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『雑誌渉猟日録』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 4月 7日(日)15時51分25秒
 
 古本好きのくせに、所謂古本ライターの書いた本を、あまり読んだことがありません。

 理由は自分の好みが偏ってゐるからなんですが、そもそも私が好きな昔の詩集や和本のことについて書く人は、もはや古本ライターといふより専科の好事家であり、書いたものは研究と呼んで差し支へない一文に仕上がってゐることが多い所為でもあります。

 しかしそのやうな研究者が言及するのは、ままテキストとしての資料であって、話題に原質としての書冊が現れることは尠なく、まして収集の苦労話が枕に置かれることなど、まずありません。

 今般、その二者を兼ね備へた新刊のエッセイ『雑誌渉猟日録』(皓星社2019.4刊行)を、著者の高橋輝次様からお送りいただきました。

 本好きの感性に訴へる装釘は林哲夫氏によるもの。その林さんのブログ(daily sumus2)で、いち早く紹介された始めの一章、

  「戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索─編集人、北村千秋と今井兄弟のこと」5-32p

 が気になり、早速ブログにコメントさせて頂いたのですが、実はその後ろに収められてゐる、

  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p

の末尾には自分の2冊の詩集のことも紹介されてをり、原稿段階で知って直接著者ともお手紙をやりとりさせて頂いたばかりなのに、しばらくは気がつかないで居りました俊英ぶりです(笑)。
 

 は、さておき最初の一章ですが、三重県津市出身の詩人、北村千秋が大阪で興した同人誌『茉莉花:まつりか』のバックナンバー探求を通じ、刊行に関はった同人たちのあれこれがまとめられてゐます。

 当サイトでは戦前詩人をテーマに据えたこの一章に絞って、紹介かたがた気のついたところを更に「追記」してゆきたいと思ひます。
 

 巻末に【資料編】として載せられてゐる、昭和13~16年、計43冊に亘るその目次を一覧するに、ですが、毎号の表紙を川上澄生が飾る贅沢さ。(林さんのブログに書影あります。)

 そして北村氏が先生と呼ぶ、美術学者である小林太市郎が、初期から同人中の重きをなしてゐるのが窺はれます。北村氏の詩稿は戦争中、彼が預かってゐたとのこと。

 そして創刊一年目あたりから、外部の寄稿者が誌面を飾るやうになります。

 顔ぶれを見ると、詩人として北村氏があこがれた竹中郁や、春山行夫・濱名與志春といったモダニズム詩人はともかく、なぜか辻潤・卜部哲次郎といったアナーキストが頻繁に筆を執ってをり(原稿料が出たのでしょう)、終刊間際には保田與重郎、蓮田善明、浅野晃といった日本浪曼派の面々が名を連ねます。

 『コギト』同人の中島栄次郎や船越章の名まであって驚きましたが、小林太市郎が京都大学哲学科出身であることから声がかかったのでしょうか。

 岐阜で英語教師となった関西学院英文科の先輩、殿岡辰雄も途中からここをホームグランドにして詩を書いてゐます。彼は第一詩集『月光室』を大阪から出してゐて、同人として参加したやうに思はれます。


 そして『茉莉花』を主宰した北村千秋ですが、どのやうな人物であったのか。

 本書には、大学を出た彼が大阪の十三に仮寓し、この雑誌の編集を、勤めてゐた大阪市役所のなかで、役人向けの教養雑誌を編集する仕事の合間に独りでこなし、広告取りまで行ってゐたといふ逸話のほか、雑誌が紙不足による当局の統合によって終刊させられたこと、同人の青山虎之助に乞はれ、あらたな雑誌『新生』の編集長となるべく上京したこと、そして応召したかどうかは不明ですが、戦後は京都の臼井書房で商業雑誌『人間美学』の編集に携はったこと、さらに帰郷して相可高校の英語教師として晩年を迎へたこと等が、知り得た順番に記されてゐます。

 小林太市郎が預かってゐた詩稿は臼井書房から『哀春詩集』として刊行されます。

 大東亜戦争が始まる前、『茉莉花』に発表された詩篇が集められてゐますが、これを読んだ人は、或は北村千秋のことを、立原道造や津村信夫の影響がいちじるしい、所謂エピゴーネンのはしりのやうに思ひなしたかもしれません。

 しかしながら彼は処女詩集『歴史の扉』を昭和10年に出してゐて、そこにみられるのは幼いながら、『四季』よりは前に知的抒情を標榜してゐた『椎の木』の詩人達の間で流行した、モダニズムの色が濃いコラージュを施した散文詩でありました。

 またさらに溯ること昭和8年、彼はジェイムス・ジョイスの『一篇詩集』を訳出し、いかなる経緯があったものか、椎の木社から刊行してゐるのです。

 『椎の木』アンソロジー詩集のなかに彼の名は見当たらないものの、詩書コレクターの中には北村千秋のことをモダニズム稀覯本の訳者として記憶してゐる人があるのではないでしょうか。

 『茉莉花』に於いてもシーグフリード・L. サスーンの訳詩を試みてゐます。

 思ふに、殿岡辰雄もさうですが、すでに詩集を世に問うてゐる彼らが雑誌『四季』と没交渉だったのは、影響が顕著であったからこそ、今更三好達治の詩道場「燈火言」に投稿などできない事情があったのかもしれません。


