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『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月12日(月)19時14分5秒
編集済
   旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。

 執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。

 戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
 すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
 その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の

「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地」

を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
 しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを

「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」

といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。

 立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。

 そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。

 何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認めない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
 また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。

 荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。

 ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また

「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘ったるくて単純なものが多い」

と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。



 本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。

 日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
 繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
 特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。


 ここにても厚く御礼を申し上げます。


『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか

21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社)  \1300+税



青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925
 
 

岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月 5日(月)20時26分59秒
  【書評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。

https://shiki-cogito.net/book/edokanshisen.htm
 

山崎剛太郎先生

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 3月26日(金)17時18分10秒
編集済
 

 今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。

 親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。
 
 先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
 
 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。
 
 御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。
 
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)

http://

 

『イミタチオ』61号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 2月 4日(木)20時52分27秒
   旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに
 

田中克己先生の命日に

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月14日(木)23時46分46秒
編集済
 

田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。

当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。

先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。

先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。

田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。

そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。

先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。

そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。

その夜の1時24分に先生は亡くなった。

翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。

しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。



告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。

それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、

「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」

と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、

「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」

との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。

不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。

最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。

先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。

御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。

 


先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。

しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。

また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。

敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。

このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。

私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。

 


茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。

人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。

さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。



今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)

葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居たが、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)

http://

 

謹賀新年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月 1日(金)21時02分20秒
  旧臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。


昨年2020年のおもな収穫は

『江戸風雅』第7~15号 9冊 平成25~29年
『太平詩文』第1号~69号 63冊 平成8~28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26~27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60~平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛

といったところでした。



さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。

「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)

といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。



また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p)の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。


 ロッキングチェア

まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子

そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの



そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。

福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。


首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。


付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)
 

『感泣亭秋報』15号 特集『未刊ソネット集』を読む

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年12月12日(土)21時06分13秒
編集済
   詩人小山正孝およびその周辺人脈を顕彰する目的で、毎年刊行されている『感泣亭秋報』も今年で15号。
 後記にて編集・発行者である御子息の小山正見氏の語るところ、

「今号をもって感泣亭秋報の元々の使命は果たしたと思う。いつ終刊しても悔いはない。」

とございました。しかしながら、今号も充実した内容をもって過去ページ数を更新(227p)。結局、

「こうなると、面白くて簡単にやめられない気もする。今後の編集は、風の吹くまま気の向くままということになりそうだが、それはそれでいいのではないかとも思う。」


 私も同感申し上げる次第です。


 そして一通り既刊詩集を特輯してきた本誌ですが、このたび俎上に上がったのが、没後刊行された『未刊ソネット集』です。

 各詩篇にタイトルもなく、発表されないまま篋底に蔵(しま)はれてゐた草稿を集めて一冊にしたものであるとはいふものの、これの編集に当った故坂口昌明先生が「編者識」において、

「私は(※その後に出た第二詩集の)『逃げ水』よりも愛すべき作品に、初めて何度となくお目にかかったという感慨で、長嘆息したものである。(『未刊ソネット集』436p)」


と喝破された通り、「またと還らない青春の記念碑として、明晳な意識のもとに書かれた(『未刊ソネット集』436p)」作品群です。

 常子夫人に対するあからさまな愛のメッセージでもあるため発表が憚られたのでは、との臆測もなされてゐますが、第一詩集の『雪つぶて』と第二詩集『逃げ水』の間に介在する「ミッシングリンク」の意味合ひが濃いことを、いづれの評者も指摘してをられます。

 かつ坂口先生が仰言ったやうに、愛の諸相に迷ひ込んでゆく、その後に書かれた第二・第三詩集よりも清純な作品が並んでをり、小山正孝を謂はば「四季派の詩人」としてのみ語らうとする際には、もし彼が『雪つぶて』を刊行したきりで夭折してゐたら、この内容といふのは、正に立原道造における『優しき歌』になぞらふべき意味を持った筈なのであります。

