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よいお年を。

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月31日(火)09時30分23秒
   さて今年は台風災害に見舞はれた年でありました。うちも雨漏りに遭ひました(苦笑)。
 シーボルト台風が来襲した文政11年(戊子1828年)、大晦日にあたって感慨を記した、当時31歳だった後藤松陰の詩を掲げます。
 来年こそ良き年になりますやうに。

「歳暮戊子」 後藤松陰

昨日了鹹虀。今朝舂歳餻。
貧家亦随分。粗為迎春労。
今年知何年。四方災変数。
颶母鼓西溟。水妃燎北陸。
百里委灰燼。千人葬魚腹。
物価皆驟騰。豈唯菽与粟。
人情頗不安。況我桂玉酸。
猶勝罹溺焚。酒有且須醺。
已張不復弛。天意豈其然。
待彼載陽日。家々開笑顔。

「歳暮戊子」 後藤松陰
昨日、鹹虀(漬物)を了へ、今朝、歳餻(餅)を舂(うすづ)く。
貧家また分に随ひ、粗なれど春を迎へる為に労す。
今年、知んぬ何の年ぞ。四方に災変の数(しばしば)す。
颶母(台風)西溟に鼓し、水妃(洪水)北陸に燎す。
百里、灰燼に委ね、千人、魚腹に葬らる。
物価みな驟かに騰がる、あに唯に菽と粟のみならんや。
人情は頗る不安、況んや我が桂玉の酸(生活苦)をや。
猶ほ溺焚(洪水・火事)に罹るに勝るごとし。
酒有り、且(まさ)に須(すべか)らく醺(酔)ふべし。
すでに張れば復た弛(ゆるま)ず、天意あにそれ然らん(どうしてそうであらうか)。
彼の「載(すなは)ち陽(あたたか)き日(『詩経』豳風)」、家々笑顔を開くを待たん。


(あっ、シーボルト台風って「子年の大風」か!来年も気を引き締めて参りましょう。)
 
 

2019年回顧

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月31日(火)00時21分56秒
編集済
  恒例となりました「今年の収穫」より10冊(点)を披露。

野澤一詩集『木葉童子詩経 復刻版』 平成30年
田中克己『詩集西康省』「道造匠舎」蔵書印入り 昭和13年
第三次『椎の木』復刻版 (全11巻・別冊1:コピー) 平成29年
『詩人・一戸謙三展』図録 令和元年
佐藤一英詩集『われを咎めよ』 昭和14年
『高木恭造詩文集』全3巻 昭和58年~平成2年 (青森での嬉しいお土産)
『尾張に生きた詩人 佐藤一英展』図録 令和元年
梶浦正之『詩文学研究』1-6集 昭和12~15年
赤田臥牛・赤田章斎父子の色紙 江戸後期
『江戸風雅』20号 令和元年

 今年は生誕120年・没後40年を迎へて催された、二人の近代詩人(一戸謙三・佐藤一英)の企画展が、一番の思ひ出となりました。
 一戸謙三については、令孫晃氏および青森県近代文学館の伊藤文一室長に励まされながら、夏に青森で催された「特別展 詩人・一戸謙三」の文学講座の任を、無事果たすことができました。
 そして佐藤一英については、謙三の盟友であったことを講演でも話すため墓前報告に詣ったところ、たまたま居合はせた地元の方の導きで御遺族と知り合ふことを得、両詩人に所縁の貴重資料(書簡・写真・詩集)を電子公開できることとなり、翻刻や解題の執筆にいそしみました。
 秋に一宮博物館で催された「佐藤一英展」に合せて、資料面のサポートをWeb上で(勝手に)させていただいたことは、自分の視野を開く喜びにもなりました。
 さらに年末にかけて、以前入手した漢詩の新出資料(『山陽詩鈔』『木村寛齋遺稿』『河合東皐遺稿』)の発表に目途がつきました。
 いづれも地元出身の後藤松陰にまつはるものでしたが、早速斯界の学術誌『江戸風雅』上での刊行の栄に浴したことは、昨日コメントで記した通りです。
 生涯の思ひ出に残る、収穫多き年となりました令和御宇の元年。お世話になりました皆様にはあらためて御礼を申し上げます。


 また棟方志功令孫、石井依子様より、すてきなカレンダーをお贈りいただきました。
 石井様には南砺市立福光美術館での企画展「棟方志功の福光時代」が終了したのちも、引き続き志功の疎開先である富山に拠点をつくり、資料整理に当られる由。
 御研鑽、御健筆をお祈りしまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

『江戸風雅』20号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月30日(月)15時31分39秒
   近世文学の専門雑誌『江戸風雅』20号が到着いたしました。

 「『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」と題して資料紹介の一文を載せて頂きました。

 「江戸風雅の会」を主宰・監修される徳田武先生には、2013年の御著書、小原鉄心を中心に野村藤陰や菱田海鴎ら、江戸末大垣藩の文人の事迹を討尋した『小原鉄心と大垣維新史(勉誠出版)』といふ評伝本を読んで驚き、その喜びを直接お伝へすべく、公刊五年後でしたが年甲斐もなく“ファンレター”を認め、お見知り置きを頂いてをりました。

 もとより専門外の自分は漢詩も読むだけ、それさへ全くの独学で「下手の横好き」が昔の和本を集めてゐるにすぎません。手許の『山陽詩抄』があらうことか後藤松陰の旧蔵本だったことを知り、その紹介文を書いて看て頂いたところ、訓読の御指摘かたがた「発表場所がなくて困ってゐるなら」と仰言り預って下さったのでした。私の職場は教員でなければ紀要に論文を発表することも叶ひません。

 いかなるお導きか、先日『江戸風雅』バックナンバーの1~6号を手に入れたところでした。はるかに嬉しい媒体の末席に名を連ねる光栄に、門外漢の飛び入りながら抃舞雀躍を隠せません。

 目次を一覧、此度の一冊が江戸後期の美濃詩壇に篤い一冊となってゐることもうれしく、この正月にゆっくり繙きたいと思ひます。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『江戸風雅』20号 26cm,210p 発行:江戸風雅の会

『江戸風雅』創刊の辞 1p
徳田 武  張斐と魏叔子―付 張斐年譜 3p
中嶋康博  『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について 35p
小財陽平  村瀬太乙の贋作考 53p
岩田恭  美濃における幕末・明治の七名僧~風雅を胸に刻み時代を駆け抜けた禅宗僧侶たち~ 63p
鈴置拓也  林鶴梁年譜稿 86p
徳田 武  吉田松陰と佐久間象山 104p
陳鵬安  「精神病」、「「憑き」及び批判性の欠失――「黒衣教士」の重訳におけるモダンと伝統 139p
徳田武・神田正行  『金毘羅船利生纜』初編翻刻と影印 155p
 

