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田中克己日記 昭和25年、26年

 投稿者:やす  投稿日:2015年11月23日(月)22時42分46秒
  昭和25年につづいて昭和26年の日記を解説ともupしました。

天理図書館からの脱出を、引越しを以て宣言してしまった詩人でしたが、当てにしてゐた大阪大学への転任ままならず、結局彦根短期大学での一年を経て帝塚山短期大学に腰を落ち着けることになります。住まひも、天理~京都~彦根~布施へとめまぐるしく替はります。
その際、就職のコネとして頼った京都大学の東洋学研究グループの間を頻繁に行き来し、文学上でも天野忠や井上多喜三郎をはじめとする関西詩人たちと広く交はり、コルボウ詩話会と近江詩人会とを結成に導きます。他方、保田與重郎の雑誌「祖国」や前川佐美雄の「くれなゐ」歌壇にも参加し、誼を通ずる桑原武夫の主張とは相反する戦前抒情派としても活躍。翻訳『ハイネ恋愛詩集』も順調なれば、恋愛の実践の方はともかく(?)、詩人としては実り多き時期だったと申せましょう。

翻刻は続きます。
 
 

『義仲寺昭和再建史話』

 投稿者:やす  投稿日:2015年11月23日(月)19時49分57秒
  現在の義仲寺無名庵の守当番(庵主)である谷崎昭男様より、新著『義仲寺昭和再建史話』(2015.11.14義仲寺発行(編集新学社)18.8cm,127p 並製,非売)の御寄贈に与りました。以前にお贈りした拙詩集に対する御返礼と思しくも、忝く有難く、茲にても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

さて一冊に余さず記録されました、松尾芭蕉ゆかり義仲寺の再建に係る一切の出来事について、殊にも円満寺からの分離引き渡しに係り横たはった諸問題――当時の史跡保存会の機関誌に於いてさへ(関係者存命のゆゑを以て)露はには公表できなかったであらう内幕の事情――が包み隠さず、しかし決して露悪なドキュメンタリーには流れぬやう細心の注意が払はれた前半部に、思はず引き込まれてしまひました。かうした事情を知った上であらためて保田與重郎が撰んだ「昭和再建落慶誌」に目を移せば冒頭、
「史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し両墳墓の存続さへ危い状態にて、」

といふ表現によってのみ纔かに顕された、義憤にも気がつくといふものです。

さうして三浦義一はともかく、工藤芝蘭子、斎藤石鼎、大庭勝一、後藤肇といった功労者の方々の名をこの本によって初めて知ることを得ました。巷間「右翼の大物」として悪名のみ知れ渡ってをります三浦氏ですが、資金を出されたといふだけでなく、氏がバックに控へ居たからこそ、“曲者入道”との折衝も無事成ったのではないかと推察されます。交渉の上で起きたであらう出来事を全て知悉したなかには、敢へて諷するさへ憚られたことどももあったかしれません。けだし保田氏が、碑文に彼ら全員の名をもれなく銘記した理由が、谷崎様の先師を髣髴させる筆致によって、それぞれ人柄とともに書き分けられ写真とともに掲げられてゐること、本書刊行の一番の眼目であり意義であったとも感ぜられる前半部と存じました。

また本書に説明ある通り、この事業が特記されるべきは、単に建築物の再建のみならず、一緒に、開基に与った巴御前をはじめ、芭蕉翁の近江滞在を支へた(にも拘らず墓所さへ持つことを禁じられた)曲翠、下っては俳聖没後一世紀にしてすでに廃滅の危機にあった堂宇の中興に尽した蝶夢、といった先人の事績をあまねく顕彰し、さらには途絶した「風羅念仏踊り」の再興といふ、無形の精神復興にも及んだことでありませう。義仲寺には十年余りも前、出張の途次に立寄ったことがありますが、無名庵の守りをした蕉門十哲の一人、広瀬惟然の故郷近く岐阜に住みなす私においても、嬉しい話題に接し得た後半部でありました。

以前の訪問とは別の感慨と知識を以て、また「無名庵」「弁慶庵」そして「幻住庵」にも行ってみたくなりました。
 

紫野京子詩集『切り岸まで』

 投稿者:やす  投稿日:2015年11月18日(水)21時24分44秒
  紫野京子様より詩集『切り岸まで』の御恵贈に与りました。
内容・装丁とも温雅な佇ひに、抒情詩の看板を掲げる同人誌「季」の年輪を感じる思ひを深くし、表題詩ほか、全体にmortalityや言葉のもどかしさを訴へる観念を主調音としてをり、かうした観念を表現したマチエールに関しては、現代詩詩人の皆さんの評価が別に存するものと思はれますが、私からはいちばんに感じ入った次の一篇を紹介させていただきます。