 書き継がれたこれら抒情の純粋化を志向する作品群が、当時のまま「手付かずの状態」でみつかったことは、その後あたらしい歩みを始めた彼、「日本の敗戦を境にした《四季》的情の崩壊を体現するかのように傷だらけで生き抜いたすえ、独自の詩境に到達した(『未刊ソネット集』401p)」彼個人にとってはスキャンダルであったかもしれませんが、四季派の詩情が戦後たどった命運を、詳細に跡付けてゆく作業の上では、たいへん重要な発見だと私は思ってをります。

 作品はみつかったノートごとに整理されてをり、処女地の雪原を思はせる余白の白い一冊から、みなさん思ひ思ひの佳篇を選んでゐますが、やはり坂口先生が「若かりし日の小山氏の本領ここにあり(『未刊ソネット集』443p)」と仰言ったやうに「Iノート」の諸篇の完成度が高い。

 今回執筆の『詩と思想』編集委員の青木由弥子氏(※11月号特輯「四季派の遺伝子」は未読ですが、まさに気鋭の論客かと)が、何でも自由になり過ぎた戦後現代詩の在り得べき姿、その手綱のとり方として、加藤周一が小山正孝の第三詩集『愛し合ふ男女』に贈った言葉を引き、「一巻の詩集を、一つの主題を語る一箇の作品として、つくる」ことによる可能性を語ってゐますが、この「Iノート」に収められた12篇についてもそれが証せられないか、やはりこのノートに着目した渡邊啓史氏の丁寧な論考が、今号の秋報においても光彩を放ってをります。

 私の好きな詩を4つほど上げます。


小雨が ひたひをぬらしてゐる
私は それをぬぐふ元気もない
しづくは 眉のあたりを 横に流れ
走る都内電車の窓のあたりもぬらしてゐる

お前も どこかの街を歩いてゐるのではないか
立ち止つて 飾り窓を のぞきこんでゐるのかもしれない
水たまりの中も 雨はぬらしてゐる
走る自動車の屋根は少し白く光つてすぎる

心のやり場に困つてしまつて
私はお前をうらんでゐる
西の空が明るくなり 雲が走りはじめた

お前のレインコートの雨のしづくが
一筋ひいて 落ちるやうに 私の手の中に
お前の心が 落ちこまないだらうか           100pノートDより



置き去りに されたやうな
氣持で すごした 午後
私はゆつくりと街を歩いた
商品を一つ一つ見て歩いた

お前に 何を送らうと思ひながら
腕輪 時計 首飾り…
眞珠は 圓みを帯びて
色々ににぶく光つてるた

廣い 野原に立つてゐる 一本の木
お前と いつしよに休んだ
その下の 石のベンチ

思ひ出の中のお前の姿勢をめぐつて やがて
不思議なことに 私は さうしたお前に
いろいろ値段などつけてみたりしはじめてゐた        108p ノートDより



窓から雪のふるのを見てゐると木の枝の上にとまるときに
ためらふやうにして枝にすひよせられて行く
カーテンをそつとしめながら 私は お前を抱きよせる
ガラス窓の向ふ側は寒い風が吹きはじめたにちがひない

お前も雪のつぶが枝にとまるところを見てゐたのか
ふりかへりながら美しい目で私に笑ひかけた
人生があのやうにしづかにすぎるならばと言つてゐるやうに
お前のからだの重みが私の兩腕に急にかかつて来た

檜の木の葉末からよろこびの叫びをあげて
キラキラ輝く朝日の光の中でとけて歌ふ歌はどんなだらうか
水たまりに落ちるあの雪の亡びの歌はどんなだらうか

お前に やさしく 出来るかぎりやさしく 私は心がける
私たちのすごしてきた生活のあひだに お前が
雪のやうに 重く 大切に はかなく 感じられてならないので       298pノートIより



