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『森春濤の基礎的研究』

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月26日(金)10時07分19秒
   年末にうれしい贈り物、日野俊彦先生より御高著『森春濤の基礎的研究』の御寄贈に与りました。以前に御論文のコピーをいただいてをりましたが、資料編を万全に付した、立派な装釘に瞠目です。刊行のお慶びを申し上げます。

 内容は三度も賦されなければならなかった悼亡詩をはじめ、「洗児詩」に託す思ひが下敷きとした中国の古典のこと、維新前後の詩人の動静について丹羽花南との関はりや、漢詩時代の掉尾を飾った逐次刊行物『新文詩』の意義。そして春濤といへば必ず挙げられる「竹枝」「香匳体」について。ことにも詩壇から「詩魔」と称された一件に於ける「述志」の詩人岡本黄石との関係にスポットライトを当てての考察は興味深く、最後に野口寧斎が遺した184句にのぼる「恭輓春濤森先生」の追悼詩によって春濤の伝記を概括してゐます。
 これら「基礎的研究」と謙遜される話題の数々について、資料を明示しながら神田喜一郎、入谷仙介、揖斐高ほか先達の考察を踏まへた自説が開陳されてゐるのですが、後世の門外漢たちによって、ともすると不遇な大沼枕山をよしとする為に、まるで政界と癒着して成功を収めたかの如く対比して持ち出されることもあった森春濤のことを、人間性の面から捉へなほさうとする姿勢にまづ敬服です。

 森春濤といへば、私の関心は岐阜にまつはる事迹と、梁川星巌翁はじめ幕府から最も危険視された尊攘グループとどのやうに誼を通じてゐたか、といふことに尽きるのですが、岐阜のことは詳しくは書いてありませんが、高山については幻の選詩集に終った『飛山詩録』のことが述べられてゐます。そして政治へ身を投じることができなかった理由について、妻孥の夭折が決定的に掣肘したのではとの指摘に詩人の苦衷を思ひました。星巌門の末席に連なってゐるといふ意識は大獄の後、どのやうに総括されていったのでありませうか。けだし森春濤・大沼枕山あたりを境にして(もちろん性格と身分に拠るところも大きいのでありませうが)やや年長の小野湖山、岡本黄石といった星巌門の人々は、本当に紙一重のところでの生き残りといった感じが深いのですが、春濤は維新後、それらの人々と文事をもって濃密に交はってをります。如何なる話題が往き来したのか、本書には俊才の弟(渡邊精所)の詩稿を「付録」にしてでも収めることとなった『安政三十二家絶句』の出版事情が、編者家里松嶹からの手紙として紹介されてゐますが、同じく打診されて退けられた佐藤牧山の評価とともにたいへんおもしろい。永井荷風『下谷叢話』の粉本だったともいふ出典『春濤先生逸事談』を読んでみたくなりました。

 かつて中村真一郎は、明治新体詩の新声も、円熟した江戸後期漢詩から精神的にはむしろ後退したところから始まったと喝破して江戸後期の漢詩壇を称揚したのでしたが、では明治時代の漢詩とはいへば、こちらはこちらで市井の人情を盛る役目から、漢詩の特性に相応しい志を述べる役目へと、維新時の志士達からそのまま政界人達に受継がれてゆくに従ひ結局「詩吟」の世界へと硬直してゆかざるを得なかった。当路の人たちを指導した春濤を中心とした漢詩檀サロンの盛況こそ、さうした趨勢を裏書きしてゐるやうに感じます。実地では風俗に通じてゐるだけでなく、家庭的にも教育的にも人間味に富んだ穏健円満な「手弱女振り」ともいふべき漢詩の御師匠さんが、押し寄せる西欧文学から漢詩を救ふ活路を見出すにあたって、政事・軍事を盛りやすい「益良夫振り」が喜ばれる場所を用意した象徴的人物になってしまった、といふのはある意味とても皮肉なことでありませんか。世捨て人型の成島柳北や大沼枕山に後世の人気が傾いたのは仕方がないことですが、管見では、同じ熱情をもちながら実際行動に移すを得ぬまま維新を迎へ、はしなくも斯界の巨擘に育っていった様を、私は詩画二大文化においてもう片方に、孤峰ですが冨岡鉄斎を見立ててみたいとも思ってゐます。

