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田中克己日記 昭和24年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 9月10日(木)01時48分7秒
  昭和24年の日記を解説ともupしました。
翌る昭和25年のはじめにかけてが大学の教員生活へと脱皮するひとつの山場。翻刻は続きます。
 
 

田中克己日記 昭和23年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月31日(月)03時08分51秒
編集済
  本日、先師生誕104年。
昭和23年の日記
を、解説ともやうやくupを終へてお祝ひします。
日々の出来事を順番に活字に起してゐるだけなんですが、辛いときの日記にはやはりドラマが感じられます。
次の昭和24年~25年のはじめにかけてがひとつの山場となりさうです。翻刻は続きます。


写真は新発売の読書フィギュア「山本君」 + 付け合はせ(笑)。
 

『杉浦明平暗夜日記1941-1945』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月21日(金)19時45分7秒
編集済
   小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。編者の若杉美智子氏は、個人誌「風の音」にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」“証拠物件”であることもまた、読まずとも分る気がいたします。
さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちのことを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ斯様に口ひびく毒舌を、当時のそれにたち戻り、俯瞰して理解できるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇のヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情に溜飲を下げたい人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、起きてしまった以後の戦争の悲惨さや理不尽さを、文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、同じく皮肉屋で生涯を通した直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。そんな心構へで、あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、結局どのやうなものであったかさへ<tt>生涯口にはされません</tt>でした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」

といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。

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『全釈 拙堂文話』

 投稿者:やす  投稿日:2015年 8月21日(金)00時38分16秒
編集済
   このたび齋藤拙堂翁の玄孫であられる齋藤正和様より、新著『全釈 拙堂文話』の御恵投に与りました。誠にありがたうございました。671ページにも亘る分量に瞠目です。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 津藩の藩儒であり江戸時代の文章家として名を馳せた拙堂の著作については、これまでも齋藤先生の私家版として影印復刻された『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』や、白文のまま翻刻された『鐵研齋詩存』がありましたが、このたびは壮年時代の文章論・随筆博物誌といふべき『拙堂文話』二冊全八巻について、訓読、語釈、そして現代文による丁寧な訳文を付し、所々【余説】を設けて、中国古典の造詣が深かった江戸時代知識人の考証の機微にまで触れる解説がなされてをります。巻末に決定稿ともいふべき年譜を付録した浩瀚な一冊は、齋藤先生がさきに刊行されました『齋藤拙堂傳』(齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p)とならんで、正にこれまで積んでこられた御研鑽の大集成といふべきでありませう。
 その御苦労を偲びますととともに、労作を墓前に御報告叶った達成感もまた如何にと、手にした本冊の重みにふかく感じ入りました。
 心より御出版のお慶びを申し述べます。

 なほ『拙堂文話』は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」に原本画像のpdfが公開されてをります。ですからこれをタブレットなどに取り込み、並べて参照するのも、今の時代ならではの、和本の雰囲気を一緒に味はふ乙な読み方かもしれません。
 なにしろ孟子、韓愈をはじめ、その多くが中国古典の素養を前提とした作文です。なまなかに紹介さへできぬ内容ながら、ときをり息抜きのやうにみられる随筆的箇所など、たとへば拙堂の地元、伊勢の風俗を記した現代訳文をみつけては、その訓読にあたり、さらにその原本の書影にあたってみる、といった反対の読み方で楽しんでみたいと思ひます。

 拙サイトも管理人の不徳のため、地元漢詩人のコンテンツをゆるゆる充実させる計画が遂に狂ひ、この夏はお尻に火のついたやうな感じで、先師の遺した日記翻刻に専心してゐる、といった塩梅です。御本はいづれゆっくり拝読させていただきますが、とりいそぎ御礼一筆、匆卒なる喧伝を草させていただきます。
 ありがたうございました。


 はじめに            齋藤正和

 第二次世界大戦の戦前、中等学校では漢文が独立教科であった。その教科書には齋藤拙堂の『月瀬記勝』「梅渓遊記」や「岐蘇川を下るの記」が載っていた。だが拙堂は名文家といわれることを好まず、自己の本領はあくまで経世済民の仕事にあると考えた。文章は経世と表裏一体をなすが故に重視した。拙堂にとって文章は愉しむものではなく仕事そのものであった。拙堂は武士である。故に文武一如を説いた。ここに訳出した『拙堂文話』は武士のために書いた文章の指南書であり、それは同時に経世の指南書でもある。魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事」という語こそ拙堂の文章観であったに違いない。文武は一如であるが故に文章は高雅であり気塊あるものでなければならない。『文話』はその視点で文章の盛衰がいかに国家の運に関わるかを述べている。文章は国家の品格を表すものと言える。そこのところをこの書から読み取つていただきたいと願うものである。
 なお、拙堂は江戸後期、寛政九年(一七九七)に生まれ、慶応元年(一八六五)に没した。本書の刊行は拙堂没後百五十年を記念するものである。