『敬子の詩集』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月 2日(月)11時35分18秒
編集済
   「詩歌療法」研究の権威である小山田隆明先生を通じまして、久しく病の床にあるといふ林敬子さんの詩集『敬子の詩集』をお送りいただきました。果たしてどのやうな詩集かと、身の引き締まる思いでページをめくってゆきました。病の身を見据え、全篇が死と対峙しているやうな緊迫した作品で埋められてゐるものを想像したのですが、現代詩の作品集であることがわかり、安堵しました。

 現代詩が難しいのと言はれるのは、読者からの理解をことさらに求めない、偽りのないつぶやきを、ある意味、断絶をも厭はずに遠心的に投げかける姿にありましょう。言葉と言葉との衝突、あるいは一行一行の間隙に、火花を散らす面白さがあり、詩人として選択するセンスに、私は面白さと真摯さとを探すやうにしてゐます。
 拝見した詩集に収められた作品のほとんどが、そのやうな姿をもって、私に跳躍する言葉と行間とを辿らせるものであり、フレーズの数々に著者の感受性の鋭さがみられます。

 現代詩音痴を自認する私の感想などあてになりませんが、詩篇として素晴らしいと感じられたのは、終盤に至っての「真夜中」「生きている」「約束」の三篇でありました。そしてこれらが残酷にも病気を発症されてからの作品ばかりであることに驚かされてをります。


  真夜中

家を抜けだす
ポケットには小銭入れ
ゆるい坂道 とおい終電車
青白い蛍光灯の照らす
黒いゴミ袋がひとつ

星空がきれいです
風はやや強く
街路樹がなみ打ちます
なんという木なのでしょう
まいにち会うのに名まえを知りません

自動販売機
冷たい缶ビール
あかりの消えた
軒先の犬が吠える
中央線をまたぐと
どこかで走りつづける
サイレンの音      (1998.8.23)



  生きている

むくわれない積み重ねがある
きみがどんなに恋い焦がれ体当りで近づこうとしても
たどり着かない 手に入らない 選ばれない
ことや ものや 楽園がある
こんなに夢をみさせて
こんなにも力を奪ってゆく
物質や知識や情報や言葉のなか
知力も体力も能力も 努力さえ
むくわれない大地のうえ
きみは生きている      (2000年頃)



  約束

音もなく
とおり過ぎてゆく
誰もいないのに
何度もふり返る

待ち続けたのは
何であろうか

音もなく
過ぎてゆく

誰もいないのに
何度もふりかえる

足あとだらけの
約束

私がふみしめた道は
だれと約束したわけでもなく

君と私をへだてる      (2007.7.16)


 以降、長い闘病生活に入られ、現在に至るまで詩作からは遠ざかってゐるやうであり、けだし、のっぴきならないところで詩が発火したやうな気がいたします。そして「詩歌療法」といふ観点から申し上げるなら、かうして自己に向き合ひ、虚無を見据ゑて作品を仕上げてゆく求心的な努力といふのは、作品としての手ごたへを詩人にもたらすものであると同時に、どこまでも続くトンネルのやうな闘病生活にとってプラスになるものであるとは必ずしも言へなかったのかもしれません。

 この一冊は従姉である光嶋康子さんが編集されたとのこと。これだけの詩を書く力量ある著者にとって、おそらくは意を尽くさぬであらうタイトルが物語ってゐるのは、詩集が刊行されたのが時宜を逸して遅すぎた気のすることです。清楚なイラストが添へられたのはなによりでした。

 小山田先生よりのご縁をもちまして大切な詩集をお送りいただきましたこと、ここにても御礼を申し上げますとともに、切に敬子様のご健康ご自愛をお祈り申し上げます。


【追記】(2019.12.27)
光嶋康子さんから頂いたお手紙を読みました。慫慂の結果、お便りをもとに書きあらためて下さった「あとがき」を掲げます。本冊をお持ちの方、またお持ちでない方にも出版の経緯について一斑を知って頂けましたら幸甚です。


 あとがき

 私と従姉妹の敬子さんとは、かなり年齢も離れていますし、住んでいる地域も違いましたので、実際の交流が始まったのは、ちょうど4年前の同じ病気で亡くなった彼女の弟のお葬式が始まりでした。

 私は敬子さんの父親の叔父とは、姪というより、少し年の離れた妹の扱いなので、頼みやすかったのでしょうか、お葬式のときの、車椅子の彼女の世話を頼まれました。そのときに、彼女から詩を作っていることを打ち明けられました。

 同じ頃発病した弟を見送ることは、どれだけ辛いだろうか…と思い、何か慰めになることが出来ないだろうか、と考えました。そのとき、フッと小山田隆明先生が出版された「詩歌に救われた人びと」の本が彼女の慰めになるかもしれないと思い彼女に贈ったのです。

 すると、彼女から9篇の詩が送られてきました。私自身、文学の素養は残念ながら全く持ち合わせていないため、内容については難しくて分からず、正直途方に暮れました。そこで、小山田先生に送られてきた詩を見ていただいたこところ、「優れた詩がいくつかあるから自費出版したら。」と勧めてくださったことが、自費出版へのキッカケとなりました。  

9篇では詩集にならないので、最初は断念いたしましたが、叔父が、押し入れの奥から彼女の詩を見つけたので、最初は叔父が、近くのプリント会社で薄い詩集を作りました。

 「敬子の詩集」という名前は、そのとき叔父がつけた題名です。

 この詩集が出来て、小山田先生にお見せすると「イラストを入れてもう少し女性らしい装丁にすると素敵な詩集になりますが、出版社を紹介しましょうか?」と言っていただきました。確かに、灰色の装丁の詩集は少し淋しいような気がしました。叔父に掛け合い、イラストを描いて下さる方を探し、先生から色々なアドバイスや、出版社をご紹介頂き、出版出来ましたのが今回の詩集です。

 イラストは猫を描いて欲しいとの敬子さんのリクエストが有り、彼女の今まで飼っていた猫を写真から描いてもらいました。猫の写真は彼女の亡くなった弟の部屋から見つかりました。そこには、猫と一緒に写っている小さい頃の弟の写真もありましたので、そのイラストを私の好きな詩「約束」に入れさせてもらいました。お姉さんの詩集の中で生きてもらいたいと願ったからです。

 今回、出版に際しましては、小山田隆明先生を始め、イラストを描いて下さった安江聡子様、彼女を紹介してくれた友人の横井歩様には、本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます。そして天国から出版を後押ししてくれたような敬子さんの弟俊宏さんにもお礼を言いたいと思います。
 