 さて「詩魔」といふレッテルは、時代を下り昭和初期になってから岐阜市内に興った同人詩誌のネーミングとして敢へて踏襲されてゐるのですが、ここに拠った詩人たちは近代詩における香匳体といってよいのか、観光的俗謡の分野で大いに気炎を上げたグループでありました。そして森春濤にせよ梁川星巌にせよ、岐阜から出て斯界を総べるに至ったオーガナイザーの巨星たちには、あとになって懐の深さを誤解される批評が行はれたことも多かったこと。あるひはもっと昔の各務支考をふくめてもいいですが、美濃といふ保守的土地柄が稀に特異点を生む場合の一性格として、風土に関係することがあるのかもしれないと思ったことです。

 星巌も春濤も同じく庶民の出であり、役人の家柄を嫌って野に下り低徊したポーズはない。少年時の無頼によって培はれた反骨精神は、現体制と反対の権威の上で発現しようとする尊王精神に結びつき昇華されるものでありました。上昇志向が未遂に終ったのが星巌であり、雌伏して維新を迎へ成功したのが春濤だったといへるのではないでせうか。本書では成島柳北が槐南青年のバーチャル恋愛詩を揶揄する条りが語られてゐますが、父春濤の若き日の狭斜趣味もまた、不自由なく実地を極め得た柳北の青春とは違ったものであったことでせう。梁川星巌もまた吉原で蕩尽して改心、坊主になり詩禅と名乗ったのでありましたが、苦労人である星巌も春濤もともに禅味といふか、道学仏教に揺曳する脱俗の詩境に韜晦したがる一面を、上昇志向の裏返しと呼んでいいやうな詩人的本質としてもってゐるところも共通してゐます。 最後に、著者は星巌の詩集に妻の名なく紅蘭の詩集に夫の名なしと本書の中で記してをられますが、妻のこと夫のことを歌った詩はあり、行迹行状を顧みてもこの夫にこの妻ありの破天荒さと進取の気性は無双です。死別には終ったものの森春濤の三度の婚娶もまた、閨秀詩人であったり、夫に文才を求めたりと、先師夫妻の形態を襲った面もあるのではないかと思ったりしました。

 もっともかうしたことは全て漢詩を自在に読解することができてはじめて話するべきことがらです。頂いた本から触発され、つまらぬ我田引水の妄想まで書き連ねてしまひました。

 ここにても御礼を申し上げます。有難うございました。
 
 

おくやみ 松本和也氏(下町風俗資料館初代館長)

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月13日(土)15時16分54秒
編集済
   口語自由律俳句の鬼才、嘗てわが上司にして台東区立下町風俗資料館の初代館長でありました、松本和也(まつもとかずや)氏の逝去を、年賀欠礼状によってお知らせいただき、吃驚してをります。さる四月十四日とのこと、二年間の闘病生活を送られてゐたことも存じませんでした。毎年娘さんの描く一風変はったイラストに、一言を添へた年賀状を返していただくのが楽しみでしたが、昨年はお送りした拙詩集に感想もないまま、いただいた賀状の言葉の意味を計りかねてゐた自分を恥かしく思ひかへしてをります。

  思ひ起こせば地方の大学を卒業して仕事も決まらぬまま上京、三月も終りに「来月からどうしよう」と思ひ倦み、上野は不忍池をぶらぶらしてゐたところ、偶然下町風俗資料館の玄関に貼りだしてあった求人広告に目がとまったのでありました。マンガ雑誌「ガロ」の影響で下町風情にあこがれて上京してきたなんぞといふ、学芸員の資格もない訳のわからない男を、よくも一見しただけで採用して下さったものだと、今に当時のことを思って不思議の感にとらはれてなりません。この資料館に私は文化財専門員として1984年から1990年までの間、丸6年お世話になりました。新任職員の賃金を上回ってはならぬといふ待遇規定で毎年更新、区は学芸員を正規採用するつもりはなく、だから私みたいな者が採用されることになった訳ですが、館長が常々仰言る「いつまでもおったらだめだよ」といふ言葉通り、同僚はここをステップにキャリアアップを目指して次々飛びたっていったのに、無目的の私は9時5時勤務で週に三日もあった休みを精神生活の彷徨に費やし(お金はありませんでしたから)、しっかり怠け者の詩人の生活が板についてしまったのでありました。