 本書には北村千秋と併せて、雑誌の運営を経済的に支へてくれた同郷の素封家、今井俊三・貞吉兄弟の業績についても追跡されてゐます。辻潤などは、今井俊三が自分の詩集『壁』を贈ったことから縁が始まり、津市にある彼らの実家に度々来遊・滞在もしたといひますから、虚無的な影がどれだけ詩想に落とされてゐるのか、高橋さんの云ふやうに『哀春詩集』とともに検証してみたいところです。

 詩集『壁』は、幸ひ現在全文が公開済です。高橋さんは『哀春詩集』では集中の佳品「夜に」を挙げられましたが、高橋新吉の名を挙げた「浮草」をもう一篇。
 
(下図参照)

 それから謎として追記したいことがあります。桑名の詩人である平岡潤が、やはり同じ『茉莉花』といふ名前の詩集を出してゐることです。

 雑誌の『茉莉花』は昭16年11月に終刊するのですが、詩集の『茉莉花』が出たのはその直後、昭和17年6月。北村千秋の雑誌運営中、彼はずっと軍隊にあり、もちろん雑誌の『茉莉花』には書いてゐないので、いかなる符合によるものかは分かりません。

 平岡潤は杉山平一と同じく「燈火言」出身者として、『四季』が選定する中原中也賞を受賞したといふことで、北村千秋とは同世代の三重産抒情詩人でありながら“茉莉花”といふ言葉に拘って何やら数奇な事情があるのかもしれませんね。(北村千秋1908-1980、平岡潤1906-1975、殿岡辰雄1904-1977)
 


 と、こんな感じで最初の章に関して補遺させて頂きましたが、本書では「本稿を書き終えてから」として「追記」が1、2、そのまた「付記」が1、2、3、4、さらに「註」が、と、次々に探求結果が得られるたび、原稿を書き直すのではなく、どんどん書き足してゆくといふルポルタージュの手法が異例で、(林哲夫さんは「高橋節」と呼んでをられますが)、もはや前提として話がどんどん進んで参ります。

 読みつつ当事者であるかの如く、臨場感が伴ふわけですけれども、それは高橋さんが古書収集において、店売り古書店との触れ合いを大切に、フィールドワークを心がける方であること、インターネットに場を移さず本集めをされる昔気質の最後の世代の方であることと、無縁ではないでしょう。

 後記にも、頂いたお手紙にも「機械音痴でワープロもパソコンも全く」と書かれてありましたが、本書における、効率を求めぬ手書き文章の醍醐味は、正に収書ハプニングの日録および、著者の筆の走り具合にかかってゐます。※1

 得られる古書・雑誌がわからぬまま、テーマはいくつか設けておいて、得られた「本が本をつなぐ」古本アナログネットワークをよりどころに、好奇心を存分に飛翔させ、抜き書きされてゆく。

 古来あった「随筆」の伝統も感じさせる、誤認以外の書き直しを拒むエッセイは、同じ事柄を知ったとしても論文とは対極に位置する読み心地に、得難いものがあります。
 

 そしてそんな御縁の一環として、自分の詩集も紹介に与ったかと思へば、これ作者として至上の幸福をかみしめます次第。つまりさきに挙げたところの、

  「『季』に集う俊英詩人たち」49-74p の紹介に移ります。

 
 高橋さんとの手紙のやりとりの際に頂いた小冊子『古本こぼれ話』(書肆桴2017.6刊行)の中の一章「わたし流詩集の選び方」に、高橋さんが私淑する詩人を挙げてをられるのですが、竹中郁、杉山平一、天野忠、木下夕爾、井上多喜三郎といった、戦後中央詩壇で流行った「抽象的で難解」な現代詩には背を向けた西日本の詩人たちばかりです。

 そして杉山平一旧蔵書が市場に出たことをきっかけにして、詩人を囲んだ若手グループ、関西の詩誌『季』のバックナンバーに注目がゆき、戦前からの詩歴を持つ清水健次郎を始めとして、備前芳子、杉本深由起、小林重樹、舟山逸子、矢野敏行、奥田和子、紫野京子といった、四季派の流れを汲む同人たちの作品についてコメントがなされ、それぞれの詩集へとたどり着いてゆきます。

 抒情詩との親和性が高いばかりでなく、視野の広い高橋さんの評言を読むのは、なまじいその人を知らぬ人からの読後感だけに教へられるところが多く、何よりお金を出して自分の詩集を買って下さった方が、予断なく読まれての感想に出会ったのは初めてのことであり、ありがたくも誠に新鮮な体験でありました。※2

 さうしてその審美眼に信を置いてゆいことが判ったので、その他の未読の章にて論はれてゐる戦後の諸雑誌についても、現代詩に疎い私が読んでゆけることと思ってをります。
 

 『季』の詩人たちの作品に目を留めて下さったことに、あらためて深甚の感謝を添へまして、ここに紹介させて頂きました。


  『雑誌渉猟日録』高橋輝次著 皓星社2019.4刊行。19cm,295p (装釘:林哲夫)  
目次
戦前大阪発行の文芸同人誌『茉莉花』探索 5p
詩同人誌『季』で二詩人の追悼号を読む 33p
『季』に集う俊英詩人たち 49p
関西の戦後雑誌、同人誌を寸描する 75p
戦後神戸の詩同人誌『航海表』の航跡を読む 103p
神戸の俳句同人誌『白燕』を見つける 113p
戦後神戸の書物雑誌『書彩』二冊を見つける 123p
柘野健次『古本雑記―岡山の古書店』を読む 137p
エディション・カイエの編集者、故阪本周三余聞 147p
中・高時代の母校、六甲学院の校内誌『六甲』を見つける! 158p
渡仏日本人画家と前衛写真家たちの図録を読む 183p
【資料編】『茉莉花』『遅刻』『書彩』目次 260p
書名索引 295p
 

