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『感泣亭秋報』9号 『朔』178号 小山常子追悼号

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月11日(木)19時32分27秒
   詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。

『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方

 詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。

 そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。

 斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。

 一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。

「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p

 生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 また今号の『感泣亭秋報』について補足します。このたびは渡邊啓史氏、蓜島亘氏の労作原稿を得て倍増し、資料的価値満載の150ページを超える大冊の文学研究雑誌となってゐます。渡邊氏は詩人小山正孝の一作一作の業績ごとに肉迫する論考を第4詩集『散ル木ノ葉』に於いて展開。一方の蓜島氏は戦中戦後の文芸雑誌人脈を出版面から実に細かく一次資料に当って描き出し、連載3回目のこのたびは、雨後の筍の如く林立しては淘汰されていった終戦直後の出版界の混乱に、抒情派の旗揚げもまた翻弄される様子が述べられてゐます。新雑誌の盟主に『四季』の名前とともに担ぎ出されんとする堀辰雄をめぐり、あくまで抒情詩の旗頭になってほしいと願ふ四季派第二世代である小山正孝・野村英夫らの若い詩人たち、文学者であるコネクションを発揮して頭角を露さんとする新進出版社主の角川源義、そして両者の間にあって病床の堀辰雄のスポークスマンを買って出た親友の神西清、その三者の思惑が一致せず、堀辰雄晩年の思案顔も髣髴されるやうな状況が、正確を期する記述と小山家に残された書翰によって明らかにされてをります。小山正孝は結局『四季』ではなく、1号で終った『胡桃』といふ雑誌を編集することになるのですが、四季派の抒情詩人として出版に携はった、例へば稲葉健吉といったマイナーポエットなども今回は紹介されてゐます。戦後しばらくの抒情詩陣営の活況を、資料によって相関関係とともに焙り出してゆく蓜島氏らしい実証作業は、現代詩一辺倒の詩史の隙間を埋めるものとして注目に値します。

 とりいそぎの御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 
 

松本健一さんの訃報

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月29日(土)12時37分9秒
   松本健一さんの訃が報じられた。

 先師の詩業『田中克己詩集』を、たった300冊しか刷ってゐないにも拘らず中央雑誌の書評欄で紹介して下さったのは松本健一先生だけでした。

 また小高根二郎氏による浩瀚な評伝が出された後、誰も続いて評する者のなかった蓮田善明について、詩人的側面を切り捨てずに論じた単行本を著すなど、日本浪曼派の文学に深い理解を寄せられる当代一の評論家が、折しも時の民主党政権の顧問に迎へ入れられた時には、吃驚もしたことでした。

 昔、海のものとも山のものとも判らぬ無名の若者が送り付けたペラペラの詩集に対し御感想を賜ったこと、忘れません。
 心より御冥福をお祈り申し上げます。
 

「薄明の時代の詩人」

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月12日(水)21時11分39秒
  「薄明の時代の詩人」 スイス在住、写真家にして詩人でもあるschale様のブログを紹介いたします。

 まづはアルプスの山稜や高原、極北の地勢を捉へた風景写真の息を呑むやうな美しさに瞠目です。合せて詩と平和に関する断章が、実存主義に列なる詩人哲学者たちをトリビュートしながら綴られてゐるのに圧倒されました。タイトルはヘルダーリンを評したハイデガーの言葉「乏しき時代の詩人」から。
 驚いたのは、戦後文壇から「日本浪曼派」の中心人物として悪罵の限りを浴びて抹殺された感のある評論家、芳賀檀氏晩年の謦咳に接されたschale様、先師の貴族的精神に対する誤解を釈くべく、ネット上で擁護されてゐることでした。それも政治思想によるのでなく、晩年に至るまで抒情を重んじた思索する詩人としての姿を掲げてをられてゐるのを拝見して、御挨拶さしあげたい方だなと常々思ってをりました。このたび拙詩集をお送りすることが叶って、懇篤なご感想をいただくと共に同庚であることにも聞き及んで、大変励まされてをります。