お前に花束をさし出しながら言つてやれ
別れだよ これが 私の愛の最後の別れだよ
小さい蜂が花束から飛び出すだらう
ガラス窓の上に一寸とまるだらう

お前はびつくりして私の顔を見るだらう
さうね お別れしませう あなたを自由にしてあげませう
小さいゑくぼが出来るだらう
ほほの上を一すぢの涙が流れるだらう

あたたかいお前の指と私のつめたい指とが
花束の根もとの所でふれあふだらう
それでも 花束の重みはお前の腕に移るだらう

私は知つてゐる やはりはつきりと別れることが
涙を涙として流させること
美しい花を花として咲かせることだといふことを             312pノートIより



 特集の二つ目は現今の立原道造をめぐる環境について。

 前号では旧立原道造記念館の運営姿勢に筆誅を下した渡邊俊夫氏の一文が圧巻でしたが、今号も鈴木智子氏から「立原道造の会」について、これまでの経緯と向後の方針とについて説明がなされてゐます。
 また立原道造をめぐる「研究」環境については、蓜島亘氏が、昨今顕著な新世代研究者の動向について、論文数のみを偏重する文教行政の現状に苦言を呈し、さらに筑摩書房版の新修『立原道造全集(2006-2010)』が、「立原個人の嗜好含め、日本の詩の流れ、立原の時代の文学・文化の周辺事情の理解に乏しい」編集委員によって監修されたことにさかのぼって疑義を突きつけてをります。
 研究者個人に対する批判も名指しで、

「当時の文章を鏤めることで、立原をその時代の中に浸らせて、あたかも立原が彼らの意見を自分の意見としていたかのように論を展開している。必然性や論拠が示されず、(中略) そこに立原ではなく、中原中也がいてもいいし、他の一詩人がいてもいいのではないか。」87p

 等々、各所で辛辣を極めてゐますが、もっともつまるところは、

「詩や小説は、そもそも研究を必要とする対象ではなく、娯しむ対象であり、一人一人の読者がそれぞれの読み方をすればいいものではないかと思われる。」90p


 といふことであって、もしそれ以上の研究を学術的に試みるとするならば、戦前の日本を肌で知ることのない後世の研究者はもっと謙虚に資料に当るべきであり、そして国際基準に則ったルールを守って、文科省の指導に阿って本数に拘った浅薄な「研究」論文は書かないで頂きたい、さういふことなのだと思ひます。

 前号の渡辺氏、そして今回の蓜島氏と、斯様な文章が載せられるところにも、口当たりの良いリベラルな批評がならぶ文芸誌とは一線を画した、この雑誌ならではの個性が存するやうに思ふのは、また私も癖の強い詩の愛好者だからなのかもしれません。

 他には『雪つぶて』所載の詩篇「初秋」の解説を、鋭い読解力によって試みた鈴木正樹氏の一文「私の好きな小山正孝:過ぎ去っていく青春」。そして映画評論家「Q」のペンネームで名を馳せた津村秀夫を追悼して、愛娘の髙畠弥生氏が書かれた長文の回顧譚を興味深く拝読しました。女優杉村春子の恋人だったことを知らなかった私は、弟である津村信夫の追悼文集にどうして彼女の名があるのか初めて合点がいったやうなうっかり者です。

 この場にても寄贈のお礼申し上げます。ありがたうございました。



年刊『感泣亭秋報』15号 (2020年11月13日発行) A5版227p 定価1,000円 (送料とも) 発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com

  目次

詩 林檎に          小山正孝 4

  特集Ⅰ 『未刊ソネット集』を読む

愛は静謐である──『未刊ソネット集』を読む          永島靖子 6
十四行詩をやめたまへ          山本 掌 10
愛憎の迷路──十二の愛の十四行詩のために          渡邊啓史 15
『逃げ水』から『愛しあふ男女』へ          青木由弥子 41
小山正孝は日本最大のソネット詩人である          小笠原 眞 46
『未刊ソネット集』と思い出すこと          宮田直哉 50
愛の詩人が視た風景          服部 剛 55

