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『イミタチオ』61号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 2月 4日(木)20時52分27秒
   旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに
 
 

田中克己先生の命日に

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月14日(木)23時46分46秒
編集済
 

田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。

当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。

先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。

先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。

田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。

そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。

先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。

そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。

その夜の1時24分に先生は亡くなった。

翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。

しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。



告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。

それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、

「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」

と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、

「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」

との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。

不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。

最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。

先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。

御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。

 


先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。

しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。

また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。

敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。

このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。

私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。

 


茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。

人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。

さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。



今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)

葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居たが、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)

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謹賀新年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月 1日(金)21時02分20秒
  旧臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。


昨年2020年のおもな収穫は

『江戸風雅』第7~15号 9冊 平成25~29年
『太平詩文』第1号~69号 63冊 平成8~28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26~27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60~平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛

といったところでした。



さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。

「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)

といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。



また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p)の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。


 ロッキングチェア

まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子

そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの



そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。

福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。


首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。


付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)
 

『感泣亭秋報』15号 特集『未刊ソネット集』を読む

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年12月12日(土)21時06分13秒
編集済
   詩人小山正孝およびその周辺人脈を顕彰する目的で、毎年刊行されている『感泣亭秋報』も今年で15号。
 後記にて編集・発行者である御子息の小山正見氏の語るところ、

「今号をもって感泣亭秋報の元々の使命は果たしたと思う。いつ終刊しても悔いはない。」

とございました。しかしながら、今号も充実した内容をもって過去ページ数を更新(227p)。結局、

「こうなると、面白くて簡単にやめられない気もする。今後の編集は、風の吹くまま気の向くままということになりそうだが、それはそれでいいのではないかとも思う。」


 私も同感申し上げる次第です。


 そして一通り既刊詩集を特輯してきた本誌ですが、このたび俎上に上がったのが、没後刊行された『未刊ソネット集』です。

 各詩篇にタイトルもなく、発表されないまま篋底に蔵(しま)はれてゐた草稿を集めて一冊にしたものであるとはいふものの、これの編集に当った故坂口昌明先生が「編者識」において、

「私は(※その後に出た第二詩集の)『逃げ水』よりも愛すべき作品に、初めて何度となくお目にかかったという感慨で、長嘆息したものである。(『未刊ソネット集』436p)」


と喝破された通り、「またと還らない青春の記念碑として、明晳な意識のもとに書かれた(『未刊ソネット集』436p)」作品群です。

 常子夫人に対するあからさまな愛のメッセージでもあるため発表が憚られたのでは、との臆測もなされてゐますが、第一詩集の『雪つぶて』と第二詩集『逃げ水』の間に介在する「ミッシングリンク」の意味合ひが濃いことを、いづれの評者も指摘してをられます。

 かつ坂口先生が仰言ったやうに、愛の諸相に迷ひ込んでゆく、その後に書かれた第二・第三詩集よりも清純な作品が並んでをり、小山正孝を謂はば「四季派の詩人」としてのみ語らうとする際には、もし彼が『雪つぶて』を刊行したきりで夭折してゐたら、この内容といふのは、正に立原道造における『優しき歌』になぞらふべき意味を持った筈なのであります。

 書き継がれたこれら抒情の純粋化を志向する作品群が、当時のまま「手付かずの状態」でみつかったことは、その後あたらしい歩みを始めた彼、「日本の敗戦を境にした《四季》的情の崩壊を体現するかのように傷だらけで生き抜いたすえ、独自の詩境に到達した(『未刊ソネット集』401p)」彼個人にとってはスキャンダルであったかもしれませんが、四季派の詩情が戦後たどった命運を、詳細に跡付けてゆく作業の上では、たいへん重要な発見だと私は思ってをります。

 作品はみつかったノートごとに整理されてをり、処女地の雪原を思はせる余白の白い一冊から、みなさん思ひ思ひの佳篇を選んでゐますが、やはり坂口先生が「若かりし日の小山氏の本領ここにあり(『未刊ソネット集』443p)」と仰言ったやうに「Iノート」の諸篇の完成度が高い。

 今回執筆の『詩と思想』編集委員の青木由弥子氏(※11月号特輯「四季派の遺伝子」は未読ですが、まさに気鋭の論客かと)が、何でも自由になり過ぎた戦後現代詩の在り得べき姿、その手綱のとり方として、加藤周一が小山正孝の第三詩集『愛し合ふ男女』に贈った言葉を引き、「一巻の詩集を、一つの主題を語る一箇の作品として、つくる」ことによる可能性を語ってゐますが、この「Iノート」に収められた12篇についてもそれが証せられないか、やはりこのノートに着目した渡邊啓史氏の丁寧な論考が、今号の秋報においても光彩を放ってをります。

 私の好きな詩を4つほど上げます。


小雨が ひたひをぬらしてゐる
私は それをぬぐふ元気もない
しづくは 眉のあたりを 横に流れ
走る都内電車の窓のあたりもぬらしてゐる

お前も どこかの街を歩いてゐるのではないか
立ち止つて 飾り窓を のぞきこんでゐるのかもしれない
水たまりの中も 雨はぬらしてゐる
走る自動車の屋根は少し白く光つてすぎる

心のやり場に困つてしまつて
私はお前をうらんでゐる
西の空が明るくなり 雲が走りはじめた

お前のレインコートの雨のしづくが
一筋ひいて 落ちるやうに 私の手の中に
お前の心が 落ちこまないだらうか           100pノートDより



置き去りに されたやうな
氣持で すごした 午後
私はゆつくりと街を歩いた
商品を一つ一つ見て歩いた

お前に 何を送らうと思ひながら
腕輪 時計 首飾り…
眞珠は 圓みを帯びて
色々ににぶく光つてるた

廣い 野原に立つてゐる 一本の木
お前と いつしよに休んだ
その下の 石のベンチ

思ひ出の中のお前の姿勢をめぐつて やがて
不思議なことに 私は さうしたお前に
いろいろ値段などつけてみたりしはじめてゐた        108p ノートDより



窓から雪のふるのを見てゐると木の枝の上にとまるときに
ためらふやうにして枝にすひよせられて行く
カーテンをそつとしめながら 私は お前を抱きよせる
ガラス窓の向ふ側は寒い風が吹きはじめたにちがひない

お前も雪のつぶが枝にとまるところを見てゐたのか
ふりかへりながら美しい目で私に笑ひかけた
人生があのやうにしづかにすぎるならばと言つてゐるやうに
お前のからだの重みが私の兩腕に急にかかつて来た

檜の木の葉末からよろこびの叫びをあげて
キラキラ輝く朝日の光の中でとけて歌ふ歌はどんなだらうか
水たまりに落ちるあの雪の亡びの歌はどんなだらうか

お前に やさしく 出来るかぎりやさしく 私は心がける
私たちのすごしてきた生活のあひだに お前が
雪のやうに 重く 大切に はかなく 感じられてならないので       298pノートIより



