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『感泣亭秋報』14号 特集「連帯としてのマチネ・ポエティク」 ほか

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年11月17日(日)00時51分51秒
編集済
   現在、『四季』に拠った詩人たちと、その周辺を主題にとりあげる唯一随一の研究誌とよんでよいと思ひますが、年刊『感泣亭秋報』14号が今年もつつがなく190ページの陣容で発行されました。

 私も今年の夏に行はれた青森講演を前に、裨益を被った坂口昌明さんへ感謝の念をのべた通信文を寄稿。今号は亡くなった比留間一成氏の追悼号でもありますが、坂口さんについてふれられた寄稿者が、杜実夫人の連載の他にも複数あり、齋藤吉彦研究、真珠博物館への協力等、博覧強記ならではの、中央からは知られること少なかった生前の御活躍が紹介され、この雑誌、印刷所もなぜか弘前なんですが、講演会の余韻もあって私には津軽との縁しをうれしく感じる一冊となってゐます。

 さてこのたびの特集は、三つあるのですが、まづは巻頭の「マチネ・ポエティク」、戦後抒情詩の実験的グループとして名高い彼らについて。
 中心メンバーだった福永武彦、加藤周一、中村真一郎が、小山正孝にあてた書簡がみつかり、渡邊啓史氏によって24ページにわたり紹介されてゐます。その後につづく半田侑子氏の一文、戦前の加藤周一が遺した「青春ノート」をめぐる考察とともに、興味深く拝読中です。

 四季派から咲いた徒花とも称される「マチネ・ポエティク」ですが、半田氏が加藤周一自らの説明によって要約した、その発生について、

「背景には一高時代に開かれた「万葉集」講読会があった。加藤、中村、白井、窪田らは「万葉集」を一言一句、正確に読もうとする経験ののちに、マラルメやヴァレリーなどの象徴詩を精読し、定型押韻詩の試みへと向かった」45p

といふところ、とりわけ、別のところで渡邊氏が引いてゐる中村真一郎の回想、

「その会では戦争批判は出ないけれども、戦争宣伝に対する一種の反対ということに雰囲気としてはなっていたと思うんです。どうして古典に向かったか。日本の軍国主義は一種のナショナリズムだから、無理しても日本文学を宣伝していた。そういうナショナリズムに対する反発もあったと思う。その反発には、フランス文学を読んで日本語の本は読まないというんじゃなくて、あなた方の日本文学の読みかたは、違っているんじゃないかということがあったと思いますね。」29p

 といふ、古典との関係は意外にも感じられました。そして加藤周一が、「悪いことというか、愚かなことをしたというので有名です」35p
と自嘲して見せる「定型詩」ですが、みなが論ふ「マチネ・ポエティク」といふ概念が単に「定型詩」を指すにとどまらぬ、戦時中の文学の在り方として、広義な「青年詩人たちの集まり」として論じられて良いのだ、と渡邊氏が指摘してをられます。

 すなはち『マチネ・ポエティク詩集』の序文には、作品はなくとも小山正孝や山崎剛太郎の名前が挙がってゐますが、敗戦をまたぐ戦中戦後の1940年代、世の中から距離を置いた堀辰雄を精神的支柱として仰いだ文学青年たちが、思想の動乱から超然と閉じて寄り集まり、持ち寄った高踏的な文芸創作物を朗読した会について、彼ら「仲間」たちの全体とその活動に対して冠せられるべき、亡き詩人立原道造が予定してゐた雑誌を念頭に置いたともいへる広義の「マチネ・ポエティク(『午前』の詩)」といふ概念があるといふこと。
 謂はば「定型詩」は、その結果、実を結んだ「成果のひとつ」であった、といふことが述べられてゐるのです。

 当時の堀辰雄を慕った若者たちのなかには、フランス象徴詩に理論的な根拠を討ねた若きインテリたちの他に、彼らにはまったく馴染むことのできなかった年少のカトリック詩人、野村英夫のやうな詩人もぽつんと孤立して隅に居りました。
 結核のために学業を排し、世事にも疎く家の遺産を食いつぶして転地療養をしてゐた彼の様子について、加藤周一は当時を回想する著書『羊の歌』(岩波新書1968年)のなかで、軽侮の念を以て吐き捨ててをります。立原道造に対して知的な敬意を抱き、四季派ばりの詩を書きはじめた彼にとって、堀辰雄の腰巾着にしかみえない野村英夫は、自分とは対極の環境的・精神的な位置に立ってゐる、求めざるライバルであったといへるかもしれません。

 そしてわれらが小山正孝ですが、戦争を忌避するリベラルな気質を同じくしながらも、しかもフランス象徴詩ではなく漢詩を素養にもつことによって、おそらくその他の俊英たちからは一目置かれる存在となり、また却ってそれがために作為的な押韻を諦めたかもしれない、さう私は思ってをります。
 立原道造に兄事した彼は、『四季』の詩情を体現する不幸な野村英夫の理解者・盟友となり、のみならず中国文学の造詣を以て晩年の堀辰雄に信頼されるようになった、当時は戦争詩を量産中の田中克己とも、『四季』同人の後輩として親しく交はるやうになります。
 押韻定型詩の詩学上では歩調を同じくすることを得ませんでしたが、謂はば戦争にコミットすることを避け得た数少ない詩人として、小山正孝はやはり「マチネ・ポエティク」の「仲間」の一人なのであって、小説家・批評家として文壇に巣立っていった彼らとも中立を保つ格好となった、めずらしい立ち位置にあった詩人であったことを銘記しておきたいと思ひます。

 「マチネ・ポエティク」を定型詩運動と呼ぶのは、戦後刊行された理論書『文学的考察1946』とその成果といふべき『詩集』によってもたらされた衝撃によるものでした。堀辰雄は野村英夫の「砂糖菓子のように甘ったるい」詩の、未熟なりに素質の良さを庇護し、なほかつ物足りなさが年を重ねて消えてゆくことを愉しみにしてゐたと思ふのですが、戦時中に朗読会を開いてゐた時点では、「マチネ・ポエティク」にしても、精神的支柱だった堀辰雄の周りでわきあがった、戦争からは目をつぶった綿菓子のやうな営為だったかも知れません。当時、杉浦明平から酷評されたことを記してゐる加藤周一ですが、後年、多恵子氏を中村真一郎と囲んだ座談会では、野村英夫に対してさすがに言葉を慎んだ物言ひとなってゐます(『堀辰雄全集別巻2』月報1980.11)。

(前略)【堀多恵子】 中村さんも福永さんも、いろいろなこと知っていてよくお出来になるでしょ。野村さんがその場にあてはまらない言葉を使ったりまちがったりすると、二人でくすくす笑うわけ。それで彼は傷めつけられたという感じになることがずいぶんありましたね。

【中村】 だってね、中里恒子さんが堀さんのお宅を訪ねて来ると、野村君は「今、中里さんがずしずしといらっしゃいます」と言うんだ。()「しずしず」をまちがえたんだけど。もっとも彼の詩は、そういう舌足らずのところが一種の魅力になっているんだが。

【加藤】 僕が最初に追分に来た時、もう野村さんはいたんだ。学生達は彼のことを「おかいこさん」と言ってたね。まゆの中に入っていて外に出ない、じっとかがんで入っているから。嘉門さんなんかは可愛がっていたな。井川さんは揶揄的だったけれども。シェストフなんかを読んでいる少年がいるというんで、大学生達は面白がっていましたね。

【堀多恵子】 主人は野村さんは何もわからないからと、かばっている感じで見ていたようです。福永さんとは、「四季」に詩を出すことをめぐってけんかしたみたい。

【中村】 「四季」の編集を野村君と小山正孝にやらせる号と、福永と僕やらせる号と一号ずつ分けて、ヴァラェティをもたせようとしたのね。そしたら野村、小山のやる号で福永の原稿を落とし、野村のが載ったので、けしからんと福永は激怒したんだ。