※註1 田舎暮らしになって以降、私も目録そしてインターネットに頼らざるを得なくなりました。しかしネットによって「古書店と顧客たち」の関係が解け、顧客同士が情報交換はじめるというパラダイムシフトを遂げたこと、10年以上も前の話になりますが、コレクターの頂点を極めた方々とのネット上での出会ひと交歓とがあり、現在も古本詩集の紹介サイトの運営を続ける理由となってゐるやうに思ひます。  
※註2 詩誌『季』には1987年43号~1989年50号まで同人として在籍し、以降はありがたくも客人待遇と申しますか、引き続き院外団のような形で遇して頂いてゐます。 第4次『四季』が丸山薫の逝去をもって終刊したのち、寄稿者集団が関東の『東京四季』と関西の『季』に分かれて旗揚げをしたのですが、旧『四季』の編集同人だった田中克己が、堀多恵子氏の承諾を得て別に第5次の『四季』として同人誌を興しました(1984年1号~1987年11号)。 同人の顔ぶれは『四季』といふより『コギト』色の濃いものでしたが、当時25歳だった私が田中先生の門を敲き、最後の11号に滑り込む形で同人になったことを以て自ら「最後の同人」と嘯いてゐる次第です。 その後の発表の場として杉山先生を通じて『季』の先輩方を紹介して頂きました。私一人が関西出身でないのはそのためです。
 
 

「登龍丸」広告

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月31日(日)11時34分57秒
編集済
 
朝から飲んでた昨日到着し、本年度最後の本日紹介する一冊は『酒中趣』。
以前ロバートキャンベルさんが紹介してて気になってた清時代の随筆集ですが、買へたのは端本。
内容は国文学研究資料館HP上の素晴らしい画像で読むことができるのでupしませんが、下巻は『酔古堂剣掃』より箴言の趣が強い感じでした。

ただ和本として面白いのは巻末の薬の宣伝です。
文学書の末尾に載ってるといへば、雑誌『四季』の「わかもと」が直ちに思ひ起こされるんですが、
当時は本屋が薬屋を兼ねてをり、この「登龍丸」も全国の取次所で扱ってゐた由。
広告の後ろに一覧が載ってゐたので、検索される人もあらうかと草書学習もかねて読み下してみました。
ちなみに刊行元青雲堂の英文蔵(はなぶさぶんぞう)と英大助(萬笈堂)は、ともに館柳湾と関係深い本屋で、新潟出身の兄弟店なんでしょうね。


『酒中趣』清:石成金(天基)撰、日本淀藩:荒井公履(叔禮)校
 青雲堂 英文蔵、嘉永2年2月[1849]発行

此の登龍丸は天下一方我家の秘法にして痰咳留飲一通りの妙薬
なり。譬ば十年廿年痰咳にて込上胸痛立居成がたく又留飲
にて気をふさぎ胸、痛、幾夜も寝事成難も軽き症は壱粒
重きは一巡り、数年来の難症は三巡りも用ゆる時は忘れたる
如く啖を治し、咳を止め留飲は胸を開き、病全くいゆる事
疑なし。是に因て心気の疲れを補ひ気血をめぐらし脾胃を
調へ気力をまし、声を立、言舌さはやかに美音を発し無
病延命たる事数万人用ひ試て其功の大なる事、古今無双
希代不思議の妙薬也。其功、左にしるす。

一、十年廿年喘息 一、労症の咳 一、引風の咳
一、からせき 一、咽喉ぜりつき(ザラツキ) 一、痰飲取詰声出ず
一、痰に血交り 一、痰飲吐きても出ず 一、動気つよく怔忡(むなさわぎ)
一、小児百日咳 一、婦人産前産後の咳 一、留飲にて胸痛
一、留飲にて気塞り 一、此外痰咳溜飲より起る病一切によし
一、音声をつかふ人、時々用ゆる時は声を立る事奇妙なり

抑痰咳の薬、昔より諸の書物にも多く売薬にも所々に有て
引札には痰咳は言に及ず頭痛症にも速になほる様に有。之といへ
ども痰咳溜飲の一病と雖、治し難き者也。然るにこの登龍丸は
年久しき痰咳溜飲にて医療手をつくし百薬を用ゆると雖
治がたき難症にても速に治す薬は、予が家の名法にて万人
を救ふて試るに一人として治せざるはなし。依て天下無双の一奇薬
にて他に類なし。しかしながら其功能速なるといへども下し
薬には無く(これにく)、婦人産前産後に用ひ害なきを知べし。能々(よくよく)
用ひて偽なき名法なるを知べし。尤、外々に紛敷(まぎらはしき)薬多く
候間、包紙[を]御吟味之上、左にしるす取次所にて御求可被下候。

