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新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月12日(土)22時01分46秒
 
 青森の相馬明文様より、新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』をお送り頂きました。かつて拙詩集を寄贈させて頂いたお返しかと存じます。
 
 『感泣亭秋報』等で拝見してをりました、詩人小山正孝に関する諸文章が(翻刻資料とともに)収められ、他にもこれまで著者が太宰治と向き合ふ過程で知り合った文学者について、考察・思ひ出をまとめて一覧できる章立てがなされてゐます。
ともあれ本書前半の、著者の本領であるところの太宰文学研究に初めて接した私です。
 
 かつて、文学史(論)や作家研究に関する研究書で、「時代の子」というこの用語はよく見聞きした。 (中略) (※しかし太宰治という書き手は、)時代そのものを戦略として活用ないし利用した、それも効果的に、と言えるのではないか。たとえば全国を席巻した左翼・共産主義思想、労働側の階級闘争、青年層の自殺自死の季節など (中略) これらの事象・状況を、「時代に生きた」というような客体的な受け身の結果としてではなく、積極的に能動的に、文学表現に「言語の戦略行動」として取り入れた、というべきではないのか。(「序に代えて ──太宰治の戦略を考える」11~12p)
 
 かう冒頭に述べられてゐる着眼点。肯へて「戦略」というキーワードを使用したところに、郷土の研究者ならではの妥協のなさを感じました。この「戦略」自体については、平成21年に青森県立近代文学館で行はれた講演原稿に沿って、大変分かりやすく、「句読点」「同語の繰り返し」「否定」「逆説」「告白体」といった具体例を挙げながら説明されてゐるのですが、私が感じた妥協のなさについては中盤に於いて極まり、
 
 私は、太宰が左翼思想に飛びついたのは、単に「えふりこき(※注:津軽弁で“ええ恰好しい”の謂)」だったからではなかったか、という噴飯ものの思い付きを少し長く打ち消せないでいる。つまり、後にこの作家の文学的内容となる共産主義とその離脱への入り口は、言ってみれば取るに足らぬこと──本心から社会正義としての必要性を感じたのではなく、周りに対してそう見せかけようとしたからではなかったのか。この思想は当時の〈非〉合法思想であって、後に全国規模で国家当局から大粛清を受けることになる社会の趨勢については、ここで触れるまでもないことである。官立弘前高等学校でも昭和10年ごろまでに学校当局により弾圧されていくことになる。しかし一方では時代の先端的一面があったはずで、「恰好」がよかったからでは、と思えてならない。(「えふりこき ──太宰治瞥見」95p)
 
 とまで突っ込み、語られてゐます。
 太宰治は私にとって、詩に出会う前の大学時代に、『ガロ』のマンガと同列に読みふけった唯一の小説家でした。山岸外史による有名な評伝バイブル『人間太宰治』に詳しく書かれてゐますが、個人的にもっといやらしい言ひ方をするならば、「戦略」とは、彼の人となりについて評された「サービス精神」の表はれでもあったかな、とも思ったことでした。
当時むさぼり読んだ、今はあらかた忘れてしまった作品の中でも、「津軽」は別格として「乞食学生」「眉山」といったセンチメンタルな短篇に心打たれた記憶があり、なるほどよくよく思へば、私はただ彼の「戦略」の術中にはまってゐただけ、だったやうな気もしてをります。
とまれ愛読者だったといって何の論評ができるやうな知識も持ち合はせず、ここにては目次紹介しかできないことを恥づるばかりですが、著者もまた「眉山」がお好きであることを述べてをられるのを知って嬉しかったです。
 
 新刊のお慶びを申し上げますとともに、ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
 
出版社: 能登印刷出版部 2020年7月24日発行。22cm, 281p \2,500
ISBN:978-4-89010-771-1
 
 

『復刻版 パストラル詩社通信』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月 9日(水)16時12分31秒
編集済
 

 青森での講演から1年経ちましたが、詩人一戸謙三の伝記資料冊子10冊の刊行を果たしたお孫さんである晃氏よりは、あれ以降も引き続き、詩人に関する考察とフィールドワークを交へた「資料報告」を頂いてをります。本日は断続的に発行されてゐる『探珠 玲』別冊より、『復刻版 パストラル詩社通信』(2020.9.9 A413p)のご紹介。

 大正時代、歌壇が主流だった弘前の文芸壇に、口語自由詩の新風を吹き入れる役割を果たした青森県初の詩社、パストラル詩社。

 現在、全集本などにはよく、編集雑記などが刷られた数枚の紙片が「〇〇通信」なんていふ名で栞として挟み込まれてゐますが、大正9年の時点でこの「パストラル詩社通信」はその走りとでもいへましょうか。ただし購読者に対してでなく同人限定に向けた通信文の刷物なので「会報」といった方がいいかもしれません。

 ただし面白いのは編集者の櫻庭芳露から一戸玲太郎への通信文が、そのままガリ版で刷られ、会員にも共有されるといふ趣向です。

 そして編集方からの通信であるとともに、詩社の精神的支柱だった福士幸次郎をフィーチャーすることで、すなわち櫻庭・一戸の二人と、その先生とが実質的に運営していることを示す、パストラル詩社の性格をよくあらわした刷物であることに資料的な意義を感じます。

 内容は編集者の櫻庭芳露から同人への連絡事項で主に占められてゐますが、申し上げたやうに毎号の巻頭、ネジ巻き役である東京在住の福士幸次郎から届いた「通信」、檄やら言ひ訳やらの手紙の文章が掲げられてをり、ことにも最初に同人全員に対して食らはした

「諸君の内から取り得るものは僅かしかない」

の一発目はガツンと効いてゐます。民謡・童謡を「詩」とは認めず、青年詩人に対していましめたところにも見識を感じます。中央では、お仲間世代である佐藤惣之助や西條八十が、かうした作詞で世俗的に売れはじめてをり、青森にも安易に手を付けたい誘惑にかられる若者がゐたことをこの文面は示してをり、たいへん興味深いです。

 (我が郷土岐阜はその点、田舎の紅灯観光地ですから、青年詩人達がこぞって創作民謡にあてられてしまひ、親分として佐藤惣之助のことを、アンデパンダン詩社「詩の家」主宰者でなく民謡調の大家として奉戴する同人誌『詩魔』詩壇が形成され、自由詩が(芸術派もプロ派も)全く振るふことがありませんでしたから。)

 ガリ版の文面写真が載ってゐますが、できれば各号の全体の形姿と共に、詳しい書誌も記されるとよかったです。

 定期的に送って頂くA4に綴じられた「資料通信」を読みつつ、自身で継続中の日記翻刻作業も髣髴され、晃様の地道な営為のさまがしのばれます。資料を寄贈した先の弘前市郷土文学館でも、かうした営為をむだにせず、原画像と共に翻刻資料の公開を考へても面白いことかと思ったことです。

 ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございます。

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白取千夏雄『全身編集者』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 8月26日(水)20時46分49秒
編集済
  白取千夏雄 著 『全身編集者』 おおかみ書房2017年刊