お前に花束をさし出しながら言つてやれ
別れだよ これが 私の愛の最後の別れだよ
小さい蜂が花束から飛び出すだらう
ガラス窓の上に一寸とまるだらう

お前はびつくりして私の顔を見るだらう
さうね お別れしませう あなたを自由にしてあげませう
小さいゑくぼが出来るだらう
ほほの上を一すぢの涙が流れるだらう

あたたかいお前の指と私のつめたい指とが
花束の根もとの所でふれあふだらう
それでも 花束の重みはお前の腕に移るだらう

私は知つてゐる やはりはつきりと別れることが
涙を涙として流させること
美しい花を花として咲かせることだといふことを             312pノートIより



 特集の二つ目は現今の立原道造をめぐる環境について。

 前号では旧立原道造記念館の運営姿勢に筆誅を下した渡邊俊夫氏の一文が圧巻でしたが、今号も鈴木智子氏から「立原道造の会」について、これまでの経緯と向後の方針とについて説明がなされてゐます。
 また立原道造をめぐる「研究」環境については、蓜島亘氏が、昨今顕著な新世代研究者の動向について、論文数のみを偏重する文教行政の現状に苦言を呈し、さらに筑摩書房版の新修『立原道造全集(2006-2010)』が、「立原個人の嗜好含め、日本の詩の流れ、立原の時代の文学・文化の周辺事情の理解に乏しい」編集委員によって監修されたことにさかのぼって疑義を突きつけてをります。
 研究者個人に対する批判も名指しで、

「当時の文章を鏤めることで、立原をその時代の中に浸らせて、あたかも立原が彼らの意見を自分の意見としていたかのように論を展開している。必然性や論拠が示されず、(中略) そこに立原ではなく、中原中也がいてもいいし、他の一詩人がいてもいいのではないか。」87p

 等々、各所で辛辣を極めてゐますが、もっともつまるところは、

「詩や小説は、そもそも研究を必要とする対象ではなく、娯しむ対象であり、一人一人の読者がそれぞれの読み方をすればいいものではないかと思われる。」90p


 といふことであって、もしそれ以上の研究を学術的に試みるとするならば、戦前の日本を肌で知ることのない後世の研究者はもっと謙虚に資料に当るべきであり、そして国際基準に則ったルールを守って、文科省の指導に阿って本数に拘った浅薄な「研究」論文は書かないで頂きたい、さういふことなのだと思ひます。

 前号の渡辺氏、そして今回の蓜島氏と、斯様な文章が載せられるところにも、口当たりの良いリベラルな批評がならぶ文芸誌とは一線を画した、この雑誌ならではの個性が存するやうに思ふのは、また私も癖の強い詩の愛好者だからなのかもしれません。

 他には『雪つぶて』所載の詩篇「初秋」の解説を、鋭い読解力によって試みた鈴木正樹氏の一文「私の好きな小山正孝:過ぎ去っていく青春」。そして映画評論家「Q」のペンネームで名を馳せた津村秀夫を追悼して、愛娘の髙畠弥生氏が書かれた長文の回顧譚を興味深く拝読しました。女優杉村春子の恋人だったことを知らなかった私は、弟である津村信夫の追悼文集にどうして彼女の名があるのか初めて合点がいったやうなうっかり者です。

 この場にても寄贈のお礼申し上げます。ありがたうございました。



年刊『感泣亭秋報』15号 (2020年11月13日発行) A5版227p 定価1,000円 (送料とも) 発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com

  目次

詩 林檎に          小山正孝 4

  特集Ⅰ 『未刊ソネット集』を読む

愛は静謐である──『未刊ソネット集』を読む          永島靖子 6
十四行詩をやめたまへ          山本 掌 10
愛憎の迷路──十二の愛の十四行詩のために          渡邊啓史 15
『逃げ水』から『愛しあふ男女』へ          青木由弥子 41
小山正孝は日本最大のソネット詩人である          小笠原 眞 46
『未刊ソネット集』と思い出すこと          宮田直哉 50
愛の詩人が視た風景          服部 剛 55

新出資料 十一冊目の「ノート」について          渡邊啓史 60

  特集Ⅱ 立原道造をつなぐ

立原道造を偲ぶ会の思い出          秋山千代子 64
立原道造を偲ぶ会の思い出──ヒヤシンスセミナーのこと          後呂純英 67
立原道造の会の歩みとこれから          鈴木智子 70
立原道造研究序論          蓜島 亘 75
東アジアの抒情詩人──立原道造と尹東柱          益子 昇 94

  回想の畠中哲夫
真実を求め続けた人、畠中哲夫さん          萩原康吉 101
三好達治と萩原葉子さん、そして父のこと          畠中晶子 106

  同想の津村秀夫
わが愛するQ、父津村秀夫          高畠弥生 108

  追悼 比留間一成
比留間一成アンソロジーを読んで          岩渕真智子 136
一条紫烟秋容満千里 または時人の矜恃          渡邊啓史 141

詩          大坂宏子・里中智沙・中原むいは・松木文子・柯撰以 174-185

 《私の好きな小山正孝》 過ぎ去っていく青春          鈴木正樹 186

  感泣亭通信
ファミリー・ヒストリー          若杉美智子 189
山崎剛太郎さんを撮る          堀田泰寛 191
マチネ・ポエティクとソワレ・ポエティク          深澤茂樹 196

実験小説「面影橋有情」          田浦淳子(渡邊俊夫)  199

信濃追分便り3初夏          布川 鴇 214
常子抄          絲 りつ 215
坂口昌明の足跡を辿りて5          坂口杜実 217
鑑賞旅行覚書5蛇          武田ミモザ 220
《十三月感泣集》2他生の欠片          柯撰以 221

感泣亭アーカイヴズ便り          小山正見 223

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「パストラル詩社の終焉」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年10月 1日(木)09時41分48秒
編集済
 
 一戸謙三御令孫の晃氏より、前回の「復刻版 パストラル詩社通信」に引き続いてA4版パンフレット、探珠「玲」別冊「一戸謙三の抒情詩 パストラル詩社の終焉」をお送り頂きました。
 
 今回は青森県最初の詩の結社パストラル詩社から発行された、10冊の同人アンソロジー(大正8年~12年)に載せられた一戸謙三の初期の抒情詩を通覧します。合せて詩人の自意識を窺ふやうな、当時の興味深い出来事(事件?)が一緒に記されてゐます。

 すなはち同人達の共通の師匠であった郷里の先輩詩人、福士幸次郎が、「パストラル第7集」に載せる詩篇を取捨選択するその現場に、たまたま田端の福士邸を訪れた謙三が立ち会ってゐるのですが、実力では盟主を任じてゐた自分の作が採り上げられず、代って事務方を仕切ってきた5歳年長の櫻庭芳露(さくらばほうろ)の「悔」が佳作として面前で激賞されたことであります。
 
 (※一週間程経って)「また福士さんを訪ねてゆくと、二階(※四畳半)で原稿を書いてあつたが、それを止めてパストラルの原稿を取り出し批評しながら見てゆく。○のついたのは今度の詩集に入れるもの、×のついたものは入れないものとして厳重にむしろ苛酷といふほどに批評してゆく。それだけ芸術に対して福士さんは妥協的態度を取らないのである。真先きに私の詩が、オリジナリテイがない、とやツつけられた。(※この後、原稿は散失してしまったと言う。)桜庭君も困つたものだ。熱心は芸術と違ふからなあ!しかしこの詩はいいぞ。おお、これア傑作だ、と「悔」(※といふ詩)を示して、これアいい、全くだ。二重丸にしてやれ。いや、いいぞ、も一つ丸をつけてやれ。しかしねえ、パストラル詩社の人たちみんなにこんな詩を作れと云ふのではないですよ。ねえ、めいめい自分には個性と云ふものがあるんですから。」「不断亭雑記(昭和36年より新聞連載)」No.524
 
