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『詩人一戸謙三の軌跡』第七集

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 9月20日(木)19時54分56秒
  津軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』第七集をお送りいただきました。
今回、「『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって」と題して、本サイト上に揚げた文章を裁ち直し加筆・編集したものを掲載して頂きました。
御遺族が編集される文集の一部として拙文が収められるに至ったことは、名誉にして嬉しく、追ってこちらにても公開する予定です。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『詩人一戸謙三の軌跡』 の、これまでの軌跡。

第一集 平成28年11月3日発行
詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し (少年時代1917-1918)」 5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い 1923-1926)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い 1929-1931)」 77-104p

第二集 (1926-1943) 平成29年4月25日発行
方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p

第三集 (1930-1934) 平成29年8月18日発行
第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p

第四集 平成29年9月30日発行
第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 (1920-1922) 1-122p
  プロローグ
  1.出生地(石黒町上町)
  2.美濃半(長谷川菓子店)
  3.流転の頃
  4.闇五郎
  5.Sさん(佐藤タケ)
  6.黒石文壇と文芸の集い
  7.黒石高等小学校代用教員
  8.一葉の便り
  エピローグ

第五集 平成30年2月10日発行
第13篇 「東京」と詩人一戸謙三Ⅰ 慶応義塾大学医学部予科生の頃 (1918-1920) 1-106p
  1.東京と弘中生 一戸謙三
  2.慶応義塾大学医学部予科生 一戸謙三
  3.石坂洋次郎の浪人時代

第六集 平成30年6月23日発行
第14篇 「東京」と詩人一戸謙三Ⅱ 農商務省商務局商事課雇員の頃 (1922-1923) 1-106p
  1.農商務省商務局商事課雇員
  2.雇員の頃、詩作
  3.雇員の頃、周辺の人物
  4.再度の都落ち

第七集 平成30年9月15日発行
第15篇 敗戦前後と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃Ⅰ (1943-1945) 1-78p
  1.敗戦間際の詩篇と建物疎開
  2.敗戦後の詩篇と列車往来
  3.詩人の復興
  4.弘前での単身生活
『自撰一戸謙三詩集』収録詩篇をめぐって(中嶋康博) 79-92p
『自撰一戸謙三詩集』寄贈本の顛末(一戸 晃) 93-107p
おわりに 108-109p
 
 

重陽

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 9月 9日(日)16時51分50秒
  現在翻刻着手中の、大垣藩臣河井東皐(1758 宝暦8年~1843 天保14年)の写本詩集から。


 重陽上養老山

雲裡登高古佛龕
境移盧岳藹烟嵐
飛流直逐青蓮跡
泛酒兼開黄菊潭
養老況逢佳節會
交歓何厭醴泉甘
休嘲狂態頻傾帽
風是龍山自澗南
         養老山南有龍峰※4

重陽、養老山に上る。

雲裡に登高すれば 古佛の龕
境は盧岳に移る 藹烟の嵐
飛流は直ちに逐ふ 青蓮の跡※1
酒に泛べるに兼て(前もって)開く 黄菊の潭※2
養老 況や佳節の會に逢はんとは
交歓 何ぞ厭はん醴泉の甘きを
嘲けるを休めよ 狂態 頻りに帽を傾けるを※3
風は是れ龍山 澗の南よりす

安永十年(1781)九月九日の作と思はれ、23歳の作です。

※1青蓮居士(李白)の詩「望廬山瀑布」の「飛流直下三千尺」を踏まへる。
※2酒に菊花弁をうかべた陶淵明を踏まへる。
※3龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事を踏まへる。
※4養老山南に地元僧龍峰が住んでゐた事に掛ける。



もひとり大垣藩臣の野村藤陰(1827 文政10年~1899 明治32年)の詩集から。
河井東皐からは随分後輩にあたる人ですが、こちらの宴は鉄心先輩が居ないもののメンバー豪華すぎ。
嘉永三年(1850)の作でしょうか。とすれば東皐と同じく23歳の作です。

重陽日
凉庭新宮翁、拙堂先生の為に都下名流を南禅寺順正書院に招く。先生携ふるに諸子を従行して往く。煥(藤陰)亦た陪す。
是日会する者。中嶋棕隠、梁川星巌、牧贛齋(百峰)、紅蘭女史、池内陶所、牧野天嶺、佐渡精齋諸子也。七律一章を賦して之を紀す。

不用登高望古関
且陪笑語共懽然
同時難遇文星聚
令節况逢晴景妍
烏帽白衣人雜坐
黄花緑酒客留連
龍山千古傳佳話
孰與風流今日筵

登高を用ゐず 古関を望むに
且く陪笑す 共に語りて懽然たり
同時に難ひ遇し 文星聚まる
令節 況んや晴景の妍(うつく)しきに逢はんとは
烏帽※白衣※ 人は雜坐し
黄花 緑酒 客は留連す
龍山 千古 佳話を伝へ
孰れか風流今日の筵を與にせん

※前述龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事と
※陶淵明が白衣の人より酒を送られた故事を踏まへる。