 今回はマンガが話題なので現代仮名遣いで書きます。
 いまやマンガ界では伝説となっている月刊漫画雑誌『ガロ』。その終焉に至るいきさつをめぐり、当時編集に携わった白取千夏雄氏が書きのこした「遺書」ともいうべき『全身編集者』を読了。一気に読み終えました。本屋に出回らない本ですが注文してよかった。★★★★★五つ星です。

 わが記憶には今だ新しい1997年に起きた『ガロ』編集部の分裂事件。それをクーデターと呼んだらよいのか、刊行元の青林堂から、青林工藝社なる別会社が袂を分かち『ガロ』さながらの出版活動が始められたのは、当時話題にもなったニュースの情報から、その後「政治的」に舵を切った現経営陣との確執が原因だと思っていたのですが、それがそんな単純な話ではなかったという事実。初耳でした。

 そしてもうひとつ。80年代の昔、地方の大学生だった私も購読していた『ガロ』誌上で、現代詩作家のような清新な雰囲気で再デビューを果たしたマンガ家、やまだ紫が著者白取氏の奥さんだったこと。ファンにはおなじみの事実なのでしょうが、当時いくぶん反発も感じていた彼女の作風の裏に、実は前夫のDVが深く横たわっていたなど、全く思いもよりませんでした。

 後半には17歳年上となる、その妻への思いが綴られます。2005年、白取氏は自身に発覚した白血病により余命を宣告されるのですが、彼の入院を待つことなく2009年、妻であるやまだ紫が、脳溢血により先に斃れてしまいます。人気ブログだった当時のネット文章も引用されつつ、「お互いの苦痛を自分の苦痛と考え、まるでDNAのらせん構造のように絡み合って生きてきた(129p)」、という二人の、『ガロ』編集から退いた後にようやく許された、しかしさほど長くもない「余生」の交歓が切々と描かれます。

 ところが物語はそれで終わらない。
 彼女に対する万感の念ひをもって締めくくられると思いきや、この、本屋には並ぶことのない「遺書」が制作されるに至ったその後の経緯が、読者を放さず簡単にはセンチメンタルにしてくれない。すなわち1965年生まれ享年51で逝った著者本人と、彼から編集技術を直伝されたお弟子さん(本書の編集兼発行者:千葉啓司氏)との交流を描いた、いみじきラストスパートの二章に、どっと涙をもってゆかれました。『ガロ』休刊の原因を作った「3当事者」のうちの一方の視点、山中潤氏によるあとがきも、そうして決して蛇足ではない。

 この一冊、日本のマンガ史を語る上での微妙な時代を語る「新しい古典」として、いずれ大きな出版社から文庫版になって広く読まれることになると思います。

 トキワ荘の物語や朝ドラ「ゲゲゲの女房」が象徴するような、いわゆる高度経済成長期の大御所マンガ家の苦労話が詰まった60年代、そして迎えた70年代の漫画週刊誌の黄金期――。『ガロ』は御存知のように、そんな商業出版誌の表舞台とは関係がありませんでしたし、この本の舞台となったのは、さらにその後に続いた、バブルの80年代、マルチメディアの90年代という、サブカルチャーがどんどん尖っていった時代のことであり、紙媒体として草創期から生きながらえた『ガロ』の存在理由が、どのように経営上で模索されて行ったのか、舞台の内側から語られている点で特筆に値します。表現の実際は、エグ味の強い当時の作品群に直接あたって読んでもらえばいいでしょう。

 この本には「作家を単なる商品として見ない」ことを、伝説の編集長である長井勝一氏からモットーに学んだ、生き証人にあっては最年少だった著者白取氏が、ある意味、先見の明がありすぎて、長井氏が興した伝説の出版社「青林堂」の引き継ぎに失敗し、伝説の冊子体『ガロ』を手放し、そこから育った尊敬する作家であり最愛の妻であるやまだ紫を、時を経ず看取ることとなった、まことにほろ苦い悔恨の記録が、本人目線からの嘘の無い遺書としてしたためられております。

 かくいう私も、むかしマンガ家にあこがれ、(詩を書き始める前の話ですが)落書きを描きまくっていた時期があって、何を血迷ったか青林堂に直接原稿を持ち込んだことがあります。1985年頃だったでしょうか、当時の神田神保町、一階が倉庫様の建物の端から階段を上って二階のドアをノックして入ってゆくと、部屋の真ん中には大きなテーブルが据えてあり、編集長である長井勝一さんと、奥にもう一人、若い男性が座っていましたっけ。小柄で温厚そうな長井さんは原稿を一覧し、かすれ声で「こういう、ムードマンガを描きたいならもっと絵を練習しないと。」それから絵柄を見ながらなぐさめるように「描いたらうまくなるよ。」と仰言って下さいました。
 しかしながらお会いしたのはそのとき限り。上京して一年後の自分の中では白取氏と同様、マンガ家には半ば見切りをつけ、その頃からもう詩ばかり読んでいましたから、却って引導を渡されたと踏ん切りがついたような気持ちになりました。
 翌年、今度は書き始めた詩を田中克己先生のもとに送りつけることになるのですが、本書には、その頃の青林堂のことからが書き起こされていて、恥ずかしいやら懐かしいやら。当時のことがあれやこれやと思い出されてきましたが、あの若い人が、あるいは白取氏だったか、それとも別の方だったかと、トランクにしまい込んであるケント紙に描きなぐった落書きを引っ張り出してきては、蛇足ながら回想中です。

白取千夏雄『全身編集者』おおかみ書房,2017年刊行。177p, 21cm

現在3版、購入は「まんだらけ」による委託通販のみか。1500円+税+〒=1,870円
 

『俳諧宗匠 花の本聴秋』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 6月23日(火)12時34分2秒
編集済
 
 未知の上田千秋様より、明治大正期に俳壇の“宗匠”として一世を風靡した「花の本聴秋」の伝記本『俳諧宗匠 花の本聴秋』(文藝春秋企画出版2020.4)の御寄贈に与りました。さきに拙サイト内にて公開しました戸田葆堂の『芸窓日録』が参考文献として活用されてをり、日記中に頻繁に現れる「上田」なる人物がその人、上田肇:号聴秋であったことを御教示頂き、吃驚してをります。

 上田聴秋(1852-1932)と戸田葆堂(1851-1908)とは同年輩、小原鉄心を伯父、祖父としてそれぞれ仰ぐ関係です。下図に示しました。

 俳句界は御存知のやうに、明治になると正岡子規による革新運動、所謂「月並み俳句」への批判が起こります。その温床ともいふべき、お代を払ってお点を頂く「宗匠:そうしょう」の制度は、しかし批判を受けて収まるどころか、活版印刷が始まると、俳句を大衆に浸透させる方向でむしろ勢力を拡大してゆきました。

 上田聴秋はその一人でしたが、他の宗匠とはことなり別に生計(副業)を持たず、二条家から拝領した称号「花の本:はなのもと十一世」といふお墨付きを盾にして、俳句だけで八十年の生涯を貫いた人です。
 明治17年に興した俳句雑誌は生前587号にも達し、最盛期には門人三千人を誇ったといひますから、名声のみならず経済的にも大衆に支へられた最後の職業俳人と言へましょう。この本は、聴秋のひ孫である著者により、宗匠俳人上田聴秋の生涯と事迹とを詳細にたどり、考察を交へた唯一の研究書と呼んでよいかと思ひます。

