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田中克己日記 昭和19年 20年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 7月 2日(木)14時43分57秒
編集済
   田中克己日記、昭和19年 20年の翻刻を完了しました。 これで戦争中の昭和18年から20年3月出征までの日記が出そろひました。合せて本冊画像をPDFにて公開します。翻刻ミスなどお気付きの向きには御一報いただけましたら幸甚です。

 それ以前の詩作日記「夜光雲」についても、今回本冊画像すべてをPDFにて公開することとしました。
このほか昭和17年の徴用時代の覚え書きノートがありますが、メモ要素が強く、翻刻できる部分がすくないので、こちらは画像のみでご覧いただきます。

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田中克己日記 昭和18年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月19日(金)01時46分37秒
編集済
   田中克己日記、昭和18年分の翻刻を完了しました。

日記に出てくる人々はこんな方々。

池内宏、石浜純太郎、齋藤茂吉、小谷秀三、平野義太郎、堀口太平、佐々木英之助、和田清、保田與重郎、小高根二郎、肥下恒夫、桑原武夫、筒井薄郎、稲垣浩邦、松本善海、竹内好、長尾良、白鳥清、竹中郁、川久保悌郎、幣原坦、小高根太郎、田代継男、山川弘至、赤羽尚志(赤木健介[伊豆公夫])、田中清次郎、幼方直吉、小野忍氏等、野原四郎、若林つや、小山正孝、鈴木亨、稲垣浩邦、藤田福夫、信夫清三郎、塚山勇三、田代覚一郎、谷川新之輔、中尾光子、美堂正義、船越章、稲垣浩邦、江本義男、伊藤信吉、伊東静雄、堀辰雄、長野敏一、森亮、新藤千恵子、丸山薫、阪本越郎、呉茂一、津村信夫、沢西健、神保光太郎、五十嵐、野田又男、立野継男、本荘健男、中島栄次郎、山田鷹夫、野長瀬正夫、伊藤佐喜雄、平田内蔵吉、辻森秀英、坂入喜之助、吉野弓亮、若松惣一郎、藤原繁雄、大垣国司、渡辺曠彦、白鳥清、鈴木朝英、西川満、信夫清三郎、渡辺曠彦、浅野忠允、和田賢代、稲葉健吉、中野清見、丸三郎、赤川草夫、古田篤、細川宗平、清水文雄、蓮田善明、岩井大慧、野村尚吾、本位田昇、三好達治、木村宙平、倉田敬之助(薬師寺守)、市古宙三、阿部知二、坂入正之助、北川正明、吉野清、山田新之輔、石田幹之助、古沢安次郎、青山虎之助、杉浦正一郎、杉森久英、植村清二、楊井克巳、岩村忍、、中河与一、田辺東司、井上幸治、山本達郎、太田七郎、亀井勝一郎、今吉敏夫、村上正二、大達茂雄、北村旭、増田晃、篠原敏雄、北町一郎、荒木猛(釈十三郎)、宮木喜久雄、大久保孝次、野原四郎、中島敏、村田幸三郎、中野繁夫、田中城平、佐々木六郎、村上菊一郎、渡辺実定、本多喜久子、中沢金一郎、島田正郎、秋岡博、石山五郎、藤田久一、福永英二、牧野忠雄、服部四郎、木山捷平、小田嶽夫、大塩麟太郎、三島英雄、野村正良、和田久誌、外村繁、白鳥芳郎、北村西望、北條城、長与善郎、林富士馬、坂口安吾・・・。

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田中克己日記

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月11日(木)20時27分22秒
   さきに報告しました、阿佐ヶ谷の御実家よりお借りした田中克己先生の膨大な日記帳ですが、翻刻を開始しました。

昭和4-11年 (『夜光雲』ノート) 9冊 翻刻済
昭和17年 スマトラ記 1冊
昭和18-19年 1冊
昭和20-29年 10冊
昭和30-39年 22冊
昭和40-49年 16冊
昭和50-59年 13冊
昭和60年-平成3年 10冊