新出資料 十一冊目の「ノート」について          渡邊啓史 60

  特集Ⅱ 立原道造をつなぐ

立原道造を偲ぶ会の思い出          秋山千代子 64
立原道造を偲ぶ会の思い出──ヒヤシンスセミナーのこと          後呂純英 67
立原道造の会の歩みとこれから          鈴木智子 70
立原道造研究序論          蓜島 亘 75
東アジアの抒情詩人──立原道造と尹東柱          益子 昇 94

  回想の畠中哲夫
真実を求め続けた人、畠中哲夫さん          萩原康吉 101
三好達治と萩原葉子さん、そして父のこと          畠中晶子 106

  同想の津村秀夫
わが愛するQ、父津村秀夫          高畠弥生 108

  追悼 比留間一成
比留間一成アンソロジーを読んで          岩渕真智子 136
一条紫烟秋容満千里 または時人の矜恃          渡邊啓史 141

詩          大坂宏子・里中智沙・中原むいは・松木文子・柯撰以 174-185

 《私の好きな小山正孝》 過ぎ去っていく青春          鈴木正樹 186

  感泣亭通信
ファミリー・ヒストリー          若杉美智子 189
山崎剛太郎さんを撮る          堀田泰寛 191
マチネ・ポエティクとソワレ・ポエティク          深澤茂樹 196

実験小説「面影橋有情」          田浦淳子(渡邊俊夫)  199

信濃追分便り3初夏          布川 鴇 214
常子抄          絲 りつ 215
坂口昌明の足跡を辿りて5          坂口杜実 217
鑑賞旅行覚書5蛇          武田ミモザ 220
《十三月感泣集》2他生の欠片          柯撰以 221

感泣亭アーカイヴズ便り          小山正見 223

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「パストラル詩社の終焉」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年10月 1日(木)09時41分48秒
編集済
 
 一戸謙三御令孫の晃氏より、前回の「復刻版 パストラル詩社通信」に引き続いてA4版パンフレット、探珠「玲」別冊「一戸謙三の抒情詩 パストラル詩社の終焉」をお送り頂きました。
 
 今回は青森県最初の詩の結社パストラル詩社から発行された、10冊の同人アンソロジー(大正8年~12年)に載せられた一戸謙三の初期の抒情詩を通覧します。合せて詩人の自意識を窺ふやうな、当時の興味深い出来事(事件?)が一緒に記されてゐます。

 すなはち同人達の共通の師匠であった郷里の先輩詩人、福士幸次郎が、「パストラル第7集」に載せる詩篇を取捨選択するその現場に、たまたま田端の福士邸を訪れた謙三が立ち会ってゐるのですが、実力では盟主を任じてゐた自分の作が採り上げられず、代って事務方を仕切ってきた5歳年長の櫻庭芳露(さくらばほうろ)の「悔」が佳作として面前で激賞されたことであります。
 
 (※一週間程経って)「また福士さんを訪ねてゆくと、二階(※四畳半)で原稿を書いてあつたが、それを止めてパストラルの原稿を取り出し批評しながら見てゆく。○のついたのは今度の詩集に入れるもの、×のついたものは入れないものとして厳重にむしろ苛酷といふほどに批評してゆく。それだけ芸術に対して福士さんは妥協的態度を取らないのである。真先きに私の詩が、オリジナリテイがない、とやツつけられた。(※この後、原稿は散失してしまったと言う。)桜庭君も困つたものだ。熱心は芸術と違ふからなあ!しかしこの詩はいいぞ。おお、これア傑作だ、と「悔」(※といふ詩)を示して、これアいい、全くだ。二重丸にしてやれ。いや、いいぞ、も一つ丸をつけてやれ。しかしねえ、パストラル詩社の人たちみんなにこんな詩を作れと云ふのではないですよ。ねえ、めいめい自分には個性と云ふものがあるんですから。」「不断亭雑記(昭和36年より新聞連載)」No.524
 