【堀多恵子】 野村さんが亡くなった時に、福永さんは「けんかして、それきりだった」とおっしゃってました。

【中村】 立原道造が死んで全集を出すというので野村君が実務に従事していた時に、立原の日記の中に自分の悪ロが書いてあるのを見つけて、野村君はショックをうけて編集を下りたですよね。それで、下りた直後に、野村君は僕の所に和解を申込んで来たんだ。それは立原の書いていることを見て、自分に欠点があるのに気づいて中村が怒ったのも無理はないと思ったわけ。だから戦争直後は僕の所にもしょっちゅう来るようになった。福永もそのうちに仲直りしょうと言ってたんですよ。

【堀多恵子】 そう、それがチャンスがなかったのか、そのままになっておしまいになったのね。

【中村】 で、遠藤周作君が野村君の所によく行ってたですね。野村君が死んだ時に彼の本を古本屋に売ったりして後始末までしている。僕が野村君に貸してた本まで古本屋に出ちゃったので、原田義人が目につく限り全部買い戻してくれたことがあったよ。(後略)


『羊の歌』はまた『田中克己日記』のなかでも、
「『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。(1969.7.4)」と書かれてゐるんですが、果たしてどこの部分だったでしょう。

 さて朗読を念頭に置いた定型詩としては、すでに佐藤一英らによる試みが戦争詩にからみとられる形で展開されてゐました。
 やはり『羊の歌』のなかに記されてゐることですが、大学構内に招待されたヒトラーユーゲントを白眼視をもって迎えた彼が、『ナチスドイツ青年詩集』を訳出した佐藤一英に対して一顧だに与へる筈もありません。が、全く別の意図を以て抒情詩の不備を補おうとしたマチネ・ポエティクの押韻定型詩の試みに対して半田氏が、『聯』とおなじやうな意義を感じてをられるのは面白いと思ひました。

「加藤の九八年の「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」、そして九九年の座談会の発言を見みると、加藤はマチネ・ポエティクの試みを、不定全ではあったが、全くの失敗だとは捉えていない。「もし「マティネー・ポエティック」の運動に歴史的な意味があるとすれば」と加藤がいうとき、少なくとも加藤自身は、マチネ・ポエティクには歴史的な意味があると考えていただろう。」45p

 三好達治が不満を漏らしたやうに、ポスト四季派といふべき『マチネ・ポエティク詩集』に盛られた詩情そのものの難解さは、一行一行を独立させようと腐心した、ポストモダニズムである『聯』詩と同様に変わるところがありません。
 批判が、前衛派・守旧派の双方からあつまり、結局詩壇に降参宣言をした彼らは、散文の世界へとそれぞれ活動の場を移してゆきます。そして小山正孝は、マチネの3名の俊秀から散文の才能を惜しまれながらも、野村英夫の側に残り、それがよかったかどうかは措いて詩人として立原道造の影響と格闘する道に分け入ることとなるのです。

 小山正孝と同じくマチネ・ポエティクの一人でいらした山崎剛太郎先生の長寿を寿ぎ、『マチネ・ポエティク詩集』刊行からしばらく経って、東大の後進である亀井俊介氏が渡米前に発表した「マチネ・ポエティクの詩人たち(1958年7月)」の一文を紹介して筆をおきます。

 今回も分量が豊富ですべてを紹介しきれませんが、津村秀夫ご長女高畑弥生氏による「津村信夫の憶い出」は必読です。

 最後に。 比留間一成氏とともに近藤晴彦氏の御冥福をお祈り申し上げます。



『感泣亭秋報』14号 2019.11.13 感位亭アーカイヴズ刊行 1,000円

 小山正孝「愛」4p

特集Ⅰ 連帯としての「マチネ・ポエティク」
その頃の友人たちと僕――戦争前夜の詩的状況(再録) 小山正孝 6p
またマチネみたいなことをやらう――小山正孝宛、福永武彦、中村真一郎、加藤周一のはがき 渡邊啓史 10p
加藤周一「青春ノート」から見るマチネ・ポエティク 半田侑子 34p
何も隠されてはいない――福永武彦の永遠なる未完成小説 三坂 剛 46p
自負と逡巡――1946年の中村真一郎 渡邊啓史 55p

特集Ⅱ 詩集「十二月感泣集」を読み直す
小山正孝の最後の詩集「十二月感泣集」を再読して 小笠原 眞 60p
小山正孝の〈永遠〉――二つの「池」を巡って 青木由弥子 64p
最後の和声が響く――小山正孝詩集「十二月感泣集」について 上手 宰 69p

特集Ⅲ 比留間一成さんを偲ぶ
詩人と教師――比留間一成さんの歩んだ教育の道 高山利三郎 74p
比留間一成先生を偲んで 八木澤泰子 64p
詩人・教育者・陶芸家 比留間一成の「優し」と私 横澤茂夫 81p

「顕彰活動のあるべき姿とは 渡邊俊夫 108p

異国拾遣 回想の古都“ユエ”――悲しくも静かな王城(再録) 山崎剛太郎 123p

感泣亭通信
小山正孝が訳した中国現代詩(その二)――桃蓬子「荒村」 佐藤普美子 129p
津村信夫の憶い出 高畑弥生 131p
一戸謙三展 中嶋康博 134p
かやつり草 富永たか子 135p
詩人たちの面影を求めて 服部 剛 136p
父「畠中哲夫」のこと 畠中晶子 138p
小山正孝さんのこと 前田良和 139p
山崎剛太郎さんを撮る~百一歳の山崎剛太郎さん自作の詩を朗読する~ 松岡みどり 141p
坂口昌明さんと真珠博物館 松月清郎 143p
感泣亭が結んだ糸――近藤晴彦先生を悼む 松木文子 145p
坂口さんの思い出 三上邦康 147p
梅雨明け 若杉美智子 148p

 山崎剛太郎(公園のベンチ)/中原むいは/里中智沙/大坂宏子/森永かず子/中村桃/柯撰以 150-165p

《私の好きな小山正孝》
愛を歌った時人の「切なさ」に心を惹かれる詩 萩原康吉 106p

常子抄 絲りつ 168p
坂口昌明の足跡を迫りて(4)  坂口杜実 170p
信濃追分便り2 布川 鴇 177p
〈十三月感泣集〉他生の欠片 柯撰以 178p
鑑賞旅行覚え書(4) 廻り舞台 武田ミモザ 180p
小山正孝の周辺(8) マチネ・ポエティク世代の文学観(1) 蓜島 亘 182p

感位亭アーカイヴズ便り 小山正見 187p


追伸
 立原道造の会の運営につき苦言が呈された一文については、顕彰活動の当初から関られた人物からたうとう声が挙るまでになったのか、といふ感じで瞠目。拙サイトのトップページの検索窓に「P氏」の名前を入れると、昔の嫌な思ひ出が2件ヒットしてきますが、彼の文学を愛するほどの人ならば触れたくもないやうな話題について、敢えて書くことを決意された義憤のしのばれる一文でした。
 これにより「P氏」の功績が消えてしまふ訳ではありませんが、組織を運営する際に求められる透明性──“「開く」ことの大切さ”を挙げて雑誌主宰者の正見様が、この一文を能く載せられたことと驚き感心してをります。

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『イミタチオ』60号「日本浪曼派とイロニー」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年11月 2日(土)12時47分16秒
  金沢の米村元紀様より『イミタチオ』60号の御寄贈に与りました。

保田與重郎ノート6は、『コギト』創刊から『日本浪曼派』の顛末の頃までの、保田與重郎の文章を彩った「イロニー」についての考察です。一般的に「皮肉」や「逆説」として解されるアイロニーのことです。

同人雑誌『コギト』が、文壇デビューの準備の場ではなく、「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ方向性を掲げた文学運動体として創刊されたこと。今回のノートは、その実体が、同人を形成してゐた旧制大阪高等学校時代の友情、とりわけ資産家だった肥下恒夫が負担した雑誌運営資金と、ドイツ語を得意とした松下武雄・服部正己・田中克己といった翻訳陣の訳業資源をバックにした「協同の営為」によるものであったことを押さえるところから、説き始められてゐます。