 全部で82冊、段ボールひと箱の分量があります(「四季」より1冊多いのだ。笑)。走り書きされた筆跡の判読はたいへんですが、『夜光雲』ノート以来、再び先師の実録とむき合ふライフワークの時間が与へられたといふことであります。昨年から強いられて居る職場からの処遇(いづれお話する機会もありませう)も、ここは「天の差配」と考へ、じっくり向き合ってゆかうと思ってゐます。

 日記は、すでに翻刻公刊済の『夜光雲』については、画像をとりこみ公開する予定です(乞御指摘誤記)。日々の出来事が詳細に記録された戦後の日記については、文学外のプライバシーにも及んでをり、すべてをそのまま翻刻することは考へてをりません。

 しかし矚目のニュースとともに、文事に関はるものを拾ひ、列記してゆくだけでも、戦後関西詩壇および、日本浪曼派文化圏の交流証言として得難い資料となるには違ひなく、また詩人田中克己の東洋史学者としての面目が、詳細な読書記録を通じて私たち一般の人間にも明らかになるのではと期待してゐます。

 手始めにもっとも緊迫した記述を含む、昭和20年の日記を翻刻してみました。このあと出征期間をはさみ、敗戦を「戦犯」として迎へることになった詩人は、五人の家族を背負って(日記は家族の記録でもあります)、その後の日本の混乱期と復興期を、研究者として生計をたてつつ、青春を翻弄した詩の余香と心の平安を求めたキリスト教とにささへられて生きてゆくことになります。戦後70年を迎へる今年、激動の近現代史を生きぬいた市井の一知識人の視点・報告から、私たちが感じ取るべきものも少なくないのではないでせうか。更新は私生活が折れない程度にすすめて参ります。気長にお待ちください。

 借用に関はり御配慮を賜りました著作権継承者の美紀子様、そして御長女の依子様には、ここにてもあつく御礼を申し述べます。久しぶりに訪れた阿佐ヶ谷の、変はらぬ路地のたたずまひがあまりになつかしく、現在自らの境遇を省みては、初めて先生の門を敲いた当時のことを思ひ起こし、しばし感慨にふけってしまひました。ありがたうございました。
 

「淺野晃先生をしのぶ集い」

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月 4日(木)00時50分59秒
編集済
   偲ぶべき故人の膨大な著作を、詩集以外は碌に読んでゐません。生前、一方的に拙詩集を送りつけ御返事を頂いたとうそぶいてゐたといふだけで、出席者のどなたにもお会ひしたこともない文学の集まりに、よく出席などできたねと仮に言はれたとしても反す言葉はないのであります(えばっちゃいけない)。

 先週、五月の晦日に東京竹芝のホテルで行われた「淺野晃先生をしのぶ集い」に、それなら私のやうな人間がなぜ参加したのかといへば、ひとへに中村一仁氏に御挨拶さしあげたかったから。同人雑誌『昧爽』の創刊時より十年にも及ぶ書簡(メール)と寄贈とのやりとりをかたじけなくした中村さんが、私淑された日本浪曼派の文学者である淺野晃の『詩文集』を独力で編集・刊行し、このたびは自身の研究活動に一区切りをつけるため、詩人の御遺族や、立正大学の教へ子、文学関係者・研究者にひろく働きかけて斯様な催し物を企画した、その御苦労をどうしてもお会ひして直接ねぎらひたかったからであります。

 『淺野晃詩文集』の刊行は2011年のことでしたが、今回の集まりは、私の中では、だから少々遅れた詩文集の出版記念会に他ならないものでありました。同じ思ひで臨んだ参会者も少なくなかったのではないでせうか。

 近代文学における伝統の問題をひろく論じてきた文芸同人誌『昧爽』は、中村一仁氏と山本直人氏との共同編集で、創刊準備号を2003年6月に発行して以後、年に2~3冊を発行し続け、2009年12月に19号を出してからは久しく休刊してゐます。ことさら「休刊」と記すのは20号で終刊する旨をあらかじめ宣言してゐたからですが、本来は、『淺野晃詩文集』の出版を祝する記念号ととして、一緒に出される予定のものと思ってゐました。ところが中村さんの故郷である北海道の公的資料室に収められた淺野晃の関係資料の調査が、町村合併によって金銭的に行き詰まり、また詩人の最初の妻で戦前共産主義の殉教者である伊藤千代子を、転向した夫から切り離して顕彰しようとする地元文学グループの政治的思惑に制せられて、この同時進行の遠大な計画には暗雲が立ち込めた。すくなくとも私には当時そのやうに観じられたのでありました。