                            光嶋康子

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『感泣亭秋報』14号 特集「連帯としてのマチネ・ポエティク」 ほか

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年11月17日(日)00時51分51秒
編集済
   現在、『四季』に拠った詩人たちと、その周辺を主題にとりあげる唯一随一の研究誌とよんでよいと思ひますが、年刊『感泣亭秋報』14号が今年もつつがなく190ページの陣容で発行されました。

 私も今年の夏に行はれた青森講演を前に、裨益を被った坂口昌明さんへ感謝の念をのべた通信文を寄稿。今号は亡くなった比留間一成氏の追悼号でもありますが、坂口さんについてふれられた寄稿者が、杜実夫人の連載の他にも複数あり、齋藤吉彦研究、真珠博物館への協力等、博覧強記ならではの、中央からは知られること少なかった生前の御活躍が紹介され、この雑誌、印刷所もなぜか弘前なんですが、講演会の余韻もあって私には津軽との縁しをうれしく感じる一冊となってゐます。

 さてこのたびの特集は、三つあるのですが、まづは巻頭の「マチネ・ポエティク」、戦後抒情詩の実験的グループとして名高い彼らについて。
 中心メンバーだった福永武彦、加藤周一、中村真一郎が、小山正孝にあてた書簡がみつかり、渡邊啓史氏によって24ページにわたり紹介されてゐます。その後につづく半田侑子氏の一文、戦前の加藤周一が遺した「青春ノート」をめぐる考察とともに、興味深く拝読中です。

 四季派から咲いた徒花とも称される「マチネ・ポエティク」ですが、半田氏が加藤周一自らの説明によって要約した、その発生について、

「背景には一高時代に開かれた「万葉集」講読会があった。加藤、中村、白井、窪田らは「万葉集」を一言一句、正確に読もうとする経験ののちに、マラルメやヴァレリーなどの象徴詩を精読し、定型押韻詩の試みへと向かった」45p

といふところ、とりわけ、別のところで渡邊氏が引いてゐる中村真一郎の回想、

「その会では戦争批判は出ないけれども、戦争宣伝に対する一種の反対ということに雰囲気としてはなっていたと思うんです。どうして古典に向かったか。日本の軍国主義は一種のナショナリズムだから、無理しても日本文学を宣伝していた。そういうナショナリズムに対する反発もあったと思う。その反発には、フランス文学を読んで日本語の本は読まないというんじゃなくて、あなた方の日本文学の読みかたは、違っているんじゃないかということがあったと思いますね。」29p

 といふ、古典との関係は意外にも感じられました。そして加藤周一が、「悪いことというか、愚かなことをしたというので有名です」35p
と自嘲して見せる「定型詩」ですが、みなが論ふ「マチネ・ポエティク」といふ概念が単に「定型詩」を指すにとどまらぬ、戦時中の文学の在り方として、広義な「青年詩人たちの集まり」として論じられて良いのだ、と渡邊氏が指摘してをられます。

 すなはち『マチネ・ポエティク詩集』の序文には、作品はなくとも小山正孝や山崎剛太郎の名前が挙がってゐますが、敗戦をまたぐ戦中戦後の1940年代、世の中から距離を置いた堀辰雄を精神的支柱として仰いだ文学青年たちが、思想の動乱から超然と閉じて寄り集まり、持ち寄った高踏的な文芸創作物を朗読した会について、彼ら「仲間」たちの全体とその活動に対して冠せられるべき、亡き詩人立原道造が予定してゐた雑誌を念頭に置いたともいへる広義の「マチネ・ポエティク(『午前』の詩)」といふ概念があるといふこと。
 謂はば「定型詩」は、その結果、実を結んだ「成果のひとつ」であった、といふことが述べられてゐるのです。

 当時の堀辰雄を慕った若者たちのなかには、フランス象徴詩に理論的な根拠を討ねた若きインテリたちの他に、彼らにはまったく馴染むことのできなかった年少のカトリック詩人、野村英夫のやうな詩人もぽつんと孤立して隅に居りました。
 結核のために学業を排し、世事にも疎く家の遺産を食いつぶして転地療養をしてゐた彼の様子について、加藤周一は当時を回想する著書『羊の歌』(岩波新書1968年)のなかで、軽侮の念を以て吐き捨ててをります。立原道造に対して知的な敬意を抱き、四季派ばりの詩を書きはじめた彼にとって、堀辰雄の腰巾着にしかみえない野村英夫は、自分とは対極の環境的・精神的な位置に立ってゐる、求めざるライバルであったといへるかもしれません。

 そしてわれらが小山正孝ですが、戦争を忌避するリベラルな気質を同じくしながらも、しかもフランス象徴詩ではなく漢詩を素養にもつことによって、おそらくその他の俊英たちからは一目置かれる存在となり、また却ってそれがために作為的な押韻を諦めたかもしれない、さう私は思ってをります。
 立原道造に兄事した彼は、『四季』の詩情を体現する不幸な野村英夫の理解者・盟友となり、のみならず中国文学の造詣を以て晩年の堀辰雄に信頼されるようになった、当時は戦争詩を量産中の田中克己とも、『四季』同人の後輩として親しく交はるやうになります。
 押韻定型詩の詩学上では歩調を同じくすることを得ませんでしたが、謂はば戦争にコミットすることを避け得た数少ない詩人として、小山正孝はやはり「マチネ・ポエティク」の「仲間」の一人なのであって、小説家・批評家として文壇に巣立っていった彼らとも中立を保つ格好となった、めずらしい立ち位置にあった詩人であったことを銘記しておきたいと思ひます。

 「マチネ・ポエティク」を定型詩運動と呼ぶのは、戦後刊行された理論書『文学的考察1946』とその成果といふべき『詩集』によってもたらされた衝撃によるものでした。堀辰雄は野村英夫の「砂糖菓子のように甘ったるい」詩の、未熟なりに素質の良さを庇護し、なほかつ物足りなさが年を重ねて消えてゆくことを愉しみにしてゐたと思ふのですが、戦時中に朗読会を開いてゐた時点では、「マチネ・ポエティク」にしても、精神的支柱だった堀辰雄の周りでわきあがった、戦争からは目をつぶった綿菓子のやうな営為だったかも知れません。当時、杉浦明平から酷評されたことを記してゐる加藤周一ですが、後年、多恵子氏を中村真一郎と囲んだ座談会では、野村英夫に対してさすがに言葉を慎んだ物言ひとなってゐます(『堀辰雄全集別巻2』月報1980.11)。