 当時上京中だったのですが、謙三はこの第7集『五月の花』に載った作品に対する厳しい批評を、地元青森の一般新聞紙上で行ひます(画像参照)。そしてそれが因なのか、それまで櫻庭から一戸への通信文に擬へて福士幸次郎の言葉を伝へて来た「パストラル通信」も、(出てゐないのか、遺されてゐないのか)、当時のものが見当たらないのです。

 厳しい批評は、嫉妬であるより謙三が盟主を自任してゐた詩社の責任者としての自責を他の同人にまで及ぼした現れでありましょう。師の言葉の“厳重にむしろ苛酷といふほど”をそのまま写したものであったかもしれません。しかし、そののち櫻庭氏が自分と入れ違ふやうに教師を辞して上京してしまひ、パストラル詩社も解散のやむなきに至ったことについては、謙三も彼なりに理由の一端を担ったのではないか。バツの悪い思ひもしたのではなかったか。櫻庭芳露は昭和3年に、福田正夫や白鳥省吾の序文を得て『櫻庭芳露第一詩集』を刊行し、新詩人としては少々遅いですが詩集の刊行を果たします。その際、やはり新聞紙上に謙三が書いた当時の回顧には、上京した後の櫻庭氏が、詩作の上では芸術派だった謙三とは全く肌合ひの異なる民衆詩派詩人として、都会生活のなかで変質をとげていったこととは関係なく、正当な人物評として表れてゐるやうであります。
 
「その人(※櫻庭氏)の稟性はまことに誠実そして熱心である。」「あのパストラル詩社を経営した努力、それはわたしら郷土詩壇に今現在生きてあるものの誠に多としなければならぬところである。他日郷土詩史を書くものがあったならば必ずやパストラル詩社の名をまた櫻庭芳露氏の名を逸せぬことであろう。何故なら前者は郷土詩壇の草創の詩社であり、それを主宰し興隆せしめたのは後者であったからである。」昭和3年8月6日「東奥日報」「櫻庭芳露氏とパストラル詩社」
 
ところがその後、謙三の方では郷里にあってモダニズム詩人への変態を遂げ、さらにそこからも脱却すべく欝々と模索・煩悶してゐた時期を迎へて、よほど心に余裕のなくなったものか、昭和8年の「日記」にこんなことが記されてゐることに、晃氏は首を傾げてをられます。
 
8月6日「県教へ出す方言詩を直して書く。弘新(※弘前新聞)によって、新聞を東京に出す。万茶(※喫茶店)によると、成田君(※東奥義塾で今官一らと同級、画家志望)が来る。雑談して五時ころまでゐる。夜に、桜庭氏の歓迎座談会あり。逢って見たところで、大した話のあるわけでもなし、行きたくもないのだが、パストラル同人であって見れば義理である。」

9月8日「佐藤一英、福士さん(新聞)、高木恭造。桜庭先生からヘンなハガキ来る。黙殺す。」
 
 この日記の続きには、高祖保から激励のハガキを受けとり、かうも書いてゐることを以前紹介しました。
 
11月14日「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」

 「ヘンなハガキ」とは如何なる内容のものだったのか。座談会での様子、当時の作品への短評、あるひは未だ詩集のない詩人に対する慫慂であったかとも私は勘ぐってみます。そして焦りからの斯様のメモとなったのでありましょうか。

 桜庭芳露といふ詩人は、職場では「非社交的」であり「ものごしがおだやかではあったが、どこか毅然としたものが」あって、「重々しい北国の人の魂」を東京生活のなかでも忘れることがなかった人であったやうです。(本田秋風嶺「青森を生きた人―桜庭芳露君のこと―」)

 ふたたび戦後も随分経って、詩人が「不断亭雑記」の中でさきにあげた当時の顛末を余さず書いてゐるのは、気持の上ではわだかまりも貸し借りもなくなった彼が、事実を重んじ有りのままを書いたものであったのでしょう。送って頂いた冊子(探珠「玲」別冊)の今回、前回とに載せられた文章(画像)と、合せて補足する意味で当時のパストラル詩社のことを回顧した福士幸次郎の一文とを紹介しておきます。


福士幸次郎『櫻庭芳露第一詩集(地上楽園叢書第七編)』昭和3年大地舎刊行 序文より

(前略)『詩を見てくれ』といふ郷土の若い人々の声は、すぐオイソレとは引き受けられない破戒の道だつた。幾度も躊躇したあと、究極の心に基いた感情的承認で、引き受けられた仕事であつた。もし断ったら、わたしはまた故郷を失ふであらう。これは私には折角の与へられた機会に対し、芸術を失ふことよりも或る点辛いことであった。

 承知の旨の返事を出すと、この若い人々は早速同人をあつめて、『パストラル詩社』といふ見事な名をつけ地方文壇に旗上げをし、その作つた詩を集めては、東京のわたしに送つて来た。わたしは之れを個々に熱読し、その個性がその儘に延びるやうにと、其の面白いと思はれた個所に、或は面白くないと思はれた個所に、細かい注意書を赤インキで書き入れ、殆ど一作毎に評をつけ、全体の作品に対する個人評を加へ、同人全体に総評を下し、かうしてパストラル同人に返送した。

 この仕事には室生犀星、百田宗治君等が見て驚嘆したものだ。さうであらう。これだけの事をするのに完全に二昼夜も掛つた。そして同人はといふと未だその頃初歩で、先輩詩人への露骨な模倣時代であつて、民衆派一方のものあり、萩原朔太郎君張りあり、単なる童謡めいたもの等があつた。

 わたしは或る時は持て余してふた月ほども原稿を抛つて置いた事もあった。だが、かういう間に同人は殖え、心境や技量は進み、同人集のパンフレット『田園の秋』『太陽と雪と』『芽ぐむ土』等が次ぎつぎに刊行され、パストラル詩社は地方に於ては文芸上の優勢な地位を作り、当時までここでも全盛だつた短歌歌人を圧倒した。

 この活動の期間は凡そ大正十二年頃まで四五年間継続した。それは私にとつても愉快な仕事であつた。なぜといふに同人はこの間に各自、自分の心の上で延び、わたしも亦、これ等郷土詩人を通じて、故郷に立派に繋がつたのであつた。