 中村さんらしいポレミックな刊行予告文にも一抹の不安を抱いた私は、お手紙でこそ引き続き進捗状況をお知らせいただいてゐたものの、2010年、詩人歿後二十年の命日に『詩文集』が間に合はず、年末に発行予定の20号も出ず、もしや計画は広げられたまま頓挫したのではなからうか、と思ひはじめた矢先のことでありました。東日本大震災の直後、700ページにもおよぶ『詩文集』が送られてきたときには、全く意表を突かれた思ひでしばし大冊を前にして呆然とするばかり。しかしその感慨は、震災を原因とした小火によって中村さんのアパートと蔵書が甚大な被害に遭ったことを知るに至り、痛切なものに変化したのでありました。

 あれから五年が経ちました。ひょんなことから私たちが三人ともTwitterやFacebookを始めたことを知り、近しく情報を共有する間柄にはなりましたけれど、中村さんは『詩文集』刊行の反応について、やはりおもはしくないとの感想をお持ちの様子。さきの地元文学者たちに対する思ひも強ければ、しばしば既存文学に対する懐疑と苛立ちがぶつけられた「つぶやき」に接しては心配もしたことでした。このたび思ひ切って雑誌の終刊号のことをお訊ねしたところ、休刊の間が空きすぎてしまった旨を釈明されました。とは言ふものの今回の「偲ぶ集い」は中村さんの周旋によって実現にこぎつけ、当日も御遺族のほか、文芸評論家の桶谷秀昭氏をはじめ、ネット上で詩人の聞書きを公開されてゐる野乃宮紀子氏ら、約40名の参加者を迎へて盛会のうちに終へることができたのでありました。会後の中村・山本・中嶋の歓談もまた、傾蓋故のごとき実に楽しいひとときであったことを報告します。すでに私は書評をサイトに上してしまったところではあり(ちょこっと手を入れました)、終刊号に寄せるべき『昧爽』にまつはる回想を、詩人淺野晃の御霊の冥福をお祈りするとともに、偲ぶ集ひに参加させていただいた喜びにかこつけてここに語る次第です。中村一仁様、山本直人様、そして発起人の先生方、本当にお疲れさまでございました。

 さて翌日は、淺野晃とは日本浪曼派の文化圏をともにした先師田中克己先生のお宅から、遺された日記帳を借り受け、さらに神保町にては大学卒業時よりお世話になってゐます田村書店に御挨拶。席を移してお昼を御馳走になり、通ひ始めて四半世紀、初めて店主の奥平さんから近しく古本の内輪話をお聞かせいただく機会を得て感激しました。宿泊したのは日本橋で、立原道造の生家跡を散歩できましたし、また電話ではありますが、八木憲爾潮流社会長(92)の御元気なお声にも元気づけられて、貴重な上京、月またぎの両日を終始たのしく有意義な時間のうちに過ごすことができました。

 ここにても皆様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

『西征詩』の初刷本

 投稿者:やす  投稿日:2015年 5月20日(水)18時23分19秒
  このたびオークションで入手した梁川星巌の処女詩集『西征詩』下冊のみの端本です。
家蔵本と較べると、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、最初の4丁だけ微妙に版が異なることが分かりました。
まったく同じ部分の丁も、罫線のかすれををよくよく見比べてゆくと、どうやらこのたびの本の方が古いものであるらしいのです。最初の4丁だけかぶせ彫りにした理由とは何でせう。版木を奥付の本屋で分け合ったために起きた、再刷に関はるトラブル処理だったのかもしれません。

さきに、生前最後の詩集となったアンソロジー『近世名家詩鈔』において、安政の大獄前後に刷られた異本について示しましたが、処女詩集においてもマイナーチェンジが行はれてゐたんですね。詩集が広島から出された経緯とともに、新たな謎となりました。