 また酒田の加藤千晴詩集刊行会、齋藤智様よりは、現在酒田市立資料館で開催中の「吉野弘追悼展」に付随して設けられた、詩人加藤千晴を紹介する小コーナーについて、報告とご案内のお便りをいただきました。こちらは失明によって文字通りの「薄明の世界」を、詩を書くことのみを支へにして生きた四季派詩人ですが、在郷詩人の方々により、この機に合せて顕彰されてゐることを嬉しく思ひました。


 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  (写真はすべて齋藤智様より)
 

舟山逸子散文集『草の花』

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月11日(火)21時08分59秒
   新詩集『夢みる波の』に続き、はじめての散文集『草の花』を、関西四季の会の先輩、舟山逸子様よりお送りいただきました。御刊行のお慶び、そしてふたたびの恵投に与りました御礼をここにても厚く申し上げます。

 先輩舟山さんはわたしよりもうひと世代上、第4次復刊「四季」をリアルタイムで体験された投稿世代にて、ここには「四季」終刊を契機に関西四季の会を興され、本格的に詩作を始められた1970年代から折に触れてものされた散文の粋が収められてゐます。乙女心が映える瑞々しい初期文章はもちろんですが、詩人必ずしも詩情を展ぶるに韻文に限ったものでないこと、ことにも舟山さんの詩人たる特長はむしろ散文の語り口に於いて顕著であること、かうして纏められると一層はっきりするやうな気がいたします。清楚で内省的で、地に足の付いた誠実な心情の吐露は、その手際がまた杉山先生を例に出すなら「手段がそのまま目的」であります。即ち「文は人なり」といふことに尽きる訳ですけれども、書きはじめられた頃の文章から些かの変りもない「操」「育ちの良さ」といった、実際に舟山さんに会った人がやはり同じく感じられるであらう印象に重ね合はせては、また驚いたことでありました。

 第一部の創作エッセイでは、詩人が得意とする美術館探訪エッセイの嚆矢といふべき、碌山美術館の回想を叙した冒頭の一文をはじめ、若くして逝った先考を追慕した作品、花弁を呑み込まうとしては吐き出してしまふ鯉に託した切ない短編などにこころ打たれます。
 対して第二部の詩人論には、これまで単発で発表されたままの優れた立原道造論・杉山平一論がまとめて収められてをり、昭和期の最良の読者から眺められた視点が、そのまま同時代の詩人達に同じ書き手の視線から援用されるところにもあらたな発見を認めます。

「視野の限界が映画の芸術性を支えている。」253p「「型」の肯定は杉山平一氏の特質の一つではないだろうか。」252p
「興味深いのは、この「隱す」ということが、すっかり溶けこんで混じり合ってしまうということでは決してない、ということである。(中略) 存在そのものを消しはしない。(中略) その存在のありようは、強い自負心に裏打ちされているように思われる。」257p


 これを読まれた杉山先生の喜びが手に取るやうに分かるやうな評言に、思はず鉛筆を引いてしまひます。


「私は信じる。「うそ」のなかの「ほんたう」こそが、文学の真実の世界であり、それは常に「ほんとうらしいうそ」であるかもしれぬ現実世界とせめぎ合っていると。」185p
「「夢をみた」と詩人がいうとき、詩人は決して眠ってなどいない。目を閉じてなどいない。くっきりと目ざめていて、その「夢」をみているのである。」207p


 詩人の成立背景を余すところなく語ってゐる点、そして「四季」の詩人達に私淑された影響(成果)が、当時昭和40年代の現代詩ブームが与へた影響よりも、 散文であるためよりはっきりと刻印されてゐるといふ意味においても、舟山逸子の抒情詩人を一番に証する一冊として語られるものになるのではないでせうか。