東叡山御用 御書物所 江戸下谷御成道 青雲堂英文蔵製

京都三条通りさかい町 出雲寺文次郎 
大阪心斎橋ばくらう町 河内屋茂兵衛
駿府江川町 山本屋伊左衛門
伊勢松阪市場 道具屋重蔵
阿州徳しま新町橋筋 天満屋武兵衛
土州高知市種嵜町 戸種屋兵助
[虫]く前小倉 中津屋卯助
長州萩本町筋 山城屋孫十郎
紀州若山 内大工町 玉屋要蔵
同熊野宮嵜 角屋善助
奥州仙台国分町 伊勢屋半右衛門
阿為津若松市ノ町 齋藤八四郎

/奥州相馬浪江 大原次兵衛
/出羽山形十日町 大坂屋次右衛門
/信州稲荷山荒町 和泉屋武右衛門
/同松本 藤松屋禎重郎
/同善光寺前 小升屋喜太郎
/同上田 澄屋金五郎
/越後三条 扇屋七右衛門
/同水原 紅屋八右衛門
/下野佐野尺得 堀越常三郎
/常陸土浦 橋本権七
/上州高嵜藤町 澤本屋要蔵
/江戸本石町十軒店 英大助

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小説『頼山陽』上中下 (徳間文庫)見延典子

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月27日(水)22時15分16秒
   社会的に皇国史観が否定され、文学的に漢文が敬遠され、頼山陽の名が評判ともに立ち消えた戦後、ふたたび江戸時代の漢詩の面白さという点から、向学的な読者に向けて彼の名にライトを当てたのは、中村真一郎と富士川英郎という外国文学に明るい、抒情を解する文学者たちでした。
 この小説では、さらに漢詩に疎い(あるいは興味のない)読者にも、この人物の面白さを知ってもらおうと、その曲折の人生と時代離れした人間性とが、現代ドラマ仕立てで描かれています。遺された膨大な資料に基づいて史実を忠実になぞりつつも、民主主義思想を大胆にとりいれ、会話の端々にもそれを表すことで、頼山陽という人物に新しい命を吹き込もうとしています。

 その著書である『日本外史』については、ハイライトの場面を紹介するだけでなく、その意義についても説かれています。
 硬直化した徳川封建社会をゆさぶる為に書かれた執筆動機を評価する一方で、作者の思惑を超え、動乱期の志士たちを刺激して明治維新が実現したこと――これは最後の章でふれられていますが、中央集権国家が成った以後の「頼山陽像」については「曲解」と断じています。
 さらに踏み込んだ民主主義な評価を下すため、彼に、
「誤解なきよう申し述べておきますが、わしは天皇家を称賛しているわけではありません。」下巻35p
と言わせ、その歴史観にみられる名分論(身分を弁える大切さ)を、倫理的な側面(盲従ではないこと)とともに強調し、皇国史観自体への執着はなかったのだとするあたり、そして『日本外史』を貫いている勤皇思想を、とどのつまり彼をここまで育ててくれた、父を頂点とする家族親戚に対する感謝の念によって発動させたところなどは注目されます。
 それもまた好意的な一種の曲解なのかもしれません。が、文中で著者自ら示しているように、彼の取り組んだ問題が「歴史という波濤に呑みこまれ、今も洗われ続けている」証拠でもありましょう。

 作品としては、主人公へと同じくらいの感情を注ぎ込み、彼を支え彼を成長せしめた家族親戚の面々の姿が描かれています。ことにもこれまで歴史家が軽視した、家督相続の身代りに立てられた景譲、聿庵が味わった苦悩、そしておそらく誰も注目しなかった山陽の前妻である淳や、聿庵と深い仲になった下女といった女性たちに対して、目いっぱいの同情が注がれています。
 母梅颸の日記が十全に活用されているのでしょうが、それだけでなく、後妻となった梨影についても、子育てに奮闘する姿のみならず、出身を違えた妻連中に混じっての集い、果ては実家への帰省にまで筆は及んでいます。ライバル江馬細香に対しては、正妻として振舞いにおいても心理戦にも勝ったはずなのに、
「細香が帰った後、山陽の欲望は梨影に向けられるという構図、それを考えると、素直に喜ぶことはできない」414p
と愛憎の機微について踏み込んだところなどは、これは曲解どころか著者の創見にして、読者をうならせる独擅場のように感じられました。

 一方で九州旅行の際には禁欲を守ったとか、魔性のリビドーを<石>と名付けた、こういう解釈の部分は小説として「あり」なのだと思いましたが、食い足りないと思われたのは交友関係についてです。
 親友代表のような形で、田能村竹田のことが丁寧に描いていますが、もっと肴にできそうな篠崎小竹や、後藤松陰をはじめとする弟子たちとのやりとりが意外にあっさり流されていて、三木三郎を託すこととなる梁川星巌夫妻との因縁に言及が少ないのも残念な感じです。
 男同士の会話の殆どが「〇〇殿」と呼びかけられているのですが、登場場面が少ないなら少ないなりに、率直かつ磊落な山陽ならではの、「弟子・同輩・先輩」×「気の置ける・置けない」と、それぞれのパターンで異なった筈の言葉遣いの妙を再現してもらえたら、と思ったことでした。(後藤松陰のことを山陽は「松陰殿」とは呼ばなかったでしょうし、梁川星巌も山陽の弟子ではありませんから師に対するような敬語は使わなかったと思います。)