 当時上京中だったのですが、謙三はこの第7集『五月の花』に載った作品に対する厳しい批評を、地元青森の一般新聞紙上で行ひます(画像参照)。そしてそれが因なのか、それまで櫻庭から一戸への通信文に擬へて福士幸次郎の言葉を伝へて来た「パストラル通信」も、(出てゐないのか、遺されてゐないのか)、当時のものが見当たらないのです。

 厳しい批評は、嫉妬であるより謙三が盟主を自任してゐた詩社の責任者としての自責を他の同人にまで及ぼした現れでありましょう。師の言葉の“厳重にむしろ苛酷といふほど”をそのまま写したものであったかもしれません。しかし、そののち櫻庭氏が自分と入れ違ふやうに教師を辞して上京してしまひ、パストラル詩社も解散のやむなきに至ったことについては、謙三も彼なりに理由の一端を担ったのではないか。バツの悪い思ひもしたのではなかったか。櫻庭芳露は昭和3年に、福田正夫や白鳥省吾の序文を得て『櫻庭芳露第一詩集』を刊行し、新詩人としては少々遅いですが詩集の刊行を果たします。その際、やはり新聞紙上に謙三が書いた当時の回顧には、上京した後の櫻庭氏が、詩作の上では芸術派だった謙三とは全く肌合ひの異なる民衆詩派詩人として、都会生活のなかで変質をとげていったこととは関係なく、正当な人物評として表れてゐるやうであります。
 
「その人(※櫻庭氏)の稟性はまことに誠実そして熱心である。」「あのパストラル詩社を経営した努力、それはわたしら郷土詩壇に今現在生きてあるものの誠に多としなければならぬところである。他日郷土詩史を書くものがあったならば必ずやパストラル詩社の名をまた櫻庭芳露氏の名を逸せぬことであろう。何故なら前者は郷土詩壇の草創の詩社であり、それを主宰し興隆せしめたのは後者であったからである。」昭和3年8月6日「東奥日報」「櫻庭芳露氏とパストラル詩社」
 
ところがその後、謙三の方では郷里にあってモダニズム詩人への変態を遂げ、さらにそこからも脱却すべく欝々と模索・煩悶してゐた時期を迎へて、よほど心に余裕のなくなったものか、昭和8年の「日記」にこんなことが記されてゐることに、晃氏は首を傾げてをられます。
 
8月6日「県教へ出す方言詩を直して書く。弘新(※弘前新聞)によって、新聞を東京に出す。万茶(※喫茶店)によると、成田君(※東奥義塾で今官一らと同級、画家志望)が来る。雑談して五時ころまでゐる。夜に、桜庭氏の歓迎座談会あり。逢って見たところで、大した話のあるわけでもなし、行きたくもないのだが、パストラル同人であって見れば義理である。」

9月8日「佐藤一英、福士さん(新聞)、高木恭造。桜庭先生からヘンなハガキ来る。黙殺す。」
 
 この日記の続きには、高祖保から激励のハガキを受けとり、かうも書いてゐることを以前紹介しました。
 
11月14日「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」

 「ヘンなハガキ」とは如何なる内容のものだったのか。座談会での様子、当時の作品への短評、あるひは未だ詩集のない詩人に対する慫慂であったかとも私は勘ぐってみます。そして焦りからの斯様のメモとなったのでありましょうか。

 桜庭芳露といふ詩人は、職場では「非社交的」であり「ものごしがおだやかではあったが、どこか毅然としたものが」あって、「重々しい北国の人の魂」を東京生活のなかでも忘れることがなかった人であったやうです。(本田秋風嶺「青森を生きた人―桜庭芳露君のこと―」)

 ふたたび戦後も随分経って、詩人が「不断亭雑記」の中でさきにあげた当時の顛末を余さず書いてゐるのは、気持の上ではわだかまりも貸し借りもなくなった彼が、事実を重んじ有りのままを書いたものであったのでしょう。送って頂いた冊子(探珠「玲」別冊)の今回、前回とに載せられた文章(画像)と、合せて補足する意味で当時のパストラル詩社のことを回顧した福士幸次郎の一文とを紹介しておきます。