9月9日は重陽の節句ですが、新暦だとやはり七夕と同様霖雨にたたられますね。
本日美濃地方は曇天。旧暦の9月9日、今年は新暦10月17日とのことです。(写真は台風が来る前の長良川)
 

田中克己日記 1965

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 8月28日(火)03時24分33秒
編集済
  【田中克己文学館】に「田中克己日記 1965年」の翻刻をupしました。

 最近ニュースで東京医科大の「差別入試」問題が炎上しましたが、運営が鷹揚だった昔の私立大学の内部事情など、当時の関係者の日記を覗けばいくらでも見てとれるやうに思ひます。
 田中先生の日記を翻刻しながら嬉しく思ったのは、そんな当時でも、お金には潔癖な様子が窺はれるところでした。
 しかしながらこの日記も昭和40年代に突入。関係者の多くが存命人物となるこれより先、個人情報を大幅に割愛してゆかうと考へてをります。御了解ください。

http://

 

大垣漢詩人展墓

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 8月27日(月)09時52分5秒
編集済
  現在調査中資料に関り、大垣の先賢に御挨拶。午後は関西からみえた先生に就いて調査資料を陪観することが叶ひ眼福の至り。吾が古本狂時代の先輩コレクターとの面晤もはたして傾蓋故の如く誠に楽しい有意義な一日をすごしました。華渓寺の御住職ならびにむすびの地記念館の学芸員様にも深謝です。ありがたうございました。  

『若い日に読んだ詩と詩人』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 8月10日(金)23時55分17秒
   amazon、そして拙サイトにもupした『日本近代詩の成立(2016 南雲堂刊)』の書評ですが、著者の亀井俊介先生のお目に留まり、そのおかげだと思ひますが、このたび『若い日に読んだ詩と詩人』といふ一冊のエッセイの御寄贈に与りました。おそらくこのやうな新刊があったことなど、どなたも御存じないでしょうし、今後も手に取ることはおろか目にすることもない本となるでしょう。なぜって奥付には信じられない発行部数が「限定21部」と印刷されてゐましたから。

 しかしながら、カバーこそ即席デザインですが(愛書家としてこれだけは残念でした)、A5版139pのコンテンツをしっかり印刷・製本されたこの本が、たった21冊しか造られなかったとはやっぱり信じられない。不審に思ひつつ早速「あとがき」に目を通すと、中身の文章7本のエッセイのいずれもが、亀井先生がアメリカに留学される前、東京大学大学院時代に友人と興した文芸同人誌『状況』『浪曼群盗』等に発表した、1958年当時の執筆にかかる“若書きエッセイ”をまとめたものであるということ。そして昨年まとめられた『亀井俊介オーラルヒストリー(2017 研究社刊)』の、謂はば余勢をかった副産物として、岐阜女子大学大学院で教鞭を執られた亀井先生をかこむ英米文学愛好サロンの人々により、その強力な要望に応へるかたちで作成されたプライベートプレス本であるらしいといふこと。
 本書のかうした成立事情、つまり超稀覯本ができた理由と、タイトルとなった「若い日に読んだ詩と詩人」の背景、当時の同人誌をめぐる興味深い懐旧譚とが「あとがき」に綴られてゐました。僅かに十数冊が届けられたと思しきそのうちに、ゼミ生でも教へ子でもなかった私を選んで頂いた幸せをかみしめた次第です。

 さて、であるならばです。さきの書き下ろしの大著『日本近代詩の成立』の冒頭で、亀井先生が日夏耿之介の『明治大正詩史』を引き合ひに出して述べられた若き日の詩観のこと、芸術派だけでなく難解な現代詩に対しても飽き足らぬ思いを詩作者として抱いておられたといふ当時の先生が、その時点のその立場で、いったいどんな文章を実際に書いてをられたのか、これは興味深いことです。読みはじめて、前半の日本の抒情詩について論じられた部分、「立原道造」、「津村信夫」、そして四季派の末裔変種として戦後、発芽しただけで熄んでしまった「マチネ・ポエティク」を論じた3本に早速瞠目しました。

 例へば立原道造の項では、「僕はこのごろレトリックなしになりたい」との告白を「彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎない」と喝破。そして津村信夫については、西欧に夢見た物語から妻の在所を通じて日本の(信州の)物語に回帰してゆく過程で、語り部として「触媒のような存在になって」しまった詩人に対して食ひ足りなさを表明し、「たとえば堀辰雄が隠しもっているような果敢さはほとんどないといってよい」と言及。また彼が「自然、自然」と言ひながらも「自然美ということには大して関心を示さなかった」と、立原道造との差異を指摘された条り、などなど。