【現代仮名遣いで書きました。】
 

「『四季』の復刊と復刻」小山正孝

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月19日(火)23時06分54秒
編集済
 


『田中克己日記』昭和42年10月24日に、

「けふ『新潮』にのりし小山氏の文よみしによくなかりし。」

 と書かれた日記ですが、どこが気に障ったのでしょうね。
 先輩を呼び捨てにしたところか、同人名簿の順番か、はたまた四季は新しくなくてはダメだと言ったことか、そのどれもなのか、まあそんなところだらうと思ひますが、正見様の許可を得て紹介させて頂きます。


『四季』の復刊と復刻 小山正孝 『新潮』1967年11月号 p196~197
 

 『四季』が復刊されることになった。丸山薰、神保光太郎、田中冬二の編集で、十月中には刊行される豫定である。『四季』は、 


第一次 季刊2册(昭和8年、春、夏)
第二次 月刊81册(昭和9年10月-昭和19年6月)
第三次 月刊5册(昭和21年8月-昭和22年12月)

 それぞれ刊行された。第一次と第三次は堀辰雄の個人雜誌的なものであった。第二次は、創刊號から14號までは、三好達治、丸山薰、堀辰雄の編集で、15號から同人制となった。今度復刊される『四季』は第二次のやうに、同人制をとってゐる。

 偶然の一致であるが、近代文學館で、第二次『四季』全册を復刻することになった。同じ年に、復刊と復刻が行はれるわけである。今度の『四季』は第二次の同人を中心として復刊されるので、復刻のことをはじめて聞いた時、話がどこかでこんがらかったやうな感じだった。復刻は一册一册を同一體裁で出すさうである。技術的には相當むづかしい點もあらうが、この方は問題なく進行するであらう。

 一方、復刊は、第一號が10月中に刊行されたとしても、問題はそれからである。

 昨年の2月のある日、雪がちらついて寒い日だったと記憶してゐる。丸山薫に、
「もし『四季』を出すといふことになったら、君たち若い人たちは、それについてどう考へますか」
 と、聞かれた。
「僕たちは、丸山さんよりは若いかもしれませんが、もう、若くはありません」
 丸山は困ったやうな顔をして、
「それはさうだけど。あなたはいくつになったのですか」

 それから、「パノンの会」の話になった。昭和14年に、萩原朔太郎の詩の講義がパノンスといふ喫茶店を會場として何囘か行はれたのだ。パノンスは有樂町の毎日新聞の近くのビルの地下室にあった。
「パノンスの會といふことにするか。スはめんどくさいから、パノンの會がいい。パンの會みたいだし」
 と、萩原が言って「パノンの會」といふ名がついたのだ。その會は、その後、新宿のヱルテルの二階で行はれたこともある。創元選書で『宿命』が出版された頃で、テキストとして、それを使用した。散文詩の一つ一つをとりあげて講義することもあったが、話はいろいろにとんで、手品をしてみせてくれたこともあった。漢詩のこと。絶望のこと。自殺には二つの方法があること。

 講義が終ると、講師の萩原は早口で、
「質問はありませんか、何でも聞いてくれたまへ」と、言って、煙草をスパスパと吸ってゐた。集った20人位の青年男女は、固くなって、みんな講師の顔ばかりみつめてゐた。津村信夫、田中克己が、仕方がないので、質問した。

 昨年の12月、『四季』復刊発起人丸山薫、神保光太郎、田中冬二の名前で次の文面による呼びかけが、『四季』関係者になされた。

「長い間、懸案となっていました『四季』復刊の意向がまとまり、株式会社潮流社を発行所として来春四月から季刊發足することになりました。(中略)
 近時、詩が著しく混亂し、無味乾燥なわけのわからぬものが氾濫して行くところを知らざる現?にあって、詩を求める若い世代の前に舊『四季』の傳統を通した、高い知性と人間らしい抒情の精神を、前向きの姿勢で示すことは、私達舊同人の責務であると信じます。どうか以上の趣旨にご贊同下さってご參加のことを希望します。」

 今年の2月になって、

「『四季』復刊について同人ご參加の旨たまわり深謝にたえません。追々若い世代の加入も考慮いたしますが、とりあえず次の同人をもって復刊出發の、具體的準備にとりかかることになりました。」
「復刊『四季』同人
伊藤整、伊藤桂一、井上靖、井伏鱒二、萩原葉子、堀多惠子、河盛好藏、竹中郁、田中克己、田中冬二、塚山勇三、室生朝子、大木實、大山定一、呉茂一、桑原武夫、山岸外史、丸山薫、小高根二郎、小山正孝、阪本越郎、神保光太郎(発行人)、八木憲爾(事務擔當)、長谷川敬」という報告があった。

 はじめ「春季號」から發刊の豫定であったが、おくれてゐる。新しい雜誌を出すには障害もあるので、出發のおくれるのは仕方がないが、すべり出したら、さういふことがないことをいのる。
 潮流社は、『潮流』といふ綜合雜誌を出した潮流社とは全く別の會社で、海運關係の出版をしてゐるさうである。

 第二次『四季』が長つづきした一つの原因は、刊行者日下部雄一ののんびりした所のある性格によった。少々傳説めくが、彼は編集内容には一切タッチせず、彼の『四季』刊行の熱意は、表紙の文字の色を?號變へて指定することにそそがれてゐた。八木にも、似た所がある。刊行しはじめたら、長くつづけてほしい。