『全釈 拙堂文話』齋藤拙堂撰 ; 齋藤正和訳註, 明徳出版社, 2015年07月刊行,  671p 8000円

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田中克己日記 昭和21年 22年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 7月23日(木)02時16分39秒
編集済
  田中克己日記、昭和21年 22年の翻刻を完了しました。

またノート本位ではなく、年で編成し直し、
解説を各年の冒頭に付する形に改めることにしました。

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田中克己日記 昭和19年 20年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 7月 2日(木)14時43分57秒
編集済
   田中克己日記、昭和19年 20年の翻刻を完了しました。 これで戦争中の昭和18年から20年3月出征までの日記が出そろひました。合せて本冊画像をPDFにて公開します。翻刻ミスなどお気付きの向きには御一報いただけましたら幸甚です。

 それ以前の詩作日記「夜光雲」についても、今回本冊画像すべてをPDFにて公開することとしました。
このほか昭和17年の徴用時代の覚え書きノートがありますが、メモ要素が強く、翻刻できる部分がすくないので、こちらは画像のみでご覧いただきます。

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田中克己日記 昭和18年

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月19日(金)01時46分37秒
編集済
   田中克己日記、昭和18年分の翻刻を完了しました。

日記に出てくる人々はこんな方々。

池内宏、石浜純太郎、齋藤茂吉、小谷秀三、平野義太郎、堀口太平、佐々木英之助、和田清、保田與重郎、小高根二郎、肥下恒夫、桑原武夫、筒井薄郎、稲垣浩邦、松本善海、竹内好、長尾良、白鳥清、竹中郁、川久保悌郎、幣原坦、小高根太郎、田代継男、山川弘至、赤羽尚志(赤木健介[伊豆公夫])、田中清次郎、幼方直吉、小野忍氏等、野原四郎、若林つや、小山正孝、鈴木亨、稲垣浩邦、藤田福夫、信夫清三郎、塚山勇三、田代覚一郎、谷川新之輔、中尾光子、美堂正義、船越章、稲垣浩邦、江本義男、伊藤信吉、伊東静雄、堀辰雄、長野敏一、森亮、新藤千恵子、丸山薫、阪本越郎、呉茂一、津村信夫、沢西健、神保光太郎、五十嵐、野田又男、立野継男、本荘健男、中島栄次郎、山田鷹夫、野長瀬正夫、伊藤佐喜雄、平田内蔵吉、辻森秀英、坂入喜之助、吉野弓亮、若松惣一郎、藤原繁雄、大垣国司、渡辺曠彦、白鳥清、鈴木朝英、西川満、信夫清三郎、渡辺曠彦、浅野忠允、和田賢代、稲葉健吉、中野清見、丸三郎、赤川草夫、古田篤、細川宗平、清水文雄、蓮田善明、岩井大慧、野村尚吾、本位田昇、三好達治、木村宙平、倉田敬之助(薬師寺守)、市古宙三、阿部知二、坂入正之助、北川正明、吉野清、山田新之輔、石田幹之助、古沢安次郎、青山虎之助、杉浦正一郎、杉森久英、植村清二、楊井克巳、岩村忍、、中河与一、田辺東司、井上幸治、山本達郎、太田七郎、亀井勝一郎、今吉敏夫、村上正二、大達茂雄、北村旭、増田晃、篠原敏雄、北町一郎、荒木猛(釈十三郎)、宮木喜久雄、大久保孝次、野原四郎、中島敏、村田幸三郎、中野繁夫、田中城平、佐々木六郎、村上菊一郎、渡辺実定、本多喜久子、中沢金一郎、島田正郎、秋岡博、石山五郎、藤田久一、福永英二、牧野忠雄、服部四郎、木山捷平、小田嶽夫、大塩麟太郎、三島英雄、野村正良、和田久誌、外村繁、白鳥芳郎、北村西望、北條城、長与善郎、林富士馬、坂口安吾・・・。