画像を掲げますので興味のある方はごらんください。
 

「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」

 投稿者:やす  投稿日:2015年 5月 1日(金)20時31分17秒
編集済
   成蹊大学日野俊彦先生より紀要「成蹊国文」48号の抜き刷り「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」をお送りいただきました。

 日中の漢詩人同士の交流。江戸時代にも、長崎出島にやってくる多少文事の嗜みのある商賈たちとの交流が、あるにはあったやうです。しかし明治に入って鎖国が解け、日本の漢詩人たちはそれまで自分達の教養・趣味を規定してきた中華文明の実態に直接触れる機会を持つことになります。明治初期の漢詩壇に陳曼壽なる清人の名がしばしば上ることは承知してゐましたが、彼がまとめた中国人による初めての日本人漢詩アンソロジー『日本同人詩選』の実態や、彼が本国での不本意な待遇から逃れてあるひは食ひ詰めて来日した下級官吏の身分であったことなど、知りませんでした。

 西欧列強の帝国主義に翻弄された日中両国の力関係がはっきりするなかで、漢文教養主義といふものはその後の日本において、在野の側からゆっくり瓦解の道をたどってゆくことになります。漢詩が「詩」であるための根源的な音声学を、書物を通じて理屈として学んできた涙ぐましい日本人の営為に対し、もはや本場のマイスターによる添削やお墨付きが必要とされなくなってしまふ事態――それがよりにもよって物・人の交流が実際に始まった明治時代にさうなってしまったといふのは、なんとも皮肉と言はざるを得ません。伝統的な文人生活を彩ってきた漢詩文の威光が色褪せてゆく一方で、青少年の詩的嗜好は西欧に範をとった新興新体詩へと流れてゆく。当路の人間たちがアジアの盟主たるべく和臭の漢文脈で述志をふりかざし続ける一方で、庶民は中国の現状を馬鹿にし、中華文明を骨董視するやうに変化してゆきます。(今日の中国政府が求める「日本が示すべき歴史的反省」といふのも、実はここらあたり上下でねじれた文化面からほぐしてゆかないと意味がないのではないかと私は思ってゐます。)

 しかしながら漢詩の盛況は、頼山陽の登場にはじまり倒幕維新をゴールとする草莽述志の余勢を駆って、当時の日本では依然として、否むしろ明治に入ってしばらくの期間こそ、空前の量的活況を呈してゐたことが『和本入門』のなかでも明らかにされてゐます。そして本国では左程知られてゐた訳でもない陳曼壽に対する我国の歓待ぶりといふのも、両国文化交流における最も幸せな邂逅のひとつ、日本文化が恩恵を蒙った中華文明の当事者に対して直接敬意を払った記念すべきケースであったといってよいのだと思ひます。来日時すでに小原鉄心が亡くなってゐたのは残念ですが、大垣の漢詩檀との交流などふくめ、詳細な分析結果を興味深く拝読させていただきました。


 また池内規行様より「回想の青山光二(抄)」を掲載する『北方人』21号(2015.4.1北方文学研究会発行)の御寄贈に与りました。さきに「月の輪書林古書目録」内に併載された同名原稿の続編です。小説に迂遠な自分には感想など書くことができず歯痒い限りですが、代作依頼や文学賞への応募、はては著書のサクラ購入の依頼などなど、文壇における先生と弟子との間合を書簡における肉声のやりとりを通じて拝見し、生身の小説家の生理に少しばかり触れ得た思ひいたしました。

 あはせてここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

『日夏耿之介の世界』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 4月21日(火)10時15分10秒
編集済
  新刊『日夏耿之介の世界』(井村君江著2015国書刊行会)の読後感をサイトのBookReviewおよびamazonにupしました。(写真は詩人のしかめつら にてない笑)