 「露骨な反感の表現は反省する」と回顧された「マチネ・ポエティク」論のなかで「生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだ」との詩観を開陳されてゐる亀井先生ですが、60年前の当時、新進気鋭だった同時代人、大岡信や田中清光といった人々が、これらのエッセイを読んだかどうかわかりません。ですが、私が詩を書き始めたころ、彼らの評論を通じて再確認することのできた、四季派と呼ばれる詩人たちの生理について、詩作者として悩み、進路を模索してをられた若き日の亀井先生が、同じく彼らの詩に魅力を認め、その問題点とともに探ってをられたといふこと。「自身の詩的態度の検証のために書いた」と仰言るエッセイに、それが、短くも的確に分かりやすく説明されてあることに吃驚しました。そして、これまで多くの関係論文を読んできた私ですが、半世紀以上前の創見に瞠目の思いを新たにし、この3エッセイを“若書き”だからという理由だけで、たった20人に供するだけでは、あまりにももったいないのではないかと思ったのでした。

 「四季・コギト・詩集ホームぺージ」という名前のサイトを開設し、四季派や日本浪曼派に括られそうな詩人たちの詩と詩集の紹介にいそしんできた私ですが、これまで立原道造・津村信夫(そして伊東静雄)といった中心人物については、あまりにも多くの論者によって分析的研究がなされてきたこともあって、生中なコメントを書くことが躊躇はれ、これまで正面からコメントすることを避けてきました。亀井先生のこれらの文章を、許諾を得て全文を紹介させて頂くことが出来たのは、まことに名誉なことで、これまで「四季」の名を冠しながら彼らに言及してこなかった拙サイトの正に両眼に点晴を得たやうな思ひもしてゐるところです。

 各原稿の転載を快く許諾くださった亀井俊介先生、そしてこの本を企画して作ってくださった犬飼誠先生、日比野実紀子さんに深甚の謝意を表します。ありがたうございました。
 

『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 3月28日(水)12時34分32秒
編集済
  この数日、この本の面白さにかかりきりでした。図書館で借りてきた『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』といふ本。

幼いころの優しかった父の思ひ出をなつかしむと同時に、母を貧乏と浮気で苦しめた“生きた詩人の現実”を、時に冷たく突き放して記録してをり、個々に下される作品評も、編集者らしい批評精神を以て、情や思想に左右されることのない客観性に貫かれてゐるのが印象的。わたくし的には大木惇夫は決して“忘れられた”感じはしませんが(さうならば、拙サイトで紹介してゐる詩人は全員“忘れられた詩人”ですね。笑)、この詩人の略歴や、詩さへ全く知らないひとにも楽しく読める、とても面白い伝記です。すでにネット上には田村志津枝氏による、的確で申し分のない書評があがってゐました。

火山麓記2016-11-16 『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう
  http://jan3-12.hatenablog.com/entry/2016/11/16/105443

ここに私から付け加へるとするならば、大木惇夫は北原白秋の推輓で華々しくデビューした明治28年生れの抒情詩人ですが、「戦友別盃の歌」を始めとする多くの戦争詩を書いて戦後文壇から「戦争協力者」として指弾された、先師田中克己とは立場において通ふところのある詩人です。2男・3女(うち1男は夭折)という家族構成も同じながら、両親から「一度も叱られたことがなかった」といふのは、田中家とは随分ちがってゐるやうですが(汗)。本文中に先師の名は一度しか出てきませんが、同じく文士徴用に出された際に知り合った浅野晃とは親しく、全詩集の解題は保田與重郎が書いてゐます。

本書は、詩人の下世話な現実を叙したワクワクする部分を除けば(笑)、前半生では、激賞された北原白秋との出会ひを叙したシーン、そして中盤の戦争詩を書いた詩人に対する姿勢が素晴らしく、『詩全集』の解題を書いた保田與重郎に礼を執る是々非々のまなざしが清々しい。以下に抜いてみます。

嫌いではない雨が、この日は行く手を阻む敵意にも思えて、しぶきを蹴飛ばす感じで歩きに歩いた。(72ページ)

「読まない先から失望することが多くてね。頼まれた人の作品を見るのは苦痛なんだ。これ、と言うものには滅多に出会わないのでね。」(中略)
「いいねえ、君、素晴らしくいい。」(73ページ)

批判は痛く堪えたものの、かえってその厳しい苦言が激賞の真実味をも父に感じさせた。(74ページ)

曩日は知らず、目下の君はもはや砂中の金ではない。(中略)
一詩集の序文が(刊行に先立ち新聞紙上で) 4回連載で紹介されるなどと言う例はあるのだろうか。(84ページ)


国の存亡の時に遭遇し、熱く心に点火されるのも詩人であるし、石の沈黙を守るのも詩人なのだろう。厭戦詩はあり得ても、反戦詩を書く土壌は父の内部にはなかった。(201ページ)

戦地で父は、われは詩人であるという、一代の矜持をもって、高揚にまかせて戦争を歌ったのだった。自分を捨て、半ば生と死を往来しつつ、澄んだ詩境にあって歌ったのが「海原にありで歌へる」であった。その詩人の中に大いなる幼児がいたのであって、無垢な一介の幼児が詩人だったのではなかった。(中略)
敗戦時の詩を読む限り、私には、苦しみを徹底して苦しまなかったところに、もっと言えば、苦しみを自分の内部において極限まで受容できなかったところに、父の詩の停滞があるように思わずにはいられないのである。(234ページ)