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田中克己日記

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月11日(木)20時27分22秒
   さきに報告しました、阿佐ヶ谷の御実家よりお借りした田中克己先生の膨大な日記帳ですが、翻刻を開始しました。

昭和4-11年 (『夜光雲』ノート) 9冊 翻刻済
昭和17年 スマトラ記 1冊
昭和18-19年 1冊
昭和20-29年 10冊
昭和30-39年 22冊
昭和40-49年 16冊
昭和50-59年 13冊
昭和60年-平成3年 10冊

 全部で82冊、段ボールひと箱の分量があります(「四季」より1冊多いのだ。笑)。走り書きされた筆跡の判読はたいへんですが、『夜光雲』ノート以来、再び先師の実録とむき合ふライフワークの時間が与へられたといふことであります。昨年から強いられて居る職場からの処遇(いづれお話する機会もありませう)も、ここは「天の差配」と考へ、じっくり向き合ってゆかうと思ってゐます。

 日記は、すでに翻刻公刊済の『夜光雲』については、画像をとりこみ公開する予定です(乞御指摘誤記)。日々の出来事が詳細に記録された戦後の日記については、文学外のプライバシーにも及んでをり、すべてをそのまま翻刻することは考へてをりません。

 しかし矚目のニュースとともに、文事に関はるものを拾ひ、列記してゆくだけでも、戦後関西詩壇および、日本浪曼派文化圏の交流証言として得難い資料となるには違ひなく、また詩人田中克己の東洋史学者としての面目が、詳細な読書記録を通じて私たち一般の人間にも明らかになるのではと期待してゐます。

 手始めにもっとも緊迫した記述を含む、昭和20年の日記を翻刻してみました。このあと出征期間をはさみ、敗戦を「戦犯」として迎へることになった詩人は、五人の家族を背負って(日記は家族の記録でもあります)、その後の日本の混乱期と復興期を、研究者として生計をたてつつ、青春を翻弄した詩の余香と心の平安を求めたキリスト教とにささへられて生きてゆくことになります。戦後70年を迎へる今年、激動の近現代史を生きぬいた市井の一知識人の視点・報告から、私たちが感じ取るべきものも少なくないのではないでせうか。更新は私生活が折れない程度にすすめて参ります。気長にお待ちください。

 借用に関はり御配慮を賜りました著作権継承者の美紀子様、そして御長女の依子様には、ここにてもあつく御礼を申し述べます。久しぶりに訪れた阿佐ヶ谷の、変はらぬ路地のたたずまひがあまりになつかしく、現在自らの境遇を省みては、初めて先生の門を敲いた当時のことを思ひ起こし、しばし感慨にふけってしまひました。ありがたうございました。
 

「淺野晃先生をしのぶ集い」

 投稿者:やす  投稿日:2015年 6月 4日(木)00時50分59秒
編集済
   偲ぶべき故人の膨大な著作を、詩集以外は碌に読んでゐません。生前、一方的に拙詩集を送りつけ御返事を頂いたとうそぶいてゐたといふだけで、出席者のどなたにもお会ひしたこともない文学の集まりに、よく出席などできたねと仮に言はれたとしても反す言葉はないのであります(えばっちゃいけない)。

 先週、五月の晦日に東京竹芝のホテルで行われた「淺野晃先生をしのぶ集い」に、それなら私のやうな人間がなぜ参加したのかといへば、ひとへに中村一仁氏に御挨拶さしあげたかったから。同人雑誌『昧爽』の創刊時より十年にも及ぶ書簡(メール)と寄贈とのやりとりをかたじけなくした中村さんが、私淑された日本浪曼派の文学者である淺野晃の『詩文集』を独力で編集・刊行し、このたびは自身の研究活動に一区切りをつけるため、詩人の御遺族や、立正大学の教へ子、文学関係者・研究者にひろく働きかけて斯様な催し物を企画した、その御苦労をどうしてもお会ひして直接ねぎらひたかったからであります。

 『淺野晃詩文集』の刊行は2011年のことでしたが、今回の集まりは、私の中では、だから少々遅れた詩文集の出版記念会に他ならないものでありました。同じ思ひで臨んだ参会者も少なくなかったのではないでせうか。

