめぐる詩人たち・・・・・・蓜島亘 160p

感泣亭アーカイヴズ便り・・・・・・小山正見 172p
 
 

『田中克己日記』 昭和32年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年10月13日(木)00時25分16秒
  昭和32年『田中克己日記』解説共にupしました。
関西から詩筆を折る決意で上京、十年ぶりの東京で待ってゐたものは・・・。
http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1957.html
 

『田中克己日記』 昭和31年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 9月15日(木)22時11分37秒
  『田中克己日記』昭和31年upしました。

同人誌『果樹園』創刊と、戦後関西在住時代の詩集『悲歌』の刊行。
そして一区切りついた詩人の上京計画が始動します。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1956.html
 

「 モダニズムと民謡について」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 7月27日(水)13時14分14秒
  さきに季刊『びーぐる』第31号 <特集>土地の詩学 に書かせていただいた拙文ですが、バックナンバーとなりましたので掲げさせていただきます。


 モダニズムと民謡について          中嶋康博

 詩のなかに土地があらはれると、その土地が作者の詩人たる存在にどんな意味をもってゐるのか関心をもちます。それが詩人の生まれ故郷だった場合、慕はしき場所なのか呪はしき場所なのか。中原中也や萩原朔太郎を持ちだすまでもなく、ふる里はしばしば文学者の性格を決定づけます。そして宮澤賢治はその典型ですが、作者のロマンチシズムによってしばしば変容されるものです。
出身地でなく他郷の場合であっても事情は同じで、理想郷に描かれたり、逆に疎外感にさいなまれて居れば、やはり大きな刻印を詩人に残すのです。信州は都会人である立原道造ら「四季派」の詩人たちによって、彼らの詩的故郷に仰がれましたし、多くの上京詩人たちにとって、都会生活のなかで味はった孤独と不遇とが、故郷への思慕となって彼らのもとに返ってくることを幾多の望郷詩が傍証してゐます。近代文化史的な疎外感、思ひ描かれた故郷が日本の原風景であるやうな、文明開化に対する象徴的な反省として「日本浪曼派」も現れたのだといってよいかもしれません。

 ながらく近代の口語詩を渉猟してきた私ですが、おもしろいと思ったことがあります。それは如上の、詩人らしい故郷との関係のことではなく、都会生活に軋轢を感じるどころか、文明志向がさらに彼らを駆ってゐるやうなモダニズムの詩人たち、ことに東京近傍の中途半端な文化圏から上京したためか、それが一層顕著に感じられる名古屋・中京地区出身の詩人たちのことでした。同じく東海地方に生を享けた自分だから感じるのかもしれません。
 近代物質主義の申し子である彼らにとって、土地はアイテム同様にハイカラなスタイルを纏ふべきものとして詩の中に登場します。先頃刊行された『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』でも感じたことですが、昭和初期に詩壇を席巻したレスプリヌーボー、春山行夫が御膳立てをしたモダニズム詩の運動には、ディレッタンティズムと非政治性――つまり「ハイブロウな平俗性」ともいふべき心性を強く感じます。文学手法の革新が海外文芸の翻訳紹介に偏してゐることに飽き足らず、政治体制批判に目覚める人たちもありましたが、中京地区からの参加はなかったやうであります。おもしろいと云ったのは、その一方で、真反対な「ローブロウな平俗性」を象徴する「民謡詩」といふジャンルが、同じ中京地区の衛星都市である岐阜を拠点に詩壇として成立し、昭和初年の同時期に地方勢力を保ってゐた事実と、私の中でワンセットで思ひ起こされることです。