 「前衛の自負」を標榜された新日本文学派の松本館長にとって四季・コギトの編集同人だった田中克己の門を敲いた私は、謂はば「花鳥風月の詩人」「戦犯詩人」に与する反動派であり、氷炭相容れぬ関係だった筈ですが、一方では公務員らしからぬ無頼派を気取り斜(はす)に構へてみせる。例へば縦縞の入った紫色のスーツで身を固め、職場に通ずるポルノ映画館の路地裏を肩で風を切って、といふか風に吹かれてゐるやうにもみえる、浅草生まれを自負する粋人でもありました。「民主主義は多数決の勝利である」と言挙げしつつ、イデオロギーを超えたロマンとエロスに苛まれた実存を吐き出す場所を求め、あくまでも自由律「俳句」のカオスに拘泥された。お役所体質と公務員気質を心底嫌ってをられましたが、日本で初めてできた下町の文化風俗を展示する博物館(敷地規模のため資料館とされましたが)の、構想から設立・運営の差配をすべて任されたのちは、恐るべき情熱をもってこれに没頭され、明治・大正・昭和の風俗論を実地調査と共に展開して、その成果を公的刊行物らしからぬ言辞の揺曳する図録に次々とまとめてゆかれました。核となった原風景は自身が青春を送った敗戦後の猥雑たる浅草界隈であったと思しく、威圧感を嫌って物腰こそ柔らかいものの、何事につけても独断専行、わくわくするやうなモチベーションが先行した斯様な型破りのキャラクターが、私ら口さがないペーペーの若者職員にとって瞠目・称賛・畏怖・観賞に値するボスでない訳がありませんでした。遠まきに時折り議論めいた詩論をふっかけてくる、何にもわかっちゃいない、歯牙にも掛らぬ若者の生意気な口吻も、たしなめつつ不羈の精神を嘉して、温かく見守って下さった、その御恩を仕事の上で在職中にお返しすることはできませんでした。勇退後の松本館長とはむしろ私が帰郷した後、同人誌や著作のやりとりを通じてお言葉を頂く間に、頑固な四季派それもよろしい、といふ文学上の認可に至ったとも任じてをりました。

 まことに東京砂漠で路頭に迷ふ既の所を救って下さった御恩。そして資料の収集・展示にまつはる面白をかしい失敗譚の数々。当時の同僚や出向事務方との思ひ出とともに、ひさしぶりに三十年前の自分をなつかしく回想してをります。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

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『季』 100号

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月12日(金)21時28分12秒
   同人詩誌『季』が100号を迎へた。精神的支柱に杉山平一先生を戴いた四季派直系の雑誌である。詩を書き始めた頃、拠るべき場所を失った私を迎へ入れてくださった雑誌であり、最年少の身分で好き勝手させてもらったここでの発表が、乏しいわが詩作のピークであったことを憶ふと、お送りいただいた一冊を手に取っては今更の感慨を禁じえない。
同人の詩風はおしなべて雅馴、かつ淡彩ながら各々別あり、私の脱落とすれ違ふやうに入会された杉本深由起氏は、最年少同人の特別席を襲って杉山平一ゆずりエスプリを発揮し、『季』40年の歴史が送り出した選手と呼んでよいのかもしれません。

ちいさな我慢や 怒りが重なって
ミルフィーユみたいになってきたら
紅茶の時間にいたしましょう

カップの中のティーバッグと
白い糸でつながって
ゆらゆら ゆらしているうちに
風とおしのいい丘の上で
凧あげしている気分になってきました
(後略)  
                    杉本深由起「ゆらゆら」より

 長らく編集に携はってこられた舟山逸子、矢野敏行両氏の温和な人柄が、ゆったりした組み方からはじめ雑誌全体の雰囲気を決定し、毎号の扉・表紙を飾る杉山先生の簡潔なカットは、これが雑誌「四季」の衣鉢を継ぐ牙城であることを示す徽章のやうでありました。杉山先生なきあと、さきの98、99、100号と、深呼吸をしたのち再び歩みをすすめてゆかうとされる皆さんの意気込みが、気負ひなく表れてゐる誌面となってゐます。