 本書中にふんだんに写真で紹介されてゐますが、芭蕉に倣ってパトロンのもとを「道のため、社のため」遊歴を重ねた南船北馬の半生、それが一面、蒲柳の質であった彼の健康法ともなり、各地の勝地には自句石碑が31基、揮毫石碑も15基が建てられました。
 生前の彼は名声に囲まれてゐましたが、宗匠「花の本」の称号は、昭和七年の彼の死後、時代の流れを感じ取った後継者(娘婿でもあった十二世會澤秋邨1875-1941)による断絶が選択されます。戦後に訪れる、俳句そのものを否定する「第二藝術論」を待つまでもなく終焉することとなり、石碑の多くはいま顧みられることなく、苔蒸す現状も報告されてゐます。

 そんな伊藤聴秋の俳句とは、いったいどんなものであったのでしょう。以下にすこし写してみます。

むかし龍が住みたる池や風かをる

長生きは山家に多し秋日和

明月や敵も味方も同じ秋

砕けても砕けてもあり水の月

美しく鯉はやせたり燕子花(かきつばた)

夜桜や篝(かがり)に春の裏表

降るだけは降りて五月の月夜かな

 本書中に紹介されてゐる、月並み俳句の存在理由を示した研究者青木亮人氏の一文には、同じく、鷹揚・駘蕩なる内容・作者も多い戦前の抒情詩人を愛する私の心にもいささか訴へるものがありました。

「聴秋や梅室などの宗匠の作品は活字では平凡だが、暮らしの中で短冊や軸として接するといいしれの魅力を発する。聴秋たちの句は生活の平凡さを脅かさず、むしろ認めてくれるもので、だからこそ暮らしの中で魅力を放つのではないか。生活とは平凡であり、変わらぬ習慣とささやかな秩序に支えられた「月並」の別名に他ならないためだ。しかし、虚子や碧悟桐の句はこうはいかない。彼らの作品には常識を揺るがす何かが潜んでおり、だからこそ「文学」として優れていると見なせよう。しかし、「文学」は暮らしの中で常に必要とされるものだろうか。仕事に家事や雑事、家族との団らんや他の趣味などで一日の大半が終わる日々の中、従来の習慣や常識を揺るがす力強い「文学」は必ずしも必要でないことを、多くの「月並」短冊や軸と接することで初めて実感した。(265-266p)」青木亮人『その眼、俳人につき』より

 そして彼自身の俳句に対する態度はこんなものでありました。

「俳句をどう作ったらよいか、という問いに対して、聴秋は、「まあやってごらんなさい、そのうちに解ってきますよ」と言い、「無理に作りたれば、不自然なり美に感じて出来たれば、自然なり。句は作るべきものにあらず。出来るものなり」とも答えている。(215p)」

「聴秋は作った句をいちいち書き留めておくようなことをしなかったようだ。あとから念入りに推敵する、といったこともめったにしなかったらしい。ぱっと出来れば、それでよし、あとは顧みない。俳句とはそういうものだと考えていたのだろう。句集を刊行するにあたって、弟子の手帳から句をかき集めたというのも、うなずける。(233p)」


はなむけの分に過ぎたる牡丹かな 紅葉

牡丹切る心に似たる別れかな 聴秋 (明治26年読売新聞、別宴の席で)

 門人ではありませんでしたが、当代の人気小説家、尾崎紅葉や、当時は無名記者だった巌谷小波とも、俳諧を通じて交流は密でした。ただし批判の先鋒であり、現実を活写する「写生」をもって新しい文芸精神を掲げた正岡子規だけは別で、彼にとって「無学、無識、無才、無智、卑近、俗陋、平々凡々」と、口を極めて罵倒した月並み俳句の頂上に位置した彼らの作品は、煎じ詰めるところ

「宗匠派には遠回しに遠方から謎をかけると言うようにして面白がらせるところがある。それが理屈が入っているところである」(161p)

といふ文学的な立ち位置の違ひが物足りなさとして映り、我慢ならなかったもののやうです。対して聴秋はといふと、『帝国文学』(明治33年1月)誌上での対談で、

「「芭蕉翁は、格に入りて格を出ざる時は狭く、また格にいらざる時は邪路にはしる、格に入り格を出で、初めて自在を得べし」と言っているが、「子規ら」のいわゆる「新派といふ人々は初めより格に入らず邪路に陥って」いて、「師について学ぶといふことはない、みな初めから大先生です」。一方の、「正風、すなわち芭蕉派を称へている」人たちも、これまた、はなはだ弊風がある。概括していえば、芭蕉派一は「格に入りて格を出でず」、子規派は「初めより格に入らず」、両派ともこの道をきわめているとは言いがたい。」(148-149p)

と言ってゐる。そして「正岡子規その人を非難したり、その句を批判したりはしていない。あくまでも子規に連なる「新派」を対象として発言している。この姿勢はその後も変わっていない」といふ、個人への配慮もあったやうです。

 確たる学歴を持たず、酒も茶も飲まず煙草も吸わず、現存の俳人に対する批判や悪口をしなかった人柄、「枯木のごとき老体ながら、銀髯を秋風に吹かせた十徳姿」(277p)の風貌を携へ、聴秋は北海道へは七度も足を運んでゐます。開拓地を訪れて拠金し、北辺で果てた会津藩の敗将の墓参に根室まで「密かに」行ったりもしてゐますが、ご存知のやうに彼が参加した戊辰戦争に於いて会津は大垣藩の敵軍でありました。
 土地の親分から至れり尽くせりの接待を受け、観光客相手の呼び声に呼びこまれるままに招じられれば、「ご注文は」と訊かれて「休んでゆけというから坐ったまで」と嘯く「花の本聴秋」時代のエピソードも面白いですが、最も強烈なのは、さうした彼が俳人を志す以前、幕末から明治初年にかけて大垣藩士だった頃に見せてゐたサムライ少年、上田肇の面貌です。

 すなはち伯父小原鉄心同席の場で、木戸孝允や後藤象二郎といった貴顕に臆せず議論を挑んだり、曲がったことが嫌ひで刃傷沙汰を起しかけたり、或ひは後先考へず路銀を乞食に寄付してしまひ、なんとかなるさと旅路を続けてなんとかなってしまふ顛末などなど。
 のちの協賛者の錚々たる肩書を思ひ合せるに、その性情と立ち位置には何かしら典型的な明治の蒼莽、頭山満を髣髴させるやうなものがあり、若い頃から気骨と鷹揚とを併せ持つ“人物”だったことを証してゐるのが滅法面白い。「和歌」に比してパッションを載せづらい「俳句」ですが、斯様の人物がどうして俳諧一本で生きてゆくといふ世捨て人の道を選ぶに至ったのでしょう。