つまりその「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ強面(こはもて)の方向性ですが、「古典を殻として愛する」彼らは、その一皮下には旧制高校で培はれた共通理解の友情のグルント(土台)があったといふこと。(そこへ入ってゆけなかった東京者の立原道造はもとより、世代を異にした伊東静雄も、この連中は会合で集まっても世間話ばかりでお互いの批評を全然し合はない、って怒ってます。)

保田與重郎が、資金面で問題のない自由に話せる場所を確保し、力強い翻訳陣の援護射撃を得て、「題からして眼がキラキラし、その内容に至っては到底何のことやら分からない」文芸批評を次々に展開してゆく。「ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆」とか「後退する意識過剰」とか、これは確かに高見順みたいなリベラルな先輩知識人を、タイトルだけで以て聞きかねさせ、なにかしらイライラさせる「毒の魅力」があったと思ひます。

しかしてドイツロマン派から直輸入されたといふ「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったか。

『コギト』の二人の詩人、伊東静雄、田中克己にも、かうしたイライラさせる修辞、言ってみれば機嫌の悪い「あてこすり」の精神がスパイスとして効いてゐて、その点、所謂「四季派」のポエジーとは区別される訳ですが、「皮肉」や「逆説」として解される「一般的イロニー」ではなく、本場のドイツロマン派にあらわれた「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったのか。

語学不足で原典には深入りできなかった筈の保田與重郎が多用した「イロニー」といふ言葉ですが、米村氏はシュレーゲルが開陳した「ロマン的イロニー」の原義に沿って見てみて、「それほど間違ったものではなかった」と結論づけてゐます。その後半の条り、私自身はたして「イロニー」って理解してゐたんだらうか、と案じながら興味深く拝読しました。

読みつつ思ったのが、「ロマン主義は自己破壊、自己創造を同時に実現する実践活動(65p)」であるという定義。これは実存主義の概念がなかった時代の「企投」に似たものであったのか。

そして「われわれは同一人にしてかつ別人でなければならない(65p)」といふのも、「イロニーとは古代の文献解読の態度である(67p)」ことを念頭に、すなわち自分を無にして当時の人たちによりそって(のりうつって)考へること、畢竟、現在の知性で過去を断ずるな、といふ教条的なマルクス史観の否定、そしてその後は便乗「日本主義」を退け、結局当局に睨まれることにもなった、彼の歴史に対する姿勢の大本をなしてゆくものではなかったか、といふ感想でした。

ひとつ気になったのは、「デスパレートになったのは社会主義文芸に携わった青年たちであり、日本浪曼派の人々ではない(62p)」とあったところ。「何を(社会主義文芸)」でも、「どのように(モダニズム文芸)」でもなく、「なぜ」文学をするのかに執拗に拘った初期の保田與重郎ですが、「デスパレートな心情」を、社会主義文芸に携はった青年たちと同じくした時代もあったんじゃなかったかな、といふ理解を自分はしてゐます。

思ふに両者を相反する立場に分けてしまったのは、文学デビューしたものの(言論弾圧による)デスパレートな状況に陥り、自省をつきつめて「転向」していった「社会主義文芸に携わった青年たち」と、デビュー時期自体がすでにデスパレートな閉塞環境にあって正義感の表出を「イロニー」を弄して韜晦せざるを得なかった保田與重郎たちと、ほんの数年にすぎない世代の差にすぎなかったのではなかったか。かうしたたった数年の違ひによる世代の断絶は、こののちアプレゲールとの間にもう一度起きています。

そして興味深いことに、現在の日本に照らしてみると、同様の若々しいヒューマニズムが、以前なら反権力の文脈でリベラルに言ひ捨てて当り前だったことが、後ろ楯だった共産主義国家の実体によって裏切られ、かたや弱肉強食のグローバリズムが資本主義陣営を跋扈し始めるに至って、守るべきアイデンティティがコスモポリタリズムではあり得なくなった現状と、ほぼ類比されうるものとなってきてゐるとは言へないか。示唆されるところ多く観ぜられるのです。

ここにても御礼を申し上げます。まことにありがたうございました。

『イミタチオ』60号 (2019.10金沢近代文芸研究会184,5p \800)

評論 「保田與重郎ノート6「日本浪曼派とイロニー」米村元紀……31-74p
 『コギト』創刊の頃
 共同の営為
 独逸浪曼派特集
 ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆
 群衆の復讐と萩原朔太郎
 『日本浪曼派』の創刊から終刊へ
 後退する意識過剰と純粋小説論
 内的貧困と巨大なロマン
 文藝雑誌編集方針総じて未し
 ドイツロマン派から日本の古典へ
 『日本浪曼派』以後、所謂「日本主義」との闘い
 ロマン主義的イロニーについて
 

『堀内幸枝全詩集』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月29日(日)18時35分48秒
編集済
  『堀内幸枝全詩集』(2009年 沖積舎刊) の年譜を読んでゐました。

 同人にこそなられませんでしたが、杉山平一先生が解説の中で語るやうに「『四季』の詩人」であり(845p)、代表作『村のアルバム』の序文を書いた船越章は、田中克己と遠縁の『コギト』旧同人、また岐阜にも縁の深い深尾須磨子と付き合ひの深い人だったとは初耳でした。

 年譜の中で田中克己と会ったのが1964年中河与一邸でとありますが(875p)、1959年6月6日林富士馬邸においてであるので一応訂正。

6月6日
松本(松本善海)と出て喫茶しゐれば那珂太郎と西垣脩氏と遭ひ、西垣氏を松本に紹介すれば、松山高校での後輩なりし。
林dr.(林富士馬)にゆかんと云はれ、地下鉄にて新大塚下車。beerよばれ堀内幸枝女史来会。「船越章と甲府にて識る」と。
20:00 西垣氏を家に案内し、茶漬食ってもらふ。


 『まほろば』にも参加された由、その縁で『桃』には山川弘至にまつはる手紙を載せたのでしょうか(1991年)。四季派にかぎらず山岸外史(1985年)から岩本修蔵(1989年)まで実に幅広い詩人たちの懐旧譚を書き綴ってをられますが、親炙した田中冬二のことは「次の一冊にまとめたいとこの全集からのぞいておいた」とありました。

 とまれ、別件で県立図書館にいった折にみつけた全詩集でしたが、目に留まったのは、その姿が自分の『詩作ノート』とそっくりだったから。
 本を作る際に、函の寸法を定めるため、表紙から本文から外装をそっくり試験的に作った出来上がり見本、中には何も印刷されてゐない「白い本」のことを「束見本」といひます。出版社が多い神田神保町では、古本屋の店頭に色んな装釘の束見本が並べられ、余剰物として安価に売られてゐましたが、わたしの在京当時、三十年前のことですが、分厚い一冊を『詩作ノート』として重宝してゐたのが、なんと堀内『全詩集』と略おなじ姿であったので、おどろきました。

 『全詩集』は十年前の2009年の刊行ですから、不思議な符合といふべきですが、或ひは私の持ってゐる束見本と同じ装釘の本が世の中に刊行されてゐて、それを参考に詩人が選ばれたのであったかもしれません。今月白寿を迎へられた由。切に健康をお祈り申し上げます。





 詩集『村のアルバム』 (1957年 的場書房版「序文」:1970年 冬至書房再刊版「跋」) 

 「村のアルバム」は実は堀内幸枝さんの第一詩集となるべきものであった。「堀内さんは甲州のある山峡の村に、旧家の一人娘として生れ、父母をはじめ周囲のあらゆる人々の鐘愛の的となりながら、幸福に静かに乙女の日の明け暮れを送ったのである。その頃は、わが国を、そして私たちを今日の不幸におとしいれたあの戦争は、まだ始ってはいなかった。おだやかな山峡の空に、林に、そして川に、堀内さんの夢と情感と理知とは豊かに育って行ったのである。ここに収められた三十数篇の詩は、すべてその頃の作品なのである。 