 ここにてもお慶び申し上げます。ありがたうございました。
 

『感泣亭秋報』9号 『朔』178号 小山常子追悼号

 投稿者:やす  投稿日:2014年12月11日(木)19時32分27秒
   詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。

『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方

 詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。

 そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。

 斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。

 一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。

「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p

 生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 また今号の『感泣亭秋報』について補足します。このたびは渡邊啓史氏、蓜島亘氏の労作原稿を得て倍増し、資料的価値満載の150ページを超える大冊の文学研究雑誌となってゐます。渡邊氏は詩人小山正孝の一作一作の業績ごとに肉迫する論考を第4詩集『散ル木ノ葉』に於いて展開。一方の蓜島氏は戦中戦後の文芸雑誌人脈を出版面から実に細かく一次資料に当って描き出し、連載3回目のこのたびは、雨後の筍の如く林立しては淘汰されていった終戦直後の出版界の混乱に、抒情派の旗揚げもまた翻弄される様子が述べられてゐます。新雑誌の盟主に『四季』の名前とともに担ぎ出されんとする堀辰雄をめぐり、あくまで抒情詩の旗頭になってほしいと願ふ四季派第二世代である小山正孝・野村英夫らの若い詩人たち、文学者であるコネクションを発揮して頭角を露さんとする新進出版社主の角川源義、そして両者の間にあって病床の堀辰雄のスポークスマンを買って出た親友の神西清、その三者の思惑が一致せず、堀辰雄晩年の思案顔も髣髴されるやうな状況が、正確を期する記述と小山家に残された書翰によって明らかにされてをります。小山正孝は結局『四季』ではなく、1号で終った『胡桃』といふ雑誌を編集することになるのですが、四季派の抒情詩人として出版に携はった、例へば稲葉健吉といったマイナーポエットなども今回は紹介されてゐます。戦後しばらくの抒情詩陣営の活況を、資料によって相関関係とともに焙り出してゆく蓜島氏らしい実証作業は、現代詩一辺倒の詩史の隙間を埋めるものとして注目に値します。

 とりいそぎの御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

松本健一さんの訃報

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月29日(土)12時37分9秒
   松本健一さんの訃が報じられた。

 先師の詩業『田中克己詩集』を、たった300冊しか刷ってゐないにも拘らず中央雑誌の書評欄で紹介して下さったのは松本健一先生だけでした。

 また小高根二郎氏による浩瀚な評伝が出された後、誰も続いて評する者のなかった蓮田善明について、詩人的側面を切り捨てずに論じた単行本を著すなど、日本浪曼派の文学に深い理解を寄せられる当代一の評論家が、折しも時の民主党政権の顧問に迎へ入れられた時には、吃驚もしたことでした。

 昔、海のものとも山のものとも判らぬ無名の若者が送り付けたペラペラの詩集に対し御感想を賜ったこと、忘れません。
 心より御冥福をお祈り申し上げます。
 

「薄明の時代の詩人」

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月12日(水)21時11分39秒
  「薄明の時代の詩人」 スイス在住、写真家にして詩人でもあるschale様のブログを紹介いたします。

 まづはアルプスの山稜や高原、極北の地勢を捉へた風景写真の息を呑むやうな美しさに瞠目です。合せて詩と平和に関する断章が、実存主義に列なる詩人哲学者たちをトリビュートしながら綴られてゐるのに圧倒されました。タイトルはヘルダーリンを評したハイデガーの言葉「乏しき時代の詩人」から。
 驚いたのは、戦後文壇から「日本浪曼派」の中心人物として悪罵の限りを浴びて抹殺された感のある評論家、芳賀檀氏晩年の謦咳に接されたschale様、先師の貴族的精神に対する誤解を釈くべく、ネット上で擁護されてゐることでした。それも政治思想によるのでなく、晩年に至るまで抒情を重んじた思索する詩人としての姿を掲げてをられてゐるのを拝見して、御挨拶さしあげたい方だなと常々思ってをりました。このたび拙詩集をお送りすることが叶って、懇篤なご感想をいただくと共に同庚であることにも聞き及んで、大変励まされてをります。