「懲らしめの後」の「懲らしめ」とは何なのだろうか。もしも、原爆の惨事を「懲らしめ」であると言うならば、その認識の欠如に私の心は蒼ざめるしかないのだ。(中略)
このような饒舌な言葉が虚しい「ヒロシマの歌」を書くのならば、詩人は暗い心を抱きつつ、沈黙の中で堪えるべきだっただろう。(270ページ)

父をどんなに意見をしていようと、外からの攻撃に対して、私は毛を逆立てて反撃する猛々しい猫のように変身する自分を知った。(322ページ)

保田氏は最後まで父の理解者として一途に詩人大木惇夫を守ってくださった希有な人であった。父が後に『大木惇夫詩全集』(全三巻)の全解題を保田與重郎氏に委ねるのは当然の選択であったろう。それについてはこれからの章で触れていかなければならないが、手紙に
「作中主人公を包む人生の好意にも大いに打たれました、どちらかと申すと茫洋としたこの世の人情に感動しました、罪の意識や苦の意識よりその方を感じをりました」
と書き送る保田氏の中に浪漫的精神の純粋性をあらためて知らされる。父と保田氏の深い関わりを考えるならば、父の人生や仕事にまつわる不遇や不運もいくらか埋められそうな気がする。(333ページ)

その日印象的だったのは、奈良から来られ、スピーチをされた保田與重郎氏の渋い和服姿、麻の羽織袴姿の格好よさであった。父に紹介され、私は氏の立ち姿の端麗さに見とれてしまった。(392ページ)

それでは、「詩全集」全巻を通して「解題」を描いた保田與重郎氏の大木惇夫論をたどってみよう。(423ページ)

この人は評論によって陶酔を与える稀な才を持っている。少なくとも、第一巻に関してはそう言える。
父の詩集「海原にありで歌へる」は、「大東亜戦争の真実」を知らせるためのものではない。自らが投げ込まれた「戦場での真実」を歌ってはいるが、大東亜共栄圏を理想とする「大東亜戦争の真実」を歌ったものではなかった。
「海原にありで歌へる」は半分死を体験した生身の人間が歌う戦場の悲劇である。それゆえに、いつも傍に死を実感する兵士たちは心を動かされたのだろう。(中略)
どうやら、保田氏のペンがある自縛に包まれてしまうのは、「大東亜戦争」に対した時のようだ。激烈な文章のようでいて、結論を探してはずむ躍動感が見られない。第一巻の詩論との差異は歴然としている。(424ページ)

したがって、父が受けた保田與重郎氏の共感は、大きな恩寵には違いないが、その恩寵の影にかすかな不幸が潜んでいたようにも思える。保田氏の純粋一徹な気質や張り詰めた美意識、さらには、美を描いてさえ滲み出るあの殺気もまた「悲劇」を想像させる。(427ページ)



著者の宮田毬栄氏は大木惇夫の実の娘で元中央公論社編集者です。この本は時代と恋愛とに翻弄された多情多感な一詩人の伝記であるとともに、中盤以降、著者自身の自伝として、その時々の父親の姿と絡みながら並走してゆくさまも面白い読み物となってをり、かなり分厚く高価な本ですが、叙述の妙にグイグイ引き込まれてしまひました(おかげで喪中のひとときを有意義にすごすことができました)。読売文学賞を受賞した本なので、どこの図書館にもあると思います。機会がありましたらお手に取られることをおすすめします。

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評伝『保田與重郎』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年 1月 3日(水)16時23分59秒
編集済
  あけましておめでたうございます。今年も宜しくお願ひを申し上げます。

旧臘、相模女子大学谷崎昭男先生より御先師の書き下ろし評伝『保田與重郎』(ミネルヴァ日本評伝選 2017年)の御恵投に与りました。ここにても新刊のお慶びを申し上げます。

冒頭に記された、「つとめて文学の言葉で保田與重郎についてしるしたい」との執筆趣意、文明批評家としてではなく文人として師の俤を伝へたいとの志は、かたちの上では、一息の長い独特の文体のなかに端的に、象徴的に顕れてゐます。
仮名遣ひも歴史的仮名遣ひに改められてをり、前著『花のなごり』(新学社刊1997年)にもまして與重郎大人の気息を体現する文章には、本書を手にされた皆さん一様に瞠目したところでありましょう。

そしてそれが形の上に留まるものでないことも、(評伝を書くには「直接そのひとを識ってゐるのとさうでないのでは随分と相違すると思はれる」とありますが)、まさしく対象に直接師事した著者だからこそ描き得た血の通った事情が、見聞の無い期間についても確からしさを伴ひ、伝はってくる一冊でした。