 「村のアルバム」の描く世界は極端に限られている。しかしそこにみられるのは、乙女にありがちの甘い感傷ではない。はばたく理知と強力な意志とに支えられた、清純な折情である。この抒情の本質は、深くわが国古来の詩歌の伝統に触れ、些かの感傷を含まずして、読むひとをして抒情の世界に誘う力を持っている。この詩集が、堀内さんの女学生時代とその後の僅か一両年の間になったものであることを思えば、早熟の詩才、誠に驚くべきものがある。 

 堀内さんはこの一巻の詩集「村のアルバム」を乙女の日の記念として結婚した。爾来十数年。生活の変化と戦争の傷手とは、ひしひしと堀内さんの身辺に迫った。妻として二児の母として、堀内さんは繁累のなかに堪えて生きた。しかも詩作の筆は、かつて捨てることはなかったのである。乙女の日の伸びやかな抒情はすでに失はれた。苦悩を経て、理知と意志はさらに強められ、反省のにがさが新しく加へられた。しかし苦悩に堪えた抒情は、いま深く悲しい歌声となって、その清らかさを依然として失ってはいないのである。ひとはこの詩集より前に公けにされた筈の、堀内さんの戦後の詩作によって、私の言の溢美でないことを認められるであらう。私は堀内さんの将来に大きな期待を寄せるもののひとりである。 

 私が堀内さんと相知ったのは、既に十数年の昔である。思うに堀内さんがこの詩集の第二部「春の雲」の諸作品を書いていた頃である。私は堀内さんの早熟の才能に驚きつつ、その才能の前途に一抹の不安を感じていた。あまりに早い自己の詩境の把握と、技巧の完成とをおそれたからである。いまとなって私はこれが杞憂であったことを喜びとするのである。 

 戦争は堀内さんと私とを遠く隔ててしまった。繁忙の俗事に追はれ、病床に親しみがちの私は、いつか詩壇の消息に昏くなって行った。しかも偶然の奇縁は、ふたたび私に堀内さんの人と作品に接する喜びを与へた。乙女の日のこれらの詩作を一巻にまとめるに当って、堀内さんは私にあとがきの執筆を依頼した。これは他意あってのことではあるまい。漸く老いて魂に詩情を失ひつつある私に、昔日の夢を追起せしめようとする好意によるのであろう。私は深くこれを感謝する。そして出づることあまりに遅かった堀内さんの「村のアルバム」が、真実に詩を愛する人たちによって、暖く理解され、好意を以て迎へられることを心から祈念して止まない。ささやかなりとも一巻の詩集「村のアルバム」は、わが国の詩歌の歴史に美しい宝石を飾るものであることを私は信じて疑はないのである。 

 一九五三年初冬   船越 章

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『平成の文学とはなんだったのか』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月27日(金)00時04分50秒
編集済
  『平成の文学とはなんだったのか』(重里徹也・助川幸逸郎共著 はるかぜ書房 2019)

 平成文学の収穫を小説分野にみている御両人の対談は、私が読んで理解できるかどうか始め不安でしたが、「昭和の負債の清算をせまられた平成」という共通認識をもって、何がどのタイミングでどう変わったのか、まずはこの30年の時代を腑に落ちるかたちでわかりやすく説明した上で、問題ごとに合わせて著者・著書を並べて論じてゆく、謂わば「文化論」の趣きが濃いものであったので惹きこまれました。

 沢山出てくる小説家の名前については、ですから未読の人にとっては「ああ、そういう立ち位置にある作家なのか」と、俯瞰図の中に道標を立ててくれる感じ、読み巧者にはタイトルと不即不離の「平成の時代とはなんだったのか」という問いについて一緒に考えるよう、次々に話題としてふってくる感じ、でありましょう。

 も少し具体的には、作家を通して顕在化される世間の深層で求められている空気というものが、リーマンショック・東日本大震災(原発事故)を境に、

「孤高の天才」や「アウトロー」の主人公が活躍するバブリーな物語から、
「集合知」でもって「連帯」や「配分」を模索するサステナブルな物語を志向するものへと変わってきているということ。

 グローバリズムが将来した新自由主義の擡頭を止められなかった、リベラリズムの教養主義が失墜して、
「地方」住みの主人公から発信される、過疎や高齢化に向き合った、都会との波打ち際での物語が多くなってきたこと。

 そんな内容の対談を、側で聞かせてもらってウンウン頷いておりました。

 個人的には「古典は必要か」の条りにおいて、古典不要論者に対して「決定的に古い」と、彼らが一番に嫌がるレッテルを貼りつけてやった(104p)のに、痛快を覚えました。成功者は国を捨てて逃げてゆく、そうならぬよう人材をつなぎとめておくのが教育(国際人として自国の古典を語れる誇り)なんだ、という視点は、正くその通りです。(しかし身もフタもない彼らは「逃げてゆかないようにするのは教育ではなくシステムだよ」と、さらなる減らず口を叩きそうな気もします。)

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『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 9月23日(月)13時25分52秒
   老後の楽しみにと、漢詩集を買ひ集めてゐますが、以前に入手した『山陽詩鈔』の槧本が初版であり、かつ校正者である後藤松陰本人の手澤本であったことが最近になって判って、ビックリしてゐます。

 和本の世界では、刊記の年がそのまま印刷された年であるとは限らず、殊にもベストセラーとなると摺り版の見極めは難しいもの。

 見返しは同じでも、奥付の元号屋号を換へていろいろと出回ってる『山陽詩鈔』ですが、なるべく刷りがハッキリした本を探してゐたところ、ネットオークションで揃ひの4冊本を手ごろな値段で手に入れることができました。それで、珍しい本でもないから中身をしっかり検めることもせずに、書棚に放り込んでゐたんですね。(購入当時、こんなこと書いてをりました。馬鹿ですね。)

 ところが先日よその『山陽詩鈔』と自分の本との異同を確かめてゐたところ、最終頁にあるべき題詩がない。よくよく見たら手許の題詩は印刷でなく手書きじゃないですか。ぞっとしてめくってみたらば、本文鼇頭の朱筆細書もすべてが後藤松陰本人のものでありました。

 ともかくもおどろいて職場の紀要『岐阜女子大学地域文化研究』に資料紹介を書くことにしました。
 「後刷本」との異同を、書き入れと共に「初版本」の証拠として掲げ、同書の書誌判定、および頼山陽の研究資料として供します。画像公開は紀要の刊行(来年4月)までお待ちください。(頼山陽の祥月命日に)
 

「特別展 詩人・一戸謙三」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 8月 1日(木)20時57分48秒
編集済
 
 みなさん、一戸謙三といふ詩人を御存知でしょうか。モダニズム詩人たちのメッカ『椎の木』の同人だったこともある詩人で、いまは地元青森にて高木恭造とともに「方言詩人」として認知されてゐます。

 Facebook・twitterで報知済みですが、この夏、青森県立近代文学館にて「特別展 詩人・一戸謙三」が催され、その詩と詩人について私が講演をさせていただくことになりました。

 私は津軽弁がわかりませんので、彼の「方言詩以外の詩」についてお話することになってゐます。

 以下に、時間の関係で省略することになった【前段 詩人紹介】について掲げます(現代仮名遣い)。

 興味を持たれた皆様には『図録』を手にとっていただきたく、またお近くの方にはぜひ特別展をご覧いただきましたら幸甚です。
 

【前段 詩人紹介】

「ありがとうございます。さて、この地元でも一戸謙三という詩人は一般には、さきほど申し上げましたように、御当地津軽弁の「方言詩」によって認知されている訳でして、「方言詩」といえば、皆さんもご存じの、高木恭造の詩集『まるめろ』が全国では有名なんですが、本題に入る前に、今日はお話ししないこの「方言詩」に絡んで、詩人としての一戸謙三の評価について、最初に触れておきたいと思います。