 わが桜庭芳露君は、実にこの中の一人であり、最初の社の代表者後藤健次君が出郷したので一戸玲太郎、安田聖一君等の助力のもとに、そのあとズッと社の統率、経営に当つて、地方詩壇に貢献した人であつた。この点わが郷土では同君は隠然、地方詩壇の草分けと見られ、同君の名を今に到つても慕ふものが多い。実際また同君のこの前述四五年間の貢献はすばらしかつた。同人集はこの間に九種も出た。それは地方の印刷なので活字こそ汚なかつたが、表紙はやはり同人の手になる色刷りの木版画で飾り、素朴な中にも可愛らしいパンフレットで、その時の事を知つたものは誰しも懐しがるに違ひない。わたしはこの点、或は不親切な先輩であつた事に成るかも知れぬが、中央詩壇当て込みの野心は同人諸君に厳に抑へてゐたので、中央には余程あとで自然に名を認められるやうになったが、事実地方に於ける気持のいい詩の運動で、そして其の努力には桜庭君に負ふ処が多かつた。

 パストラル詩社の揺藍時代を経て、桜庭君はその後東京に出た。丁度大震災の年の初夏であつた。そして桜庭君はこの新生活で、地方ではまた見られない現代社会の広い波に漂ひ、サラリーマンの劇務のなかに今迄とは違つた精神の芽生えを経験し、新しい心境に彷徨し、都会生活の澱のなかに同情の深い詩材を探るやうになつた。そこには誠実な人の心から迸る怒りや、嘆きや、希望や、激励やが如何にも誠心こめて現れた。わたしの郷土の人は嘘はつけない。また空虚な技巧を娯しむやうな心ももつてゐない。この点桜庭君がここに進出して来たのは当然であつた。ただしこの時期には私は丁度桜庭君と入れかはりに故郷に行って生活し地方主義運動に着手したので、桜庭君についてはその後わたしの手を放れて独り見るみる変つてゆく心境を、ただ遠くから見まもつてゐる外なかつた。

 それは悪い方向ではない。時にあぶないナと思った事もあるが、同君の誠実と努力とに充ちた心は、何かなし底のあるものを掴み、読者をして共鳴を起させる力あるものが現れて来た。わたしは桜庭君がたうとう見つけ出したこの独自性について、パストラル詩社最初の精神を壊しく想ひ出し、心からお祝ひするものである。桜庭君よ、その真つ直ぐな道をなほも開け。誠実は矢張り何時も芸術上で貴い光を放つものである。

 昭和三年五月 世田ケ谷にて 福士幸次郎
 

 10月1日は弘前の詩人一戸謙三の祥月命日です。(1899年2月10日 - 1979年10月1日)
 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございます。

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新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月12日(土)22時01分46秒
 
 青森の相馬明文様より、新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』をお送り頂きました。かつて拙詩集を寄贈させて頂いたお返しかと存じます。
 
 『感泣亭秋報』等で拝見してをりました、詩人小山正孝に関する諸文章が(翻刻資料とともに)収められ、他にもこれまで著者が太宰治と向き合ふ過程で知り合った文学者について、考察・思ひ出をまとめて一覧できる章立てがなされてゐます。
ともあれ本書前半の、著者の本領であるところの太宰文学研究に初めて接した私です。
 
 かつて、文学史(論)や作家研究に関する研究書で、「時代の子」というこの用語はよく見聞きした。 (中略) (※しかし太宰治という書き手は、)時代そのものを戦略として活用ないし利用した、それも効果的に、と言えるのではないか。たとえば全国を席巻した左翼・共産主義思想、労働側の階級闘争、青年層の自殺自死の季節など (中略) これらの事象・状況を、「時代に生きた」というような客体的な受け身の結果としてではなく、積極的に能動的に、文学表現に「言語の戦略行動」として取り入れた、というべきではないのか。(「序に代えて ──太宰治の戦略を考える」11~12p)
 
 かう冒頭に述べられてゐる着眼点。肯へて「戦略」というキーワードを使用したところに、郷土の研究者ならではの妥協のなさを感じました。この「戦略」自体については、平成21年に青森県立近代文学館で行はれた講演原稿に沿って、大変分かりやすく、「句読点」「同語の繰り返し」「否定」「逆説」「告白体」といった具体例を挙げながら説明されてゐるのですが、私が感じた妥協のなさについては中盤に於いて極まり、
 
 私は、太宰が左翼思想に飛びついたのは、単に「えふりこき(※注:津軽弁で“ええ恰好しい”の謂)」だったからではなかったか、という噴飯ものの思い付きを少し長く打ち消せないでいる。つまり、後にこの作家の文学的内容となる共産主義とその離脱への入り口は、言ってみれば取るに足らぬこと──本心から社会正義としての必要性を感じたのではなく、周りに対してそう見せかけようとしたからではなかったのか。この思想は当時の〈非〉合法思想であって、後に全国規模で国家当局から大粛清を受けることになる社会の趨勢については、ここで触れるまでもないことである。官立弘前高等学校でも昭和10年ごろまでに学校当局により弾圧されていくことになる。しかし一方では時代の先端的一面があったはずで、「恰好」がよかったからでは、と思えてならない。(「えふりこき ──太宰治瞥見」95p)
 
 とまで突っ込み、語られてゐます。
 太宰治は私にとって、詩に出会う前の大学時代に、『ガロ』のマンガと同列に読みふけった唯一の小説家でした。山岸外史による有名な評伝バイブル『人間太宰治』に詳しく書かれてゐますが、個人的にもっといやらしい言ひ方をするならば、「戦略」とは、彼の人となりについて評された「サービス精神」の表はれでもあったかな、とも思ったことでした。
当時むさぼり読んだ、今はあらかた忘れてしまった作品の中でも、「津軽」は別格として「乞食学生」「眉山」といったセンチメンタルな短篇に心打たれた記憶があり、なるほどよくよく思へば、私はただ彼の「戦略」の術中にはまってゐただけ、だったやうな気もしてをります。
とまれ愛読者だったといって何の論評ができるやうな知識も持ち合はせず、ここにては目次紹介しかできないことを恥づるばかりですが、著者もまた「眉山」がお好きであることを述べてをられるのを知って嬉しかったです。
 
 新刊のお慶びを申し上げますとともに、ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
 
出版社: 能登印刷出版部 2020年7月24日発行。22cm, 281p \2,500
ISBN:978-4-89010-771-1
 

『復刻版 パストラル詩社通信』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月 9日(水)16時12分31秒
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 青森での講演から1年経ちましたが、詩人一戸謙三の伝記資料冊子10冊の刊行を果たしたお孫さんである晃氏よりは、あれ以降も引き続き、詩人に関する考察とフィールドワークを交へた「資料報告」を頂いてをります。本日は断続的に発行されてゐる『探珠 玲』別冊より、『復刻版 パストラル詩社通信』(2020.9.9 A413p)のご紹介。

 大正時代、歌壇が主流だった弘前の文芸壇に、口語自由詩の新風を吹き入れる役割を果たした青森県初の詩社、パストラル詩社。

 現在、全集本などにはよく、編集雑記などが刷られた数枚の紙片が「〇〇通信」なんていふ名で栞として挟み込まれてゐますが、大正9年の時点でこの「パストラル詩社通信」はその走りとでもいへましょうか。ただし購読者に対してでなく同人限定に向けた通信文の刷物なので「会報」といった方がいいかもしれません。

 ただし面白いのは編集者の櫻庭芳露から一戸玲太郎への通信文が、そのままガリ版で刷られ、会員にも共有されるといふ趣向です。

 そして編集方からの通信であるとともに、詩社の精神的支柱だった福士幸次郎をフィーチャーすることで、すなわち櫻庭・一戸の二人と、その先生とが実質的に運営していることを示す、パストラル詩社の性格をよくあらわした刷物であることに資料的な意義を感じます。