戦後、高村光太郎に宛てた原稿依頼の手紙や、生田耕作の回想中に記された“戦犯保田與重郎”に対する桑原武雄の見苦しい振舞ひなど、全集未収録の新発見資料がさりげなく紹介され、仄聞するエピソードへの目配りも忘れない。贔屓の引き倒しにならぬやう、裏付けるべき事実をもって忖度の限り(先師の言動に異を唱へる際の著者の心映え)が尽された筆致の表情こそ、本書の一番の魅力ではないかと思はれたことでした。

ことにも前半生の(絶望的な)正義感と、後半生の(受忍といふべき)節操。ことごとしくいふなら左翼・右翼との関係の機微に属する真相について、保田與重郎から特別に寵愛せられたと任ずる著者がどのやうに「政治の言葉」でなく「文学の言葉」で書き留められたか。これは特段に関心を抱いて読んだ部分でしたが、抜き書きしたくなるやうな言辞が鏤められてゐて、一度ならず快哉を叫んだことでした。

「政治か文学か」、それが一大事とされた日である。しかし、政治へ行くか、文学をとるか、そのどちらかを択ぶのではなく、政治か文学かを問ふ、さういふ心情そのものの上に文学を位置させようとすることにしか、自身の良心を護る途はない。83p

現実に対して、追随する安易さも、そこから逃避する卑怯も保田のものでなく、向き合った現実と格闘しつつも、それとの共生を図らうとしたことに、時代への保田の良心といはれるべきものを見る私は、その点で、戦争を保田ほど十全に生きた文学者はゐなかったと思ふのである。163p


全体を通じ“一評伝”を超えて訴へてくるものが感じられるのは、文学者がどのやうに戦争と向き合ってきたか、そして戦争責任をとるとはどういふことであるのか、といふ、戦後日本文壇が抱へ続けてきた大問題についてでしょう。本人からは言ふことを得なかった念ひを、著者がはっきりと代弁、回答してゐて、祖述者のまことの在り方を教へられた気がします。

そのうち「戦時中に書いた文章の一字一句を保田與重郎は決して改めなかった」といふのは戦争責任にまつはる具体的な一事。責任の取り方(受け止め方)の一斑が示されてゐるのですが、もちろん開き直りで改めなかったといふことではありません。

保田與重郎にとって「戦争責任をとる」とは、自分の文章を心の支へにして戦場に向かった若者たちに、最後まで向き合ひ寄りそふことでありました。勝者から押し付けられた「お前たちが一方的に起こした間違った戦争」といふ思想理念を、生き残った人間が無批判に押し戴いたり、無謀な大本営、野蛮な軍隊、卑怯な上官への怒りをぶつける為にそれを利用することでは決してあり得なかったといふことです。

思ふに正義感の発現とは、傲慢に抗してなされるか、ずるさを軽蔑してなされるか、或ひは欲念からの達観へとむかふのか、それにより左翼にも右翼にも宗教者にも転じ得ると私は思ってゐます。それはまた時代相や、出自・トラウマによって、決定されるところでありましょう。一方で、気質において愛憎の激しい人間は身を誤りやすい。

本書でも論はれてゐますが、戦後“日本浪曼派一党”に対して放たれた批判、ことにも杉浦明平による感情をむき出しにした悪罵は、真偽のみならず表現としても正義の鉄椎と呼ぶに当たらず、彼自身これを若気の至りと訂正することもありませんでしたが、文学者の戦争責任が、報道者(ジャーナリスト)の戦争責任、つまり政治的裁定とは自ら異なるものでなければならなかったことを著者は訴へ、そして保田與重郎ほどそれを日常坐臥の上に示して生きた文学者は居なかったと、本書のなかで繰り返し語ってゐるのです。

「そんなことは言はんでも分かるやらう」と保田與重郎が収めてしまふところを、杉浦明平は「それは敢へて言ひ続けていかなきゃいかんことだらう」と怒り続けた。
無念に死んだ人のために生き残った者がしなくてはならなかったこととは何だったのか。それが死者に寄り添ふことであらうと、死者に代って復讐することであらうと、これから生きてゆく人たちに対して、身を正さしめるために、生き残った者自らが生活を律して生きてゆくことを見せることには違ひありません。

保田與重郎は、さうして杉浦明平も自分(の身)を勘定に入れずに自分(の志)を大切にして、それぞれの節を全うした人生を送ったやうに、私には観ぜられます。しかしながら彼等とその世代が退場した今日、日本人はどのやうに変貌してしまったか。

保守を任じながら環境よりも経済優先の国家経営に余念がない政府のもとで、まもなく日本が戴くべき御代は革められようとしてゐます。隠遁者、もっとはっきり謂ふなら遺民として生きた保田與重郎が願ったのは、国柄を基にした独自の宗教的自然観を、一人でも多くの日本人が守り続けていってくれることだったのではないでしょうか。

本書には、ひとりの文士が大戦争の時代を生き永らへ、やがて最後の文人として崇められるに至ったいきさつの全てが、弟子にして知己である一番の理解者によって書き綴られてゐます。さきの吉見良三氏による評伝『空ニモ書カン』(淡交社刊1998年)とあはせて一読をお勧めします。