 復刻された『四季』の81册の山を横目に見ながら、第四次『四季』は出發することになるわけである。二十年の空白は、同人の中に四十歳以下の人は皆無といふ、變則な事態のまま出發しなくてはならない。
 『四季』の新生の原動力となったのは、會員の投稿詩であった。今度も會員制度を設けて、會員の詩を募集することになってゐる。いい會員を得ることが出來るかどうかが、雜誌としての発刊の意義を左右することになるであらう。

 ここまでは御報告である。以下に一同人の氣持をのべたい。

 私は復刊といふ言葉は、使ひたくない。新しい同人雜誌をはじめるのだ。今度の『四季』は、正直なところ、すきまだらけである。そして、風當りは強さうだ。「四季派」についてのつめたい論評は、二十年、いやといふ程聞かされて來た。
 『四季』に對する好意的なものに對しても、私は必ずしも同感しない。近代文學館で出す復刻を、一册づつ讀むことで満足して、もう一度、かういふ雜誌を出してほしいといふ程度の『四季』の愛讀者に期待をもって、雜誌をつくるのなら、つくらない方がいいと思ふ。
 時代の動きはもっとはげしい。?史的?況は似てゐるかもしれないが、それは似てゐるのであって、同じではないはずだ。同じにしてはならないと思ふ。
 立原道造は『四季』とは別に、若い詩人だけを糾合して「午前」といふ雜誌を出すことを計畫してゐた。「何時、 『午前』は發刊されるのですか」といふ私の質問に、「『午前』はゆっくりと日本の國に訪れる」と答へた。その約束は果されなかった。
 今度の新しい雜誌を、「午前」といふ雜誌のイメージに近づけるべく、私は私なりに出來るだけのことをしてみよう。(了)

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立原道造の蔵書印

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 3月 3日(日)12時44分20秒
編集済
   立原道造の蔵書印「道造匠舎」が捺された『詩集西康省』を入手しました。印顆は詩人の歿後『詩人の出発(1961書痴往来社) 』の扉に使用されてゐて、その後の管理が定かではありません。
 なので題簽を欠き、綴じ糸も切れた先師の処女詩集に対し、悪意を以て捺された可能性は、ないとは言へません。
 加之、『詩集西康省』の著者である田中克己の、津村信夫に宛てた寄贈本を私は所蔵してゐますが、そちらには大きく献呈署名が施されてゐるのです。

 人には何でも自分の都合の良いやうに考へる「防衛機制」といふものが備はってをります(笑)。
 思へば津村信夫宛寄贈本として購入した『詩集西康省』も、奥付に検印がありません。そんな本を著者が『四季』の盟友に寄贈するでしょうか。
 先日も梁川星巌のマクリを、印譜を調べもせず入手してガッカリしたばかり。贋物が横行してゐるのは分かってる筈なのに、騙されたところを更に騙される、世の詐欺被害者を笑へぬ、よくよく懲りない御仁とみえます。
 立原道造の手澤本や手蹟については、これまでも望外の喜びと落胆とを交々味はってきましたが、このたびは如何でしょう。

 以下に挙げるのは、誰に対してでもない、自らにする虚々実々の「防衛機制(言ひ訳)」。論拠は当時の田中克己日記『夜光雲』。昭和13年の日記から、詩集が出来上がって暫くの部分を鈔出してみます。(詩集寄贈先のマークを▲で表してみました。)

九月二十二日(木)
午前中、肥下と製本屋にゆく。午後、松本(※松本善海)と文庫に行き、和田先生(※和田清)に論文をわたす。留守中、大阪の池田日呂志君来訪。詩集(※『夜への歌』)置き行くとのことに明朝反対に訪れる旨電報す。

九月二十三日(金)
宮崎丈二氏宅なる池田君を訪ふ。宮崎氏は春陽会の画を能くする人。美しい画夛く見せらる、江戸前の上品なる人なり。
それより▲池田氏を伴ひ製本屋にて詩集十部受取り、一部を▲宮崎氏にと託す。▲川久保君の留守宅を訪ひ、本日の例会欠席を断る旨の手紙と詩集一部とを託す。
六時より四季の会。三好氏、宇野千代とあり、紹介せらる、美人なり。詩集を▲神西、▲津村、▲神保、▲丸山、▲阪本、▲日下部(※日下部雄一)、▲三好の七氏に渡す(計十冊)。室生、萩原両先生も来会。

九月二十四日(土)
川久保(※川久保悌郎)を訪ね、帰宅、晝寝す。途上萩原先生夫妻来り、先生近よればそつぽ向く。

九月二十五日(日)
夜、肥下と製本屋へゆき十八冊受取りて帰る。

九月二十六日(月)
朝、詩集発送。▲中島(※中島栄次郎)、▲野田(※野田又夫)、▲本庄(※本庄実)、▲興地(※興地実英)、▲五十嵐(※五十嵐達六郎)、▲立野(※立野保男)、▲服部(※服部正己)、▲杉浦(※杉浦正一郎)、▲伊東(※伊東静雄)、▲松下(※松下武雄)。
肥下を訪ね、満州承徳の眞田雅男氏に詩集発送、この送料四十五銭なり。他に東京堂の注文一冊。
保田を訪ね▲詩集十冊を託す。「戴冠詩人の御一人者」を貰ひて帰る。
本日「新日本」の編輯会議の由。紙上出版記念会には保田より萩原、中河の二氏に頼みくるヽ由。僕よりは三好、津村、立原、神保、阪本、草野心 、百田宗治あたりに頼むが良からんと也。
▲中河、▲萩原、▲百田、▲室生、▲船越(※船越章)、▲相野(※相野忠雄)、▲坪井明、七冊。
▲赤川氏に手渡し一冊。合計二十八冊。 ▲小高根二郎▲安西冬衛