(前略)【堀多恵子】 中村さんも福永さんも、いろいろなこと知っていてよくお出来になるでしょ。野村さんがその場にあてはまらない言葉を使ったりまちがったりすると、二人でくすくす笑うわけ。それで彼は傷めつけられたという感じになることがずいぶんありましたね。

【中村】 だってね、中里恒子さんが堀さんのお宅を訪ねて来ると、野村君は「今、中里さんがずしずしといらっしゃいます」と言うんだ。()「しずしず」をまちがえたんだけど。もっとも彼の詩は、そういう舌足らずのところが一種の魅力になっているんだが。

【加藤】 僕が最初に追分に来た時、もう野村さんはいたんだ。学生達は彼のことを「おかいこさん」と言ってたね。まゆの中に入っていて外に出ない、じっとかがんで入っているから。嘉門さんなんかは可愛がっていたな。井川さんは揶揄的だったけれども。シェストフなんかを読んでいる少年がいるというんで、大学生達は面白がっていましたね。

【堀多恵子】 主人は野村さんは何もわからないからと、かばっている感じで見ていたようです。福永さんとは、「四季」に詩を出すことをめぐってけんかしたみたい。

【中村】 「四季」の編集を野村君と小山正孝にやらせる号と、福永と僕やらせる号と一号ずつ分けて、ヴァラェティをもたせようとしたのね。そしたら野村、小山のやる号で福永の原稿を落とし、野村のが載ったので、けしからんと福永は激怒したんだ。

【堀多恵子】 野村さんが亡くなった時に、福永さんは「けんかして、それきりだった」とおっしゃってました。

【中村】 立原道造が死んで全集を出すというので野村君が実務に従事していた時に、立原の日記の中に自分の悪ロが書いてあるのを見つけて、野村君はショックをうけて編集を下りたですよね。それで、下りた直後に、野村君は僕の所に和解を申込んで来たんだ。それは立原の書いていることを見て、自分に欠点があるのに気づいて中村が怒ったのも無理はないと思ったわけ。だから戦争直後は僕の所にもしょっちゅう来るようになった。福永もそのうちに仲直りしょうと言ってたんですよ。

【堀多恵子】 そう、それがチャンスがなかったのか、そのままになっておしまいになったのね。

【中村】 で、遠藤周作君が野村君の所によく行ってたですね。野村君が死んだ時に彼の本を古本屋に売ったりして後始末までしている。僕が野村君に貸してた本まで古本屋に出ちゃったので、原田義人が目につく限り全部買い戻してくれたことがあったよ。(後略)


『羊の歌』はまた『田中克己日記』のなかでも、
「『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。(1969.7.4)」と書かれてゐるんですが、果たしてどこの部分だったでしょう。

 さて朗読を念頭に置いた定型詩としては、すでに佐藤一英らによる試みが戦争詩にからみとられる形で展開されてゐました。
 やはり『羊の歌』のなかに記されてゐることですが、大学構内に招待されたヒトラーユーゲントを白眼視をもって迎えた彼が、『ナチスドイツ青年詩集』を訳出した佐藤一英に対して一顧だに与へる筈もありません。が、全く別の意図を以て抒情詩の不備を補おうとしたマチネ・ポエティクの押韻定型詩の試みに対して半田氏が、『聯』とおなじやうな意義を感じてをられるのは面白いと思ひました。

「加藤の九八年の「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」、そして九九年の座談会の発言を見みると、加藤はマチネ・ポエティクの試みを、不定全ではあったが、全くの失敗だとは捉えていない。「もし「マティネー・ポエティック」の運動に歴史的な意味があるとすれば」と加藤がいうとき、少なくとも加藤自身は、マチネ・ポエティクには歴史的な意味があると考えていただろう。」45p

 三好達治が不満を漏らしたやうに、ポスト四季派といふべき『マチネ・ポエティク詩集』に盛られた詩情そのものの難解さは、一行一行を独立させようと腐心した、ポストモダニズムである『聯』詩と同様に変わるところがありません。
 批判が、前衛派・守旧派の双方からあつまり、結局詩壇に降参宣言をした彼らは、散文の世界へとそれぞれ活動の場を移してゆきます。そして小山正孝は、マチネの3名の俊秀から散文の才能を惜しまれながらも、野村英夫の側に残り、それがよかったかどうかは措いて詩人として立原道造の影響と格闘する道に分け入ることとなるのです。

 小山正孝と同じくマチネ・ポエティクの一人でいらした山崎剛太郎先生の長寿を寿ぎ、『マチネ・ポエティク詩集』刊行からしばらく経って、東大の後進である亀井俊介氏が渡米前に発表した「マチネ・ポエティクの詩人たち(1958年7月)」の一文を紹介して筆をおきます。

 今回も分量が豊富ですべてを紹介しきれませんが、津村秀夫ご長女高畑弥生氏による「津村信夫の憶い出」は必読です。

 最後に。 比留間一成氏とともに近藤晴彦氏の御冥福をお祈り申し上げます。



『感泣亭秋報』14号 2019.11.13 感位亭アーカイヴズ刊行 1,000円

 小山正孝「愛」4p

特集Ⅰ 連帯としての「マチネ・ポエティク」
その頃の友人たちと僕――戦争前夜の詩的状況(再録) 小山正孝 6p
またマチネみたいなことをやらう――小山正孝宛、福永武彦、中村真一郎、加藤周一のはがき 渡邊啓史 10p
加藤周一「青春ノート」から見るマチネ・ポエティク 半田侑子 34p
何も隠されてはいない――福永武彦の永遠なる未完成小説 三坂 剛 46p
自負と逡巡――1946年の中村真一郎 渡邊啓史 55p

特集Ⅱ 詩集「十二月感泣集」を読み直す
小山正孝の最後の詩集「十二月感泣集」を再読して 小笠原 眞 60p
小山正孝の〈永遠〉――二つの「池」を巡って 青木由弥子 64p
最後の和声が響く――小山正孝詩集「十二月感泣集」について 上手 宰 69p

特集Ⅲ 比留間一成さんを偲ぶ
詩人と教師――比留間一成さんの歩んだ教育の道 高山利三郎 74p
比留間一成先生を偲んで 八木澤泰子 64p
詩人・教育者・陶芸家 比留間一成の「優し」と私 横澤茂夫 81p