 方言詩というのは、方言ならではのニュアンスを声で伝える「朗読詩」であるというところに一番の特徴があります。つまり一般に詩を読むという行為──「詩集」に印刷された活字を黙読する普通の読書とは違って、「朗読詩」を読むという行為には、演劇性があるんですね。それで津軽方言詩が、物珍しい一種の「劇」のように、朗読会やレコードを通じて、地元青森県人だけでなく、津軽弁を解さない都会の人たち、そして日ごろ文学に親しむことのない人たちに対しても非常な注目を集めた、ということがあったと思います。

 高木恭造は、方言詩でデビューを飾った詩人ですが、実はその後はずっと方言詩からは遠ざかっていて、もうすっかり忘れられた頃に、詩壇の外から注目されました。いま申し上げた「朗読詩」によって、東京でカルチャーショック的に有名になり、昭和40年代の、フォークソングを始めとするアングラ文化を担う若者たちの支持を得て、晩年をにぎやかに送ることが出来た詩人でした。

 本日お話する一戸謙三はというと、一緒に彼の方言詩も見直されたということはあったと思っていますが、そういう場を避けて、敢えて「朗読詩」のブームには乗らなかった詩人です。

 そして一戸謙三にしても高木恭造にしても、ふるさとで方言詩が詩碑にまで刻まれるという栄誉をこうむっているんですが、実はお二人とも一連の方言詩とは別にですね、共通語で書いたすぐれた抒情詩と前衛詩とを公にしております。【※】

 このことは、ブームを起こした高木恭造自身が、朗読会の会場で「『まるめろ』以後の作品が全く顧みられない」と嘆いているんですが、みなさんあまりご存じない。

 もっと言えば一戸謙三は、高木恭造とは異なり、そもそも方言詩を書いて出発した詩人ではありませんでした。

 今日はそのことをお話しするわけですけれども、一戸謙三も、詩人としての最初の詩集は、先ほど申し上げましたが方言だけで書かれた『ねぷた』という名前の詩集です。昭和11年に刊行しております。読んで頂いた、「街道端(きゃどばだ)ね埃(ゴミ)かぶて、それでも咲エでる茨(バラ)の花(ハナコ)」という詩。当時の彼は、

「私が方言詩を書くまで十数年の間に、約二百篇位の詩を書いていたが、それらの作品全部と、このつまらない津軽弁の詩の試作とがつり合うとまで考えはじめていた。」

 なんて思っていたそうです。「このつまらない津軽弁の詩」というのは、それだけ自信を以て臨んでいる、という裏返しの表現です。しかし方言詩については坂口昌明先生も「一般読者が合点するには山菜を調理する程度の根気が要るのはやむを得ない」と、認めておられますが、よその地域の人にはなかなかわからない。私も『ねぷた』は友達に譲ってしまいましたし、高木恭造が遺した津軽弁による朗読を聴きましたが、かみしめるような調子に感じ入ったものの、如何せん単語がわかりませんから、それ以上は踏み込めない。やはりそれなりの経験が必要だな、と観念したことであります。

 そしてこれが肝心なんですが、一戸謙三は高木恭造とは違って、それまでに書いてきた、方言詩以外の沢山の詩に「詩集」という形を与えて出版することを、そのときしなかったのですね。

 さらに方言詩も作るのをやめてしまって、戦争がはじまるとすべての詩の発表を中断して沈黙してしまうのです。ふたたびペンを執るのは戦後になってからでした。

 戦後になってようやく彼は、自分が納得のゆくように、自撰詩集を二度編んでいるんですが、その際に、自分の詩作を「○○時代」「○○時代」という風に名前を付けて整理して、それぞれの時代に数編づつの作品しか残しませんでした。昭和40年代になると日本は出版ブームを迎えるんですが、戦前に活躍した多くの詩人のようには『全詩集』は作られなかった。彼は自分の『全詩集』というものに興味がなかったようです。

 いさぎよいと言えばそれまでですが、二度の自撰詩集では同じ作品を選んでおります。「自分の魂の遍歴は、これだけ集めてあれば理解されると思う」なんて書いている。そしてそれを補うかの様に、589回にも上る新聞の連載「不断亭雑記」で、自らの詩的生涯を回想をしている訳ですけれど※、詩人というのはやはり「詩集」という宝石箱の中に詩を遺さないと、人々の記憶に残らない。星も星座図のなかに所を得てはじめて名前が覚えられます。個々の作品が単品で輝き続けるというのはなかなか難しいんですね。

 これが「実像」に比較して、小さく偏った文学史的評価に、詩人一戸謙三が甘んじなくてはならなくなった一番の原因だと思います。

 そして詩人が亡くなって30年も経ってからのことになりますが、詩誌『朔』の特集号の中で坂口先生が、謙三の自撰詩集には出来の良い作品がごっそり削られていることを指摘して、たいへん惜しまれた。おなじ津軽詩人の高木恭造と較べ、不当な評価が定着していることについても疑問を呈された。

 その理由として坂口先生は、一戸謙三という詩人のことを「地方人といっても資質は都市的で、芸術性への志向が強かった。(み‐231p)」また「詩人として非常に高いレベルにいた人なので、理解者が少なかったということが案外大きいと思う。」「そうすると人間というのは、自分はこれでいいのか、と自分を疑いだす、それで、絶えず自分の作品を創り直したり、或いはなきものにしたり(『探珠』100号‐7p)」したのではないか。」そう仰言っています。

 私も、彼がことあるごとに、自分の詩歴を整理して語ることを好んだことについては、思うことがあります。

 地元詩壇で陣頭に立っていた彼には、対外的な意識が強かったこと、そして、地方在住の詩人は中央から批評されることが少なく、自分たちが起こした運動については自ら解説せざるを得なかった、そういう事情があったのではないか。「これだけ残せばあとはいい」といういさぎよさは、自覚的な詩作を続けた一戸謙三らしい、詩人としての自負の表れだったように、私には思われます

 そしていつの時代も地元新聞が彼に発表の場所を与えてくれていたこと――これは今回この詩人のことを調べながら思ったことですが、青森人の、地元文化を応援しようという思いが、今に至るまでまことに厚いことに驚いています。逆に言えば、その居心地の良さが彼をして地元に安住させたと、いえないこともないのですが、文学館のない東海地方の人間からすれば、これは本当に羨ましく思ったところです。

 本日は方言詩の意義や鑑賞は前回の工藤正廣先生の文学講座におまかせしましたので、それでは謙三の方言詩以外の詩について、それらがどんなものであったか、書かれた背景と変遷とを順番にたどって参りたいと思います。」
 
 
2019年8月18日(日曜日)13:00~15:00

会場:青森県総合社会教育センター2F大研修室(青森県立図書館となり)

〇講演と朗読 「詩人一戸謙三の軌跡方言詩の前後をよみとく」

講演:中嶋康博 朗読:大川原儀明氏(「あおもりボイスラボ」代表) 稲葉千秋氏(青森朝日放送アナウンサー)



『特別展 詩人・一戸謙三』図録(価格1200円)

<目次>

 開催に当たって
02一戸謙三の詩の魅力について   静かで豊かな時間感覚がそこにある・・・藤田晴央
04詩の産声(1899~1919年)
06閉ざされたページ(1920~1922年)
08地方主義の旗のもとに(1923~1932年)
10「イダコとタユ」─盟友齋藤吉彦との最後の一齣─・・・一戸晃
12津軽方言詩の開花(1933~1937年)
14津軽方言詩論争・・・櫛引洋一
16詩の音楽性を求めて(1938~1955年)
18一戸謙三のモダニズム詩──総括と転身と・・・中嶋康博
20茨の花(1956~1979年)
22新しい方言詩の道をたずねて・・・工藤正廣
24一戸謙三略年譜・・・青森県近代文学館編
28母ふきに抱かれた幼い謙三1899(明治32)年ごろ
29遺品 30書画 31作詞・受賞 32顕彰等 協力者