九月二十七日(火)
▲石浜先生、▲藤沢桓夫氏、▲小高根次郎君、三冊。計參拾壹冊。
第一書房訪ねしも春山氏留守。▲長谷川(※長谷川巳之吉)、▲春山(※春山行夫)。

九月二十八日(水)
午後印刷屋にゆき検印押す。

九月二十九日(木)
肥下宅にて寄贈の表書す。四九冊なり。

十月一日(土)
▲松本善海に詩集を贈り、肥下の妹▲節子嬢に詩集贈る。

十月二日(日)
▲長野(※長野敏一)を訪ね、詩集を贈る。肥下を訪ね、詩集の礼状を受取る。
中に嬉しきは日夏耿之介氏。「寒鳥」「多島海」「植木屋」の三詩をほめ来らる。斎藤茂吉氏よりも礼状あり。

 9月23日の「四季の会」において、萩原朔太郎・室生犀星と同席したのに、彼らにその場で呈さなかったことが気にかかります。翌日街で見かけた萩原先生にそっぽを向かれたのは、夫人同伴の恥ずかしさからか、それとも詩集を渡されなかった理由を知らなかったからでしょうか(笑)。
 そのときは出来たばかりの7冊しかなく、しかも検印のない本を差上げる無礼を避けたといふことであれば、津村信夫本の奥付の説明がつきます。濡れ染みも、万年筆の字が滲んでいるので、傷んだ後でサインがされた訳ではなささうです。
 そして後日寄贈された、齋藤茂吉や日夏耿之介など49冊の寄贈本における「寄贈者への表書」とはどのやうなものであったか。
 当時のことを田中先生に根掘り葉掘り訊ねておかなかった不明を悔やむばかりですが、わが「防衛機制」は、売り払はれることを予想して詩集本冊には献呈署名がされなかった可能性を信じてゐます。
 立原道造は『詩集西康省』について一筆をものしてゐますが(『四季』昭和13年11月号55-57p)、寄贈本に関する実例に、なほ多く触れたいところです。わが願ひを裏打ちする(打ち砕く)画像情報を求めてをります(苦笑)。よろしくお願ひを申し上げます。

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和仁市太郎 詩集『流域』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 2月11日(月)23時33分53秒
編集済
   電話して珍しく古書店の倉庫までお邪魔する。
 戦前から活躍する飛騨の抒情詩人、和仁市太郎の、せんから気になってゐた在庫、詩集『流域』(平成11年私家版)を購入した。
 その粗末な装釘に一瞬、唖然としたのだが、当の詩人も出来上がりに驚いたらしく、(ワープロで印字した原稿を、裏うつりする紙に印刷し、ホチキス止めして製本テープを貼っただけ。レイアウトも窮屈で、誤植散見)、もちろん憤然とされたらうが、刊行一切を素人にゆだねた自分の責であると半ばあきらめ、敢へて断り書きを入れた「あとがき」がも一つ、急遽あとから付け加へられて刊行されたといふ、異例の経緯をもつ本であることが、その「あとがき」を読んで判明した。

 「家族の者」に「発行を中止したら」とまで助言されたとのこと。なるほど往年の郷土詩壇の牽引者たる老翁の晩節を飾る詩集にして、この造本を提示されては、たとい印刷が終った後であっても考へ込まざるを得まい。
 刊行は平成11年6月25日、翁89歳の誕生日。収録された詩篇の執筆期間の多くは平成6年~8年、著者の83~85歳に当り、すでに詩誌からも勇退された詩人の、正に覚悟して出された最後の詩集なのである。

 あとがきにも記されてゐるが、それまでの6冊の既刊詩集は、久野治氏による評論伝記『山脈詩派の詩人』(1987年鳥影社刊行)の中に、その多くの詩篇が引用され、紹介収録され尽されて居る。もちろん善意ではあったのだが、これが為に、戦前に活躍した多くの詩人が当時、一人一冊といふ形で業績を何らかの叢書に加へられて『〇〇〇〇詩集』を遺してゐたのに倣ひ、彼も『和仁市太郎詩集』を持つ必要があった筈だが、この本が出たおかげで意義と採算が消えてしまった。
 自ら「遺稿詩集なども出版は絶対しない」と誓って来たといふ詩人にとって、本当のところ如何様に思し召されたのかは判らないのだが、『山脈詩派の詩人』の著者である久野治氏とは一面識もなく、刊行されたものを1000部も喜寿祝に寄贈していただいたとのこと。売れ残ったからであらうが、直情径行で名を馳す久野翁らしい仕業には違ひないと思ったことである。