「顕彰活動のあるべき姿とは 渡邊俊夫 108p

異国拾遣 回想の古都“ユエ”――悲しくも静かな王城(再録) 山崎剛太郎 123p

感泣亭通信
小山正孝が訳した中国現代詩(その二)――桃蓬子「荒村」 佐藤普美子 129p
津村信夫の憶い出 高畑弥生 131p
一戸謙三展 中嶋康博 134p
かやつり草 富永たか子 135p
詩人たちの面影を求めて 服部 剛 136p
父「畠中哲夫」のこと 畠中晶子 138p
小山正孝さんのこと 前田良和 139p
山崎剛太郎さんを撮る~百一歳の山崎剛太郎さん自作の詩を朗読する~ 松岡みどり 141p
坂口昌明さんと真珠博物館 松月清郎 143p
感泣亭が結んだ糸――近藤晴彦先生を悼む 松木文子 145p
坂口さんの思い出 三上邦康 147p
梅雨明け 若杉美智子 148p

 山崎剛太郎(公園のベンチ)/中原むいは/里中智沙/大坂宏子/森永かず子/中村桃/柯撰以 150-165p

《私の好きな小山正孝》
愛を歌った時人の「切なさ」に心を惹かれる詩 萩原康吉 106p

常子抄 絲りつ 168p
坂口昌明の足跡を迫りて(4)  坂口杜実 170p
信濃追分便り2 布川 鴇 177p
〈十三月感泣集〉他生の欠片 柯撰以 178p
鑑賞旅行覚え書(4) 廻り舞台 武田ミモザ 180p
小山正孝の周辺(8) マチネ・ポエティク世代の文学観(1) 蓜島 亘 182p

感位亭アーカイヴズ便り 小山正見 187p


追伸
 立原道造の会の運営につき苦言が呈された一文については、顕彰活動の当初から関られた人物からたうとう声が挙るまでになったのか、といふ感じで瞠目。拙サイトのトップページの検索窓に「P氏」の名前を入れると、昔の嫌な思ひ出が2件ヒットしてきますが、彼の文学を愛するほどの人ならば触れたくもないやうな話題について、敢えて書くことを決意された義憤のしのばれる一文でした。
 これにより「P氏」の功績が消えてしまふ訳ではありませんが、組織を運営する際に求められる透明性──“「開く」ことの大切さ”を挙げて雑誌主宰者の正見様が、この一文を能く載せられたことと驚き感心してをります。

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『イミタチオ』60号「日本浪曼派とイロニー」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年11月 2日(土)12時47分16秒
  金沢の米村元紀様より『イミタチオ』60号の御寄贈に与りました。

保田與重郎ノート6は、『コギト』創刊から『日本浪曼派』の顛末の頃までの、保田與重郎の文章を彩った「イロニー」についての考察です。一般的に「皮肉」や「逆説」として解されるアイロニーのことです。

同人雑誌『コギト』が、文壇デビューの準備の場ではなく、「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ方向性を掲げた文学運動体として創刊されたこと。今回のノートは、その実体が、同人を形成してゐた旧制大阪高等学校時代の友情、とりわけ資産家だった肥下恒夫が負担した雑誌運営資金と、ドイツ語を得意とした松下武雄・服部正己・田中克己といった翻訳陣の訳業資源をバックにした「協同の営為」によるものであったことを押さえるところから、説き始められてゐます。

つまりその「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ強面(こはもて)の方向性ですが、「古典を殻として愛する」彼らは、その一皮下には旧制高校で培はれた共通理解の友情のグルント(土台)があったといふこと。(そこへ入ってゆけなかった東京者の立原道造はもとより、世代を異にした伊東静雄も、この連中は会合で集まっても世間話ばかりでお互いの批評を全然し合はない、って怒ってます。)

保田與重郎が、資金面で問題のない自由に話せる場所を確保し、力強い翻訳陣の援護射撃を得て、「題からして眼がキラキラし、その内容に至っては到底何のことやら分からない」文芸批評を次々に展開してゆく。「ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆」とか「後退する意識過剰」とか、これは確かに高見順みたいなリベラルな先輩知識人を、タイトルだけで以て聞きかねさせ、なにかしらイライラさせる「毒の魅力」があったと思ひます。

しかしてドイツロマン派から直輸入されたといふ「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったか。

『コギト』の二人の詩人、伊東静雄、田中克己にも、かうしたイライラさせる修辞、言ってみれば機嫌の悪い「あてこすり」の精神がスパイスとして効いてゐて、その点、所謂「四季派」のポエジーとは区別される訳ですが、「皮肉」や「逆説」として解される「一般的イロニー」ではなく、本場のドイツロマン派にあらわれた「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったのか。

語学不足で原典には深入りできなかった筈の保田與重郎が多用した「イロニー」といふ言葉ですが、米村氏はシュレーゲルが開陳した「ロマン的イロニー」の原義に沿って見てみて、「それほど間違ったものではなかった」と結論づけてゐます。その後半の条り、私自身はたして「イロニー」って理解してゐたんだらうか、と案じながら興味深く拝読しました。

読みつつ思ったのが、「ロマン主義は自己破壊、自己創造を同時に実現する実践活動(65p)」であるという定義。これは実存主義の概念がなかった時代の「企投」に似たものであったのか。

そして「われわれは同一人にしてかつ別人でなければならない(65p)」といふのも、「イロニーとは古代の文献解読の態度である(67p)」ことを念頭に、すなわち自分を無にして当時の人たちによりそって(のりうつって)考へること、畢竟、現在の知性で過去を断ずるな、といふ教条的なマルクス史観の否定、そしてその後は便乗「日本主義」を退け、結局当局に睨まれることにもなった、彼の歴史に対する姿勢の大本をなしてゆくものではなかったか、といふ感想でした。

ひとつ気になったのは、「デスパレートになったのは社会主義文芸に携わった青年たちであり、日本浪曼派の人々ではない(62p)」とあったところ。「何を(社会主義文芸)」でも、「どのように(モダニズム文芸)」でもなく、「なぜ」文学をするのかに執拗に拘った初期の保田與重郎ですが、「デスパレートな心情」を、社会主義文芸に携はった青年たちと同じくした時代もあったんじゃなかったかな、といふ理解を自分はしてゐます。

思ふに両者を相反する立場に分けてしまったのは、文学デビューしたものの(言論弾圧による)デスパレートな状況に陥り、自省をつきつめて「転向」していった「社会主義文芸に携わった青年たち」と、デビュー時期自体がすでにデスパレートな閉塞環境にあって正義感の表出を「イロニー」を弄して韜晦せざるを得なかった保田與重郎たちと、ほんの数年にすぎない世代の差にすぎなかったのではなかったか。かうしたたった数年の違ひによる世代の断絶は、こののちアプレゲールとの間にもう一度起きています。

そして興味深いことに、現在の日本に照らしてみると、同様の若々しいヒューマニズムが、以前なら反権力の文脈でリベラルに言ひ捨てて当り前だったことが、後ろ楯だった共産主義国家の実体によって裏切られ、かたや弱肉強食のグローバリズムが資本主義陣営を跋扈し始めるに至って、守るべきアイデンティティがコスモポリタリズムではあり得なくなった現状と、ほぼ類比されうるものとなってきてゐるとは言へないか。示唆されるところ多く観ぜられるのです。