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『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 3月25日(水)21時38分49秒
編集済
   先日ふと思ひ立って、田中克己先生と杉山平一先生との対談記録(雑誌『文芸広場』昭和59年)を、ホームページに上すべくテキストにおこしてゐた時のことです。対談中、何度となく“同情を禁じえない”といふ態度で話題に上ってゐた、肥下恒夫氏について、なんとなく気になったのでインターネットで検索してゐたら『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』といふ書下ろしの新刊本が、2012年に刊行されてゐることを思ひがけず発見したのです。コギトの名を冠したホームページを運営してをりながら、全く迂闊なことですが、著者の澤村修治といふ方はこれまで全く存じ上げない未知の方でありました。
早速注文して到着したのが肥下氏の御命日前日のこと。一連の行動が御霊に呼ばて行ったもののやうに思はれてならず、祥月命日の一日、粛然とした気持ちで繙いてをりました。

 「政治的なものから意図的にずれようとした・若き不良知識人たち(同24p)」がつどった同人雑誌『コギト』。雑誌を経済的に支へ、編集雑務の一切を引き受け、『コギト』の母ともいふべき役回りを自ら演じたのは、同人中の奇特な地主素封家であった肥下恒夫でした。「協同の営為」に生涯を捧げた彼の運命はしかし、戦後を境に暗転します。

軍の協力者という誤解を含んだ否定項と、地主という戦後改革での明確な否定項をともに引き受けることになった肥下は、一方で繊細な知識人であった。(『悲傷の追想』53p)

 繊細なばかりではない、至って正義感の強い人でありました。
 本書はその悲劇的な最期に報ずるため、御遺族の協力によって得られた新資料をもとに書きおろされた伝記。前半を割いて戦後の後半生に迫った「胸中恒に花あり」(12-119p)を眼目としてゐます。

 農地改革を受け、売渡式の「祝辞」まで書いて手放した土地が、只同然で取り上げられたことより、時代とともに農地以外の貌に変っていったことの方がむしろ彼にとって不本意なものではなかったかといふ指摘(同54p)にはハッとさせられます。自ら鍬を握り、残った土地で始めた農業が立ち行かず、さりとて学校の教員にもなれず(裕福ゆゑ無理に大学を卒業しなかった)、折角得た病院事務の仕事も内部の不正に耐へられず辞めてしまふ。かつての盟友と会ふことにも気後れが生じ始めるといった条りには、彼を自殺に追ひ詰める複線が一本また一本と張られていくやうで、胸に詰まるものを覚えます。

 本書には、既出資料では大妻女子大学紀要にまとまって公開された「肥下恒夫宛保田与重郎書簡」、それから田中克己先生の回想文がしばしば引用されてゐます。が、なんといっても肥下家に遺された日記と、養女里子氏からの聞き書きといふ、フィールドワークの成果が大きい。戦後となって、訪問のたびにお土産を持ってきてくれた田中先生のことを「ニイタカドロップのおっちゃん」と懐かしく回想されるなど、肥下家と親戚関係にあった田中先生とは気の置けない交友が続いてゐた様子を窺はせる箇所も数多見受けられるのを嬉しく拝見しました。 (大阪高校教諭全田忠蔵夫妻それぞれの甥に当たる)

 読みながら、斯様な『コギト』伝を書けるものならば書きたかった自分の菲才を省み、また最晩年の田中先生の知遇を忝くしておきながら、もっといろんなことを聞いておいたらよかったのにと、怠慢の責にも苛まれてゐるところです。

 さうして本書は、「心を盤石の如くおし鎮め」沈黙に甘んじ沈黙を強いた、謎の多い『コギト』の裏方の実像に迫る優れた伝記であると同時に、初期『コギト』に掲載された肥下恒夫の詩・小説・編集後記を併載して、中断された彼の志を留めた作品集を兼ね、さらに『コギト』の実質的な実体であった保田與重郎、その褒貶さだまらぬ文学史的位置に対しても、もはや政治的な思惑から解放され、時代相を客観的に見つめられる世代から突っ込みを入れてゐる優れた保田與重郎論でもあるのが特徴です。といふより、それが後半の論考「協同の営為をめぐって(122-170p)」、さらに巻末に付載された「情念の論理(237-246p)」に至って特化して全開するのです。――いったい「やや翻訳調で自問自答しながら螺旋状に進んで行く(同136p)」、かの悪文(名文)から衒学的要素を剥ぎ取ったところに残るものは何なのか。