若草や大の字に寝て空をのむ

高鼾 年がこぬなら来ぬでよし

百万の富より春のきまま旅

 冒頭にも記しましたが、俳誌『鴨東集』の創刊(明治十七年)編集にあたっては、先行して漢詩雑誌『鷃笑新誌』を出してゐた戸田葆堂から出版のノウハウ全般を学んだらしいなど、当時を記録した『芸窓日録』を通して、大垣人脈とのふんだんな交流も窺はれます(葆堂と同じく清国の詩人胡鉄梅とも親交があった由)。
 「秩禄処分」が行はれた大垣藩に交付された国債運用のため、家老戸田鋭之助が頭取となって興された第百二十九銀行(大垣共立銀行前身)、彼もまたここからの借入金があったことなど、勉強になりました。

 若年のエピソードについて、適宜端折って下記に抄出してみましたので、興味のある方は実際に本書を手にとってみてください。『論語』を俳句で解いていった試み(「論語俳解」)には驚かされましたが、遺された肖像からも、俳人といふより漢学者にみられるやうな遺臣の面影を感ずることが出来るやうであります。

 ここにても厚くお礼申し上げます。

【若き日のエピソード】

30-32p
 肇は、明治新政府の「参与」に就任した伯父の小原鉄心に連れられて、京都へ出た。「参与」とは、王政復古によって、明治政府に創設された最高政治機関、「三職」(総裁、議定、参与)の一つである。鉄心は慶応四年(一八六八)一月三日にこの職についた。

 肇が木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎らと知り合ったのも、このころである。みな参与として新政府に仕えていた。肇は伯父に伴われて、しばしばこういう人たちとの会合の末席に列なることもあった。そんな折に、いつも奇抜な議論を口にするので、要人たちに可愛がられたという。

 木戸孝允は、ある日、肇に「世の中は議論ばかりでは行かぬものだ」とたしなめて、「世の中は角力の外に角力あり勝負の外に勝ち負けはある」という一首を与えたという。

 肇(聴秋)は後年、日出新聞の記者、黒田天外にこう語っている。

「維新の際、私の叔父、小原鉄心が朝廷に召し出されて参与になりましたから、私もそれにつられて京阪のあいだにおり、木戸公や大久保公などにも世話になりました。そのころはまだ十五、六で、ムチャクチャに議論が好きで、それで木戸公に戒められたことがございます。」(黒田譲『名家歴訪録』上編)(中略)

 後藤象二郎は、肇をこう評したと伝えられる。「舞妓の踊りと肇さんの議論は、無為の天法、人間(じんかん)に落つ」。(『俳諧 鴨東新誌』より)

 肇の議論好きは天性のものだ、と褒めたようにもとれるが、この少年の言うことは舞妓の踊りのように、たわいない、可愛いものだ、というほどの意味かもしれない。


39p
「箕作(みつくり)塾に松本荘一郎という塾生がいた。将来を嘱望された秀才であったが、家計が窮迫して学資の支給ができなくなり、学業を辞めて郷里へ帰ることになった。塾生に上田肇という大垣の藩士がいた。後に花の本聴秋と称して俳譜の宗匠となる人物である。彼は松本の才華を惜しみ、大垣藩に藩士として取り立てるよう推挙し、尽力した。松本は大垣藩士となり、藩から給付を受けて大学南校に進み、明治三年アメリカに留学して工学を学んだ。」(『西濃人物誌』より)

49-57p
 肇は後年、大学南校での学業を諦めて東京を去ったときのことを回想している。その回想はいくつものエピソードを重ねたものだが、大学南校を去らねばならなかったことが、いかに残念であったか、その心の傷跡を暗に語っているように読み取れる。本人はそんなことはおくびにも出していないけれどもこれは『鴨東新誌』385号(大正5年1月1日)に掲載された。六十四歳のときの回想である。

 実兄が幸に海外視察から帰朝したので、そのわけ(大学南校を中退して郷里に帰ること)を話して旅費をもらったが、船賃だけを残してめちゃめちゃに使ってしまった。

 蒸気船というものに初めて乗り込んだが、赤(赤切符のことで三等船客の意)であるから、荷物と同居というありさまであった。やりきれないので、甲板に上がると、遠州灘の荒波は夢の間に過ぎ、伊勢湾の入り口で神崎という島が目の先にあらわれた。

「この船は二見の浦へ寄港しますから、伊勢大廟でも参詣したい方は上陸なさい」
と、船員がふれてきた。無一物では上陸ができず残念であるから、二等室へ行き、室の中央に立って、

「時に、諸君、四海兄弟ということはご承知でしょう。してみると、拙者は君らの弟である。その弟が無一物のために、伊勢大廟へ参詣ができぬから、上陸費わずか二分(今の五拾銭)だけ恩借にはあずかれぬでしょうか」

 と、君父より下げたことのない首を下げて頼んでも、くつくつと笑って誰一人、取り合ってくれぬ。取り合ってくれる人がいないから、大いに立腹して、大声を発した。

「諸君はお見受け申すところ、衣服といい立派なる方であるが、男児たるものが首をさげ、お願い申してもお聞き入れないのは、よもや二分の金がないのでもなかろう。まったく温き涙や赤き血のない人だ。こんな腐った根性の人に、旅費を借りて大廟へ参拝したところで、神への不敬であるから、これまでのことは取り消します。」

 船客のなかに骨のある人がいて、船長に余が不礼を訴えた。船長に叱られて、しほしほ三等室へ帰ろうとしていたときに、青年の男児があらわれて、

「君はまだ年がゆかぬから無頓着であるが、人を罵倒してはいけない。謝罪したまえ。失札ながら僕が二分だけ貸してあげるから」

 と、こんこんと忠告されたので、その人の赤心に惑じて、乗客に謝罪し、大枚二分を借りた。

「君はなかなか面白い男だから、吾輩とともに二見で昼飯を食おう。来たまえ」というのでついて行った。二見の某楼に対座して、ご馳走になった。

「いったい君はどこの人だ?」とたずねたから、
「日本人だ」と答えた。
「なんというか」
「上田いうものだ」
「ふふん、それでは、神戸の箕作の塾にいたことがあるか」
「あるよ」
「快闊男児の評判の高い男は、君であったか」
「そういう君は、誰だ?」
「おれか、おれは新宮涼樹だ」 註)鯖江藩士。
「箕作の塾で才子の名を博し、色男然と気取っていた酒落ものは、君か?互いに逢わんとして逢わなんだが、今ここで邂逅したのは不思議だ。やはりお伊勢様の引き合わせでもあろう」

「上田君、きみはどうしてこの船に乗っていた?」
「おれは体を少し痛めたから、命あっての物種と、故郷へ帰って母の乳でも吸って、健強の体にして、必ず天下に名をなして見せる。一生貧乏は覚悟しているよ」
「上田は若いだけに馬鹿なことを言っているなあ、おれは箕作の塾にいて、文典や万国歴史くらいひねくっていても駄目だと悟って、学問はやめて横浜のフランスの商館へ入りこんで、金を作る稽古をしているのだ。世の中は金でなければ夜が明けぬよ。上田はいつもの壮語豪邁にも似ず、僕の二分の金に頭を下げたではないか。だから病気で学問を中止したのは、君の好機だ、逸すべからず、病が治りしだい横浜に来たまえ。また世話をしてあげるよ」
「新宮君は名誉も義理も捨てて、金銭の奴隷になるつもりか」
「もちろんだ、上田も白髪でも生える時代には、新宮が言ったことを思う時があるよ」
「おれもまた新宮に羨まれる時代があると信じている。ここで君と別れて三十年の後に互いに成功して会いましょう。君は黄金の人となれ、僕は天下の人となる」
と言って、大声で笑った。