舟山逸子散文集『草の花』2014.11.1 編集工房ノア刊行 285p 2,500円 isbn:9784892712159
 

「昭和十年代 鳥取のモダニズム詩運動」

 投稿者:やす  投稿日:2014年10月13日(月)13時53分17秒
   永年モダニズム詩人荘原照子を探索してこられた手皮小四郎様より、同人誌『菱』187号の御寄贈に与りました。
 巻頭に掲げられた小谷達樹氏の御遺稿の8ページ、このあとハイブロウな読書家に人気のある歌人塚本邦雄がらみのお話に続く筈だったといふことで、続編が書かれなかったことが残念でありますが、詩人であった先君、小谷五郎(安田吾朗)が関はった、貴重な戦前の地方詩史の発掘紹介がなされたお慶びを、お悔やみとともに申し上げます。

 小谷五郎氏は現在、鳥取地方の郷土史家として名を残されてゐるやうですが、戦前に発刊されたといふ詩誌『狙撃兵』『ルセルセrecherche』から抄出された、安西冬衛テイストの作品をみるかぎり、シュールレアリズムがかった盟友清水達(清水利雄)氏のものよりも凝縮された抒情がこめられてゐて、詩集を刊行しても反応がなかったことに落胆し画業に向かったともありましたが、斬新な装釘意匠をものする才能ともに残念なことに感じられました。

 閑日の構成
                    小谷五郎

要塞の午後M大尉の私室で麻雀は行はれた。
赤い三角旗のもとで少女は十六才であると言ふことを発見した哨兵はゐた。
U河附近の図上に帰ってこない騎兵斥候。
その日は砲術家のゲミア軍曹が大尉の夫人の眼を気にかけてゐたのでたびたび牌を投げ出してゐた。

                                      (「狙撃兵」2号)


 近視で肋膜の前歴もあったためか戦争にはとられなかったやうですが、地方の師範学校出身の先生ともなれば、そうそう思想的な進取の気性を標榜し続けることも難しかったでせうし、清水氏のやうに軛を嫌って上京することも、おそらく本来詩人の稟質に叶ふものではなかったのだと思ひます。その処女詩集だってそもそも何冊刷って配られたものか、『歴程』といふタイトルの詩集は小谷五郎・安田吾朗いづれの名義でも国会図書館ほか国内の図書館に登録がありません。(一方昭和十年代の西日本同人誌界を風靡したアンデパンダン誌「日本詩壇」から出された清水氏の詩集『航海』は国会図書館で確認できるやうです。) 手皮様が、無念に斃れた達樹氏の略歴を記されましたが、当の詩人の略歴を御子息の手で書き遺して頂きたかったものと、せめて詩集の書影・書誌概略なりとも知ることができたら、これは拙サイト管理者としても残念に思はれたことであります。

 地方に隠棲して郷土史家の道を歩まれたみちゆきは、戦前最後の中原中也賞を受賞しながら詩筆を断った、当地方の平岡潤を髣髴させるものがあります。以下に手皮様の紹介文より経緯について引きます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「確か昭和41年頃のことと思うが、部員の話題が塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』に及んだ際、家にあるよと言って、翌日持ってきた。部員に鳥取西高の短歌誌『青炎』同人も居て、120部限定のこの稀観歌集を熱心に書き写す者もあった。『水葬物語』は塚本邦雄から小谷の父、小谷五郎へ献本された一冊だった。
 小谷五郎は『狙撃兵』『ルセルセ』を編集発行した後、十年の空白を経て、十歳年少の杉原一司と避遁し、戦後『花軸』を創刊した。小谷にとって〈前衛の歴史を創る詩徒〉の相手が、上京した清水達に替わって杉原一司になったわけである。杉原は八東川対岸の若者で、前川佐美雄の『日本歌人』(当時は『オレンヂ』)に属する俊秀だった。
 昭和23年春、『花軸』が終刊すると、杉原は〈前衛の歴史を創る〉伴走者に『オレンヂ』の塚本邦雄を選び、『メトード』を創刊。 『メトード』全7冊中11冊に小谷五郎が寄稿しており、これらのことが背景にあって、塚本は小谷に『水葬物語』を贈ったのである。