問い合わせは、青森県近代文学館:bgk@plib.pref.aomori.lg.jpまで。

http://

 

「ぐ~たらサイト アンチポデス」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 7月28日(日)13時44分5秒
   「ぐ~たらサイト アンチポデス」の管理人、スキヤポデス・数寄散人さんのお訃らせを、ZINE『drill』4号をお送りくださったkikuさんよりいただきました。
 ネット上でカンタベリーサウンドの蘊蓄を披露する管理人は、同時に澁澤龍彦や永井荷風、変ったところでマンガ家の根本敬を信奉する耽美文学の見巧者(みごうしゃ)聴き巧者でありました。
 ともに顧客だった鯨書房の山口省三さんと同様の、団塊世代が共有する開放的な不服従の信念を、付設掲示板にも馥郁と香らせておられた数寄散人・スッキーさん。文学の嗜好を異にするため、掲示板上のお付き合いから進展しなかったのですが、私はスッキーさんのことを、高級オーディオや自転車にお金をつぎ込むことのできる、DINKS貴族の愛妻家・愛猫家と思い做しておりました。
 そうして実生活を知らぬままその人柄に甘え、お宅へも寄せて頂き、むかし大好きだったリチャードシンクレアの音源など貸して頂いたこと、あれはサイトを開設して4年ほど経ったころでしょうか、岐阜にまでみえたkikuさんとの歓談の一夜がなつかしく思い起こされます。
 2014年に拙詩集をお送りした際には、山口さんが亡くなっていたことを知ったとて、折り返しメールをいただきました。

【2014.4.16 19:47メールより】
さて、同封の文面にあった「鯨書房さんの訃に接し・・」との文意が分からなかったのですが、貴掲示板を今更ながら読み、余りの衝撃に茫然自失しております。
最近古本全般から足が遠のき、鯨にも一年以上行っておりませんが、あの「山さん」がまさか昨年末に他界されておったとは・・
今更どの面下げて弔問できようか・・と困惑、思案しております。
当方は3年前の夏に大腸がんで入院手術しておりましたが、無事回復しました。余後も順調です。御心配感謝。
そうですか、あの山さんが・・・・


 図書館を退き懐事情も変わり、私もまた鯨書房から足が遠のき、スッキーさんともその後はやりとりも気に留めることもなく過ぎるうち、サイトの跡形もなく消滅していることに気がつきました。昨年春のことですが、メールを読み返せば、或いは病気が再発したのでしょうか。言葉がありません。

 ご冥福をお祈りいたします。
 

『雑誌渉猟日録』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 4月 7日(日)15時51分25秒
 
 古本好きのくせに、所謂古本ライターの書いた本を、あまり読んだことがありません。

 理由は自分の好みが偏ってゐるからなんですが、そもそも私が好きな昔の詩集や和本のことについて書く人は、もはや古本ライターといふより専科の好事家であり、書いたものは研究と呼んで差し支へない一文に仕上がってゐることが多い所為でもあります。

 しかしそのやうな研究者が言及するのは、ままテキストとしての資料であって、話題に原質としての書冊が現れることは尠なく、まして収集の苦労話が枕に置かれることなど、まずありません。

 今般、その二者を兼ね備へた新刊のエッセイ『雑誌渉猟日録』(皓星社2019.4刊行)を、著者の高橋輝次様からお送りいただきました。

 本好きの感性に訴へる装釘は林哲夫氏によるもの。その林さんのブログ(daily sumus2)で、いち早く紹介された始めの一章、

  「戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索─編集人、北村千秋と今井兄弟のこと」5-32p

 が気になり、早速ブログにコメントさせて頂いたのですが、実はその後ろに収められてゐる、

  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p

の末尾には自分の2冊の詩集のことも紹介されてをり、原稿段階で知って直接著者ともお手紙をやりとりさせて頂いたばかりなのに、しばらくは気がつかないで居りました俊英ぶりです(笑)。
 

 は、さておき最初の一章ですが、三重県津市出身の詩人、北村千秋が大阪で興した同人誌『茉莉花:まつりか』のバックナンバー探求を通じ、刊行に関はった同人たちのあれこれがまとめられてゐます。

 当サイトでは戦前詩人をテーマに据えたこの一章に絞って、紹介かたがた気のついたところを更に「追記」してゆきたいと思ひます。
 

 巻末に【資料編】として載せられてゐる、昭和13~16年、計43冊に亘るその目次を一覧するに、ですが、毎号の表紙を川上澄生が飾る贅沢さ。(林さんのブログに書影あります。)

 そして北村氏が先生と呼ぶ、美術学者である小林太市郎が、初期から同人中の重きをなしてゐるのが窺はれます。北村氏の詩稿は戦争中、彼が預かってゐたとのこと。

 そして創刊一年目あたりから、外部の寄稿者が誌面を飾るやうになります。

 顔ぶれを見ると、詩人として北村氏があこがれた竹中郁や、春山行夫・濱名與志春といったモダニズム詩人はともかく、なぜか辻潤・卜部哲次郎といったアナーキストが頻繁に筆を執ってをり(原稿料が出たのでしょう)、終刊間際には保田與重郎、蓮田善明、浅野晃といった日本浪曼派の面々が名を連ねます。

 『コギト』同人の中島栄次郎や船越章の名まであって驚きましたが、小林太市郎が京都大学哲学科出身であることから声がかかったのでしょうか。

 岐阜で英語教師となった関西学院英文科の先輩、殿岡辰雄も途中からここをホームグランドにして詩を書いてゐます。彼は第一詩集『月光室』を大阪から出してゐて、同人として参加したやうに思はれます。


 そして『茉莉花』を主宰した北村千秋ですが、どのやうな人物であったのか。

 本書には、大学を出た彼が大阪の十三に仮寓し、この雑誌の編集を、勤めてゐた大阪市役所のなかで、役人向けの教養雑誌を編集する仕事の合間に独りでこなし、広告取りまで行ってゐたといふ逸話のほか、雑誌が紙不足による当局の統合によって終刊させられたこと、同人の青山虎之助に乞はれ、あらたな雑誌『新生』の編集長となるべく上京したこと、そして応召したかどうかは不明ですが、戦後は京都の臼井書房で商業雑誌『人間美学』の編集に携はったこと、さらに帰郷して相可高校の英語教師として晩年を迎へたこと等が、知り得た順番に記されてゐます。

 小林太市郎が預かってゐた詩稿は臼井書房から『哀春詩集』として刊行されます。

 大東亜戦争が始まる前、『茉莉花』に発表された詩篇が集められてゐますが、これを読んだ人は、或は北村千秋のことを、立原道造や津村信夫の影響がいちじるしい、所謂エピゴーネンのはしりのやうに思ひなしたかもしれません。

 しかしながら彼は処女詩集『歴史の扉』を昭和10年に出してゐて、そこにみられるのは幼いながら、『四季』よりは前に知的抒情を標榜してゐた『椎の木』の詩人達の間で流行した、モダニズムの色が濃いコラージュを施した散文詩でありました。

 またさらに溯ること昭和8年、彼はジェイムス・ジョイスの『一篇詩集』を訳出し、いかなる経緯があったものか、椎の木社から刊行してゐるのです。

 『椎の木』アンソロジー詩集のなかに彼の名は見当たらないものの、詩書コレクターの中には北村千秋のことをモダニズム稀覯本の訳者として記憶してゐる人があるのではないでしょうか。

 『茉莉花』に於いてもシーグフリード・L. サスーンの訳詩を試みてゐます。

 思ふに、殿岡辰雄もさうですが、すでに詩集を世に問うてゐる彼らが雑誌『四季』と没交渉だったのは、影響が顕著であったからこそ、今更三好達治の詩道場「燈火言」に投稿などできない事情があったのかもしれません。