筋道を辿って「わかる」ということが、文章にとって、そもそも“いいこと”でも必要なことでもない。「わかる」は正理を強いて抑圧的だ。「わからない」こそ、飛躍がもたらす混沌の自在に開かれる豊饒な言語体験ではないか。――こういった、いささか倒錯的な理解に自分の頭を馴染ませようとしてしまう。これが保田與重郎の「危険な」ところであり、また魅力でもある。(同237p)


 このやうに愛憎意識を語る著者二十年来のモチベーションこそ、本書を著し使めた真の理由であることは間違ひないと思はれるのです。

 正当な理解を遠ざけ、かえって事態をややこしくしてしまうことを、なぜ保田は選択するのか。たとえ誤解に見舞われたとしても、それを余ってあるほどに、概念や範疇で述べることでは到達しないことがらは重要なのだ、と保田は考えていたと思うしかない。(同243p)

 評論対象に「惚れ」こむことを先行的な第一義とし、古典の甲殻を身に纏ひ、同人誌(非商業)精神に開き直ったドグマの城郭上からイロニーの槍を振り翳す。反俗を掲げ、評者と評されるものと共犯関係を築いて時代相に斬り結ばんとする保田與重郎のロマン派評論は、「おおむね、“書き始めてから”、いささか成り行き任せと思われる調子で行われ(243p)」、一種の「憑依」「酩酊」ともいふべき、むしろ詩作に等しいものであることが了知されます。

「真実獲得を昂然と主張する。ひときわ高くから見下ろす。堂々と高みにたつ。高くから見て何が悪いのだ、という開き直りすら保田にはある。その覚悟によって不純を斬り、ひとを殺す(151p)」


 彼はそのやうな覚悟を以て、英雄の日本武尊を、詩人のヘルダーリンを語りました。
本書が刊行される一年ほど前、私は保田與重郎が肥下恒夫に送った最初の著作集『英雄と詩人』の署名本を手に入れました。これ以上考へられないやうな、全くの極美状態で保存された函カバー付の原本を手にした時、私はこれがどのやうに保存されてきたのか、言葉を失ったことを思ひ出します。(画像参照)

「反ディレッタントをいい、真実追究の訴えをしても、それは階級的なものを考えるのではない。真実を明らかにするというのは、左派のいう社会主義リアリズムへの道では断じてない。また、肉親関係とか愛慾相の暴露剔抉から起こる社会的関係といったものでは断じてない。すなわち、自然主義リアリズムのことをいっているのでもない。」(同149p)

 評伝作家としてすでに宮澤賢治や自然主義リアリズムの徳田秋声について単著をものしてゐた著者ですが、肥下恒夫を合せ鏡に見立てたこの度の伝記兼評論の最後に、保田與重郎の思想について「ある部分は間違いなく死滅するが、ある部分はむしろ正当に生き残るであろう。(246p)」と締め括られてゐます。その死滅するのが政治的に、であり、生き残るのが古典として、であることを思へば、さきに当掲示板で紹介した決定版の解釈書『保田與重郎を知る』(2010前田英樹著)と併せて読まれるべき、新しいスタンダードな研究書の登場を、(二年以上も前の刊行ですが)遅まきながら言祝ぎたい気持でいっぱいです。著者が私と同世代1960年生であるところにも起因するのでせう、保田與重郎の文章を分析中(240p)に発せられた「は?」といふ語句の隣に、顔文字(゜Д゜)を頭に思ひ浮かべてゐる自分が居りました。(笑)



 一方、テキストに起こして公開しました田中克己先生と杉山平一先生との対談ですが、雑誌編者の方が語ってゐるやうに、気分屋で好悪のはげしい田中克己先生の“聞き出し”役として、これ以上の人選は考へられず、特に戦前戦中の細々とした人脈事情を、呼び水を注しつつ引き出すことのできるひとは杉山平一先生を措いて居なかったやうに思はれます。機嫌よい日の田中先生ならではのリップサービスや、それも織り込み済みで話を進めてゆかれる杉山先生の大人ぶりが眼前に髣髴とするやうです。