 土地を題材とする作品が現代詩としての価値を持つためには、詩人の自我がその地の風俗や自然を通して顕れてくることが大切だと思ってゐます。しかし音頭・長唄・小唄といった民謡詩には、公的に要請される校歌や翼賛詩と同様、制作意図に作者の切実な自己(生の意識)は必要とされません。自意識を卑俗的日常まで頽落させた大衆迎合の表現が、御当地詩人たちにとって如何なる制作モチベーションと結びついてゐたものか不思議に思ふのですが、岐阜県の民謡詩運動の場合、アンデパンダン結社であった『詩の家』の詩人岩間純が帰郷し、彼が興した詩誌『詩魔』を足がかりにして昭和初年代に大いに盛り上がったもののやうです。当時、詩と流行歌との二足の草鞋を履くやうになった『詩の家』主宰者である佐藤惣之助が、中央から物見遊山かたがた岐阜市に訪れて歓待される様子は、まるで江戸時代の漢詩人の宗匠をとりまく田舎サロンをみる思ひがします。それから一世紀近く隔てた現代から遠望すれば、歌はれた和風情緒はすでに私たちの生活から遠く、都市化された風景の変容も、資源を食ひ尽くしてなほ観光地の名をとどめる空しさの上に痛感されるところです。

 前述したモダニズムによって描かれた都市化された風景についていへば、そのさきの未来が、今日につながらぬ当時の最先端風景として創造的に懐古されるところに意義があり、今なほ新しい読者を勝ち得、北園克衛の新刊にも注目が集ってゐるのだといってよいでしょう。しかし民謡詩については残念ながら、それが寄りかかってゐる文化的な共通理解の前提をとり除けば何も残らなくなるやうなポエジーのあり方は、戦争翼賛詩と同列に考へられる事象なのかもしれません。ついでながらモダニズムから体制批判を志した詩誌『リアン』の同人たちもまた『詩の家』ファミリーでした。こちらは戦時中の弾圧によって解体、詩派としては継承されず今に至ってゐることを併せて書き添へておきたいと思ひます。

 翻ってグローバリズムが極まり、文化的な共通理解の前提が民主主義の価値観に一元化されるやうになった現代の日本で、詩人は土地をどう歌ひ、何を意味づけすることができるのでしょうか。「地球」を概念としてとらへる野放図さ、土地として向き合ふやうになったときのパースペクティブに私は耐へられず、戦前抒情詩が成立した“箱庭”を仮想し、そこで現代との折り合ひをつけながら詩を書いてゐたやうに思ひます。そして上京生活を切り上げて帰郷した後も、地域の伝統的な風土風俗を詩に詠みこむことに不毛を感じ、むしろ不毛そのものが歌はれる「イロニー」や「パロディ」としての土地の詩学に親しんできたやうに思ひます。過去の作品でいふなら小野十三郎によって描かれた一連の「大阪」や、中原中也の「桑名の駅」といふ詩。土地はこの先あのやうに歌はれ、それがまた新たな歌枕として平俗性をまとって日本文化に定着してゆくのかもしれません。すでに桑名駅には立派な詩碑が建ってゐるとか。斯様な詩碑が建てられる観光まちおこしの思想と経済力に、私はかつての民謡詩人たちが情熱を傾けた姿を重ね合はせ、ふたたび数十年後の行末を思っては(それをむなしいといってよいものか)現在に生きてゐる一種の感慨にとらはれます。


季刊『びーぐる』第31号 2016.4.20 発行:澪標(税込定価1,000円) 現在、最新号32号を発行。
 

『田中克己日記』 昭和30年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 7月12日(火)23時18分24秒
  『田中克己日記』昭和30年upしました。

歌集『戦後吟』が刊行され、いよいよ小高根二郎氏とあたらしい雑誌を創刊する計画が。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1955.html
 

「保田與重郎ノート3」 紹介

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 6月 8日(水)07時14分57秒
   金沢の米村元紀様より2年半ぶりの発表となる「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」を収めた『イミタチオ』57号(2016.5金沢近代文芸研究会)の御寄贈に与りました。

 このたびも保田與重郎の初期評論が対象に据ゑられてゐるのですが、前回論考において呈された「渡辺和靖氏の保田與重郎批判」に対する再批判が、より徹底的に展開され、保田與重郎をその文学的出発時にさかのぼり、文人としての姿勢に宿す本質において批判と総括を試みた渡辺氏の考察が完全に覆され、のみならず、逆に当の批判者本人の批評家としてのスタンスが問はれる恰好ともなった模様です。