ここにても御礼を申し上げます。まことにありがたうございました。

『イミタチオ』60号 (2019.10金沢近代文芸研究会184,5p \800)

評論 「保田與重郎ノート6「日本浪曼派とイロニー」米村元紀……31-74p
 『コギト』創刊の頃
 共同の営為
 独逸浪曼派特集
 ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆
 群衆の復讐と萩原朔太郎
 『日本浪曼派』の創刊から終刊へ
 後退する意識過剰と純粋小説論
 内的貧困と巨大なロマン
 文藝雑誌編集方針総じて未し
 ドイツロマン派から日本の古典へ
 『日本浪曼派』以後、所謂「日本主義」との闘い
 ロマン主義的イロニーについて
 

『堀内幸枝全詩集』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月29日(日)18時35分48秒
編集済
  『堀内幸枝全詩集』(2009年 沖積舎刊) の年譜を読んでゐました。

 同人にこそなられませんでしたが、杉山平一先生が解説の中で語るやうに「『四季』の詩人」であり(845p)、代表作『村のアルバム』の序文を書いた船越章は、田中克己と遠縁の『コギト』旧同人、また岐阜にも縁の深い深尾須磨子と付き合ひの深い人だったとは初耳でした。

 年譜の中で田中克己と会ったのが1964年中河与一邸でとありますが(875p)、1959年6月6日林富士馬邸においてであるので一応訂正。

6月6日
松本(松本善海)と出て喫茶しゐれば那珂太郎と西垣脩氏と遭ひ、西垣氏を松本に紹介すれば、松山高校での後輩なりし。
林dr.(林富士馬)にゆかんと云はれ、地下鉄にて新大塚下車。beerよばれ堀内幸枝女史来会。「船越章と甲府にて識る」と。
20:00 西垣氏を家に案内し、茶漬食ってもらふ。


 『まほろば』にも参加された由、その縁で『桃』には山川弘至にまつはる手紙を載せたのでしょうか(1991年)。四季派にかぎらず山岸外史(1985年)から岩本修蔵(1989年)まで実に幅広い詩人たちの懐旧譚を書き綴ってをられますが、親炙した田中冬二のことは「次の一冊にまとめたいとこの全集からのぞいておいた」とありました。

 とまれ、別件で県立図書館にいった折にみつけた全詩集でしたが、目に留まったのは、その姿が自分の『詩作ノート』とそっくりだったから。
 本を作る際に、函の寸法を定めるため、表紙から本文から外装をそっくり試験的に作った出来上がり見本、中には何も印刷されてゐない「白い本」のことを「束見本」といひます。出版社が多い神田神保町では、古本屋の店頭に色んな装釘の束見本が並べられ、余剰物として安価に売られてゐましたが、わたしの在京当時、三十年前のことですが、分厚い一冊を『詩作ノート』として重宝してゐたのが、なんと堀内『全詩集』と略おなじ姿であったので、おどろきました。

 『全詩集』は十年前の2009年の刊行ですから、不思議な符合といふべきですが、或ひは私の持ってゐる束見本と同じ装釘の本が世の中に刊行されてゐて、それを参考に詩人が選ばれたのであったかもしれません。今月白寿を迎へられた由。切に健康をお祈り申し上げます。





 詩集『村のアルバム』 (1957年 的場書房版「序文」:1970年 冬至書房再刊版「跋」) 

 「村のアルバム」は実は堀内幸枝さんの第一詩集となるべきものであった。「堀内さんは甲州のある山峡の村に、旧家の一人娘として生れ、父母をはじめ周囲のあらゆる人々の鐘愛の的となりながら、幸福に静かに乙女の日の明け暮れを送ったのである。その頃は、わが国を、そして私たちを今日の不幸におとしいれたあの戦争は、まだ始ってはいなかった。おだやかな山峡の空に、林に、そして川に、堀内さんの夢と情感と理知とは豊かに育って行ったのである。ここに収められた三十数篇の詩は、すべてその頃の作品なのである。 

 「村のアルバム」の描く世界は極端に限られている。しかしそこにみられるのは、乙女にありがちの甘い感傷ではない。はばたく理知と強力な意志とに支えられた、清純な折情である。この抒情の本質は、深くわが国古来の詩歌の伝統に触れ、些かの感傷を含まずして、読むひとをして抒情の世界に誘う力を持っている。この詩集が、堀内さんの女学生時代とその後の僅か一両年の間になったものであることを思えば、早熟の詩才、誠に驚くべきものがある。 

 堀内さんはこの一巻の詩集「村のアルバム」を乙女の日の記念として結婚した。爾来十数年。生活の変化と戦争の傷手とは、ひしひしと堀内さんの身辺に迫った。妻として二児の母として、堀内さんは繁累のなかに堪えて生きた。しかも詩作の筆は、かつて捨てることはなかったのである。乙女の日の伸びやかな抒情はすでに失はれた。苦悩を経て、理知と意志はさらに強められ、反省のにがさが新しく加へられた。しかし苦悩に堪えた抒情は、いま深く悲しい歌声となって、その清らかさを依然として失ってはいないのである。ひとはこの詩集より前に公けにされた筈の、堀内さんの戦後の詩作によって、私の言の溢美でないことを認められるであらう。私は堀内さんの将来に大きな期待を寄せるもののひとりである。 

 私が堀内さんと相知ったのは、既に十数年の昔である。思うに堀内さんがこの詩集の第二部「春の雲」の諸作品を書いていた頃である。私は堀内さんの早熟の才能に驚きつつ、その才能の前途に一抹の不安を感じていた。あまりに早い自己の詩境の把握と、技巧の完成とをおそれたからである。いまとなって私はこれが杞憂であったことを喜びとするのである。 

 戦争は堀内さんと私とを遠く隔ててしまった。繁忙の俗事に追はれ、病床に親しみがちの私は、いつか詩壇の消息に昏くなって行った。しかも偶然の奇縁は、ふたたび私に堀内さんの人と作品に接する喜びを与へた。乙女の日のこれらの詩作を一巻にまとめるに当って、堀内さんは私にあとがきの執筆を依頼した。これは他意あってのことではあるまい。漸く老いて魂に詩情を失ひつつある私に、昔日の夢を追起せしめようとする好意によるのであろう。私は深くこれを感謝する。そして出づることあまりに遅かった堀内さんの「村のアルバム」が、真実に詩を愛する人たちによって、暖く理解され、好意を以て迎へられることを心から祈念して止まない。ささやかなりとも一巻の詩集「村のアルバム」は、わが国の詩歌の歴史に美しい宝石を飾るものであることを私は信じて疑はないのである。 