福士幸次郎『櫻庭芳露第一詩集(地上楽園叢書第七編)』昭和3年大地舎刊行 序文より

(前略)『詩を見てくれ』といふ郷土の若い人々の声は、すぐオイソレとは引き受けられない破戒の道だつた。幾度も躊躇したあと、究極の心に基いた感情的承認で、引き受けられた仕事であつた。もし断ったら、わたしはまた故郷を失ふであらう。これは私には折角の与へられた機会に対し、芸術を失ふことよりも或る点辛いことであった。

 承知の旨の返事を出すと、この若い人々は早速同人をあつめて、『パストラル詩社』といふ見事な名をつけ地方文壇に旗上げをし、その作つた詩を集めては、東京のわたしに送つて来た。わたしは之れを個々に熱読し、その個性がその儘に延びるやうにと、其の面白いと思はれた個所に、或は面白くないと思はれた個所に、細かい注意書を赤インキで書き入れ、殆ど一作毎に評をつけ、全体の作品に対する個人評を加へ、同人全体に総評を下し、かうしてパストラル同人に返送した。

 この仕事には室生犀星、百田宗治君等が見て驚嘆したものだ。さうであらう。これだけの事をするのに完全に二昼夜も掛つた。そして同人はといふと未だその頃初歩で、先輩詩人への露骨な模倣時代であつて、民衆派一方のものあり、萩原朔太郎君張りあり、単なる童謡めいたもの等があつた。

 わたしは或る時は持て余してふた月ほども原稿を抛つて置いた事もあった。だが、かういう間に同人は殖え、心境や技量は進み、同人集のパンフレット『田園の秋』『太陽と雪と』『芽ぐむ土』等が次ぎつぎに刊行され、パストラル詩社は地方に於ては文芸上の優勢な地位を作り、当時までここでも全盛だつた短歌歌人を圧倒した。

 この活動の期間は凡そ大正十二年頃まで四五年間継続した。それは私にとつても愉快な仕事であつた。なぜといふに同人はこの間に各自、自分の心の上で延び、わたしも亦、これ等郷土詩人を通じて、故郷に立派に繋がつたのであつた。

 わが桜庭芳露君は、実にこの中の一人であり、最初の社の代表者後藤健次君が出郷したので一戸玲太郎、安田聖一君等の助力のもとに、そのあとズッと社の統率、経営に当つて、地方詩壇に貢献した人であつた。この点わが郷土では同君は隠然、地方詩壇の草分けと見られ、同君の名を今に到つても慕ふものが多い。実際また同君のこの前述四五年間の貢献はすばらしかつた。同人集はこの間に九種も出た。それは地方の印刷なので活字こそ汚なかつたが、表紙はやはり同人の手になる色刷りの木版画で飾り、素朴な中にも可愛らしいパンフレットで、その時の事を知つたものは誰しも懐しがるに違ひない。わたしはこの点、或は不親切な先輩であつた事に成るかも知れぬが、中央詩壇当て込みの野心は同人諸君に厳に抑へてゐたので、中央には余程あとで自然に名を認められるやうになったが、事実地方に於ける気持のいい詩の運動で、そして其の努力には桜庭君に負ふ処が多かつた。

 パストラル詩社の揺藍時代を経て、桜庭君はその後東京に出た。丁度大震災の年の初夏であつた。そして桜庭君はこの新生活で、地方ではまた見られない現代社会の広い波に漂ひ、サラリーマンの劇務のなかに今迄とは違つた精神の芽生えを経験し、新しい心境に彷徨し、都会生活の澱のなかに同情の深い詩材を探るやうになつた。そこには誠実な人の心から迸る怒りや、嘆きや、希望や、激励やが如何にも誠心こめて現れた。わたしの郷土の人は嘘はつけない。また空虚な技巧を娯しむやうな心ももつてゐない。この点桜庭君がここに進出して来たのは当然であつた。ただしこの時期には私は丁度桜庭君と入れかはりに故郷に行って生活し地方主義運動に着手したので、桜庭君についてはその後わたしの手を放れて独り見るみる変つてゆく心境を、ただ遠くから見まもつてゐる外なかつた。