 保田與重郎研究書の真打ちの如き、時期と・分量と・装釘でもって2004年に現れた渡辺氏の研究書『保田與重郎研究』(ぺりかん社刊)でしたが、保田本人と直接親交のあった信奉者と、彼らを敵視した左翼マスコミ系イデオローグ達とが、共に評論の舞台から退場した今日、残されたテキストから問題点の整理をし直した、といふ執筆の姿勢が新鮮にも映ったのは事実です。保田與重郎の独特に韜晦する文意を、周辺文献への博捜によって、外壕を埋めるやうに実証的に質し、解きほぐし得たかにみえた考察でしたが、このたびは同じく実証的スタンスを重んじた米村氏による更なる精査によって、渡辺氏の読解の「拙速さ」が指摘され、否、それは果たして「拙速」であったのか、そもそも渡辺氏の執筆動機には、保田與重郎が今日読まれる意義に対して引導を渡さんがための「歪曲」の意図があったのではと、あからさまに筆には上さないまでも疑念さへ呈されてゐるやうに、私には感じられました。

さきの論文では、保田與重郎の文学者としての倫理を問うた「剽窃疑惑」に対し「待った」がかけられましたが、今回はデビュー当時の評論手法に対して渡辺氏が行った批判への反証が徹底的に述べられてゐます。保田與重郎の当時の文章から「視覚的明証性(みればわかる)」を重んずる高踏的な芸術家態度を指摘する一方で、「古典には主観の介入する余地はない」といふ矛盾したもう一つの態度を導き出し、自家撞著を指弾した渡辺氏ですが、「保田のやり方は、口では考証の排除を言いながら実は暗黙裡に時代考証を前提としている。63p」とも語り、批判の手をゆるめません。これに対し米村氏は

 そもそも芸術作品に「知識や思想」を読み取ることを避けるのは「実証的な検討」を否定していることになるのであろうか。(63p) 保田は「芸術史家の途方もない科学的批評」の「観念形態」そのものが歴史的産物であることを暴露しているだけなのである。(64p)
 保田は古典作品に対して「主観の介入する余地はない」などと言ってはいない。それどころか古典作品の享受とは「芸術のレアール」、つまり「切々と心うつ何ものか」を感受することだと主張していた。(65p)「歴史的実証性」に背を向けて古典論を展開しているのではない(67p)[し、]「芸術のレアール」の享受のために科学的実証を否定するわけで[も]ない。「知識や思想」を当て嵌めて批評とする態度を批判しているだけ(68p)[であり、また、]保田は「芸術のレアール」の感受だけを批評だと言っているわけで[も]ないのである。(69p)


 と、それぞれの箇所で保田與重郎自身の文章を引きながら至極まっとうな論駁によって切って捨て、再考が促されてゐます。そして続いて、

では、近代芸術の概念に基づく芸術史を否定するのであれば、保田はどのような歴史を想定するのであろうか。(中略)それに代替するものとして精神史なるものを措定する。(67p)


 と、その後昭和10年代に突入して後の展望の方向が示されてゐます。けだし渡辺氏の「拙速」が本当に「歪曲」ならば、目論見はこの時代を批判したいが余りに、しかしイデオロギーによる悪罵の無効をさとり、土台を崩しにいって失敗したといふことでありましょうから、今度は米村氏の手になる引き続いての論考も待たれるところです。

 前半には哲学者三木清を向ふに回した当時の評論も考察対象に挙げられ、学術用語に詳しくない門外漢の私には就いてゆき辛い個所もあったのですが、論理的なミスリードを突いて白黒決着をつける部分については分かりやすく、最後は心の通った眼目によって論文が締めくくられてゐることにたいへん好感を感じました。