追而:
年末に石井頼子様より、棟方志功のカレンダー、および「棟方志功と柳宗悦」展の御案内をお贈り頂きました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

本書にも棟方志功、および彼ら民芸運動の主導者たちとの交流を描いた興味深い記事がみられますが、保田與重郎の昭和18年「年頭謹記」を彫った棟方志功の板画が“不敬”の理由で国画会展から撤去された一件については、「要するに、その筋において保田が危険な人物と目された、その累が棟方志功に及んだ」と説明されてゐます。
何の反政府的なことを書かなくとも「今ある生命の現在に対する絶大な自信と確信」を表はした戦争末期の彼の心の拠り所、つまり「人事を尽して天命を待つ」ではなく「天命に安んじて人事を尽せばよい」との悠々たる態度から、当局(その筋)は“危険な人物”の非協力的態度を嗅ぎとらうとする。同じ態度が進駐軍の審問者には古い大和の貴族に映ったさうですから、思へばこれもまた、日本人にとっての文学者の戦争責任といふものについて、思ひめぐらさされる場面でもありました。

追而その2:
本書ですが、大阪高校時代のストライキの一件では、先師田中克己の日記『夜光雲』にも言及して頂き、そのため私ごとき末輩にも貴重な一冊が恵与されたことと思しいのですが、礼状を書きかけのままお送りしたことが判り赤面してをります。ここにても、あらためての御礼かたがた御詫びを申し上げます。

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良いお年を

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年12月31日(日)15時58分4秒
  年末は日常生活から些末事を追ひ出すことに専念したかったのですが、介護の件を発端に、不便を感じなかった携帯電話をスマートフォンに買ひ替へてより、その機能に驚くわ、自らの情弱ぶりに呆れるわ、休暇をゆっくり読書に勤しむ時間はなくなりさうな気配。
毎年恒例で晒してきた購入古書も、懐具合もさることながら未だに放置中。今年は五点記すに留めます。

『星巌絶句刪』天保6年(とても探してゐた梁川星巌の第2詩集。)
『絶対平和論』昭和25年(とても探してゐた保田與重郎の筆になる無署名本。)
『現代詩人集』全6冊 山雅房 昭和15年(第2巻は田中克己を収めたアンソロジーの一冊。今年は他にも先生の本で買ひ残してゐたものを揃へてゆきました。)
『村瀬秋水 巻子軸』(「憶昔相逢歳執徐・・・甲子夏日臨書 秋水七十叟 老朽故多誤字観者 宜恕之」恕すも何もまったく手つかず状態。)
『奎堂遺稿』乾坤 明治2年(刈谷で出された最初の版。森銑三翁による評伝も一緒に購入。)

みなさま良いお年をお迎へ下さいませ。
 

『イミタチオ』58号 「芸術の限界と限界の芸術」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年10月21日(土)20時38分40秒
   金沢近代文芸研究会、米村元紀氏より『イミタチオ』58号の御寄贈に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 保田與重郎を論ずるライフワークも四回目。今回は、初期の『コギト』同人たちが創作理論の眼目として重要視した「リアリズム」について。それが解体期の左翼文壇とどのやうな関りをもってゐたのかを第一章に、そして当時のソビエトにおけるスターリン独裁体制の現実を、保田與重郎がどのやうに理解し評してゐたのかを第二章に、二つに分けて論じられてゐます。

 先づ第一章「ナルプ解体と社会主義的リアリズム」では、昭和8~9年にかけての、プロレタリア文学運動が解体してゆく過程を説明。その理由として、小林多喜二虐殺を象徴とする国家暴力といった外的要因だけでなく、
「昨日までの正しかった創作理論(唯物弁証法的創作方法)が突然誤りとされ、(創作精神の個々に自立を要求する社会主義リアリズムといふ)新理論が登場したのである。」39p ※( )内中嶋
といった内的要因の大きかったことが指摘されてゐます。そして昭和9年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散し、左翼文学者たちが見舞はれた混乱を紹介。
そんな最中、「反帝国主義」を掲げた学生運動の気運のもとで、昭和8年4月創刊された雑誌『現実』に集った同人の一人として、保田與重郎の姿を追ってゐるのですが、雑誌の中心人物であった田辺耕一郎の回想はなかなか意外なものでした。

 保田与重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく知っていた。
 その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとした優雅でねばりのある文章で、 東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。
 文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情とをもつ珍らしい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じ「コギト」の人たちとも親しくした。
 三木清、豊島与志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。
 彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメムバーになって手伝ってくれたりしたのである。」 (田辺耕一郎「学芸自由同盟から「現実」まで」)


 雑誌『現実』はしかし、折角「リアリズム」を問題意識として共有しながらも僅か半年五冊をもって廃刊してしまひます。こののち象徴的なナルプ解散を経て、左翼陣営の文学者たちは、「人民文庫陣営」・「日本浪曼派陣営」へと分れてゆくことになる訳ですが、その過程において、内外でものされた批判の応酬を紹介しつつ、保田與重郎と左翼系文学者との関係(友情と齟齬と)に即した省察がめぐらされてゐます。(森山啓に対して行はれた批判の応酬が、日本浪曼派に合流する亀井勝一郎からのものとともに詳述されてゐるのですが、私の荷に余る話題なので措きます。)