 小谷五郎には多くの著作があり、没後編まれた『小谷五郎集成(文学篇)』もあるが、全作品を網羅した詳細な書誌はなかった。ぼくはかねてからこの書誌の作成と、『狙撃兵』から『メトード』更には『水葬物語』へと流入する八東川畔のモダニズム文学の系譜を纏めるべきだと言い募ってきた。
 小谷達樹がこれに応えて取りかかったとき、彼はすでに病床にあった。二稿辺りの原稿の隅には、もう頭が回らないと震える筆跡の添え書きを残している。小谷は遠のく意識に自らの頬を打ちながら、この前篇を仕上げて逝った。無念であるが、これが彼の命の最後の華と思えば感堪え難いものがある。」
                                                    (「小谷達樹遺稿一件」31p)


『菱』187号 2014.10.1 詩誌「菱」の会発行 56p  500円
 

リルユール

 投稿者:やす  投稿日:2014年 9月24日(水)07時25分3秒
編集済
  フランスに10日間ほど行ってきました。20年ぶりの海外旅行です。写真はFacebookにupしました。

さて、古本愛好家としてパリの古本屋さんや古書市にも行ったは行ったんですが、所詮言葉が分からないのだからどうといういふこともありません(笑)。
探してゐたドイツ人画家ハンス・トマの画集はみつからず(ここはフランスですからね)、またフランスで一番のおきにいりの詩人フランシス・ジャムの古書も、メモ帳をみせつつ訊ねてはみましたが市にはないやうでありました。(詩が一般庶民の生活に根づいてゐるといふフランスでも今や四季派みたいのは人気がないのかな。)

せめてもの旅の記念にと、美しい革装の袖珍本など左見右見するうち、やがて蚤の市で手に取った一冊の背表紙に目が。『Pierre Lafue. La France perdue et retrouvée1927』理由は写真の通り、日夏耿之介の詩集『黒衣聖母』を彷彿させたからでした(背の褪せ方がまた 笑)。
内容もよくわからぬまま求めたのですが、どうやら元は並装本で装釘をし直したもの。並製の背をそのまま遊び紙に残してあるところがなんともフランスらしく「リルユール」文化を感じた次第であります。

ここではフランシス・ジャムの本(評論) 『Armand Godoy. A Francis Jammes1939』もみつかりました。もっていったもののどう処分したら分からなくなって困ってゐた拙詩集を進呈したら、笑って二冊を値引きして頂きました。御主人ありがたうございます。訳してもらふことになる知り合ひの日本人さんにもよろしく!
 

舟山逸子詩集『夢みる波の』

 投稿者:やす  投稿日:2014年 8月24日(日)23時12分2秒
   まもなく創刊100号を迎へる季刊同人詩誌「季」の旧き先輩、舟山逸子様より新詩集『夢みる波の』の御恵投に与りました。ここにても御出版のお慶びを申し上げます。
前回の素晴らしい装釘の詩集『夏草拾遺』(1987年)から、早や四半世紀が経ちます(当時は活字本でした)。あれから以降の作品を春夏秋冬、毎回ぽつんぽつんと拝見してきたわけになるのですが、今回かうして一冊にまとめられてみると、淡い色調ながら生きる悲しみが主調低音となって響いてゐることにあらためて驚き、抒情的な滑空を回想のうちに示してみせてゐるこの一冊には、前後も無く
「長い間心にかかっていた古い詩編にやっと場所を与えることができました。」
と、著者にとって何か心の荷物を下ろしたやうな呟きを記した紙片が添へられてゐるのでした。