 内容は編集者の櫻庭芳露から同人への連絡事項で主に占められてゐますが、申し上げたやうに毎号の巻頭、ネジ巻き役である東京在住の福士幸次郎から届いた「通信」、檄やら言ひ訳やらの手紙の文章が掲げられてをり、ことにも最初に同人全員に対して食らはした

「諸君の内から取り得るものは僅かしかない」

の一発目はガツンと効いてゐます。民謡・童謡を「詩」とは認めず、青年詩人に対していましめたところにも見識を感じます。中央では、お仲間世代である佐藤惣之助や西條八十が、かうした作詞で世俗的に売れはじめてをり、青森にも安易に手を付けたい誘惑にかられる若者がゐたことをこの文面は示してをり、たいへん興味深いです。

 (我が郷土岐阜はその点、田舎の紅灯観光地ですから、青年詩人達がこぞって創作民謡にあてられてしまひ、親分として佐藤惣之助のことを、アンデパンダン詩社「詩の家」主宰者でなく民謡調の大家として奉戴する同人誌『詩魔』詩壇が形成され、自由詩が(芸術派もプロ派も)全く振るふことがありませんでしたから。)

 ガリ版の文面写真が載ってゐますが、できれば各号の全体の形姿と共に、詳しい書誌も記されるとよかったです。

 定期的に送って頂くA4に綴じられた「資料通信」を読みつつ、自身で継続中の日記翻刻作業も髣髴され、晃様の地道な営為のさまがしのばれます。資料を寄贈した先の弘前市郷土文学館でも、かうした営為をむだにせず、原画像と共に翻刻資料の公開を考へても面白いことかと思ったことです。

 ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございます。

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白取千夏雄『全身編集者』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 8月26日(水)20時46分49秒
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  白取千夏雄 著 『全身編集者』 おおかみ書房2017年刊

 今回はマンガが話題なので現代仮名遣いで書きます。
 いまやマンガ界では伝説となっている月刊漫画雑誌『ガロ』。その終焉に至るいきさつをめぐり、当時編集に携わった白取千夏雄氏が書きのこした「遺書」ともいうべき『全身編集者』を読了。一気に読み終えました。本屋に出回らない本ですが注文してよかった。★★★★★五つ星です。

 わが記憶には今だ新しい1997年に起きた『ガロ』編集部の分裂事件。それをクーデターと呼んだらよいのか、刊行元の青林堂から、青林工藝社なる別会社が袂を分かち『ガロ』さながらの出版活動が始められたのは、当時話題にもなったニュースの情報から、その後「政治的」に舵を切った現経営陣との確執が原因だと思っていたのですが、それがそんな単純な話ではなかったという事実。初耳でした。

 そしてもうひとつ。80年代の昔、地方の大学生だった私も購読していた『ガロ』誌上で、現代詩作家のような清新な雰囲気で再デビューを果たしたマンガ家、やまだ紫が著者白取氏の奥さんだったこと。ファンにはおなじみの事実なのでしょうが、当時いくぶん反発も感じていた彼女の作風の裏に、実は前夫のDVが深く横たわっていたなど、全く思いもよりませんでした。

 後半には17歳年上となる、その妻への思いが綴られます。2005年、白取氏は自身に発覚した白血病により余命を宣告されるのですが、彼の入院を待つことなく2009年、妻であるやまだ紫が、脳溢血により先に斃れてしまいます。人気ブログだった当時のネット文章も引用されつつ、「お互いの苦痛を自分の苦痛と考え、まるでDNAのらせん構造のように絡み合って生きてきた(129p)」、という二人の、『ガロ』編集から退いた後にようやく許された、しかしさほど長くもない「余生」の交歓が切々と描かれます。

 ところが物語はそれで終わらない。
 彼女に対する万感の念ひをもって締めくくられると思いきや、この、本屋には並ぶことのない「遺書」が制作されるに至ったその後の経緯が、読者を放さず簡単にはセンチメンタルにしてくれない。すなわち1965年生まれ享年51で逝った著者本人と、彼から編集技術を直伝されたお弟子さん(本書の編集兼発行者:千葉啓司氏)との交流を描いた、いみじきラストスパートの二章に、どっと涙をもってゆかれました。『ガロ』休刊の原因を作った「3当事者」のうちの一方の視点、山中潤氏によるあとがきも、そうして決して蛇足ではない。

 この一冊、日本のマンガ史を語る上での微妙な時代を語る「新しい古典」として、いずれ大きな出版社から文庫版になって広く読まれることになると思います。

 トキワ荘の物語や朝ドラ「ゲゲゲの女房」が象徴するような、いわゆる高度経済成長期の大御所マンガ家の苦労話が詰まった60年代、そして迎えた70年代の漫画週刊誌の黄金期――。『ガロ』は御存知のように、そんな商業出版誌の表舞台とは関係がありませんでしたし、この本の舞台となったのは、さらにその後に続いた、バブルの80年代、マルチメディアの90年代という、サブカルチャーがどんどん尖っていった時代のことであり、紙媒体として草創期から生きながらえた『ガロ』の存在理由が、どのように経営上で模索されて行ったのか、舞台の内側から語られている点で特筆に値します。表現の実際は、エグ味の強い当時の作品群に直接あたって読んでもらえばいいでしょう。

 この本には「作家を単なる商品として見ない」ことを、伝説の編集長である長井勝一氏からモットーに学んだ、生き証人にあっては最年少だった著者白取氏が、ある意味、先見の明がありすぎて、長井氏が興した伝説の出版社「青林堂」の引き継ぎに失敗し、伝説の冊子体『ガロ』を手放し、そこから育った尊敬する作家であり最愛の妻であるやまだ紫を、時を経ず看取ることとなった、まことにほろ苦い悔恨の記録が、本人目線からの嘘の無い遺書としてしたためられております。

 かくいう私も、むかしマンガ家にあこがれ、(詩を書き始める前の話ですが)落書きを描きまくっていた時期があって、何を血迷ったか青林堂に直接原稿を持ち込んだことがあります。1985年頃だったでしょうか、当時の神田神保町、一階が倉庫様の建物の端から階段を上って二階のドアをノックして入ってゆくと、部屋の真ん中には大きなテーブルが据えてあり、編集長である長井勝一さんと、奥にもう一人、若い男性が座っていましたっけ。小柄で温厚そうな長井さんは原稿を一覧し、かすれ声で「こういう、ムードマンガを描きたいならもっと絵を練習しないと。」それから絵柄を見ながらなぐさめるように「描いたらうまくなるよ。」と仰言って下さいました。
 しかしながらお会いしたのはそのとき限り。上京して一年後の自分の中では白取氏と同様、マンガ家には半ば見切りをつけ、その頃からもう詩ばかり読んでいましたから、却って引導を渡されたと踏ん切りがついたような気持ちになりました。
 翌年、今度は書き始めた詩を田中克己先生のもとに送りつけることになるのですが、本書には、その頃の青林堂のことからが書き起こされていて、恥ずかしいやら懐かしいやら。当時のことがあれやこれやと思い出されてきましたが、あの若い人が、あるいは白取氏だったか、それとも別の方だったかと、トランクにしまい込んであるケント紙に描きなぐった落書きを引っ張り出してきては、蛇足ながら回想中です。