 一九五三年初冬   船越 章

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『平成の文学とはなんだったのか』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月27日(金)00時04分50秒
編集済
  『平成の文学とはなんだったのか』(重里徹也・助川幸逸郎共著 はるかぜ書房 2019)

 平成文学の収穫を小説分野にみている御両人の対談は、私が読んで理解できるかどうか始め不安でしたが、「昭和の負債の清算をせまられた平成」という共通認識をもって、何がどのタイミングでどう変わったのか、まずはこの30年の時代を腑に落ちるかたちでわかりやすく説明した上で、問題ごとに合わせて著者・著書を並べて論じてゆく、謂わば「文化論」の趣きが濃いものであったので惹きこまれました。

 沢山出てくる小説家の名前については、ですから未読の人にとっては「ああ、そういう立ち位置にある作家なのか」と、俯瞰図の中に道標を立ててくれる感じ、読み巧者にはタイトルと不即不離の「平成の時代とはなんだったのか」という問いについて一緒に考えるよう、次々に話題としてふってくる感じ、でありましょう。

 も少し具体的には、作家を通して顕在化される世間の深層で求められている空気というものが、リーマンショック・東日本大震災(原発事故)を境に、

「孤高の天才」や「アウトロー」の主人公が活躍するバブリーな物語から、
「集合知」でもって「連帯」や「配分」を模索するサステナブルな物語を志向するものへと変わってきているということ。

 グローバリズムが将来した新自由主義の擡頭を止められなかった、リベラリズムの教養主義が失墜して、
「地方」住みの主人公から発信される、過疎や高齢化に向き合った、都会との波打ち際での物語が多くなってきたこと。

 そんな内容の対談を、側で聞かせてもらってウンウン頷いておりました。

 個人的には「古典は必要か」の条りにおいて、古典不要論者に対して「決定的に古い」と、彼らが一番に嫌がるレッテルを貼りつけてやった(104p)のに、痛快を覚えました。成功者は国を捨てて逃げてゆく、そうならぬよう人材をつなぎとめておくのが教育(国際人として自国の古典を語れる誇り)なんだ、という視点は、正くその通りです。(しかし身もフタもない彼らは「逃げてゆかないようにするのは教育ではなくシステムだよ」と、さらなる減らず口を叩きそうな気もします。)

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『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月23日(月)13時25分52秒
   老後の楽しみにと、漢詩集を買ひ集めてゐますが、以前に入手した『山陽詩鈔』の槧本が初版であり、かつ校正者である後藤松陰本人の手澤本であったことが最近になって判って、ビックリしてゐます。

 和本の世界では、刊記の年がそのまま印刷された年であるとは限らず、殊にもベストセラーとなると摺り版の見極めは難しいもの。

 見返しは同じでも、奥付の元号屋号を換へていろいろと出回ってる『山陽詩鈔』ですが、なるべく刷りがハッキリした本を探してゐたところ、ネットオークションで揃ひの4冊本を手ごろな値段で手に入れることができました。それで、珍しい本でもないから中身をしっかり検めることもせずに、書棚に放り込んでゐたんですね。(購入当時、こんなこと書いてをりました。馬鹿ですね。)

 ところが先日よその『山陽詩鈔』と自分の本との異同を確かめてゐたところ、最終頁にあるべき題詩がない。よくよく見たら手許の題詩は印刷でなく手書きじゃないですか。ぞっとしてめくってみたらば、本文鼇頭の朱筆細書もすべてが後藤松陰本人のものでありました。

 ともかくもおどろいて職場の紀要『岐阜女子大学地域文化研究』に資料紹介を書くことにしました。
 「後刷本」との異同を、書き入れと共に「初版本」の証拠として掲げ、同書の書誌判定、および頼山陽の研究資料として供します。画像公開は紀要の刊行(来年4月)までお待ちください。(頼山陽の祥月命日に)
 

「特別展 詩人・一戸謙三」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 8月 1日(木)20時57分48秒
編集済
 
 みなさん、一戸謙三といふ詩人を御存知でしょうか。モダニズム詩人たちのメッカ『椎の木』の同人だったこともある詩人で、いまは地元青森にて高木恭造とともに「方言詩人」として認知されてゐます。

 Facebook・twitterで報知済みですが、この夏、青森県立近代文学館にて「特別展 詩人・一戸謙三」が催され、その詩と詩人について私が講演をさせていただくことになりました。

 私は津軽弁がわかりませんので、彼の「方言詩以外の詩」についてお話することになってゐます。

 以下に、時間の関係で省略することになった【前段 詩人紹介】について掲げます(現代仮名遣い)。

 興味を持たれた皆様には『図録』を手にとっていただきたく、またお近くの方にはぜひ特別展をご覧いただきましたら幸甚です。
 

【前段 詩人紹介】

「ありがとうございます。さて、この地元でも一戸謙三という詩人は一般には、さきほど申し上げましたように、御当地津軽弁の「方言詩」によって認知されている訳でして、「方言詩」といえば、皆さんもご存じの、高木恭造の詩集『まるめろ』が全国では有名なんですが、本題に入る前に、今日はお話ししないこの「方言詩」に絡んで、詩人としての一戸謙三の評価について、最初に触れておきたいと思います。

 方言詩というのは、方言ならではのニュアンスを声で伝える「朗読詩」であるというところに一番の特徴があります。つまり一般に詩を読むという行為──「詩集」に印刷された活字を黙読する普通の読書とは違って、「朗読詩」を読むという行為には、演劇性があるんですね。それで津軽方言詩が、物珍しい一種の「劇」のように、朗読会やレコードを通じて、地元青森県人だけでなく、津軽弁を解さない都会の人たち、そして日ごろ文学に親しむことのない人たちに対しても非常な注目を集めた、ということがあったと思います。

 高木恭造は、方言詩でデビューを飾った詩人ですが、実はその後はずっと方言詩からは遠ざかっていて、もうすっかり忘れられた頃に、詩壇の外から注目されました。いま申し上げた「朗読詩」によって、東京でカルチャーショック的に有名になり、昭和40年代の、フォークソングを始めとするアングラ文化を担う若者たちの支持を得て、晩年をにぎやかに送ることが出来た詩人でした。

 本日お話する一戸謙三はというと、一緒に彼の方言詩も見直されたということはあったと思っていますが、そういう場を避けて、敢えて「朗読詩」のブームには乗らなかった詩人です。