 また酒田の加藤千晴詩集刊行会、齋藤智様よりは、現在酒田市立資料館で開催中の「吉野弘追悼展」に付随して設けられた、詩人加藤千晴を紹介する小コーナーについて、報告とご案内のお便りをいただきました。こちらは失明によって文字通りの「薄明の世界」を、詩を書くことのみを支へにして生きた四季派詩人ですが、在郷詩人の方々により、この機に合せて顕彰されてゐることを嬉しく思ひました。


 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  (写真はすべて齋藤智様より)
 

舟山逸子散文集『草の花』

 投稿者:やす  投稿日:2014年11月11日(火)21時08分59秒
   新詩集『夢みる波の』に続き、はじめての散文集『草の花』を、関西四季の会の先輩、舟山逸子様よりお送りいただきました。御刊行のお慶び、そしてふたたびの恵投に与りました御礼をここにても厚く申し上げます。

 先輩舟山さんはわたしよりもうひと世代上、第4次復刊「四季」をリアルタイムで体験された投稿世代にて、ここには「四季」終刊を契機に関西四季の会を興され、本格的に詩作を始められた1970年代から折に触れてものされた散文の粋が収められてゐます。乙女心が映える瑞々しい初期文章はもちろんですが、詩人必ずしも詩情を展ぶるに韻文に限ったものでないこと、ことにも舟山さんの詩人たる特長はむしろ散文の語り口に於いて顕著であること、かうして纏められると一層はっきりするやうな気がいたします。清楚で内省的で、地に足の付いた誠実な心情の吐露は、その手際がまた杉山先生を例に出すなら「手段がそのまま目的」であります。即ち「文は人なり」といふことに尽きる訳ですけれども、書きはじめられた頃の文章から些かの変りもない「操」「育ちの良さ」といった、実際に舟山さんに会った人がやはり同じく感じられるであらう印象に重ね合はせては、また驚いたことでありました。

 第一部の創作エッセイでは、詩人が得意とする美術館探訪エッセイの嚆矢といふべき、碌山美術館の回想を叙した冒頭の一文をはじめ、若くして逝った先考を追慕した作品、花弁を呑み込まうとしては吐き出してしまふ鯉に託した切ない短編などにこころ打たれます。
 対して第二部の詩人論には、これまで単発で発表されたままの優れた立原道造論・杉山平一論がまとめて収められてをり、昭和期の最良の読者から眺められた視点が、そのまま同時代の詩人達に同じ書き手の視線から援用されるところにもあらたな発見を認めます。

「視野の限界が映画の芸術性を支えている。」253p「「型」の肯定は杉山平一氏の特質の一つではないだろうか。」252p
「興味深いのは、この「隱す」ということが、すっかり溶けこんで混じり合ってしまうということでは決してない、ということである。(中略) 存在そのものを消しはしない。(中略) その存在のありようは、強い自負心に裏打ちされているように思われる。」257p


 これを読まれた杉山先生の喜びが手に取るやうに分かるやうな評言に、思はず鉛筆を引いてしまひます。


「私は信じる。「うそ」のなかの「ほんたう」こそが、文学の真実の世界であり、それは常に「ほんとうらしいうそ」であるかもしれぬ現実世界とせめぎ合っていると。」185p
「「夢をみた」と詩人がいうとき、詩人は決して眠ってなどいない。目を閉じてなどいない。くっきりと目ざめていて、その「夢」をみているのである。」207p


 詩人の成立背景を余すところなく語ってゐる点、そして「四季」の詩人達に私淑された影響(成果)が、当時昭和40年代の現代詩ブームが与へた影響よりも、 散文であるためよりはっきりと刻印されてゐるといふ意味においても、舟山逸子の抒情詩人を一番に証する一冊として語られるものになるのではないでせうか。