白取千夏雄『全身編集者』おおかみ書房,2017年刊行。177p, 21cm

現在3版、購入は「まんだらけ」による委託通販のみか。1500円+税+〒=1,870円
 

『俳諧宗匠 花の本聴秋』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 6月23日(火)12時34分2秒
編集済
 
 未知の上田千秋様より、明治大正期に俳壇の“宗匠”として一世を風靡した「花の本聴秋」の伝記本『俳諧宗匠 花の本聴秋』(文藝春秋企画出版2020.4)の御寄贈に与りました。さきに拙サイト内にて公開しました戸田葆堂の『芸窓日録』が参考文献として活用されてをり、日記中に頻繁に現れる「上田」なる人物がその人、上田肇:号聴秋であったことを御教示頂き、吃驚してをります。

 上田聴秋(1852-1932)と戸田葆堂(1851-1908)とは同年輩、小原鉄心を伯父、祖父としてそれぞれ仰ぐ関係です。下図に示しました。

 俳句界は御存知のやうに、明治になると正岡子規による革新運動、所謂「月並み俳句」への批判が起こります。その温床ともいふべき、お代を払ってお点を頂く「宗匠:そうしょう」の制度は、しかし批判を受けて収まるどころか、活版印刷が始まると、俳句を大衆に浸透させる方向でむしろ勢力を拡大してゆきました。

 上田聴秋はその一人でしたが、他の宗匠とはことなり別に生計(副業)を持たず、二条家から拝領した称号「花の本:はなのもと十一世」といふお墨付きを盾にして、俳句だけで八十年の生涯を貫いた人です。
 明治17年に興した俳句雑誌は生前587号にも達し、最盛期には門人三千人を誇ったといひますから、名声のみならず経済的にも大衆に支へられた最後の職業俳人と言へましょう。この本は、聴秋のひ孫である著者により、宗匠俳人上田聴秋の生涯と事迹とを詳細にたどり、考察を交へた唯一の研究書と呼んでよいかと思ひます。

 本書中にふんだんに写真で紹介されてゐますが、芭蕉に倣ってパトロンのもとを「道のため、社のため」遊歴を重ねた南船北馬の半生、それが一面、蒲柳の質であった彼の健康法ともなり、各地の勝地には自句石碑が31基、揮毫石碑も15基が建てられました。
 生前の彼は名声に囲まれてゐましたが、宗匠「花の本」の称号は、昭和七年の彼の死後、時代の流れを感じ取った後継者(娘婿でもあった十二世會澤秋邨1875-1941)による断絶が選択されます。戦後に訪れる、俳句そのものを否定する「第二藝術論」を待つまでもなく終焉することとなり、石碑の多くはいま顧みられることなく、苔蒸す現状も報告されてゐます。

 そんな伊藤聴秋の俳句とは、いったいどんなものであったのでしょう。以下にすこし写してみます。

むかし龍が住みたる池や風かをる

長生きは山家に多し秋日和

明月や敵も味方も同じ秋

砕けても砕けてもあり水の月

美しく鯉はやせたり燕子花(かきつばた)

夜桜や篝(かがり)に春の裏表

降るだけは降りて五月の月夜かな

 本書中に紹介されてゐる、月並み俳句の存在理由を示した研究者青木亮人氏の一文には、同じく、鷹揚・駘蕩なる内容・作者も多い戦前の抒情詩人を愛する私の心にもいささか訴へるものがありました。

「聴秋や梅室などの宗匠の作品は活字では平凡だが、暮らしの中で短冊や軸として接するといいしれの魅力を発する。聴秋たちの句は生活の平凡さを脅かさず、むしろ認めてくれるもので、だからこそ暮らしの中で魅力を放つのではないか。生活とは平凡であり、変わらぬ習慣とささやかな秩序に支えられた「月並」の別名に他ならないためだ。しかし、虚子や碧悟桐の句はこうはいかない。彼らの作品には常識を揺るがす何かが潜んでおり、だからこそ「文学」として優れていると見なせよう。しかし、「文学」は暮らしの中で常に必要とされるものだろうか。仕事に家事や雑事、家族との団らんや他の趣味などで一日の大半が終わる日々の中、従来の習慣や常識を揺るがす力強い「文学」は必ずしも必要でないことを、多くの「月並」短冊や軸と接することで初めて実感した。(265-266p)」青木亮人『その眼、俳人につき』より

 そして彼自身の俳句に対する態度はこんなものでありました。

「俳句をどう作ったらよいか、という問いに対して、聴秋は、「まあやってごらんなさい、そのうちに解ってきますよ」と言い、「無理に作りたれば、不自然なり美に感じて出来たれば、自然なり。句は作るべきものにあらず。出来るものなり」とも答えている。(215p)」

「聴秋は作った句をいちいち書き留めておくようなことをしなかったようだ。あとから念入りに推敵する、といったこともめったにしなかったらしい。ぱっと出来れば、それでよし、あとは顧みない。俳句とはそういうものだと考えていたのだろう。句集を刊行するにあたって、弟子の手帳から句をかき集めたというのも、うなずける。(233p)」


はなむけの分に過ぎたる牡丹かな 紅葉

牡丹切る心に似たる別れかな 聴秋 (明治26年読売新聞、別宴の席で)

 門人ではありませんでしたが、当代の人気小説家、尾崎紅葉や、当時は無名記者だった巌谷小波とも、俳諧を通じて交流は密でした。ただし批判の先鋒であり、現実を活写する「写生」をもって新しい文芸精神を掲げた正岡子規だけは別で、彼にとって「無学、無識、無才、無智、卑近、俗陋、平々凡々」と、口を極めて罵倒した月並み俳句の頂上に位置した彼らの作品は、煎じ詰めるところ

「宗匠派には遠回しに遠方から謎をかけると言うようにして面白がらせるところがある。それが理屈が入っているところである」(161p)

といふ文学的な立ち位置の違ひが物足りなさとして映り、我慢ならなかったもののやうです。対して聴秋はといふと、『帝国文学』(明治33年1月)誌上での対談で、

「「芭蕉翁は、格に入りて格を出ざる時は狭く、また格にいらざる時は邪路にはしる、格に入り格を出で、初めて自在を得べし」と言っているが、「子規ら」のいわゆる「新派といふ人々は初めより格に入らず邪路に陥って」いて、「師について学ぶといふことはない、みな初めから大先生です」。一方の、「正風、すなわち芭蕉派を称へている」人たちも、これまた、はなはだ弊風がある。概括していえば、芭蕉派一は「格に入りて格を出でず」、子規派は「初めより格に入らず」、両派ともこの道をきわめているとは言いがたい。」(148-149p)

と言ってゐる。そして「正岡子規その人を非難したり、その句を批判したりはしていない。あくまでも子規に連なる「新派」を対象として発言している。この姿勢はその後も変わっていない」といふ、個人への配慮もあったやうです。