 新宮と別れて、伊勢の古市をさして歩を運んだ。その出で立ちは、頭にはボーイのかぶる帽子、破れ袴をはいて、羽織は脱ぎ、杖の先に飲みさしの葡萄酒の瓶をくくりつけ、この杖をかついで、
「児を産めば玉のごとくあるべし、妻を娶らば花のごとくあるべし、丈夫天下の志、四十いまだ家をなさず」
 と、河野鉄兜の詩を声高に吟じつつ、ふらふらと歩いた。
 尾上町まで行き着いたが、どの家でもみな断られて泊まるところがないので困った。裁判所(今の県庁)へ談判に行ったが、門は閉まっていて、小使が一人いるだけで何の役にも立たない。陽は西山に暮れ、塒を急ぐ鴉が羨ましいというありさまであった。
 そこへ兵隊が隊列を組んでやって来たので、近寄って見れば、その隊長は可児春琳である。
    註)大垣藩士(1847-1920)。戊辰戦争の鳥羽伏見の役では、実兄・小原忠辿(軍事奉行)の指揮下で戦い、北越や高岡では肇と戦場をともにした。
余を見て、「上田さんですか。お宿はどこです?」
 と問われたから、事情を話すと、
「ともかく私の宅までいらっしゃい」
 とのことで、行軍中の隊長と話をしながら、可児の宿まで行った。そのあと旅亭に案内してくれた。古市いちばんの割烹店で、朝吉楼(嘉永四年創業の麻吉楼のことか?)という大きな青楼であった。朝からご馳走が出るし、芸者は来るし、四絃(琵琶)の声は耳を聾するほどであった。ここに一両日、厄介になった。

 山田を離れて少しばかり来たところに、年寄りの乞食が病気らしく路傍に寝て、幼き女の児が介抱している。見るに見かねて足をとめた。
「おい、乞食、きみは病気か。飯は食ったか?」
「昨日から何も食べていません」
「そうか、それは気の毒だ。あの女の児は何歳だ?」
「はい、あれは私の孫ですが、歳はようやく八つであります。行人の袖にすがり、少しのお恵みをいただいて、それで親子が食するようなわけです」
 余は心に感じて、虎の子のように大事に持っていた二分金をそのまま乞食の親子にやって、
「君、これで飯を食いたまえ、薬も飲みたまえ」といえば、乞食の云うには、
「これは二分金です。この辛き世の中に一文のお銭さへなかなか下さらぬのに、二分というような大金を乞食が持っていては、盗みでもしたのではないかと、かえって人に疑われます。お恵み下されしお志はありがたく頂戴いたしますが、このお金はご返却いたします」
 というので、付近でこまかい金と換えて、乞食に与えて別れた。
 宮川という川に渡し船がある。何も気がつかずに船に乗って向こう岸に着いたが、二分しかない金を乞食にやってしまったので、船賃がない。恥ずかしかったが、船人にその訳を話して頼んだら、同情のある舟守で、
「おまさんは、まだ子供あがりでありながら、感心なことだ」
 といって、無銭渡船をさしてくれた。
 まだこの頃は、俳句のはの字も知らず、年はようやく十六歳と半分ばかりであった。

 ここで「十六歳と半分」というのは、これが明治五年ごろの出来事だとすると、十九歳か二十歳の思い違いであろう。

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【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】リニューアル

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 6月 8日(月)19時41分5秒
 
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】 リニューアル

【凡例】
岐阜県学芸史のバイブルである伊藤信氏編集の『濃飛文教史』1937。ここに現れる漢詩人データを『漢文學者總覽』に倣ってリスト化しました。
同時にその情報源について、墓碑、遺稿集はもちろん、当時の選詩集である
 
『玉振集』1778、  『濃北風雅』1783、  『三野風雅』1821、  『聖代春唱』[1826]、  『洞簫余響』[1867]、
 
に収録された情報と、照らし合せできるものは確認し、併せてこれまで詩史から漏れてゐた詩人データを追加しました。
 
さらに以下の本を精査して『濃飛文教史』情報と重複しない新規情報がないかチェックしました。
日置弥三郎『岐阜市史 通詩編 近世』1981
岩田隆『東海の先賢群像 正続』1986-1987
笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』1969
 
表題人名には「号」を採りました。
順序は始めに大まかな地方毎とし、その後さらに細かい地区、もしくは時代毎に、どちらを優先するかは適宜、詩人間のつながり(血縁や結社)を考へながら配置しました。
郷土漢詩人を調べる際のプラットフォームになってくれれば幸ひです。
 
(付記)
当時の版本は人名漢字が定まってをらず(例:「野・埜」、「塚・冢・束」等々)、また赤の他人に編集が委ねられた選詩集には誤記もみつかり、不備は追々訂正して参ります。
リンク先の各ページにおいて公開を試みた草書の解読・訓読テキストについても、御教示お待ち申し上げます。
 

「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」拓本

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月25日(月)18時58分37秒
編集済
 
さきに旧大垣藩の戸田葆堂が遺した明治期の日記を公開しましたが、彼が碑石の由来を添書きしたといふ拓本の掛軸が、ネットオークションに現れました。
同じものは日本国内の博物館ほかに所蔵があり、デジタル公開もされてゐますが、かつて豊臣秀吉が犯した愚行、朝鮮征伐に抗して戦った義勇兵の戦捷記念に建てられたといふ「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」の拓本です。

現物は明治時代に日本へ持ち去られた後、保管してゐた靖国神社から韓国政府を経て2006年、北朝鮮の現地に返還され、きな臭いニュースばかりの両国間の話題にも上った曰く付きの戦国時代の遺物。まさしく朝鮮民族にとっての国宝であり、拓本とはいへ落札の行方が興味深いですが、新しい持主のもとで大切にされることを願って已みません。

明治初期に大陸の詩人たちとの交流を大切にした戸田葆堂ですが、地元大垣から出征した日露戦役の兵士が持ち帰った拓本への添書きに、朝鮮半島侵攻の先鋒を務めた加藤清正を「鬼将軍」と称へる記述があるのは仕方ないでしよう。むしろ彼らを撃退した記念碑を、拓本にして「家宝」とするこだわりない心映えに、何かしら安堵するものを感じたことでした。
 
【添書き】
文禄元季豊公征韓之役加藤清正公勇武抜群雷名振於内外當[旹:時]稱云鬼将軍戦酣而生擒該國王子二人即韓軍激昂
憤戦不已鬼将軍一時退此地移它云韓人勒此碑為記念今茲明治[卅:三十]七季日露開戦後備第二師團出征韓国於会寧城發見
此碑師團長三好将軍凱旋日遂持帰以奉献於帝室長存置于振[?:天]府吾大垣高屋町清水仙太郎亦従軍在該地獲石摺一本
帰則装而為記念之家宝  明治[卅]八年乙巳十二月除日  葆堂戸田[炗:光]