 けだし杉山平一先生直系のエスプリあり、散文で書かれた海外美術館を巡るスケッチあり。しかし舟山さんの詩の個性はどちらかといへば、やはりエスプリといふより、母性とは異なった女性ならではの語り口、その優しさそのものにあるやうな気がしてをります。現代詩に疎い私は、それを誰それになぞらへたり、また独擅場の語り口であるとも自信を以て讃へることができないのが歯がゆいところ。わが詩的出発の際には矢野敏行大兄とともに姉のやうに見守り励まして下さった、その思ひ出もいまだに当時のままに、このたびは私好みの一篇を抄出して紹介に代へさせて頂きます。ありがたうございました。

  五月

五月の 若葉をたたいた
雨はあがって
ひろがりはじめる青空
草の匂いの濃い森のなかでは
淀んだ池の葦のあいだを
一匹の光る蛇が 首をたてて
泳いで行く


舟山逸子詩集『夢みる波の』2014.9.1 編集工房ノア刊行 75p \2,000 isbn:9784892712142
 

連日溽暑

 投稿者:やす  投稿日:2014年 8月18日(月)16時35分26秒
  休暇後半も引続き修養中。  

『桃の会だより』17号

 投稿者:やす  投稿日:2014年 7月11日(金)20時40分59秒
 

 いつも頂いてゐる『桃の会だより』ですが、前号に続いて17号も主宰者山川京子女史を偲び奉る特集となりました。葬儀後初の歌会での詠草と回想は、それぞれ皆さんの哀悼・思慕・尊崇の想ひに満ち、時に曠世の女傑でもあった京子氏その人となりを伝へる消息にも触れ得て、嬉しく拝読しました。
 亡くなる前夜、姪御の赤木圭子氏の呼びかけに対し、応へるでもなく毅然と発せられた「大丈夫よ」といふ最期になった言葉のこと。ほかにも「どして百歳に限るの、百歳以上は生かしてくれないの?」「私に事へるのでなく学ぶのよ。」「甘えるじゃないの。」などなど、煥発される気丈な立ち居振る舞ひの一々が、細やかなことも決して疎かにされなかった几帳面と配慮とを一度でも経験して相対した人ならば、まことになつかしく髣髴されるに違ひありません。
 そして昨年、郡上高鷲に建てられた歌碑のこと。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 「とこしへの願ひ」とは何か。会員からの質問には「そのうちわかるわよ」なんて嘯かれた由。その真意を結社の各自銘々が心にひきとり、これからも歌の道をあゆんでゆかれることになるのでありませう。和歌はたしかに亡き夫であった詩人山川弘至と京子氏との「心の通ひ路」でありました。しかし私は野田安平氏の「とこしへの願ひについて」といふ一文にありました、「ねがひ」とは自身の没後にも夫君を追慕し続けるといふやうな、京子氏個人の願ひといふより、何かを指し示してゐるものではないか、その標識として自身の歌碑を建立せよといふ周囲からの懇請をしぶしぶ承知されたのだ、といふ卓見に同意します。

『日本創生叙事詩』は、原稿を確認してもなぜか「桃」の章※が脱落してゐます。以前、先生にお尋ねしましたが、「桃の会」発足時、そのことに結びつける意識はなかったとのことです。しかし結果として、先生は、父君の原著の脱漏を六十年にわたって埋め続けられたことになります。そして未完の長歌の最後に、美しく反歌を添へて一巻を完成なされた。そのやうに思へてなりません。12p (※古事記でイザナキが黄泉軍から逃れる条り)

 日本浪曼派の衣鉢を継ぐ短歌結社といふと、右翼か何かの集まりのやうに思はれる向きもあるかもしれません。しかし山川弘至記念館資料の整理に尽力、今後の運営についても影響されると思はれます野田氏は、靖国神社の権禰宜でありますがキリスト教の薫陶を家庭で受けた謹飭の人であり、姪御の赤木氏は英語の先生、また京子氏自身も戦前日本で迫害にさらされた大本教の司祭になられたのでした。「文学(文士)とは行儀の悪いものである」といふ世に行はれてゐる観念、その対極に立つやうな桃の会の「歌の道」そして大和魂の精神は、ますらをぶりを掲げた山川弘至を愛しむ山川京子のたおやめぶりを本義とするかぎり、俗念の赴くまま自己表現することを誡めながらも、決して表現の自由や平和の大切さを蔑ろにするものでない。むしろその反対だと、それだけは堅く言へるのではないでせうか。