 本書には北村千秋と併せて、雑誌の運営を経済的に支へてくれた同郷の素封家、今井俊三・貞吉兄弟の業績についても追跡されてゐます。辻潤などは、今井俊三が自分の詩集『壁』を贈ったことから縁が始まり、津市にある彼らの実家に度々来遊・滞在もしたといひますから、虚無的な影がどれだけ詩想に落とされてゐるのか、高橋さんの云ふやうに『哀春詩集』とともに検証してみたいところです。

 詩集『壁』は、幸ひ現在全文が公開済です。高橋さんは『哀春詩集』では集中の佳品「夜に」を挙げられましたが、高橋新吉の名を挙げた「浮草」をもう一篇。
 
(下図参照)

 それから謎として追記したいことがあります。桑名の詩人である平岡潤が、やはり同じ『茉莉花』といふ名前の詩集を出してゐることです。

 雑誌の『茉莉花』は昭16年11月に終刊するのですが、詩集の『茉莉花』が出たのはその直後、昭和17年6月。北村千秋の雑誌運営中、彼はずっと軍隊にあり、もちろん雑誌の『茉莉花』には書いてゐないので、いかなる符合によるものかは分かりません。

 平岡潤は杉山平一と同じく「燈火言」出身者として、『四季』が選定する中原中也賞を受賞したといふことで、北村千秋とは同世代の三重産抒情詩人でありながら“茉莉花”といふ言葉に拘って何やら数奇な事情があるのかもしれませんね。(北村千秋1908-1980、平岡潤1906-1975、殿岡辰雄1904-1977)
 


 と、こんな感じで最初の章に関して補遺させて頂きましたが、本書では「本稿を書き終えてから」として「追記」が1、2、そのまた「付記」が1、2、3、4、さらに「註」が、と、次々に探求結果が得られるたび、原稿を書き直すのではなく、どんどん書き足してゆくといふルポルタージュの手法が異例で、(林哲夫さんは「高橋節」と呼んでをられますが)、もはや前提として話がどんどん進んで参ります。

 読みつつ当事者であるかの如く、臨場感が伴ふわけですけれども、それは高橋さんが古書収集において、店売り古書店との触れ合いを大切に、フィールドワークを心がける方であること、インターネットに場を移さず本集めをされる昔気質の最後の世代の方であることと、無縁ではないでしょう。

 後記にも、頂いたお手紙にも「機械音痴でワープロもパソコンも全く」と書かれてありましたが、本書における、効率を求めぬ手書き文章の醍醐味は、正に収書ハプニングの日録および、著者の筆の走り具合にかかってゐます。※1

 得られる古書・雑誌がわからぬまま、テーマはいくつか設けておいて、得られた「本が本をつなぐ」古本アナログネットワークをよりどころに、好奇心を存分に飛翔させ、抜き書きされてゆく。

 古来あった「随筆」の伝統も感じさせる、誤認以外の書き直しを拒むエッセイは、同じ事柄を知ったとしても論文とは対極に位置する読み心地に、得難いものがあります。
 

 そしてそんな御縁の一環として、自分の詩集も紹介に与ったかと思へば、これ作者として至上の幸福をかみしめます次第。つまりさきに挙げたところの、

  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p の紹介に移ります。

 
 高橋さんとの手紙のやりとりの際に頂いた小冊子『古本こぼれ話』(書肆桴2017.6刊行)の中の一章「わたし流詩集の選び方」に、高橋さんが私淑する詩人を挙げてをられるのですが、竹中郁、杉山平一、天野忠、木下夕爾、井上多喜三郎といった、戦後中央詩壇で流行った「抽象的で難解」な現代詩には背を向けた西日本の詩人たちばかりです。

 そして杉山平一旧蔵書が市場に出たことをきっかけにして、詩人を囲んだ若手グループ、関西の詩誌『季』のバックナンバーに注目がゆき、戦前からの詩歴を持つ清水健次郎を始めとして、備前芳子、杉本深由起、小林重樹、舟山逸子、矢野敏行、奥田和子、紫野京子といった、四季派の流れを汲む同人たちの作品についてコメントがなされ、それぞれの詩集へとたどり着いてゆきます。

 抒情詩との親和性が高いばかりでなく、視野の広い高橋さんの評言を読むのは、なまじいその人を知らぬ人からの読後感だけに教へられるところが多く、何よりお金を出して自分の詩集を買って下さった方が、予断なく読まれての感想に出会ったのは初めてのことであり、ありがたくも誠に新鮮な体験でありました。※2

 さうしてその審美眼に信を置いてゆいことが判ったので、その他の未読の章にて論はれてゐる戦後の諸雑誌についても、現代詩に疎い私が読んでゆけることと思ってをります。
 

 『季』の詩人たちの作品に目を留めて下さったことに、あらためて深甚の感謝を添へまして、ここに紹介させて頂きました。


  『雑誌渉猟日録』高橋輝次著 皓星社2019.4刊行。19cm,295p (装釘:林哲夫)  
目次
戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索 5p
詩同人誌『季』で二詩人の追悼号を読む 33p
『季』に集う俊英詩人たち 49p
関西の戦後雑誌、同人誌を寸描する 75p
戦後神戸の詩同人誌『航海表』の航跡を読む 103p
神戸の俳句同人誌『白燕』を見つける 113p
戦後神戸の書物雑誌『書彩』二冊を見つける 123p
柘野健次『古本雑記―岡山の古書店』を読む 137p
エディション・カイエの編集者、故阪本周三余聞 147p
中・高時代の母校、六甲学院の校内誌『六甲』を見つける! 158p
渡仏日本人画家と前衛写真家たちの図録を読む 183p
【資料編】『茉莉花』『遅刻』『書彩』目次 260p
書名索引 295p
 

※註1 田舎暮らしになって以降、私も目録そしてインターネットに頼らざるを得なくなりました。しかしネットによって「古書店と顧客たち」の関係が解け、顧客同士が情報交換はじめるというパラダイムシフトを遂げたこと、10年以上も前の話になりますが、コレクターの頂点を極めた方々とのネット上での出会ひと交歓とがあり、現在も古本詩集の紹介サイトの運営を続ける理由となってゐるやうに思ひます。  
※註2 詩誌『季』には1987年43号~1989年50号まで同人として在籍し、以降はありがたくも客人待遇と申しますか、引き続き院外団のような形で遇して頂いてゐます。 第4次『四季』が丸山薫の逝去をもって終刊したのち、寄稿者集団が関東の『東京四季』と関西の『季』に分かれて旗揚げをしたのですが、旧『四季』の編集同人だった田中克己が、堀多恵子氏の承諾を得て別に第5次の『四季』として同人誌を興しました(1984年1号~1987年11号)。 同人の顔ぶれは『四季』といふより『コギト』色の濃いものでしたが、当時25歳だった私が田中先生の門を敲き、最後の11号に滑り込む形で同人になったことを以て自ら「最後の同人」と嘯いてゐる次第です。 その後の発表の場として杉山先生を通じて『季』の先輩方を紹介して頂きました。私一人が関西出身でないのはそのためです。
 

「登龍丸」広告

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月31日(日)11時34分57秒
編集済
 
朝から飲んでた昨日到着し、本年度最後の本日紹介する一冊は『酒中趣』。
以前ロバートキャンベルさんが紹介してて気になってた清時代の随筆集ですが、買へたのは端本。
内容は国文学研究資料館HP上の素晴らしい画像で読むことができるのでupしませんが、下巻は『酔古堂剣掃』より箴言の趣が強い感じでした。

ただ和本として面白いのは巻末の薬の宣伝です。
文学書の末尾に載ってるといへば、雑誌『四季』の「わかもと」が直ちに思ひ起こされるんですが、
当時は本屋が薬屋を兼ねてをり、この「登龍丸」も全国の取次所で扱ってゐた由。
広告の後ろに一覧が載ってゐたので、検索される人もあらうかと草書学習もかねて読み下してみました。
ちなみに刊行元青雲堂の英文蔵(はなぶさぶんぞう)と英大助(萬笈堂)は、ともに館柳湾と関係深い本屋で、新潟出身の兄弟店なんでしょうね。