 とまれ雑誌一冊の大半を占める内容には瞠目です。日本浪曼派を論ずる研究書を読まなくなって久しく、斯様な論文に首をつっこんで紹介するなど烏滸がましい限りですが、渡辺氏の労作『保田與重郎研究』も今後は米村論文を念頭に置いて読まれなくてはならぬものになってしまったことだけは云っておきたく、ここに紹介させていただきました。
 同号には、四季派詩人としては珍しく田中冬二を主題に据ゑた、抒情の感傷性・モダニズム・全体主義を、異次元世界構築に向けて発動する想像力の問題として捉へた、西田谷洋氏の力作論考も併載されてゐます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『イミタチオ』57号 (2016.5金沢近代文芸研究会)  目次

小説 「想いのとどく日」くどう文緒……2p
評論 「田中冬二 詩のセンチメンタル・モダニズム」西田谷 洋……8p

評論 「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」米村元紀……24p

 第一章 「生の意識」と新しいロマンの探求
  1.『戴冠詩人の御一人者』と「當麻曼荼羅」
  2.「剽窃」としての「當麻曼荼羅」
  3.論争の説としての「當麻曼荼羅」
  4. 「生の意識」と三木清との確執
  5.既成文学批判と新しいロマンの探求
  6.三木清の二元論への苛立ち
  7.「パトス」論と三木清の影響
  8.不安の時代と芸術論
  9.保田與重郎と小林秀雄

 第二章 「當麻曼荼羅」と不安の芸術
  1. 不安の芸術と芸術のレアール
  2.「不安の時代に於ける芸術」、「芸術の示す不安」、そして「芸術のあらわす不安」
  3.「芸術のレアール」とは何か
  4.「知識や思想」を排除する批評
  5.「科学的美学の公式」と「知識や思想」
  6.印象批評と「科学的」批評

評論 「五木寛之(金沢物)の傑作「金沢あかり坂」 森英一……76
評論「カンガルー日和」について 改稿から見えてくること 宮嶌公夫……90
北陸の本……98
 

『田中克己日記』 昭和29年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 5月14日(土)21時40分48秒
  『田中克己日記』昭和29年upしました。

保田與重郎との関係について、少しだけつっこんで解説を書いてみました。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1954.html
 

限定15部の詩集

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 5月13日(金)16時56分38秒
  奥付を見ると昭和14年1月に印刷を終へたのち内藤政勝の許に預けられたもののやうで、
完成するまでの一年近く、著者は(おそらく学生であったのでしょうか)本郷の弥生アパートの一室にあって、
自分の初となる詩集の豪華な出来上がりを心待ちにしたことに相違ありません。

著者の江泉正作はこののち、詩人ではなく俳人に転身。
昭和16年の滝春一の句集『手毬唄』を同じく内藤政勝が造ってゐるのですが、おそらくこの詩集制作が機縁となってのことでしょう。
江泉は瀧春一が主宰する『暖流』(『馬酔木』の衛星雑誌)の編集実務をつかさどり、戦後も師を支へたと聞きます。
一方の内藤政勝はといへば、これは個性的な造本家として著名ですね、
すなはち後に数々の稀覯本詩集も手掛ける「青園荘」の主人であります。



長らく詩集を集めてきましたが、限定15部なんて本を手にするのは初めてです。
稀覯性に鑑み内容を公開しました。
奇抜な意匠はみられませんが、結構大きく、堅牢な造りであり、
内藤政勝の仕事においても最初期の一冊に数へられるものではないでしょうか。
詳細を御存じの方には情報をお待ちしてをります。

http://cogito.jp.net/library/0e/ezumi.html
 

はぐれたる春の日に。

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 4月11日(月)16時30分14秒
編集済
  ひさしぶりに【四季派の外縁を散歩する】第21回 東北の抒情詩人一戸謙三 を更新しました。
このたびはまた御ひとかた、 抒情の血脈を同じくする先達の「素顔」に接し得てよろこんでをります。



さて、教へていただくまで気が付きませんでしたが、完全テキスト主義で、かなりマイナーな詩人までフォローした奇特な戦前詩人のデータベース「名詩の林」ホームページが、今年になって(?)あとかたもなくなってゐました。自分のホームページの未来をみる思ひで慄然としてゐます。