 それは悪い方向ではない。時にあぶないナと思った事もあるが、同君の誠実と努力とに充ちた心は、何かなし底のあるものを掴み、読者をして共鳴を起させる力あるものが現れて来た。わたしは桜庭君がたうとう見つけ出したこの独自性について、パストラル詩社最初の精神を壊しく想ひ出し、心からお祝ひするものである。桜庭君よ、その真つ直ぐな道をなほも開け。誠実は矢張り何時も芸術上で貴い光を放つものである。

 昭和三年五月 世田ケ谷にて 福士幸次郎
 

 10月1日は弘前の詩人一戸謙三の祥月命日です。(1899年2月10日 - 1979年10月1日)
 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございます。

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新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月12日(土)22時01分46秒
 
 青森の相馬明文様より、新刊『太宰治の文学 その戦略と変容』をお送り頂きました。かつて拙詩集を寄贈させて頂いたお返しかと存じます。
 
 『感泣亭秋報』等で拝見してをりました、詩人小山正孝に関する諸文章が(翻刻資料とともに)収められ、他にもこれまで著者が太宰治と向き合ふ過程で知り合った文学者について、考察・思ひ出をまとめて一覧できる章立てがなされてゐます。
ともあれ本書前半の、著者の本領であるところの太宰文学研究に初めて接した私です。
 
 かつて、文学史(論)や作家研究に関する研究書で、「時代の子」というこの用語はよく見聞きした。 (中略) (※しかし太宰治という書き手は、)時代そのものを戦略として活用ないし利用した、それも効果的に、と言えるのではないか。たとえば全国を席巻した左翼・共産主義思想、労働側の階級闘争、青年層の自殺自死の季節など (中略) これらの事象・状況を、「時代に生きた」というような客体的な受け身の結果としてではなく、積極的に能動的に、文学表現に「言語の戦略行動」として取り入れた、というべきではないのか。(「序に代えて ──太宰治の戦略を考える」11~12p)
 
 かう冒頭に述べられてゐる着眼点。肯へて「戦略」というキーワードを使用したところに、郷土の研究者ならではの妥協のなさを感じました。この「戦略」自体については、平成21年に青森県立近代文学館で行はれた講演原稿に沿って、大変分かりやすく、「句読点」「同語の繰り返し」「否定」「逆説」「告白体」といった具体例を挙げながら説明されてゐるのですが、私が感じた妥協のなさについては中盤に於いて極まり、
 
 私は、太宰が左翼思想に飛びついたのは、単に「えふりこき(※注:津軽弁で“ええ恰好しい”の謂)」だったからではなかったか、という噴飯ものの思い付きを少し長く打ち消せないでいる。つまり、後にこの作家の文学的内容となる共産主義とその離脱への入り口は、言ってみれば取るに足らぬこと──本心から社会正義としての必要性を感じたのではなく、周りに対してそう見せかけようとしたからではなかったのか。この思想は当時の〈非〉合法思想であって、後に全国規模で国家当局から大粛清を受けることになる社会の趨勢については、ここで触れるまでもないことである。官立弘前高等学校でも昭和10年ごろまでに学校当局により弾圧されていくことになる。しかし一方では時代の先端的一面があったはずで、「恰好」がよかったからでは、と思えてならない。(「えふりこき ──太宰治瞥見」95p)
 