 確たる学歴を持たず、酒も茶も飲まず煙草も吸わず、現存の俳人に対する批判や悪口をしなかった人柄、「枯木のごとき老体ながら、銀髯を秋風に吹かせた十徳姿」(277p)の風貌を携へ、聴秋は北海道へは七度も足を運んでゐます。開拓地を訪れて拠金し、北辺で果てた会津藩の敗将の墓参に根室まで「密かに」行ったりもしてゐますが、ご存知のやうに彼が参加した戊辰戦争に於いて会津は大垣藩の敵軍でありました。
 土地の親分から至れり尽くせりの接待を受け、観光客相手の呼び声に呼びこまれるままに招じられれば、「ご注文は」と訊かれて「休んでゆけというから坐ったまで」と嘯く「花の本聴秋」時代のエピソードも面白いですが、最も強烈なのは、さうした彼が俳人を志す以前、幕末から明治初年にかけて大垣藩士だった頃に見せてゐたサムライ少年、上田肇の面貌です。

 すなはち伯父小原鉄心同席の場で、木戸孝允や後藤象二郎といった貴顕に臆せず議論を挑んだり、曲がったことが嫌ひで刃傷沙汰を起しかけたり、或ひは後先考へず路銀を乞食に寄付してしまひ、なんとかなるさと旅路を続けてなんとかなってしまふ顛末などなど。
 のちの協賛者の錚々たる肩書を思ひ合せるに、その性情と立ち位置には何かしら典型的な明治の蒼莽、頭山満を髣髴させるやうなものがあり、若い頃から気骨と鷹揚とを併せ持つ“人物”だったことを証してゐるのが滅法面白い。「和歌」に比してパッションを載せづらい「俳句」ですが、斯様の人物がどうして俳諧一本で生きてゆくといふ世捨て人の道を選ぶに至ったのでしょう。

若草や大の字に寝て空をのむ

高鼾 年がこぬなら来ぬでよし

百万の富より春のきまま旅

 冒頭にも記しましたが、俳誌『鴨東集』の創刊(明治十七年)編集にあたっては、先行して漢詩雑誌『鷃笑新誌』を出してゐた戸田葆堂から出版のノウハウ全般を学んだらしいなど、当時を記録した『芸窓日録』を通して、大垣人脈とのふんだんな交流も窺はれます(葆堂と同じく清国の詩人胡鉄梅とも親交があった由)。
 「秩禄処分」が行はれた大垣藩に交付された国債運用のため、家老戸田鋭之助が頭取となって興された第百二十九銀行(大垣共立銀行前身)、彼もまたここからの借入金があったことなど、勉強になりました。

 若年のエピソードについて、適宜端折って下記に抄出してみましたので、興味のある方は実際に本書を手にとってみてください。『論語』を俳句で解いていった試み(「論語俳解」)には驚かされましたが、遺された肖像からも、俳人といふより漢学者にみられるやうな遺臣の面影を感ずることが出来るやうであります。

 ここにても厚くお礼申し上げます。

【若き日のエピソード】

30-32p
 肇は、明治新政府の「参与」に就任した伯父の小原鉄心に連れられて、京都へ出た。「参与」とは、王政復古によって、明治政府に創設された最高政治機関、「三職」(総裁、議定、参与)の一つである。鉄心は慶応四年(一八六八)一月三日にこの職についた。

 肇が木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎らと知り合ったのも、このころである。みな参与として新政府に仕えていた。肇は伯父に伴われて、しばしばこういう人たちとの会合の末席に列なることもあった。そんな折に、いつも奇抜な議論を口にするので、要人たちに可愛がられたという。

 木戸孝允は、ある日、肇に「世の中は議論ばかりでは行かぬものだ」とたしなめて、「世の中は角力の外に角力あり勝負の外に勝ち負けはある」という一首を与えたという。

 肇(聴秋)は後年、日出新聞の記者、黒田天外にこう語っている。

「維新の際、私の叔父、小原鉄心が朝廷に召し出されて参与になりましたから、私もそれにつられて京阪のあいだにおり、木戸公や大久保公などにも世話になりました。そのころはまだ十五、六で、ムチャクチャに議論が好きで、それで木戸公に戒められたことがございます。」(黒田譲『名家歴訪録』上編)(中略)

 後藤象二郎は、肇をこう評したと伝えられる。「舞妓の踊りと肇さんの議論は、無為の天法、人間(じんかん)に落つ」。(『俳諧 鴨東新誌』より)

 肇の議論好きは天性のものだ、と褒めたようにもとれるが、この少年の言うことは舞妓の踊りのように、たわいない、可愛いものだ、というほどの意味かもしれない。


39p
「箕作(みつくり)塾に松本荘一郎という塾生がいた。将来を嘱望された秀才であったが、家計が窮迫して学資の支給ができなくなり、学業を辞めて郷里へ帰ることになった。塾生に上田肇という大垣の藩士がいた。後に花の本聴秋と称して俳譜の宗匠となる人物である。彼は松本の才華を惜しみ、大垣藩に藩士として取り立てるよう推挙し、尽力した。松本は大垣藩士となり、藩から給付を受けて大学南校に進み、明治三年アメリカに留学して工学を学んだ。」(『西濃人物誌』より)

49-57p
 肇は後年、大学南校での学業を諦めて東京を去ったときのことを回想している。その回想はいくつものエピソードを重ねたものだが、大学南校を去らねばならなかったことが、いかに残念であったか、その心の傷跡を暗に語っているように読み取れる。本人はそんなことはおくびにも出していないけれどもこれは『鴨東新誌』385号(大正5年1月1日)に掲載された。六十四歳のときの回想である。

 実兄が幸に海外視察から帰朝したので、そのわけ(大学南校を中退して郷里に帰ること)を話して旅費をもらったが、船賃だけを残してめちゃめちゃに使ってしまった。

 蒸気船というものに初めて乗り込んだが、赤(赤切符のことで三等船客の意)であるから、荷物と同居というありさまであった。やりきれないので、甲板に上がると、遠州灘の荒波は夢の間に過ぎ、伊勢湾の入り口で神崎という島が目の先にあらわれた。

「この船は二見の浦へ寄港しますから、伊勢大廟でも参詣したい方は上陸なさい」
と、船員がふれてきた。無一物では上陸ができず残念であるから、二等室へ行き、室の中央に立って、

「時に、諸君、四海兄弟ということはご承知でしょう。してみると、拙者は君らの弟である。その弟が無一物のために、伊勢大廟へ参詣ができぬから、上陸費わずか二分(今の五拾銭)だけ恩借にはあずかれぬでしょうか」

 と、君父より下げたことのない首を下げて頼んでも、くつくつと笑って誰一人、取り合ってくれぬ。取り合ってくれる人がいないから、大いに立腹して、大声を発した。

「諸君はお見受け申すところ、衣服といい立派なる方であるが、男児たるものが首をさげ、お願い申してもお聞き入れないのは、よもや二分の金がないのでもなかろう。まったく温き涙や赤き血のない人だ。こんな腐った根性の人に、旅費を借りて大廟へ参拝したところで、神への不敬であるから、これまでのことは取り消します。」