けだし自分も四捨五入すれば60になってゐたといふ始末。
現在自分にふりかかってきている運命に理由をもとめることはやめにしないといけないな、とも思ふやうになりました。
仕事のこと、家族のこと、後がありませんが、一日一日を大切に暮らしてゆく所存にて、今後ともよろしくお願ひを申し上げます。



【寄贈御礼】
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

『詩集 修羅の歌声 (飯島研一様)』
『相逢の人と文学』 (千葉貢様)』
『北方人第23号 (池内規行様)』
『桃の会だより24号 (鷲野和弘様)』
『菱193号 (手皮小四郎様)』
『gui107号 (奥成繁様)』
『遊民13号 (大牧冨士夫様)』
『調査報告 菊池仁康訳『プーシュキン全集』とボン書店 (一戸晃様)』


【御紹介御礼】
現代詩のアーカイブ 「Crossroad of word」にて、拙詩がChronologyの末席へ掲載に与り、感謝と恐縮の至りです。
 

『福士幸次郎展 図録』 ほか

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2016年 1月16日(土)20時14分27秒
  青森県近代文学館の資料調査員、一戸晃様より、詩人阿部幾男が紹介された『玲』別冊号、ならびに弘前市立郷土文学館の「福士幸次郎展」図録の御寄贈に与りました。茲にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


○探珠『玲』別冊『暮小路晩爵(阿部幾男)』

晃氏のもとには、祖父の一戸謙三が遺した原稿や来翰など、郷土の近代文学史を証言する貴重な原資料が多数管理されてをり、遺族ならではの視点から編まれた個人研究誌『玲』が現在すでに158号を数へてゐます。
資料の紹介は詩人だった祖父にとどまらずその交友関係にもひろげられてゐますが、これは(かつて坂口昌明氏が指摘されてゐましたが)初期の詩業を整理淘汰した感のある一戸謙三においては、交友を跡付ける資料から若き日の活躍ぶりが明らかになることも多いことから、広義の顕彰活動ともいへるでしょう。このたびは別冊扱ひとなってゐますが、阿部幾男といふ詩人についても、一戸謙三には絶筆と思しき葉書を送ってゐる親密な間柄であったことが知られます。青森市長だった親を持ち、放蕩詩人として宿痾やスキャンダルといった、斯様な素性につきものの逸話がたくさん報告・紹介されてゐますが、手紙や作品のなかにみられる、

「毎日吸入器のゆげばかりたべて生きてゐます。」
「只呆然と貝殻のやうに風を聴き、小川の鮒のやうに空気を呼吸し、みずたまりのやうに目は物の姿を映してゐます」
「その時私はどいふわけか、いつか夏の涼しい縁側で水色の羽織紐を噛んだときのことを思出した。(中略)どんな味がするって?おいしいことはありませんね。」


といった言葉に対する鋭い感性には紛ふ事なき詩人ぶりが感じられ、アンソロジーを旨とした「パストラル詩社」時代に、個人詩集をもつに至らなかった不幸を思ったことでした。

 「四季の目録」  阿部幾男

 春は床の水仙
 夏は岩のしめり
 秋は俥の雨
 冬は煙突のけむり


(平成28年1月 一戸晃発行 A4コピー誌24p)



○『福士幸次郎展 図録』

先達て紹介した『言霊の人 棟方志功』のなかでも、鍛冶屋の息子であった棟方志功が「鍛冶屋のポカンさん」といふ詩を書いた福士幸次郎を訪ねる条りが書かれてゐましたが、大正時代の東北地方の、詩にかぎらぬ文化活動を語る人たちの口に上る「福士幸次郎」といふ要人の名が、今以上に偉大なものとして認知されてゐたことについて、今日の公的文学館が展覧会を開き、解説を試みた意義は大きいと思ひます。