文禄元季(元年1593)、豊公(豊臣秀吉)征韓の役、加藤清正公は勇武抜群にして雷名は内外に振ひ、當時稱して鬼将軍と云はる。戦ひ酣(たけなは)にして該國の王子二人を生擒る。即ち韓軍激昂して憤戦已まず、鬼将軍一時此地に退き、他に移る。云(ここ)に韓人、此の碑を勒(刻)して記念と為せり。
今茲、明治三十七季(年)日露開戦。後備の第二師團、韓国に出征し会寧城に於いて此の碑を發見す。師團長三好将軍(※三好成行)、凱旋の日、遂に持ち帰り以て帝室に奉献し、長く振天府(振天府)に存置す。
吾が大垣高屋町の清水仙太郎また従軍して該地に在り、石摺一本を獲て帰れば則ち装して記念の家宝と為す。  明治三十八年乙巳十二月除日(晦日)  葆堂戸田光

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【テキスト起こし】松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月16日(土)23時03分23秒
編集済
 


現在、香川大学図書館・神原文庫所蔵の広沢安住自筆「囚中八首衍義」が、国文学研究資料館サイトにてデジタル公開されてをり、この本を執筆当時、著者が拠ったと思はれる写本資料では「なかなか難解な文章だが」「意味がやや不明のところもあるが」と、解釈の滞ってゐた註に対して、より明確な訓読を施すことができるやうになってゐるので補足訂正を試みてみました。


「囚中八首衍義」第一の註(115p)の訓読

徳川右府(大納言(慶喜)復た右府を任ず)政柄を辞し、公(容保)亦た辞職す。(右府、人心騒擾して将に変を生ぜんとするを以て朝に白し、坂城(大阪城)に退く、公亦た之に従ふ)。藩に就き将に日(ひ)有らんとす。而して事情の迫切するを以て之を請うべからずの義有り、遂に伏水の役(伏見戦争)と為る。(右府命を受け上京、前列に邀へられ、[意](つひ:竟?)に発砲するに至る)。随ひて事敗れ以て今日に至る。豈に命に非ず哉。然れども人の尚ぶ所のものは義也、成敗する者は勢ひ也。而して勢に靡き義に背き、以て本を戕(そこな)ひ、宗を堙(うづ)むべけん哉。所謂大義親を滅するもの豈に其れ然らん乎。

昔者、我藩祖(二君に仕へた)馮道の事を以て時人を論ず。蓋し深意有りという。夫れ天朝は名義の存する所なり。倘令(たとい)右府、之を知らざらるとも、則ち安んぞ敝履を棄つる如く祖宗数百年の政柄を辞するを視んや。而して外には欺罔を以て誣(そし)り(徳川慶喜天朝を欺く等の語有り)、私には恭順を以て(慶喜公を)陥るる。(苟も恭順を勉むれば則ち社稷を保つべし云々と人をして伝播せしむる者少からず)。巧詐百変、実に人をして応接に遑(いとま)あらざらしむ。此れ乃ち人心の以て厭はざる所、而して成敗の以て分るる所なり。朝に臣僕為る者、夕には則ち相共に之を斃し、甚しきは之れ則ち其の賞を受けんとす。如何なる者、藩祖をして一たび之を視せ使むれば、其れ之を何とか謂はん哉。然らば則ち我が邸の荒蕪の此の状に至る者も、亦た数(運命)有りて然る耶(か)。余、敢へて酸嘆せざるなり。吁(ああ)。
 

「囚中八首衍義」第四の註(126p)の訓読

此の後、徳川氏監察某(勝海舟か)、書を余に致し、吉之助(西郷)との会期を報ず。余直ちに之に赴けば(書は林三郎に因って来る。乃ち共に休之助を訪ふ)、則ち然らず。(監察誤聞して(休之助を)吉之助と為す)。

海江田武治(薩人。時に参謀たり。余、在京時の交友なり)、休之助をして語を余に致さしむるや、辞、懇得(懇篤)を致せり。之に因って、公(天公)に上す所の書、蓋し二十余の疎(上疏書簡)中、達し得たる者は、只だ此れ有る耳(のみ)ならん。更に休之助に託するに吉之助との(会見の)期を以てす。

余、必ず吉之助を期するは只だ此れ有り。此れ有りとは抑も又た説有り、曾つて(吉之助の)其の人と為りを観、立談にて能く断ぜり(蓋し武治は則ち恐らく未だ能はざる也)。余、薀蓄の至誠を発し、天理人情の極まる者を弁ぜんと欲せり。彼、苟くも(我が言に)従はば則ち生民の幸、之に過ぐる無く、従はざれども亦た以て我が義を伸ぶるに足る。是れ其の人を得るに非ざれば、以てロを開く可からず。故に屢(しばしば)之(会見要求)を要せし也。

古へより聖哲の士、尚ほ囹圄に苦しむ者多し。唯だ心を動かさざるを貴しと為す。余、初め総督営に在る時、胸間、常と異なる者有るに似たり。因るに、此に投ぜらる故(ゆゑ)歟と謂ふ。何ぞそれ是の如きや。自ら羞ぢ自ら嗟く。居ること半日、下泄中に長虫あるを視て、意、初めて解けり。(蓋し宿酔の致す所也。)然して之が為に心を動かすは、拙劣の甚だしき也。
 

「囚中八首衍義」第六の註(135p)の訓読

坐隅、常に水を盛る(尿瓶?洗浄?)。(之を用ふ、故に時ならざれば置かず)。而して絶えて火気の入る無し、是を以て人の多くは湿気に中る。疥癬満身蟣虱(しらみ)衣に溢る。(義観、素衣を着し来る。のち虱の為に殆ど黒し。余亦た「開襟虱作群」の句あり。皆な然らざる者なし)毎朝一掃すれば虱の殻と疥癬と白、堆を作す耳(のみ)。且(しばら)く病疫者は常に絶えず、死す者は未だ必ずしも刑に就かざりし。
 

「囚中八首衍義」第七の註(142p)の訓読

大名街に在る時、始めて兄の北越に戦死せるを聞く。(友人の郷より来れる者あり。私(ひそ)かに之を余に報ず)

鳴呼、殉難は義也。余毎(つね)に思ふ。一家に男子三人。(少(わか)き姓(やから)は僅かに十歳。其の数にあらざる也)而して一死以て君恩に酬ゆる者無く、かつ余の如きは一事をも成す能はず孑孑(げつげつ)として(ひとり)此に在り。実に羞かしき一家なり。此の報を得るに及んで、稍(やや)責を塞ぐを覚ゆ。

既にして(しばらくして)又思ふ。余の兄、勇敢にして気有り、かつ数奇にして志を得ず。毎(つね)に奮いて以て当に難衝に当らんと欲したるは、一旦夕の願に非ざる也。故に、その死必ず醜ならざる也。後に之を問ふに果して然り。(時に我が軍有利たりし故に頗る厚く葬らる)