 とまで突っ込み、語られてゐます。
 太宰治は私にとって、詩に出会う前の大学時代に、『ガロ』のマンガと同列に読みふけった唯一の小説家でした。山岸外史による有名な評伝バイブル『人間太宰治』に詳しく書かれてゐますが、個人的にもっといやらしい言ひ方をするならば、「戦略」とは、彼の人となりについて評された「サービス精神」の表はれでもあったかな、とも思ったことでした。
当時むさぼり読んだ、今はあらかた忘れてしまった作品の中でも、「津軽」は別格として「乞食学生」「眉山」といったセンチメンタルな短篇に心打たれた記憶があり、なるほどよくよく思へば、私はただ彼の「戦略」の術中にはまってゐただけ、だったやうな気もしてをります。
とまれ愛読者だったといって何の論評ができるやうな知識も持ち合はせず、ここにては目次紹介しかできないことを恥づるばかりですが、著者もまた「眉山」がお好きであることを述べてをられるのを知って嬉しかったです。
 
 新刊のお慶びを申し上げますとともに、ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
 
出版社: 能登印刷出版部 2020年7月24日発行。22cm, 281p \2,500
ISBN:978-4-89010-771-1
 

『復刻版 パストラル詩社通信』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 9月 9日(水)16時12分31秒
編集済
 

 青森での講演から1年経ちましたが、詩人一戸謙三の伝記資料冊子10冊の刊行を果たしたお孫さんである晃氏よりは、あれ以降も引き続き、詩人に関する考察とフィールドワークを交へた「資料報告」を頂いてをります。本日は断続的に発行されてゐる『探珠 玲』別冊より、『復刻版 パストラル詩社通信』(2020.9.9 A413p)のご紹介。

 大正時代、歌壇が主流だった弘前の文芸壇に、口語自由詩の新風を吹き入れる役割を果たした青森県初の詩社、パストラル詩社。

 現在、全集本などにはよく、編集雑記などが刷られた数枚の紙片が「〇〇通信」なんていふ名で栞として挟み込まれてゐますが、大正9年の時点でこの「パストラル詩社通信」はその走りとでもいへましょうか。ただし購読者に対してでなく同人限定に向けた通信文の刷物なので「会報」といった方がいいかもしれません。

 ただし面白いのは編集者の櫻庭芳露から一戸玲太郎への通信文が、そのままガリ版で刷られ、会員にも共有されるといふ趣向です。

 そして編集方からの通信であるとともに、詩社の精神的支柱だった福士幸次郎をフィーチャーすることで、すなわち櫻庭・一戸の二人と、その先生とが実質的に運営していることを示す、パストラル詩社の性格をよくあらわした刷物であることに資料的な意義を感じます。

 内容は編集者の櫻庭芳露から同人への連絡事項で主に占められてゐますが、申し上げたやうに毎号の巻頭、ネジ巻き役である東京在住の福士幸次郎から届いた「通信」、檄やら言ひ訳やらの手紙の文章が掲げられてをり、ことにも最初に同人全員に対して食らはした

「諸君の内から取り得るものは僅かしかない」

の一発目はガツンと効いてゐます。民謡・童謡を「詩」とは認めず、青年詩人に対していましめたところにも見識を感じます。中央では、お仲間世代である佐藤惣之助や西條八十が、かうした作詞で世俗的に売れはじめてをり、青森にも安易に手を付けたい誘惑にかられる若者がゐたことをこの文面は示してをり、たいへん興味深いです。

 (我が郷土岐阜はその点、田舎の紅灯観光地ですから、青年詩人達がこぞって創作民謡にあてられてしまひ、親分として佐藤惣之助のことを、アンデパンダン詩社「詩の家」主宰者でなく民謡調の大家として奉戴する同人誌『詩魔』詩壇が形成され、自由詩が(芸術派もプロ派も)全く振るふことがありませんでしたから。)

 ガリ版の文面写真が載ってゐますが、できれば各号の全体の形姿と共に、詳しい書誌も記されるとよかったです。

 定期的に送って頂くA4に綴じられた「資料通信」を読みつつ、自身で継続中の日記翻刻作業も髣髴され、晃様の地道な営為のさまがしのばれます。資料を寄贈した先の弘前市郷土文学館でも、かうした営為をむだにせず、原画像と共に翻刻資料の公開を考へても面白いことかと思ったことです。

 ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございます。

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