 なかで肥下氏が自殺直前2日ほど前に保田與重郎邸まで愁訴に赴いた日のことが述べられてゐます。これは後日保田夫妻もしくは肥下夫人から田中克己に語られた伝聞ではありますけれども、8日前まで付けられてゐたといふ日記にはその様な記録がないことを確認済の、前述著者の澤村氏が、もしこの対談の一文を読まれてゐたら、との思ひを深くいたしました。保田與重郎は肥下恒夫のお葬式には出席されなかったやうです。今生の別れとなった一日、いったい何が話し合はれたのでありませうか。
 ここには書けませんが、結婚前の保田さんが肥下さんをめぐって田中夫妻を前にして放ったといふ不穏な冗談を耳にしてびっくりしたことがあります。なんでもかんでも、もっといろいろなエピソードを田中先生におたずねして聞き質しておけばよかったと、本当に今更に悔いてゐるのです。

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四字熟語漢詩

 投稿者:やす  投稿日:2015年 3月 7日(土)20時09分30秒
   偶得

身軽言微詩人嘆   身軽言微、詩人の嘆

心広体胖細君頼   心広体胖、細君頼もし(笑)

遠謀深慮能錬胆   遠謀深慮、能く胆を錬り

慎始敬終安天命   慎始敬終、天命に安んぜん


 漢字検定の勉強過程で四字熟語に親しむ機会が多くなりました。さうして戯れに『四字熟語辞典』を繰って、開いたページに載ってゐた熟語を使って漢詩もどきをこしらへてみた訳であります。もとより平仄も脚韻もない「似非漢詩」ですが、四字熟語のお尻に3つ漢字をくっつけるだけでできるので安直この上なく、前半四字を音読すれば語調は頗るよろしい♪ 今回たまたま開いたページで作ってみましたが、同一音から始まることを一種の制約とすれば、図らずも頭韻を踏むことになります(今回は転句をわざと深謀遠慮→遠謀深慮と外してみました)。地口に落ちてしまふ虞の多い日本語で押韻詩をつくることは難しく、そもそも漢詩の脚韻など訓読すれば意味を成さない訳だから、どうでせう、みなさんも川柳レベルの心構へで「四字熟語漢詩」、試してみては如何。

 ちなみにこの詩はわが身に現在差し迫ってゐる危機の憂さを遣ったもの。





【漢字検定の勉強方法】

 といふことで漢字検定1級を受験、頓に難化が取り沙汰されるなか、前回初受験時は2点足らず(合格率6.1%)捲土重来、このたび無事合格を果たしてホッとしてをります。

 たずねられるのは勉強方法ですが、もちろん協会が制定してゐる『漢検漢字辞典』と『漢検四字熟語辞典』に親しむの以外、捷径はないといってよいのでせう。ただし私の場合、『漢字辞典』は覚えるためではなく確かめるために使ひました。

 種類の尠い問題集の中ではリピーターのみなさんが仰言るやうに『本試験型(成美堂出版)』が、手っ取り早く自信を(特に読み問題について)つけるのにはよかったです。もちろん出題者も「過去問さへやれば合格できる資格」に思はれぬやう、これまでの問題集を回避すべく色々知恵を絞って来ます。自分の場合、今や古書でしか出回ってゐない小学館の『蘊蓄字典』など、問題集ではない別の切口からも勉強してみました。

 しかし先づはみっちり取り組むべきは、多くの受験者が仰言るやうに四字熟語の書きとりだったやうに思ひます。覚える際に私が重宝したのは、ネット上にフリーで配布されてゐたimeの四字熟語辞書でした。これを印刷して膨大な単語カードに貼りつけ、できなかったものを残しながら反復して減らしてゆくのです。

 『四字熟語辞典』を片っ端から覚えてゆくのは容易ではありません。当然「1級・準1級」配当に絞り込んだものから覚えてゆく訳ですが、本番では毎回必ず下級クラスの熟語を使って足元を掬ってきます。また「“人名もの”はパスしてよい」といふジンクスももはや反故になったやうです※。このあたりが思案のしどころですが、満点を狙ふ訳ではないから労力の節減を図るのもよいでせう。下級クラスの熟語は後回しにする、次項に述べますが熟字訓は過去問以外のものには当たらない。事実、僻字の極みのやうな地名や動植物名は本当に役立たない知識です。