 船客のなかに骨のある人がいて、船長に余が不礼を訴えた。船長に叱られて、しほしほ三等室へ帰ろうとしていたときに、青年の男児があらわれて、

「君はまだ年がゆかぬから無頓着であるが、人を罵倒してはいけない。謝罪したまえ。失札ながら僕が二分だけ貸してあげるから」

 と、こんこんと忠告されたので、その人の赤心に惑じて、乗客に謝罪し、大枚二分を借りた。

「君はなかなか面白い男だから、吾輩とともに二見で昼飯を食おう。来たまえ」というのでついて行った。二見の某楼に対座して、ご馳走になった。

「いったい君はどこの人だ?」とたずねたから、
「日本人だ」と答えた。
「なんというか」
「上田いうものだ」
「ふふん、それでは、神戸の箕作の塾にいたことがあるか」
「あるよ」
「快闊男児の評判の高い男は、君であったか」
「そういう君は、誰だ?」
「おれか、おれは新宮涼樹だ」 註)鯖江藩士。
「箕作の塾で才子の名を博し、色男然と気取っていた酒落ものは、君か?互いに逢わんとして逢わなんだが、今ここで邂逅したのは不思議だ。やはりお伊勢様の引き合わせでもあろう」

「上田君、きみはどうしてこの船に乗っていた?」
「おれは体を少し痛めたから、命あっての物種と、故郷へ帰って母の乳でも吸って、健強の体にして、必ず天下に名をなして見せる。一生貧乏は覚悟しているよ」
「上田は若いだけに馬鹿なことを言っているなあ、おれは箕作の塾にいて、文典や万国歴史くらいひねくっていても駄目だと悟って、学問はやめて横浜のフランスの商館へ入りこんで、金を作る稽古をしているのだ。世の中は金でなければ夜が明けぬよ。上田はいつもの壮語豪邁にも似ず、僕の二分の金に頭を下げたではないか。だから病気で学問を中止したのは、君の好機だ、逸すべからず、病が治りしだい横浜に来たまえ。また世話をしてあげるよ」
「新宮君は名誉も義理も捨てて、金銭の奴隷になるつもりか」
「もちろんだ、上田も白髪でも生える時代には、新宮が言ったことを思う時があるよ」
「おれもまた新宮に羨まれる時代があると信じている。ここで君と別れて三十年の後に互いに成功して会いましょう。君は黄金の人となれ、僕は天下の人となる」
と言って、大声で笑った。

 新宮と別れて、伊勢の古市をさして歩を運んだ。その出で立ちは、頭にはボーイのかぶる帽子、破れ袴をはいて、羽織は脱ぎ、杖の先に飲みさしの葡萄酒の瓶をくくりつけ、この杖をかついで、
「児を産めば玉のごとくあるべし、妻を娶らば花のごとくあるべし、丈夫天下の志、四十いまだ家をなさず」
 と、河野鉄兜の詩を声高に吟じつつ、ふらふらと歩いた。
 尾上町まで行き着いたが、どの家でもみな断られて泊まるところがないので困った。裁判所(今の県庁)へ談判に行ったが、門は閉まっていて、小使が一人いるだけで何の役にも立たない。陽は西山に暮れ、塒を急ぐ鴉が羨ましいというありさまであった。
 そこへ兵隊が隊列を組んでやって来たので、近寄って見れば、その隊長は可児春琳である。
    註)大垣藩士(1847-1920)。戊辰戦争の鳥羽伏見の役では、実兄・小原忠辿(軍事奉行)の指揮下で戦い、北越や高岡では肇と戦場をともにした。
余を見て、「上田さんですか。お宿はどこです?」
 と問われたから、事情を話すと、
「ともかく私の宅までいらっしゃい」
 とのことで、行軍中の隊長と話をしながら、可児の宿まで行った。そのあと旅亭に案内してくれた。古市いちばんの割烹店で、朝吉楼(嘉永四年創業の麻吉楼のことか?)という大きな青楼であった。朝からご馳走が出るし、芸者は来るし、四絃(琵琶)の声は耳を聾するほどであった。ここに一両日、厄介になった。

 山田を離れて少しばかり来たところに、年寄りの乞食が病気らしく路傍に寝て、幼き女の児が介抱している。見るに見かねて足をとめた。
「おい、乞食、きみは病気か。飯は食ったか?」
「昨日から何も食べていません」
「そうか、それは気の毒だ。あの女の児は何歳だ?」
「はい、あれは私の孫ですが、歳はようやく八つであります。行人の袖にすがり、少しのお恵みをいただいて、それで親子が食するようなわけです」
 余は心に感じて、虎の子のように大事に持っていた二分金をそのまま乞食の親子にやって、
「君、これで飯を食いたまえ、薬も飲みたまえ」といえば、乞食の云うには、
「これは二分金です。この辛き世の中に一文のお銭さへなかなか下さらぬのに、二分というような大金を乞食が持っていては、盗みでもしたのではないかと、かえって人に疑われます。お恵み下されしお志はありがたく頂戴いたしますが、このお金はご返却いたします」
 というので、付近でこまかい金と換えて、乞食に与えて別れた。
 宮川という川に渡し船がある。何も気がつかずに船に乗って向こう岸に着いたが、二分しかない金を乞食にやってしまったので、船賃がない。恥ずかしかったが、船人にその訳を話して頼んだら、同情のある舟守で、
「おまさんは、まだ子供あがりでありながら、感心なことだ」
 といって、無銭渡船をさしてくれた。
 まだこの頃は、俳句のはの字も知らず、年はようやく十六歳と半分ばかりであった。

 ここで「十六歳と半分」というのは、これが明治五年ごろの出来事だとすると、十九歳か二十歳の思い違いであろう。

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【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】リニューアル

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 6月 8日(月)19時41分5秒
 
【濃飛百峰 古典郷土詩の窓】 リニューアル

【凡例】
岐阜県学芸史のバイブルである伊藤信氏編集の『濃飛文教史』1937。ここに現れる漢詩人データを『漢文學者總覽』に倣ってリスト化しました。
同時にその情報源について、墓碑、遺稿集はもちろん、当時の選詩集である
 
『玉振集』1778、  『濃北風雅』1783、  『三野風雅』1821、  『聖代春唱』[1826]、  『洞簫余響』[1867]、
 
に収録された情報と、照らし合せできるものは確認し、併せてこれまで詩史から漏れてゐた詩人データを追加しました。
 
さらに以下の本を精査して『濃飛文教史』情報と重複しない新規情報がないかチェックしました。
日置弥三郎『岐阜市史 通詩編 近世』1981
岩田隆『東海の先賢群像 正続』1986-1987
笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』1969
 
表題人名には「号」を採りました。
順序は始めに大まかな地方毎とし、その後さらに細かい地区、もしくは時代毎に、どちらを優先するかは適宜、詩人間のつながり(血縁や結社)を考へながら配置しました。
郷土漢詩人を調べる際のプラットフォームになってくれれば幸ひです。
 
(付記)
当時の版本は人名漢字が定まってをらず(例:「野・埜」、「塚・冢・束」等々)、また赤の他人に編集が委ねられた選詩集には誤記もみつかり、不備は追々訂正して参ります。
リンク先の各ページにおいて公開を試みた草書の解読・訓読テキストについても、御教示お待ち申し上げます。
 

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