 近代文学における伝統の問題をひろく論じてきた文芸同人誌『昧爽』は、中村一仁氏と山本直人氏との共同編集で、創刊準備号を2003年6月に発行して以後、年に2~3冊を発行し続け、2009年12月に19号を出してからは久しく休刊してゐます。ことさら「休刊」と記すのは20号で終刊する旨をあらかじめ宣言してゐたからですが、本来は、『淺野晃詩文集』の出版を祝する記念号ととして、一緒に出される予定のものと思ってゐました。ところが中村さんの故郷である北海道の公的資料室に収められた淺野晃の関係資料の調査が、町村合併によって金銭的に行き詰まり、また詩人の最初の妻で戦前共産主義の殉教者である伊藤千代子を、転向した夫から切り離して顕彰しようとする地元文学グループの政治的思惑に制せられて、この同時進行の遠大な計画には暗雲が立ち込めた。すくなくとも私には当時そのやうに観じられたのでありました。

 中村さんらしいポレミックな刊行予告文にも一抹の不安を抱いた私は、お手紙でこそ引き続き進捗状況をお知らせいただいてゐたものの、2010年、詩人歿後二十年の命日に『詩文集』が間に合はず、年末に発行予定の20号も出ず、もしや計画は広げられたまま頓挫したのではなからうか、と思ひはじめた矢先のことでありました。東日本大震災の直後、700ページにもおよぶ『詩文集』が送られてきたときには、全く意表を突かれた思ひでしばし大冊を前にして呆然とするばかり。しかしその感慨は、震災を原因とした小火によって中村さんのアパートと蔵書が甚大な被害に遭ったことを知るに至り、痛切なものに変化したのでありました。

 あれから五年が経ちました。ひょんなことから私たちが三人ともTwitterやFacebookを始めたことを知り、近しく情報を共有する間柄にはなりましたけれど、中村さんは『詩文集』刊行の反応について、やはりおもはしくないとの感想をお持ちの様子。さきの地元文学者たちに対する思ひも強ければ、しばしば既存文学に対する懐疑と苛立ちがぶつけられた「つぶやき」に接しては心配もしたことでした。このたび思ひ切って雑誌の終刊号のことをお訊ねしたところ、休刊の間が空きすぎてしまった旨を釈明されました。とは言ふものの今回の「偲ぶ集い」は中村さんの周旋によって実現にこぎつけ、当日も御遺族のほか、文芸評論家の桶谷秀昭氏をはじめ、ネット上で詩人の聞書きを公開されてゐる野乃宮紀子氏ら、約40名の参加者を迎へて盛会のうちに終へることができたのでありました。会後の中村・山本・中嶋の歓談もまた、傾蓋故のごとき実に楽しいひとときであったことを報告します。すでに私は書評をサイトに上してしまったところではあり(ちょこっと手を入れました)、終刊号に寄せるべき『昧爽』にまつはる回想を、詩人淺野晃の御霊の冥福をお祈りするとともに、偲ぶ集ひに参加させていただいた喜びにかこつけてここに語る次第です。中村一仁様、山本直人様、そして発起人の先生方、本当にお疲れさまでございました。

 さて翌日は、淺野晃とは日本浪曼派の文化圏をともにした先師田中克己先生のお宅から、遺された日記帳を借り受け、さらに神保町にては大学卒業時よりお世話になってゐます田村書店に御挨拶。席を移してお昼を御馳走になり、通ひ始めて四半世紀、初めて店主の奥平さんから近しく古本の内輪話をお聞かせいただく機会を得て感激しました。宿泊したのは日本橋で、立原道造の生家跡を散歩できましたし、また電話ではありますが、八木憲爾潮流社会長(92)の御元気なお声にも元気づけられて、貴重な上京、月またぎの両日を終始たのしく有意義な時間のうちに過ごすことができました。

 ここにても皆様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

『西征詩』の初刷本

 投稿者:やす  投稿日:2015年 5月20日(水)18時23分19秒
  このたびオークションで入手した梁川星巌の処女詩集『西征詩』下冊のみの端本です。
家蔵本と較べると、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、最初の4丁だけ微妙に版が異なることが分かりました。
まったく同じ部分の丁も、罫線のかすれををよくよく見比べてゆくと、どうやらこのたびの本の方が古いものであるらしいのです。最初の4丁だけかぶせ彫りにした理由とは何でせう。版木を奥付の本屋で分け合ったために起きた、再刷に関はるトラブル処理だったのかもしれません。

さきに、生前最後の詩集となったアンソロジー『近世名家詩鈔』において、安政の大獄前後に刷られた異本について示しましたが、処女詩集においてもマイナーチェンジが行はれてゐたんですね。詩集が広島から出された経緯とともに、新たな謎となりました。


画像を掲げますので興味のある方はごらんください。
 

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