 当時『コギト』の内部では、保田與重郎とは異なる考へ方をもつ高山茂(長野敏一)が突出して左翼思想を標榜してゐました。彼は東大在学中の昭和7年、構内でアジ演説を行った廉で退学処分となり、コギト同人では唯一学生運動の犠牲者となりますが、その際、演説を聞いてゐて共に警察に検束された田中克己は、一晩泊められた拘置所で正義感の表明方法に対する反省をし、文芸の指向も以後モダニズムへと傾斜してゆきます。文中この演説事件のことが触れられてゐますが、当時を記した日記がこの期間のみ残ってゐないのは残念でならぬことです。
『コギト』同人の中でもすぐ頭に血が上る正義漢だったのでしょう、長野敏一・田中克己の二人は、高校時代の同盟休校ストライキの際の行動においても急進派らしい振舞をしてゐますが、イデオロギーより人間を重視し、しがらみも無視しなかった保田與重郎にしてみれば、さぞ付合ひに苦慮するクラスメートだったことでありましょう。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一とわたしが「再起しよう。今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだが、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。(田中克己『コギト』解説:昭和59年臨川書店復刻版)

 さうして左翼陣営の人々の「抵抗する生きざま」には共感を示しつつ、保田與重郎が具体的な政治的課題を責任を以て担ふことができぬ自分の弱さを認め、軽率な行動をいましめていった要因には、実はこの身近な友人たちの決起に逸った顛末も、大きく影響してゐるやうに思はれてならないのです。

 ★

 さて第二章の表題「芸術の限界と限界の芸術」は、保田與重郎の『コギト』寄稿タイトル。
マルクス主義が実践されてゐるロシアの文学者、ゴーリキーが言挙げる「社会主義的リアリズム」。その任務と、彼が夢見た芸術の将来像について、そしてそれを完膚無く裏切った独裁者スターリンによる「ソヴェート的現実」に対して、保田與重郎がめぐらせた思惑についてが語られてゐます。

 そして恐怖政治の実際を実見して一転、ソビエト批判に転じたフランスのジイドについて、彼の言葉を信じない左翼陣営の教条主義者たちを嗤ったのはもちろんですが、個人主義者ジイドの西欧ヒューマニズムにも加担せず、保田與重郎は「ソヴェート的現実」の本性から目を背けようとする左翼ヒューマニストたちに対して、政敵を次々に粛清してゐる「スターリンに感心する」と殊更に言ひ放ってみせたりする。自身の良心にも匕首を当てつつイロニーを弄する、これが保田與重郎ならではの立ち回りとは云ふものの、誤解の危険の代償ある言挙げであるといへましょう。

苛烈な政治の場で芸術がどうあるべきか、また何を背負はされるかを自問する彼にして、これよりさき「芸術の力を用いて人民を功利的に思想教育するプロパガンダ」といふものに対する拒絶反応といふのは、右左に関係なく、物事や人物の善し悪しを見分ける際にほとんど生理的な嗅覚となって発動し、働くやうになったもののやうに思はれます。

 さうして独裁者のもとで華ひらく芸術の様相を比較してみる際にも、ふと豊臣時代に成った桃山文化の豪壮を念ひ泛かべるなど、まことにこの時期の彼の言辞には、米村氏が冒頭に引いた高見順の言葉、「彼の「精神の珠玉」を信ずる」ことのできる人とは、如何に時代と自分の弱さとに絶望した人でなければなければならなかったかと、そんなことを思はされたのでありました。

 ★

 このたびも冊子の過半頁を占める力作ですが、これまでの分量から察して『イミタチオ叢書』の一冊として単行本にまとめられる予定も立てられて来たのではないでしょうか。広く戦前文学を研究される方々に報知させていただきたく目次を掲げます。

『イミタチオ』58号(2016.10金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート4「芸術の限界と限界の芸術」米村元紀……37-91p

第一章 ナルプ解体と社会主義的リアリズム
  1. ナルプ解体声明書
  2.森山啓と社会主義的リアリズム
  3.保田與重郎と社会主義的リアリズム
  4.学芸自由同盟と『現実』創刊
  5.新たな友情
  6.「委托者の有無」
  7. 森山啓の反論
  8.保田の再批判
  9.亀井勝一郎の森山批判
  10.森山啓の「転向」

第二章 芸術の限界と限界の芸術
  1.「ソヴェート的現実」と芸術の将来
  2.十九世紀文学の死滅とロマン
  3.ジイドと「ソビエトの現実」
  4.スターリンと「ソビエトの現実」
  5.保田與重郎と「ソビエトの現実」
  6.「誰ケ袖屏風」
 

『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年10月13日(金)21時57分26秒
編集済
   青森県つがる市の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』の寄贈に与りました。