然れども母の情に在りては果して如何。二子すでに失ふ。(城の陥ちる日に及んで独り幼稚なる者の往来を許し使命の致す一の某、土州の営に入り謂て曰く、官軍残忍と。土人其の故を問ふ。某曰く、聞く、広沢安任の如き、官軍は之を市に磔に執す、残忍に非ずやと。土人曰く、敢へて之を磔にするには非ず、唯だ首を刎ねし耳(のみ)と。是に於て人皆な余の死を信ず。流説紛々、自ら母の耳に入りしは知るべき也)

一孫亦た未だ何処に戦死しかを知らず。(初め越後に出で、のち庄内に転じ、今は高田に在り)老を扶け幼を提げて流離身を置く処無く、身は亦た如何為るやを知らず。(流離中、祖母病死。鳴呼、悲哉。)而して日に城中を望めば、黒煙簇々、砲声轟々たるのみ。

今年二月に及び、余出でて病を養ふ。始めて書を裁して母に贈る。母、之に報ゆるに曰く、巷説粉々、去歳三月某日を以て書して(わが)臨終と為す。豈科らんや、今日この書を視んとは。以て想ふべきなり。乃ち知る、余唯に母を夢みしのみにあらず、母また余を夢みしこと、其れ幾回ならん。
今、我が公幸ひに先祀を奉ずるを得たれば、則ち余等また闔家相見るを得て、共に夢中の事を語るは、其れ近きに在らん耶。実に意外の幸せ也。
 

「囚中八首衍義」第八の註(145,146p)の訓読

鳴呼、彼も一時也。此も一時也。一藩滅びて赤土と為り、主従分散し、骨肉また相見る能はず。遂に天下の笑となる。蓋し亦た此を極度と為す。
今雲霧稍(やや)開け再び天日を拝するを得たれば、則ち極度また漸く(次第に)回(めぐ)らん。

是より日に新たなる者(『大学』)得べしと為すは庶幾(ちかから)ん哉。然らば則ち何ぞ以て此の恥を雪(すす)がん。生々世々(何世代にもわたって)雪がざるべからざるもの也。蓋し一世は変遷して測る可らずと雖も。唯だ天理の正に因て人事の極を尽す者、百世と雖も以て知るべき也(『論語』)。

夫れ天の大地球を視るや、安んぞ其の中に就き、而して人位等品と生別するの暇(いとま)あらんや。唯だ推功(献身)して本に報ゆるの義を以て、世襲世禄自ら形を為す。その弊の、人位等品に至っては亦た種を定む人ありと為す。人々自ら喩へざる也。

故に交際、愈よ広く、眼界愈よ大なるに至らば、則ち人位等品の説、自(おのづか)ら廃せざるを得ず。之を廃すれば則ち予に自主権を与えざるを得ず、而して人をして其の家産を自立せしむる也。(人の家産あるは猶ほ国産あるが如く、亦た天理なり)是を初頭下手の第一着眼となし、而して之を導くに科学を以てす。

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【テキスト起こし】『明治百家文選』序

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月13日(水)21時17分45秒
編集済
   『明治百家文選』 隆文館, 明治39年(1906) 9月刊

 序

 不薄今人愛古人、清詞麗句必爲隣(※李白)。千秋の公論、実に此に在り。古今相及ばずとなす勿れ。孔子の聖、猶ほ且つ後生畏るべしといはずや。乃ち知る、かの徒らに故を悦んで、新に即く能はざるものは、眞に弱者、未だ與に語るに足らざるを。
 これを刻下の世に見るに、諸種の文體、紛然雑出、互に其の長を競ひ、殆んど適従するところを知らざるが如しと雖も、融會貫通、渾然一となる、亦た必ず其日あるべく、而して、熙朝の文章、百代に傳ふべきもの、豈に遂に出でずして止まむや。その未だ然らざるは、氣運なほ熟せざるが故のみ。若し既往の事、果して来者を卜すべくむば、勢の赴くところ、断じて、此の如くあるべきこと、智者を待つて後に知らざるなり。
 文を學ぶ、必ず先づ標的を定めざるべからず。その法たるや、今人、名あるものの中、わが性の最も近きを擇び、その得意の作、數篇を取り、文法の在るところに就いて縷陳して分析し、しかる後、心を潜めて誦讀し、久うして已まざれば、文氣自然に我が胸臆の間に浸潤し、筆端遂に窘束せず、操縦自在、はじめて能く堂に上るべし。ここに於て、更に其源に遡り、古今を兼綜し、観るところ愈よ廣く、且つ愈よ精に、悉く諸家の長所を併せ集めて之を大成すれば、やがて模倣より獨創を出し、遂に一家の特色を發揮するを得べく、その欲するところ、之に投じて意の如くならざるなきに至らむ。作文の秘訣、更に他法なし。而して、この特に今人を先として古人を後にするは、たとへば、高枝攀ぢ難く、低花折り易きの類、力を勞すること少く、得るところ多きが故のみ。
 この書、収載するところ、現代名家の文、凡そ百篇。捜羅未だ至らず、或は碔砆(※珠に似た石)を珠玉となし、累を作者に及ぼすを恐るもの、時に之なき能はずと雖も、これを一概して、深思極構の作、初學これに熟せば、その自ら文を為(つく)る、古様の監鹹、時に入らざるの迂をなすことなく、聲響歩趨を模するの餘、善く法度に循ひ、幸に倒行逆施の弊に陥るなきに庶幾(ちか)からむか。
 若し夫れ編纂その他に就いては、學弟河井君の咀華を勞すること最も多く、予は大體に於て指畫を與へしに過ぎず。これ其名を掲げ、特に謝意を表すると云爾(しかいふ)。

 明治三十九年九月上澣  久保天随

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終日家居・外出自粛中に思ったこと

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 4月15日(水)22時31分20秒
編集済
 
【その一】 「端本上等主義」について
 
 むかし、近代詩書を収集してゐたころ、古本通の先輩からよく
 
「cogito(私は旧い古書仲間にはハンドルネームで呼ばれます)が買ふ本は、函やカバーの無い汚い本ばかりだねえ。」
 
と揶揄されたものですが、初版本であればそれでよく、もっと言へば、再版でも同じ装釘で安ければそれで満足でした。余った資金でまた別の本を買ひたい「並本上等主義」を奉じて、乏しいコレクションを増やしてきたのです。

 それが近頃、収集の鋒先が和本の漢詩集に転じました。
 漢詩集は戦前モダニズム詩集のやうに人気の高いジャンルとは言へません。ただ、この世界を充分に愉しむためには、予備知識、現在のわれわれには結構高いハードルが設けられてゐる為に愛好者が少ない。和本のみならず、掛軸なんかも漢詩を書いたものは絵画骨董の好事家から敬遠され、ヤフオクでは真贋不明の“お宝”が玉石混淆で売り叩かれてをります。

 四季派の口語抒情と江戸漢詩の訓読抒情とは親和性が高いものらしく、私も中村真一郎や富士川英郎の著作によってこの世界に目を開かれます。そして和本を小脇に抱へて徘徊する老人になりたいものだ、なんぞとあこがれるやうになり、戦前口語詩から明治新体詩を素通りして、皆目見当もつかぬ江戸漢詩の世界へといざなはれてゆきました。ヤフオクや日本の古本屋サイトがなかった当時、新村堂古書店や藤園堂の目録、そして鯨書房の山口さんから折々「こんな本が入ったよ」と店頭で教へられつつ、江戸時代には漢詩のメッカだったといふ地元美濃詩壇を中心に、クタクタの和本詩集をぼつぼつと買ひ揃へていったのでした。
 