『酒中趣』清:石成金(天基)撰、日本淀藩:荒井公履(叔禮)校
 青雲堂 英文蔵、嘉永2年2月[1849]発行

此の登龍丸は天下一方我家の秘法にして痰咳留飲一通りの妙薬
なり。譬ば十年廿年痰咳にて込上胸痛立居成がたく又留飲
にて気をふさぎ胸、痛、幾夜も寝事成難も軽き症は壱粒
重きは一巡り、数年来の難症は三巡りも用ゆる時は忘れたる
如く啖を治し、咳を止め留飲は胸を開き、病全くいゆる事
疑なし。是に因て心気の疲れを補ひ気血をめぐらし脾胃を
調へ気力をまし、声を立、言舌さはやかに美音を発し無
病延命たる事数万人用ひ試て其功の大なる事、古今無双
希代不思議の妙薬也。其功、左にしるす。

一、十年廿年喘息 一、労症の咳 一、引風の咳
一、からせき 一、咽喉ぜりつき(ザラツキ) 一、痰飲取詰声出ず
一、痰に血交り 一、痰飲吐きても出ず 一、動気つよく怔忡(むなさわぎ)
一、小児百日咳 一、婦人産前産後の咳 一、留飲にて胸痛
一、留飲にて気塞り 一、此外痰咳溜飲より起る病一切によし
一、音声をつかふ人、時々用ゆる時は声を立る事奇妙なり

抑痰咳の薬、昔より諸の書物にも多く売薬にも所々に有て
引札には痰咳は言に及ず頭痛症にも速になほる様に有。之といへ
ども痰咳溜飲の一病と雖、治し難き者也。然るにこの登龍丸は
年久しき痰咳溜飲にて医療手をつくし百薬を用ゆると雖
治がたき難症にても速に治す薬は、予が家の名法にて万人
を救ふて試るに一人として治せざるはなし。依て天下無双の一奇薬
にて他に類なし。しかしながら其功能速なるといへども下し
薬には無く(これにく)、婦人産前産後に用ひ害なきを知べし。能々(よくよく)
用ひて偽なき名法なるを知べし。尤、外々に紛敷(まぎらはしき)薬多く
候間、包紙[を]御吟味之上、左にしるす取次所にて御求可被下候。

東叡山御用 御書物所 江戸下谷御成道 青雲堂英文蔵製

京都三条通りさかい町 出雲寺文次郎 
大阪心斎橋ばくらう町 河内屋茂兵衛
駿府江川町 山本屋伊左衛門
伊勢松阪市場 道具屋重蔵
阿州徳しま新町橋筋 天満屋武兵衛
土州高知市種嵜町 戸種屋兵助
[虫]く前小倉 中津屋卯助
長州萩本町筋 山城屋孫十郎
紀州若山 内大工町 玉屋要蔵
同熊野宮嵜 角屋善助
奥州仙台国分町 伊勢屋半右衛門
阿為津若松市ノ町 齋藤八四郎

/奥州相馬浪江 大原次兵衛
/出羽山形十日町 大坂屋次右衛門
/信州稲荷山荒町 和泉屋武右衛門
/同松本 藤松屋禎重郎
/同善光寺前 小升屋喜太郎
/同上田 澄屋金五郎
/越後三条 扇屋七右衛門
/同水原 紅屋八右衛門
/下野佐野尺得 堀越常三郎
/常陸土浦 橋本権七
/上州高嵜藤町 澤本屋要蔵
/江戸本石町十軒店 英大助

http://

 

小説『頼山陽』上中下 (徳間文庫)見延典子

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月27日(水)22時15分16秒
   社会的に皇国史観が否定され、文学的に漢文が敬遠され、頼山陽の名が評判ともに立ち消えた戦後、ふたたび江戸時代の漢詩の面白さという点から、向学的な読者に向けて彼の名にライトを当てたのは、中村真一郎と富士川英郎という外国文学に明るい、抒情を解する文学者たちでした。
 この小説では、さらに漢詩に疎い(あるいは興味のない)読者にも、この人物の面白さを知ってもらおうと、その曲折の人生と時代離れした人間性とが、現代ドラマ仕立てで描かれています。遺された膨大な資料に基づいて史実を忠実になぞりつつも、民主主義思想を大胆にとりいれ、会話の端々にもそれを表すことで、頼山陽という人物に新しい命を吹き込もうとしています。

 その著書である『日本外史』については、ハイライトの場面を紹介するだけでなく、その意義についても説かれています。
 硬直化した徳川封建社会をゆさぶる為に書かれた執筆動機を評価する一方で、作者の思惑を超え、動乱期の志士たちを刺激して明治維新が実現したこと――これは最後の章でふれられていますが、中央集権国家が成った以後の「頼山陽像」については「曲解」と断じています。
 さらに踏み込んだ民主主義な評価を下すため、彼に、
「誤解なきよう申し述べておきますが、わしは天皇家を称賛しているわけではありません。」下巻35p
と言わせ、その歴史観にみられる名分論(身分を弁える大切さ)を、倫理的な側面(盲従ではないこと)とともに強調し、皇国史観自体への執着はなかったのだとするあたり、そして『日本外史』を貫いている勤皇思想を、とどのつまり彼をここまで育ててくれた、父を頂点とする家族親戚に対する感謝の念によって発動させたところなどは注目されます。
 それもまた好意的な一種の曲解なのかもしれません。が、文中で著者自ら示しているように、彼の取り組んだ問題が「歴史という波濤に呑みこまれ、今も洗われ続けている」証拠でもありましょう。

 作品としては、主人公へと同じくらいの感情を注ぎ込み、彼を支え彼を成長せしめた家族親戚の面々の姿が描かれています。ことにもこれまで歴史家が軽視した、家督相続の身代りに立てられた景譲、聿庵が味わった苦悩、そしておそらく誰も注目しなかった山陽の前妻である淳や、聿庵と深い仲になった下女といった女性たちに対して、目いっぱいの同情が注がれています。
 母梅颸の日記が十全に活用されているのでしょうが、それだけでなく、後妻となった梨影についても、子育てに奮闘する姿のみならず、出身を違えた妻連中に混じっての集い、果ては実家への帰省にまで筆は及んでいます。ライバル江馬細香に対しては、正妻として振舞いにおいても心理戦にも勝ったはずなのに、
「細香が帰った後、山陽の欲望は梨影に向けられるという構図、それを考えると、素直に喜ぶことはできない」414p
と愛憎の機微について踏み込んだところなどは、これは曲解どころか著者の創見にして、読者をうならせる独擅場のように感じられました。

 一方で九州旅行の際には禁欲を守ったとか、魔性のリビドーを<石>と名付けた、こういう解釈の部分は小説として「あり」なのだと思いましたが、食い足りないと思われたのは交友関係についてです。
 親友代表のような形で、田能村竹田のことが丁寧に描いていますが、もっと肴にできそうな篠崎小竹や、後藤松陰をはじめとする弟子たちとのやりとりが意外にあっさり流されていて、三木三郎を託すこととなる梁川星巌夫妻との因縁に言及が少ないのも残念な感じです。
 男同士の会話の殆どが「〇〇殿」と呼びかけられているのですが、登場場面が少ないなら少ないなりに、率直かつ磊落な山陽ならではの、「弟子・同輩・先輩」×「気の置ける・置けない」と、それぞれのパターンで異なった筈の言葉遣いの妙を再現してもらえたら、と思ったことでした。(後藤松陰のことを山陽は「松陰殿」とは呼ばなかったでしょうし、梁川星巌も山陽の弟子ではありませんから師に対するような敬語は使わなかったと思います。)

【現代仮名遣いで書きました。】
 

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