 今回は詩人が代用教員をしてゐた黒石高等小学校時代(大正9,10年)22,23歳の、詩を発表し始めた当時のことをとりあげてゐます。親戚・思ひ人・文壇・教へ子と人間関係を幅広く紹介してゐる内容が興味深いのですが、東北の詩壇にも土地勘にも事情の暗い私においては、刊行された分もふくめてこれまでの目次を下記に掲げて公開するに留めたいと思ひます。
 ひとつだけ記すとして興味深く思ったのは、私は常々「詩人の出発あるある」と称して、魅惑の女性との破局が詩人のトラウマとなってゐること、そして母方の叔父に変人が居て詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へてゐること、この二点をいつも注目しながら伝記を読んでゐるのですが、一戸謙三に於いてはその両つともが該当してゐたといふことです。

 さて今回、わが詩集サイトとして内容からとりあげたのは、職場のガリ版印刷機を使ってたった二十三冊印刷されたといふ第一詩集『哀しき魚はゆめみる』。 冊子では書影の紹介のみですが、晃様の許可を得ましたので今回、全文のPDF画像を公開させて頂けることになりました。
 http://cogito.jp.net/library/0i/ichinohe-kanashiki.pdf

 当時の詩壇を風靡した萩原朔太郎や室生犀星の影響が色濃い、「詩人の出発期」を感じさせる一冊ですが、語感の滑らかさや言葉の抽斗・繊細なその選択は、単なる摸倣から一歩抜きん出た様相をみせてをり、詩人の天稟を感じさせます。

 いったいに詩風に幾変転はあっても、所謂駄作を残さない、知的で潔癖な印象を読者に与へ続けて来た詩人ですが、この処女詩集にまでさかのぼって見てみても、いとけない情感はさりながら、さうして朔太郎の語感、犀星の語調の痕はありながらも、完成品として眺めることが可能であり、その審美眼が確かであった証拠品といへるのではないでしょうか。そしてまたこれはテキストに翻字してしまふより、かうして詩人のあはあはしい筆跡のままに、より強く感じられるところのデリケートな原質を大切にしたい。そんな風にも思はれたことです。

 またこれを読んで考へさせられたのは、さきに『玲』163号でも公開されたパストラル詩社時代の添削詩稿のことです。福士幸次郎からの先輩詩人としての指摘は、摸倣を脱するようにとの真っ当な助言であるとともに、彼に理知を以てまとまってしまふ危険を感じて不満を呈した、世代の差異によるところがあったかもしれません(『玲』163号より抄出↓を参照のこと)。

 この利発さはこののち、ガサツに過ぎるプロレタリア文学ではなくモダニズム文学へと彼を誘ひ、さらにその利発さにさへ自己嫌悪を覚えた挙句、折角身につけたモダニズム手法を破産・放棄させ、郷土詩や定型詩といふ古典的な「殻」を身に纏って防禦的な決着へと彼を導いていったやうに思ひます。エロチシズムにも領されながら、ここにみられる一種の端正な佇ひは、謂はば詩人の原初にしてその最初からの発現ではなかったかと思はれてならないのです。

 潔癖に過ぎる審美眼が、この初期作品群を羞恥とみなし、在世中には長らく纏められることもなく、坂口昌明氏によって『朔』誌上に於いて再評価されるまでそのままにあったことは残念なことではありましたけれど、その純情で知的な詩心は、時代をもう少しだけ下ってゐれば、(戦争中の詩作がそれを証してゐるのですが)、必ずや含羞をこととする『四季』のグループに交はってゐたものとは、私の常々直感するところです。

 一方、朔太郎のエロチシズムや犀星の望郷調が語彙語法として盛り込められなかった歌の方には、詩人の素質としてのオリジナリティが、純情な感受性と共にそのまま豊穣に感知されます。

草色の肩掛けかけて池の辺に鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの葉陰にさびし尾をふれる馬

月のした輪をなしめぐる踊り子の足袋一様に白く動けり

うす苦き珈琲をのみつしみじみと大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

鏡屋の鏡々にうつりたる真青き冬のひるの空かな


 東北の一角より個人的に刊行され、中々手にすることの難しい冊子でありますが、昭和前期を中心に、詩人が遺してきたモダニズム文学・郷土文学の業績に対して真摯な思ひがおありの方には、まづは書簡等にて挨拶申し上げて送付を乞ひ、この奇特な私家版らしい風合を身上とした詩人顕彰の営みにふれてみられるのも、資料的側面にとどまらずまことに有意義のことのやうに思ひます。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。


『詩人一戸謙三の軌跡』(非売品)


第一集 平成28年11月3日発行

詩人 一戸謙三 1-4p
第1篇 「雪淡し(少年時代)」 5-38p
第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い)」 39-76p
第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い)」 77-104p
 

第二集 平成29年4月25日発行

方言詩人 一戸謙三 1-9p
第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p
第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p
第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p
第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p
第8篇 後期「芝生」 114-139p
付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p


第三集 平成29年8月18日発行

第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年~9年 67-129p


第四集 平成29年9月30日発行

第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 1-122p




すべて著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11

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