当地との関りでは、福田夕咲(飛騨高山出身)が口語詩揺籃期の盟友として、また放浪時代の一時期を過ごした名古屋との縁もあってか、金子光晴を詩壇にデビューさせた恩人として、佐藤一英とはおなじく音韻詩を模索した先輩詩人として、浅からぬ縁があります。棟方志功が雄飛するきっかけとなったのは佐藤一英の詩「大和し美し」でしたが、彼らの媒をなしたのも福士幸次郎でありました。さうなると一戸謙三をはじめとする門下生の集まる「パストラル詩社」と、福士幸次郎を講演に招いたこともある「東海詩人協会」との接触もあったかもしれません。

一方で当時、盟友からも後発の詩人達からもその詩人的奇行と見識によって尊敬を贏ち得てゐた様子だった彼が、その後およそ国柄とは本質的にそぐはぬ「ファシズム」の名を冠した団体を立ち上げ、晩節を汚したまま亡くなってしまったことにも思ひは及びました。
一家言の理論家肌がわざわひしたものか、提唱した地方主義運動によってかきたてられた郷土愛・祖国愛が、後年創始した日本古代文化史論においても「尾張は日本のメソポタミヤであり、木曽長良の両川はチグリス、ユウフラテスにあたる」といった創見にとどまらず、図らずも彼をファシズムへと迷はせる讖となった可能性はあります。
ほかにも拘泥した理論に音韻詩がありましたが、詩壇を動かすには至らず(これは聯詩を追及した佐藤一英も同じでしたが)、敗戦まもなく急逝してしまったため戦後史観によって黙殺された結果、近代詩を語る際に逸することのできない業績を遺しながら、徒らに名高い不思議なキーパーソンとしての「福士幸次郎」が取り残されてあるやうな気がしてなりません。

しかしながら、この図録に紹介されてゐますが、無名時代を損得抜きで世話になった金子光晴やサトウハチローのやうな破格の人物から生涯敬慕され続けたといふ事実、そして当時の詩壇の盟友達が彼の逸話集なら何ページでも書けると受け合ったといふ話、これらから結ばれる人物像に、およそ「ファシズム」の名も理念もそぐはないこともまた確かでありましょう。大正時代に開花した口語詩を代表する萩原朔太郎、その彼が寄せた一文が、詩人福士幸次郎の本来の面目と地位を裏書きするやうな証言として掲げられてゐるのを読んで、私自身の認識もあらためられた気がしました。

図録には、館蔵資料のほか一戸謙三の許に遺された原資料も多数掲載され、書影・書翰・原稿、そして萩原朔太郎と室生犀星が一緒に写ってゐる珍しいスナップや、金子光晴の『赤土の家』出版記念会など、全国各所の文学館所蔵の写真の数々にも瞠目しました。概してどれも小さく、もっと拡大して掲載して欲しかったところです。

大正詩に詳しい者ではありませんが、以下に目次を掲げて概略を報知・紹介させて頂きます。


『福士幸次郎展 図録』目次

詩篇紹介 「錘」ほか15編

資料紹介
書・色紙・短冊・草稿・書簡・書籍・雑誌

福士幸次郎の生涯
 1弘前に生まれて文学青年となるまで
 2自由詩社に入り、詩を発表
 3第一詩集『太陽の子』 口語自由詩の先駆
 4詩集『展望』とパストラル詩社
 5地方主義運動(1) 地方文化社の設立
 6地方主義運動(2) 地方主義の行動宣言
 7「日本音数律論」 詩のリズム研究
 8『原日本考』 古代の研究
 9館山北条海岸で没す 弘前市に文学詩碑

福士幸次郎を取り巻く詩人たち 竹森茂裕
佐藤紅緑・ハチロー・愛子に愛された福士幸次郎

福士幸次郎自伝
福士幸次郎君について 萩原朔太郎
弟の思ひ出 福士民蔵

福士幸次郎書簡
福士幸次郎年譜

(平成28年1月12日 弘前市立郷土文学館発行 29.6cm 40p)
 

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