 さて、そして問題なのが、書き問題の際に毎回のやうに新出語が出てきてリピーターを悩ませてゐるといふ二字熟語(三字熟語)であります。さきの『蘊蓄字典』、大昔に買ったもので誤記も散見されますが、覚える熟語を絞り込んでゆく際の指標としてはなかなか優れてゐると思った次第。

 熟語を覚える際に一番大切なことは2つあります。ひとつは、故事成語もしくはそれに類した定型の用例ごと覚えてしまふことです。しかし『漢検漢字辞典』の見出し語には用例が挙げられてゐません。そして意味も読みも書いてない小見出し部に挙げられたものから出題されることも少なくない。『漢字辞典』を覚えるためではなく確かめるために使ったといふのはそのためであり、『蘊蓄字典』の熟語にはそこのところがちょろちょろっとゴシックで書いてあったりして重宝しました。宣伝してしまったので、もうamazonで1円では買えなくなるかもしれませんね(笑)。

 そしてもうひとつ大切なのは、「偏」ではなく「旁」でグルーピングして覚えて行くといふことです。音順で並べられた『漢検漢字辞典』は、大筋がその趣旨に叶ってゐるのですが、これに特化した辞書はまだ現れて居ません。幸ひなことに、ネット上で篤志家の方が学習用に作成した懇切なブログが公開されてゐて、これは大変役に立ちました。また複数読みがある場合の読みわけの法則も『漢検漢字辞典』には記してないのですが、ブロガーのみなさまが実例を挙げて解説してくれてをり、大変裨益を蒙りました。

 以上、我流ですが漢字検定1級の勉強方法まで。ここ最近の難易度がいつまで続くのかは分かりませんが、新規取得をめざす方が拙サイト訪問者の中に居られましたら御健闘を祈ります。


※同義の四字熟語が存在する場合、消去法と音感から類推することが可能な様に、配慮もされてゐるやうです(例へば今回なら「濫竿充数」を知って居れば「南郭らんすい濫吹」に到達は可能)
 

「薄明の時代の詩人」ブログ ふたたび

 投稿者:やす  投稿日:2015年 2月12日(木)21時06分7秒
編集済
   日経たずして再びブログ「薄明の時代の詩人」において、拙詩が紹介に与りました。詩人冥利に尽きるお言葉を圭復、目頭を熱くしてをります。

 今回の詩も当時その翻訳の雰囲気に酔ひ痴れてゐたドイツロマン派の影響が色濃く、「詩人の夢」は大好きだったハンス・トマの「wiesenlandschaft」といふ1871年の画を下敷きにしたもの。主人公を画家からビーダーマイヤーの詩人に翻案し、その後の姿に、天上の階段を蹈み進む初期ロマン派のヘルダーリンの姿を重ね合はせて私淑を表明した、私にしては長編(?)に属する一篇です。
 もとより孤独や喪失感といふのは憧憬をこととするロマン派詩人の必須条件なのかもしれませんが、矢野様に「たった一人屹立」などとお見立て頂いたのも、実は周りが見えない、ただの孤立点だっただけのこと。しかしながら鬱々とかなしいことばかりに満ちてゐた青春時代をこんな言葉で弔って頂けると、本当に浮かばれる気がいたします。

「2015年は、世界の歴史の分岐の一つとして刻まれるかもしれません。」(「薄明の時代の詩人」2015.2.8)

 海外においては、たとい中立国のスイスにあっても、在留邦人の身の処し方も留意すべきことが増へてゆくかもしれない今日この頃。不穏ないろんなニュースがこちらにも飛び込んで参ります。
 かつては写真家として戦場カメラマンの道に進むことを考へたこともあり、また平和学研究者として、功利主義・拝金物質主義が招来したグローバリズムの問題を取材するために紛争地に赴かうと思ったことも何度もあるといふ矢野様には、このたびの後藤さんをめぐる報道では、身に迫るものがあり一晩眠れなかったほどであったといひます。 今や当事者にもなりつつある日本の現状を踏まへ、くれぐれも御自愛いただけたらと思はずには居られません。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

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