舟山逸子散文集『草の花』2014.11.1 編集工房ノア刊行 285p 2,500円 isbn:9784892712159
 

「昭和十年代 鳥取のモダニズム詩運動」

 投稿者:やす  投稿日:2014年10月13日(月)13時53分17秒
   永年モダニズム詩人荘原照子を探索してこられた手皮小四郎様より、同人誌『菱』187号の御寄贈に与りました。
 巻頭に掲げられた小谷達樹氏の御遺稿の8ページ、このあとハイブロウな読書家に人気のある歌人塚本邦雄がらみのお話に続く筈だったといふことで、続編が書かれなかったことが残念でありますが、詩人であった先君、小谷五郎(安田吾朗)が関はった、貴重な戦前の地方詩史の発掘紹介がなされたお慶びを、お悔やみとともに申し上げます。

 小谷五郎氏は現在、鳥取地方の郷土史家として名を残されてゐるやうですが、戦前に発刊されたといふ詩誌『狙撃兵』『ルセルセrecherche』から抄出された、安西冬衛テイストの作品をみるかぎり、シュールレアリズムがかった盟友清水達(清水利雄)氏のものよりも凝縮された抒情がこめられてゐて、詩集を刊行しても反応がなかったことに落胆し画業に向かったともありましたが、斬新な装釘意匠をものする才能ともに残念なことに感じられました。

 閑日の構成
                    小谷五郎

要塞の午後M大尉の私室で麻雀は行はれた。
赤い三角旗のもとで少女は十六才であると言ふことを発見した哨兵はゐた。
U河附近の図上に帰ってこない騎兵斥候。
その日は砲術家のゲミア軍曹が大尉の夫人の眼を気にかけてゐたのでたびたび牌を投げ出してゐた。

                                      (「狙撃兵」2号)


 近視で肋膜の前歴もあったためか戦争にはとられなかったやうですが、地方の師範学校出身の先生ともなれば、そうそう思想的な進取の気性を標榜し続けることも難しかったでせうし、清水氏のやうに軛を嫌って上京することも、おそらく本来詩人の稟質に叶ふものではなかったのだと思ひます。その処女詩集だってそもそも何冊刷って配られたものか、『歴程』といふタイトルの詩集は小谷五郎・安田吾朗いづれの名義でも国会図書館ほか国内の図書館に登録がありません。(一方昭和十年代の西日本同人誌界を風靡したアンデパンダン誌「日本詩壇」から出された清水氏の詩集『航海』は国会図書館で確認できるやうです。) 手皮様が、無念に斃れた達樹氏の略歴を記されましたが、当の詩人の略歴を御子息の手で書き遺して頂きたかったものと、せめて詩集の書影・書誌概略なりとも知ることができたら、これは拙サイト管理者としても残念に思はれたことであります。

 地方に隠棲して郷土史家の道を歩まれたみちゆきは、戦前最後の中原中也賞を受賞しながら詩筆を断った、当地方の平岡潤を髣髴させるものがあります。以下に手皮様の紹介文より経緯について引きます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「確か昭和41年頃のことと思うが、部員の話題が塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』に及んだ際、家にあるよと言って、翌日持ってきた。部員に鳥取西高の短歌誌『青炎』同人も居て、120部限定のこの稀観歌集を熱心に書き写す者もあった。『水葬物語』は塚本邦雄から小谷の父、小谷五郎へ献本された一冊だった。
 小谷五郎は『狙撃兵』『ルセルセ』を編集発行した後、十年の空白を経て、十歳年少の杉原一司と避遁し、戦後『花軸』を創刊した。小谷にとって〈前衛の歴史を創る詩徒〉の相手が、上京した清水達に替わって杉原一司になったわけである。杉原は八東川対岸の若者で、前川佐美雄の『日本歌人』(当時は『オレンヂ』)に属する俊秀だった。
 昭和23年春、『花軸』が終刊すると、杉原は〈前衛の歴史を創る〉伴走者に『オレンヂ』の塚本邦雄を選び、『メトード』を創刊。 『メトード』全7冊中11冊に小谷五郎が寄稿しており、これらのことが背景にあって、塚本は小谷に『水葬物語』を贈ったのである。