  夏の庭で

 真夏の日差しを避けて
 石燈籠のなかで
 野良猫がお昼寝

 風が吹くと
 ゆらゆらと合歓の木が揺れる
 薔薇色の糸のような花びらがかがやく

 影もない真昼
 蟻だけが乾いた地面を這う

 枝垂れ桜の緑の葉の下影で
 蓮はひっそりと
 咲くための準備をしている

 生きている今だけを
 生き物たちは繋いでいる


 実に9冊目の詩集とのことですが、著者にとって詩集を出版することは、また新しい自分の可能性に向き合ふよろこびと畏れを感じたいがためである旨。不断に脱皮し続けるバイタリティーに感服です。
ここにても御出版のお慶びとともに御礼申し上げます。ありがたうございました。
 

丸山薫の遺品

 投稿者:やす  投稿日:2015年10月22日(木)21時25分20秒
   昨日は豊橋まで遠征して、丸山薫賞授賞式を末席から見学。祝賀会では、拙詩集刊行に便宜を図って下さった八木憲司潮流社会長と、中日新聞に書評を書いて下さった冨長覚梁先生へ二年振りの御挨拶が叶ひ、御元気なご様子に安心するどころか逆に元気づけられて帰って参りました。

 このたびの受賞者に対する八木会長ならでは評言には、なまなかな祝辞にはない真情が籠められてをり、斯様な激励を受けられた詩人冥加を羨みました。ほめちぎるだけでなく現代詩臭の強い観念語に対しては一言、釘を刺されたことにも感じ入りました。

 当日は早めに豊橋に到着しましたので、市立図書館へ出かけ、ガラスケースに展示された丸山薫の遺品(ステッキ、ラジオ、表札、筆硯など)、ならびに豊橋で出された同人誌「パアゴラ」などを観て参りました。詩人がマッチラベルの収集を他愛なく楽しんでゐたことも知りませんでした。

 一昨年に詩人夫妻の展墓に訪れた際もさうでしたが、詩人の名を冠した賞の授賞式の当日にも拘らず、午前中、展示スペースにどなたの姿もなかったことは、当の詩人の俤を偲んでは考へさせられたことでもありました。
 

奥田和子詩集『独り寝のとき』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 9月13日(日)22時02分38秒
  関西四季の会の同人雑誌『季』の奥田和子様より、これまでの作品をあつめた詩集『独り寝のとき』の御寄贈に与りました。巻末にしるされた「こざっぱりと 読んでいたら すり減って 消え失せた そんな一冊にしたい」といふ装幀にこめられた思ひにも人柄がにじむ、ささやかな新書サイズの詩集です。

  温度差

しじみの鍋を
覗き込んでいると

せからしいのがいて
「はいっ」と
はじけるように手を上げる

白信なげにじわっと
手を上げるのもいる

みなが上げるのを見計らって
キョロキョロ
押し切られて
半分上げたり下げたり
するものもいる


  酔い

怒っていたら
笑えてきた
笑っていたら
泣けてきた
電話が鳴って
すぐきれた

なんだか無駄に思える今宵
ありがとうに思える今宵


「温度差」、「あなた」、「ひとつ」、「酔い」、「まど・みちおの謎」、「間一髪」、「色紙」

これまで誌上で拝見してきた短かい数行の詩篇たちですが、かうしてまとまった形で拝見すると、杉山平一先生との御縁を大切にされ、また作品の上でも杉山スタイルを自家薬籠中のものにしてをられることがあらためて印象づけられ、詩人杉山平一直系の弟子筋にあることをはっきり感じさせる一冊に仕上がってゐます。短い詩はウィットが命ですが、理に落ちすぎない余韻のある詩句に立ち止まらさせられます。
とりわけ、杉山先生の追悼号に載った「色紙」は、詩集収録の際、見開きページに収めるためか末尾に繰り返される色紙本文が削られてしまひましたが(私なら末尾の方を残したかも。)、このやうな詩を捧げることができた幸せと、捧げられた詩人の冥加を思はずに居られません。