 

不機嫌な抒情詩 小野十三郎

 投稿者:やす  投稿日:2014年 7月11日(金)20時34分1秒
   田舎のごった煮のイメージがある詩誌「歴程」、なかでもグループのしたたかな体臭を感じさせることで筆頭に挙げられる詩人に小野十三郎がある。反権力反権威の姿勢を貫いた経歴によって戦後詩壇に返り咲いた。草野心平を東日本の雄とするならば、さしずめ彼などは関西に君臨して現代詩を牽引する役目を担った旧世代詩人のリーダーと思しい。温和な四季派抒情詩人たちにとっては、謂はば敵陣の巨擘であったけれども、職場の帝塚山短期大学にあっては田中克己先生の同僚として一目置きあひ、同じく文学部で教鞭を執られた杉山平一先生もま た尊敬を以て両者間をとりもたれた時期を持ってゐる。在野にあっては大阪文学学校の開設に関り、ながらく初代校長を務めた。

 その小野十三郎の戦前刊行に係る詩集『古い世界の上に』『大阪』を入手した。興味があらたに湧いたといふのではなく、以前に較べて入手可能な価格で二冊が相次いで現れたのだ。これもまた出会ひである。ことにも第2詩集『古い世界の上に』 (昭和9年 解放文化連盟)は、コミュニズムに親炙する内容とは凡そマッチしない、キュートな表紙が魅力的な一冊。草野心平の装釘である。中身とマッチしないのに魅力的、といふのも変ではあるが、詩集の挿画意匠を語るとき、私の中では佐藤惣之助の詩集『荒野の娘』のカミキリムシをあしらった函とともに、いつか手にしたいと思ってゐた詩集だった。

 全体この感情過多の詩人は、詩だけでなく自著のデザインについても屈折した意識ある人であったらしい。処女詩集『半分開いた窓』(大正15年 太平洋詩人協會)のデザインはダダイズムといふか構成主義が意識されたものだが、装釘者は著者より「キタナラシクつくって呉れ」との依頼があった由、で「出来上りがキタナ過ぎた」とぼやいたのだとか。(尾形亀之助記)。

 さういふ意味では意表を突いたといふより、狙ひ通りの屈折した出来栄えと言へるのだらうか。入手したもう一冊の、有名な第3詩集『大阪』(昭和14年 赤塚書房刊)は、同じくアナーキストだった歴程同人菊岡久利の手になる実に投げやりなスケッチによる装釘が、(意識的なのだらうが)過度なつまらなさ(笑)に仕上がってゐる。(人間性の魅力本位で行動する菊岡とはこのあと思想的立場を真反対にすることになる)。

 ただしかし彼の批評精神を宿した詩想はその意識的な「つまらなさ」の下で開花したのであった。戦後、彼の作品は「抒情を排した抵抗精神の顕れ」などと担がれた。けれど私に言はせれば、彼の佳作はことごとく「不機嫌な抒情詩」と呼んだ方がしっくりする。小野十三郎が伊東静雄を回想する一文で『春のいそぎ』収録の詩篇「夏の終り」を選んで親近感を示してゐるのは、伊東が大阪在住の同世代詩人で当時子息の担任であったなどといふ卑近な事情からではない。イロニーの「不機嫌さの質」において等しいものを感じてゐたからであって、このたび酸性紙の香りが芳ばしい『古い世界の上に』の原本を、注意深く繙きながら感ずるところがあったのも、初期伊東静雄の新即物主義風の作品にも通ふやうな 成心に満ちた措辞についてであった。