 小谷五郎には多くの著作があり、没後編まれた『小谷五郎集成(文学篇)』もあるが、全作品を網羅した詳細な書誌はなかった。ぼくはかねてからこの書誌の作成と、『狙撃兵』から『メトード』更には『水葬物語』へと流入する八東川畔のモダニズム文学の系譜を纏めるべきだと言い募ってきた。
 小谷達樹がこれに応えて取りかかったとき、彼はすでに病床にあった。二稿辺りの原稿の隅には、もう頭が回らないと震える筆跡の添え書きを残している。小谷は遠のく意識に自らの頬を打ちながら、この前篇を仕上げて逝った。無念であるが、これが彼の命の最後の華と思えば感堪え難いものがある。」
                                                    (「小谷達樹遺稿一件」31p)


『菱』187号 2014.10.1 詩誌「菱」の会発行 56p  500円
 

リルユール

 投稿者:やす  投稿日:2014年 9月24日(水)07時25分3秒
編集済
  フランスに10日間ほど行ってきました。20年ぶりの海外旅行です。写真はFacebookにupしました。

さて、古本愛好家としてパリの古本屋さんや古書市にも行ったは行ったんですが、所詮言葉が分からないのだからどうといういふこともありません(笑)。
探してゐたドイツ人画家ハンス・トマの画集はみつからず(ここはフランスですからね)、またフランスで一番のおきにいりの詩人フランシス・ジャムの古書も、メモ帳をみせつつ訊ねてはみましたが市にはないやうでありました。(詩が一般庶民の生活に根づいてゐるといふフランスでも今や四季派みたいのは人気がないのかな。)

せめてもの旅の記念にと、美しい革装の袖珍本など左見右見するうち、やがて蚤の市で手に取った一冊の背表紙に目が。『Pierre Lafue. La France perdue et retrouvée1927』理由は写真の通り、日夏耿之介の詩集『黒衣聖母』を彷彿させたからでした(背の褪せ方がまた 笑)。
内容もよくわからぬまま求めたのですが、どうやら元は並装本で装釘をし直したもの。並製の背をそのまま遊び紙に残してあるところがなんともフランスらしく「リルユール」文化を感じた次第であります。

ここではフランシス・ジャムの本(評論) 『Armand Godoy. A Francis Jammes1939』もみつかりました。もっていったもののどう処分したら分からなくなって困ってゐた拙詩集を進呈したら、笑って二冊を値引きして頂きました。御主人ありがたうございます。訳してもらふことになる知り合ひの日本人さんにもよろしく!
 

舟山逸子詩集『夢みる波の』

 投稿者:やす  投稿日:2014年 8月24日(日)23時12分2秒
   まもなく創刊100号を迎へる季刊同人詩誌「季」の旧き先輩、舟山逸子様より新詩集『夢みる波の』の御恵投に与りました。ここにても御出版のお慶びを申し上げます。
前回の素晴らしい装釘の詩集『夏草拾遺』(1987年)から、早や四半世紀が経ちます(当時は活字本でした)。あれから以降の作品を春夏秋冬、毎回ぽつんぽつんと拝見してきたわけになるのですが、今回かうして一冊にまとめられてみると、淡い色調ながら生きる悲しみが主調低音となって響いてゐることにあらためて驚き、抒情的な滑空を回想のうちに示してみせてゐるこの一冊には、前後も無く
「長い間心にかかっていた古い詩編にやっと場所を与えることができました。」
と、著者にとって何か心の荷物を下ろしたやうな呟きを記した紙片が添へられてゐるのでした。

 けだし杉山平一先生直系のエスプリあり、散文で書かれた海外美術館を巡るスケッチあり。しかし舟山さんの詩の個性はどちらかといへば、やはりエスプリといふより、母性とは異なった女性ならではの語り口、その優しさそのものにあるやうな気がしてをります。現代詩に疎い私は、それを誰それになぞらへたり、また独擅場の語り口であるとも自信を以て讃へることができないのが歯がゆいところ。わが詩的出発の際には矢野敏行大兄とともに姉のやうに見守り励まして下さった、その思ひ出もいまだに当時のままに、このたびは私好みの一篇を抄出して紹介に代へさせて頂きます。ありがたうございました。

  五月

五月の 若葉をたたいた
雨はあがって
ひろがりはじめる青空
草の匂いの濃い森のなかでは
淀んだ池の葦のあいだを
一匹の光る蛇が 首をたてて
泳いで行く


舟山逸子詩集『夢みる波の』2014.9.1 編集工房ノア刊行 75p \2,000 isbn:9784892712142
 

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