  色紙

ここに九十歳のお祝いにいただいた
手書きの色紙がある

  それでは
  友よふたたび
  運行をつづけよう
  健康で坦々として
             平一

裏に
平成十六年十二月
九十歳とある

九十七歳で『希望』
の詩集をだされ
不意打ちをくわし
すっと姿をくらまされた

いま耳元で先生の
笑い声が聞こえる
「まあこんなもんですな」
「愉快ですなあ」


『季』の誌上で私が抱いたゐた印象は、杉本深由起さんが才気の勝ったウィットで人目を惹くのに対して、おなじ杉山詩の気脈に通じながらも、奥田さんのそれには滋味に富んだオリジナルのユーモアといった得難い趣きがあること、殊にこの数年、「果たしてこんな詩を書く詩人だったらうか」と、失礼ながら認識を改めさせられることが何度もあって、一体どんな方か興味深く思ってもゐたところでした。

それが、『朔』の追悼号での回想文を読ませていただき、奥田さんがそもそも四十にして詩を志した、文学少女上がりの人物などではなかったこと、そしてこのたび初めていただいた詩集奥付にて初耳でしたが、永らく大学で栄養学の教鞭を執られた先生であったことを知りました。奥田さんの詩を外面的に特徴づける、食材やいまどきの後輩女性に注がれる視点に合点し、さらにそのオリジナリィティが発現したのも、青年期の麻疹ではない文学に対する研鑽(写生)を、杉山平一といふ人を逸らさぬ師の元で実直に積まれた成果が正直に出たまでであって、第一線から退かれて観照生活に入り、杉山先生が最後に見せた(詩集『希望』に向けた)輝きに呼応するやうに、寄り添ひ精進するところがあったからではないか、などと想像してみたことでした。

杉山先生の死生観を語った一文は、『季』の追悼号に寄せられたことさらタイムリーなものでしたが、また宗旨がカトリックである著者自身の関心に沿った切実な問題でもあること、詩編中の宗教的な題材を思ひ合せて理解しました。回想文のなかで田中克己を私淑詩人のひとりのうちに数へられたのは、カトリックだからといふよりは、やはり杉山先生が好まれたクラリティ(明確さ)への志向でもあったかと想像いたします。杉山詩の特質として明確さを挙げることには、私もまた異論ありませんが、いま少しく説明するなら、明晰な頭脳ゆゑの明晰さの限界の了知と、そこから望まれる未知領域への憧れとの間に揺曳する詩人であったやうにも思ってゐます。しかしながら決してあちら側へ踏み込んでゆくことはない。死生観にもそのやうな消息、「信じてゐる」に限りなく近い「信じたい」といふ祈りが感じられはしないでしょうか。

詩篇についても、皆さんから寄せられた感想や、生前杉山先生から頂いたお手紙に記された感想と照らし合はせて、果たしてどんな好みの一致や相違があるのか、いづれ『季』上にのぼせられる皆さんの詩集評をたのしみにするところです。

杉山先生不在のいま「気が抜けて」といふのは実感ですが、日々の日常生活から新しい発見と感動を、だれにもわかる言葉で定着すること、なほかつ短詩ならではの余韻の探求に期待いたします。新刊のお慶びかたがた御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。
ありがたうございました。

詩集『独り寝のとき』奥田和子著  ミヤオビパブリッシング (2015/8/25) 157ページ 907円

〔著者紹介〕

奥田和子(おくだかずこ)
1937年北九州市に生まれる。
甲南女子大学名誉教授。専門は食環境政策・デザイン、災害・危機管理と食。
2000年4月22日、力トリック芦屋教会で受洗。
40歳のときに詩誌『東京四季』の同人。その後、詩誌『季』の同人。
既刊詩集『小さな花』1992年『靴』1999年『クララ不動産』2004年・いづれも編集工房ノア刊。
 

田中克己日記 昭和24年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 9月10日(木)01時48分7秒
  昭和24年の日記を解説ともupしました。
翌る昭和25年のはじめにかけてが大学の教員生活へと脱皮するひとつの山場。翻刻は続きます。
 

田中克己日記 昭和23年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月31日(月)03時08分51秒
編集済
  本日、先師生誕104年。
昭和23年の日記
を、解説ともやうやくupを終へてお祝ひします。
日々の出来事を順番に活字に起してゐるだけなんですが、辛いときの日記にはやはりドラマが感じられます。
次の昭和24年~25年のはじめにかけてがひとつの山場となりさうです。翻刻は続きます。