 そして一戸謙三にしても高木恭造にしても、ふるさとで方言詩が詩碑にまで刻まれるという栄誉をこうむっているんですが、実はお二人とも一連の方言詩とは別にですね、共通語で書いたすぐれた抒情詩と前衛詩とを公にしております。【※】

 このことは、ブームを起こした高木恭造自身が、朗読会の会場で「『まるめろ』以後の作品が全く顧みられない」と嘆いているんですが、みなさんあまりご存じない。

 もっと言えば一戸謙三は、高木恭造とは異なり、そもそも方言詩を書いて出発した詩人ではありませんでした。

 今日はそのことをお話しするわけですけれども、一戸謙三も、詩人としての最初の詩集は、先ほど申し上げましたが方言だけで書かれた『ねぷた』という名前の詩集です。昭和11年に刊行しております。読んで頂いた、「街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぶて、それでも咲エでる茨(バラ)の花(ハナコ)」という詩。当時の彼は、

「私が方言詩を書くまで十数年の間に、約二百篇位の詩を書いていたが、それらの作品全部と、このつまらない津軽弁の詩の試作とがつり合うとまで考えはじめていた。」

 なんて思っていたそうです。「このつまらない津軽弁の詩」というのは、それだけ自信を以て臨んでいる、という裏返しの表現です。しかし方言詩については坂口昌明先生も「一般読者が合点するには山菜を調理する程度の根気が要るのはやむを得ない」と、認めておられますが、よその地域の人にはなかなかわからない。私も『ねぷた』は友達に譲ってしまいましたし、高木恭造が遺した津軽弁による朗読を聴きましたが、かみしめるような調子に感じ入ったものの、如何せん単語がわかりませんから、それ以上は踏み込めない。やはりそれなりの経験が必要だな、と観念したことであります。

 そしてこれが肝心なんですが、一戸謙三は高木恭造とは違って、それまでに書いてきた、方言詩以外の沢山の詩に「詩集」という形を与えて出版することを、そのときしなかったのですね。

 さらに方言詩も作るのをやめてしまって、戦争がはじまるとすべての詩の発表を中断して沈黙してしまうのです。ふたたびペンを執るのは戦後になってからでした。

 戦後になってようやく彼は、自分が納得のゆくように、自撰詩集を二度編んでいるんですが、その際に、自分の詩作を「○○時代」「○○時代」という風に名前を付けて整理して、それぞれの時代に数編づつの作品しか残しませんでした。昭和40年代になると日本は出版ブームを迎えるんですが、戦前に活躍した多くの詩人のようには『全詩集』は作られなかった。彼は自分の『全詩集』というものに興味がなかったようです。

 いさぎよいと言えばそれまでですが、二度の自撰詩集では同じ作品を選んでおります。「自分の魂の遍歴は、これだけ集めてあれば理解されると思う」なんて書いている。そしてそれを補うかの様に、589回にも上る新聞の連載「不断亭雑記」で、自らの詩的生涯を回想をしている訳ですけれど※、詩人というのはやはり「詩集」という宝石箱の中に詩を遺さないと、人々の記憶に残らない。星も星座図のなかに所を得てはじめて名前が覚えられます。個々の作品が単品で輝き続けるというのはなかなか難しいんですね。

 これが「実像」に比較して、小さく偏った文学史的評価に、詩人一戸謙三が甘んじなくてはならなくなった一番の原因だと思います。

 そして詩人が亡くなって30年も経ってからのことになりますが、詩誌『朔』の特集号の中で坂口先生が、謙三の自撰詩集には出来の良い作品がごっそり削られていることを指摘して、たいへん惜しまれた。おなじ津軽詩人の高木恭造と較べ、不当な評価が定着していることについても疑問を呈された。

 その理由として坂口先生は、一戸謙三という詩人のことを「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。(み‐231p)」また「詩人として非常に高いレベルにいた人なので、理解者が少なかったということが案外大きいと思う。」「そうすると人間というのは、自分はこれでいいのか、と自分を疑いだす、それで、絶えず自分の作品を創り直したり、或いはなきものにしたり(『探珠』100号‐7p)」したのではないか。」そう仰言っています。

 私も、彼がことあるごとに、自分の詩歴を整理して語ることを好んだことについては、思うことがあります。

 地元詩壇で陣頭に立っていた彼には、対外的な意識が強かったこと、そして、地方在住の詩人は中央から批評されることが少なく、自分たちが起こした運動については自ら解説せざるを得なかった、そういう事情があったのではないか。「これだけ残せばあとはいい」といういさぎよさは、自覚的な詩作を続けた一戸謙三らしい、詩人としての自負の表れだったように、私には思われます

 そしていつの時代も地元新聞が彼に発表の場所を与えてくれていたこと――これは今回この詩人のことを調べながら思ったことですが、青森人の、地元文化を応援しようという思いが、今に至るまでまことに厚いことに驚いています。逆に言えば、その居心地の良さが彼をして地元に安住させたと、いえないこともないのですが、文学館のない東海地方の人間からすれば、これは本当に羨ましく思ったところです。

 本日は方言詩の意義や鑑賞は前回の工藤正廣先生の文学講座におまかせしましたので、それでは謙三の方言詩以外の詩について、それらがどんなものであったか、書かれた背景と変遷とを順番にたどって参りたいと思います。」
 
 
2019年8月18日(日曜日)13:00~15:00

会場:青森県総合社会教育センター2F大研修室(青森県立図書館となり)

〇講演と朗読 「詩人一戸謙三の軌跡方言詩の前後をよみとく」

講演:中嶋康博 朗読:大川原儀明氏(「あおもりボイスラボ」代表) 稲葉千秋氏(青森朝日放送アナウンサー)



『特別展 詩人・一戸謙三』図録(価格1200円)

<目次>

 開催に当たって
02一戸謙三の詩の魅力について   静かで豊かな時間感覚がそこにある・・・藤田晴央
04詩の産声(1899~1919年)
06閉ざされたページ(1920~1922年)
08地方主義の旗のもとに(1923~1932年)
10「イダコとタユ」─盟友齋藤吉彦との最後の一齣─・・・一戸晃
12津軽方言詩の開花(1933~1937年)
14津軽方言詩論争・・・櫛引洋一
16詩の音楽性を求めて(1938~1955年)
18一戸謙三のモダニズム詩──総括と転身と・・・中嶋康博
20茨の花(1956~1979年)
22新しい方言詩の道をたずねて・・・工藤正廣
24一戸謙三略年譜・・・青森県近代文学館編
28母ふきに抱かれた幼い謙三1899(明治32)年ごろ
29遺品 30書画 31作詞・受賞 32顕彰等 協力者

問い合わせは、青森県近代文学館:bgk@plib.pref.aomori.lg.jpまで。

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