 ある詩人に



あなたは眼を輝かせて

僕らの話を聞いてゐた

あなたは人一倍涙もろくてすぐに亢奮するのであつた

僕らが語らうとするもの、あなたはそれをお互ひの友愛の上でのみ読まう とした

おそらくあなたは非常に幸福だつたらう

あなたは路傍の泥酔者(のんだくれ)よりも猶悪く酔つぱらつた

あなたの誠実と熱意にもかかはらずあなたは事実その話を聞いてはゐなかつた

あなたは舌鼓をうつて飲んだのだ。僕らの話を。

                             『古い世界の上に』47p







 葦の地方



 遠方に

 波の音がする。

 末枯れはじめた大葦原の上に

 高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

 地平には

 重油タンク。

 寒い透きとほる晩秋の陽の中を

 ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され

 硫安や 曹達や

 電気や 鋼鉄の原で

 ノヂギクの一むらがちぢれあがり

 絶滅する。

                                               『大阪』13-14p

 『大阪』集中の有名な「葦の地方」といふ詩においても、イメージは全編が重苦しい。「ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され」といふ一節に、まず読者は躓かされるだらう。ユーファウシャとは「euphausia:オキアミ」のことである。言葉が分からなくても「とうすみ蜻蛉」がアキアカネでないことは分かるのだが、語義が分かると、腹脚をうごかして揺曳するオキアミよろしく、イトトンボがそこかしこを飛翔するイメージが、滄海と秋旻とを重ね合はせられて一層美しく伝はってくる。あるひは晩秋に灯心蜻蛉はそぐはない。むしろ彼が忌むべきアキツシマの語源をもち、オキアミとも似つかはしい赤蜻蛉の群泳シーンに変換して読んでも面白いと思ふ。

 とまれ「コギト」的な抒情詩だったら美しい一篇にシニカルな瑕瑾を混ぜるところ、彼はその反対をやって効果を上げたのであり、不機嫌の極みながらこれもまた抒情詩と呼んで差し支へないもののやうに私は思ってゐる。抒情詩を作れぬ詩人は詩人ではない。そして詩に社会的メッセージがなければ価値なしと断ずるなら、メッセージが社会から否定された時点で作品もまた無価値になってしまふ事情は、彼が忌んだ戦争詩だけでなく、この詩においても同様であると思ふからである。

 けだし小野十三郎によって社会的現実に対する認識が投影されない抒情詩人たちの作品が否定されたこと。それに意味があったのは、躬を挺した指弾を彼が敗戦前に放ってゐたからである。いかなる思想も遠慮なく発表できるやうになったのち、小野十三郎にかぎらない、抵抗詩人たちの戦後の詩業といふのは、なほ怨みをもって抒情詩人たちを総括糾弾した散文の詩論に較べれば、漸次戦闘の意味を失はざるを得なくなっていったやうに私には思はれる。180度転身したジャーナリズムは、現実の彼らに充分に酬ゐたであらう。けれど続く高度経済成長はかつての抵抗詩人たちの前衛の自負を後ろから刺したのであった。 その上に露見する共産主義国家の腐敗と恐怖に至っては、彼らは何を思ったらう。嫌気がさし再びアナーキズム的に嘯いてみせることは、戦争を体験した旧世代の抵抗詩人たちだけに許された特権であり、謂はば見果てぬコスモポリタンの夢である。しかし彼らの薫陶を受けた団塊世代以降の現代詩詩人たちが同じいポーズを取りながらも、師匠が否定した四季派否定には頬被りをしたまま、時に抒情詩の魅力なんぞを語る様子をみるにつけ、この上ない破廉恥を私は感ぜざるを得ない。

 詩人の責任ではないところでその詩が述べる志が社会的に有効・無効に選別される「時代」がある。時代からの「お墨付き」の評価に胡坐を掻いた途端、詩人は足元を掬はれる。それは戦前も、戦中・戦後も同じことではないだらうか。 私の中で「批評精神」とは、決して思想ではありえず、その「不機嫌さ」の真率を絶えず問ふことにつながってゐる。
 

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