写真は新発売の読書フィギュア「山本君」 + 付け合はせ(笑)。
 

『杉浦明平暗夜日記1941-1945』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月21日(金)19時45分7秒
編集済
   小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。編者の若杉美智子氏は、個人誌「風の音」にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」“証拠物件”であることもまた、読まずとも分る気がいたします。
さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちのことを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ斯様に口ひびく毒舌を、当時のそれにたち戻り、俯瞰して理解できるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇のヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情に溜飲を下げたい人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、起きてしまった以後の戦争の悲惨さや理不尽さを、文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、同じく皮肉屋で生涯を通した直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。そんな心構へで、あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、結局どのやうなものであったかさへ<tt>生涯口にはされません</tt>でした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」

といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。

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『全釈 拙堂文話』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月21日(金)00時38分16秒
編集済
   このたび齋藤拙堂翁の玄孫であられる齋藤正和様より、新著『全釈 拙堂文話』の御恵投に与りました。誠にありがたうございました。671ページにも亘る分量に瞠目です。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 津藩の藩儒であり江戸時代の文章家として名を馳せた拙堂の著作については、これまでも齋藤先生の私家版として影印復刻された『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』や、白文のまま翻刻された『鐵研齋詩存』がありましたが、このたびは壮年時代の文章論・随筆博物誌といふべき『拙堂文話』二冊全八巻について、訓読、語釈、そして現代文による丁寧な訳文を付し、所々【余説】を設けて、中国古典の造詣が深かった江戸時代知識人の考証の機微にまで触れる解説がなされてをります。巻末に決定稿ともいふべき年譜を付録した浩瀚な一冊は、齋藤先生がさきに刊行されました『齋藤拙堂傳』(齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p)とならんで、正にこれまで積んでこられた御研鑽の大集成といふべきでありませう。
 その御苦労を偲びますととともに、労作を墓前に御報告叶った達成感もまた如何にと、手にした本冊の重みにふかく感じ入りました。
 心より御出版のお慶びを申し述べます。

 なほ『拙堂文話』は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」に原本画像のpdfが公開されてをります。ですからこれをタブレットなどに取り込み、並べて参照するのも、今の時代ならではの、和本の雰囲気を一緒に味はふ乙な読み方かもしれません。
 なにしろ孟子、韓愈をはじめ、その多くが中国古典の素養を前提とした作文です。なまなかに紹介さへできぬ内容ながら、ときをり息抜きのやうにみられる随筆的箇所など、たとへば拙堂の地元、伊勢の風俗を記した現代訳文をみつけては、その訓読にあたり、さらにその原本の書影にあたってみる、といった反対の読み方で楽しんでみたいと思ひます。

 拙サイトも管理人の不徳のため、地元漢詩人のコンテンツをゆるゆる充実させる計画が遂に狂ひ、この夏はお尻に火のついたやうな感じで、先師の遺した日記翻刻に専心してゐる、といった塩梅です。御本はいづれゆっくり拝読させていただきますが、とりいそぎ御礼一筆、匆卒なる喧伝を草させていただきます。
 ありがたうございました。


 はじめに            齋藤正和

 第二次世界大戦の戦前、中等学校では漢文が独立教科であった。その教科書には齋藤拙堂の『月瀬記勝』「梅渓遊記」や「岐蘇川を下るの記」が載っていた。だが拙堂は名文家といわれることを好まず、自己の本領はあくまで経世済民の仕事にあると考えた。文章は経世と表裏一体をなすが故に重視した。拙堂にとって文章は愉しむものではなく仕事そのものであった。拙堂は武士である。故に文武一如を説いた。ここに訳出した『拙堂文話』は武士のために書いた文章の指南書であり、それは同時に経世の指南書でもある。魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事」という語こそ拙堂の文章観であったに違いない。文武は一如であるが故に文章は高雅であり気塊あるものでなければならない。『文話』はその視点で文章の盛衰がいかに国家の運に関わるかを述べている。文章は国家の品格を表すものと言える。そこのところをこの書から読み取つていただきたいと願うものである。
 なお、拙堂は江戸後期、寛政九年(一七九七)に生まれ、慶応元年(一八六五)に没した。本書の刊行は拙堂没後百五十年を記念するものである。



『全釈 拙堂文話』齋藤拙堂撰 ; 齋藤正和訳註, 明徳出版社, 2015年07月刊行,  671p 8000円

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田中克己日記 昭和21年 22年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 7月23日(木)02時16分39秒
編集済
  田中克己日記、昭和21年 22年の翻刻を完了しました。

またノート本位ではなく、年で編成し直し、
解説を各年の冒頭に付する形に改めることにしました。

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