 明治発祥の洋装本に較べれば、和本の世界といふのはさらに50年100年と古い訳ですから、本が汚いのは当たり前で「極美本」なんてものは殆どありません。旧世代の読書人が消え、だれにも顧みられず長年蔵の中で眠ってゐたやうな本も多く、染みや虫喰ひなど普通で、書込みなんかは、ある方がむしろ価値が増す位です。洋装本で謂ふところの「函、カバー」にあたるものとしては、「袋」といふやつが一応はあって、これが残って付いてる本は状態もよいのですが、お目にかかることは珍しい。高価な稀少性を洋装本で例へるなら「アンカット本」の比でしょうか。函やカバーとは同列に扱ふべきものではない「めっけもの」の類ひであります。

 さて、さうして漢詩集を集め始めて分かったのが、「上・下」「上・中・下」「一・二・三・四」と分冊されて刊行されることの多いこの和本の世界では、「揃ひ:そろひ」か「端本:はほん」か、これが決定的な古書価の違ひをもたらす評価となってゐることでした。つまり近代詩集ならば必ず拘るべき「初版本」、すなはち和本の「初刷り本」に関する情報が全くもって不明瞭で、目録にも詳しく記されてゐないことが多い。そもそも初刷りか後刷りか判定するための書誌的な指標が、浮世絵のやうな美術的価値を云々されてこなかった和本に対してはそんなにも気にされず、本ごとに差異が論じられることもなく、書誌学的に研究もされてこなかった。あくまでも中身が学術的に大切だった、といふことであります。だから一冊欠けてゐるだけで、使ひ物にならない資料として、まるで洋装本なら落丁本や函がない本のやうに半額以下になってしまふ訳です。

 言はんとするところはもうお判りでしょう。私もこのごろは懐具合がさらに悪くなり、この分野でさへ欲しい本がなかなか買へなくなりました。それで思ったのが、この端本。
 
 考へてみれば、江戸時代の本は早稲田大学図書館や国文学研究資料館など、インターネット上に一次情報が公開されてゐるものも増へてきました。読むだけなら画像でよい。さうなると何を以て究極的な価値を古書にもとめるのか、結局は書かれた情報そのものではなく、原本がもつ感触・風合を和紙や刷り文字の上に確かめ、それを刊行し大切に読み継いでいった古への著者や読書人の想ひを肌身で感じたい、近代詩集と同様、さういふものへ落ち着いてゆくのではないか、情報化のさきにある古書としての価値は、やがて原質にのみやどる骨董価値へと収斂してゆくのではないか、と思ひ至るやうになりました。
 
 さすれば、貧乏コレクターとして拘るべきところは「揃ひ」ではなく「刷り」にあり、といふことになります。この観点から渉猟し、安価な端本でも良い刷り状態の本をみつけてゆけば、まことにリーズナブルでハイブロウなスローライフが約束されるのではないでしょうか。かう思って『山陽詩鈔』を探し回ってゐたら、たまさかそれが後藤松陰の手澤本だった。そしてこの度は天保12年、最初に刊行された『星巌集』の甲~丁集の端本8冊(『紅蘭小集』欠)をオークションで落札、さらに合本された天保8年刊行と思しき『星巌集』の丙集を註文しました。ずっとひっかかってゐた漢詩集の二大ベストセラーの収集を了へたところで、「端本上等主義」に転換したことを自ら標榜してみた次第であります。
 


【その二】 国立国会図書館はデジタル化データを開放せよ。
 
 新型コロナ禍のもと、各地の図書館が次々と休館に追ひ込まれてゐます。

 その最中にあって、国立国会図書館は、所蔵する著作権切れが不明瞭となってゐる資料を、デジタル化の完了したものからすみやかに、インターネット公開するべきであると考へます。斯様の資料の閲覧・複写は図書館間で行はれる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に限られてをり、かつ現在、コピーをとらうにも遠隔複写サービスの受付も休止してしまひました(2020年4月15日~)。そもそも外出自粛を余儀なくされてゐる利用者は、供されたデジタル化資料を閲覧しに図書館にもゆけません(やってませんが)。

 少なくとも戦前の著作物などは、全てオープンにしてよいのではないでしょうか。序跋、挿絵、装釘者の著作権(公衆送信権)も、書物の成立経緯を考へれば、著者に一任されて文句を垂れる御仁がありましょうか(あったらその時点でひっこめたらよろしい)。また著作権者の没年が不明とならば、一般からも情報源の申告をシステムとして設けるべきです。

 とりわけ詩集などは古今、極く一部の職業詩人を除いて「自分の声を理解してくれる人になるべく多く読んでもらいたい」、そのやうな志を以て刊行されるものであります。銅臭の強い権益は全くそぐはない。そしてテキストが開示されることによって、先般にも述べました「原本がもつ原質にのみやどる骨董価値」が、コレクターのみならず古書店に対しても開示されるものと考へます。

 


 かつて駈け出しのコレクターの頃に、小寺謙吉の『現代日本詩書総覧』や、田村書店の『近代詩書在庫目録』などを紹介しながら、詩集収集の手引きみたいなコーナーをサイト上にupしてゐたことがありましたが、これは終日家居・外出自粛中に思ったこと、和本収集に関する提言と、国立国会図書館のデータ管理について、つれづれに記してみました。

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京摂展墓の旅

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 3月21日(土)22時08分16秒
編集済
   週の始め、新型コロナ(「子年の大風邪」)騒ぎで人出が少なくなった京都に出向いて、長楽寺、永観堂、南禅寺、西福寺と東山界隈の古刹に漢詩人の墓参を敢行。さらに一泊して大阪の天徳寺へ、此度の資料紹介論文の発表に伴ひ、宿願となってをりました、後藤松陰先生の墓前報告に行って参りました。

 長楽寺(頼山陽・牧百峰・藤井竹外ほか)、南禅寺(梁川星巌夫妻)は二度目でしたが、このたび御案内を頂いて参加した、墓地移転法要の行われた柏木如亭の塋域のある永観堂へは初参詣。おまけに法要に参加された篤志家の先生方のおかげで、西福寺の上田秋成の墓所にも立ち寄ることを得た次第。当夜はその“柏木如亭クラスタ”の皆様と、江戸時代漢詩人の濃いい話題にて歓談を尽し、田舎では経験できない愉しい想ひ出となりました。

 しかしながら翌日訪れた大阪の天徳寺は、住職のお話によれば第二次大戦時の兵燹に遭った由、加之、さきの阪神大震災の際に台座から倒れたのでしょうか、碑石の表面が層ごと剥がれ落ちかけ、泯滅寸前なのに驚き、心傷んだことです。近い将来どうなることか、近世文学の研究者はこの現状を御存知でしょうか。写真および動画にて御覧頂きたく、こちらに報告いたします。

 時節柄、人混みを警戒しつつの旅行となりました。お世話になりました皆様、寔にありがたうございました。
 

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