 心に含むところのない、真正の詩人であり、この掲示板でもこれまでに何度か(高木斐瑳雄の後輩詩人として)紹介させていただいた、拙サイト縁の人物である久野翁だが、ことこの『山脈詩派の詩人』の一冊に限って云へば、かく言ふのには理由がある。
 思へば一地方のマイナーポエットを紹介する評伝だけが、その詩業テキスト刊行計画とは無縁のところで(大体両者は雁行して刊行されるのを常とする)、突然著されたことに、この本を初めてみつけた東京の古書店で、地元の人間として驚鄂したのだったが、読み始めると早々、斯界の有名詩人達を蔑ろにする残念な論調が展開されてゐて更に恐懼した。それが和仁市太郎といふ温和な抒情詩人の詩風とはどうしても関連付けることができず、書かれてある事実は嬉しく為になったものの、贔屓の引き倒しに対する違和感を、(地元だからこそなのか)拭ふことが出来なかったのである。
 おそらく和仁翁御本人がこの出版に関り、ゲラ稿に目でも通してゐれば、必ずや改稿を指示されたのではないかと、今回のあとがきの一文を読んでやうやく渙釈した次第である。
 さうして此の度の詩集も、御次男が自ら進んで出版を買って出られたのだといふ。
 未刊詩稿が本人の与り知らぬところで、こんなにも粗末な体裁にまとめられてしまふといふのは、人生に何度もないやうな「この詩人ならではの不運」といった趣きも、(実力に比して名が世に行われぬことも合はせ)、私には何となく感じられてならないのであった。

 亡くなるや否や、遺族が蔵書を二足三文で売り飛ばし、その業績も顧みないといふケースは詩人に於いて儘あると聞く。けれども生きてるうちに、遺産を少なからず消尽させる自費出版を、印刷製本所に依頼するのを回避され、斯様な形に造られてしまひ(そこには謄写版印刷で自ら原稿を切って詩集を作ることに長けてゐた詩人だけに、楽観的な予断も働いたのであらう)、さうして本人もまた、その結果に対し「これも長く生き過ぎた咎なのだ」と諦め、そのまま詩集を世に送り出してしまふといふのは、この温和謙譲で滋味深くはあるものの、抒情の美意識は鋭かった詩人にして、如何にもさびしい仕儀のやうに思はれたのであった。
 飛騨地区で最初に謄写版で刷られた、簡素であっても魅力がふんだんに詰まった彼の手造りになる第一詩集『暮れゆく草原の想念』を、私は幸運にも所蔵してゐるが、おそらく稀覯度だけは自慢できる最後の手造り詩集を、押し頂いて帰ってきたのである。
 さすがに地元の高山市立図書館には所蔵があるが、詩人の業績を知らなければ寄贈されても図書登録されないかもしれない。一体何冊刷られて誰に送られたものであらうか。今少し、じっくり読んでみたいと思ってゐる。

 (以下にあとがきと、最後の詩を書き写してみました。)


   あとがき   和仁市太郎

 この詩集は平成六年六月から同じく八年五月まで約二年に亘って飛騨新聞(旬間発行)に「小詩片語」という題号で発表したもので、せいぜい十三行くらいまでの作品という制約があって、主幹の桐山さんが貴重な紙幅を提供してくれたからだと思う。前社主の藤森一雄(美水)以来の悪縁?の賜であろう。
 本年正月、富山にいる次男が来遊、去年の夏、勤め先を定年で退職しその閑職についたが、暇があるようになった。帰宅すると、早々、お父さん、ワープロでよかったら詩集作製してあげる、と言ってきかない。第六詩集『私の植物誌』を出版して二十四、五年、感ずることもあって身に資力もないのが第一の理由だが、遺稿詩集なども出版は絶対しないと自分に誓ってきた。(それに、多治見の詩人で、かつて一度もお会いしたことのない、全く未知の、久野治さんが私の全詩集の作品をピックアップされて、評論集『山脈誌派の詩人 和仁市太郎の詩業』という厖大なA5判360頁余りの評論集を1000部も喜寿を祝って寄贈された。『すみなは』の初期の作品も少なからず採用されている。)次男が親孝行のため作成するのなら好きなように、やったらいいと非情なことを言って出版を全部任せたのがこの詩集である。過去に幾冊かの自費出版した粗末な詩集の出版の喜びと、また違った意味の感激を感じておる。本詩集の編集も連絡が巧みにゆかず、その後計画が変更されご覧のようになったが、慣れない仕事の製版、印刷を引受け奉仕してくれた次男夫婦ならびに表紙絵を賜った同郷出身の沖野清先生、発行所の飛騨新聞社・桐山千明氏の、永年に亘る新聞への執筆など貴重な紙面を提供してのご理解ご援助に対し感謝し、ここにお礼申し上げる。
 平成十一年六月二十五日(89歳誕生の日)


 あとがき 二

 本詩集の出版までのいきさつは「あとがき」に記しました。何かと連絡がスムーズにゆかず二度ほど校正もし、ふくめて)校正、製版印刷してくれた次男が富山市にいるので、何かと連絡がスムーズにゆかず二度ほど校正もし、なかの題などある程度指示しました。印刷用紙(表紙もふくめて)校正、製本も次男に委かせて気にいるようにいいましたが、去る十一日詩集を持参来宅しました。帰宅後よく検討してみると、校正の間違い、表紙の背クロスの貼り方、化粧截ちもしない等々……。印刷紙もB紙五十五㎏では裏うつりします。せめて七十㎏にして欲しかった。
 家族の者は発行を中止したらとまでいうのですが、せっかく好意にしてくれた厚情を思いますと、進退きわまった感じです。
 そんなわけで進呈できる代物でないのですが、苦しい胸中を吐露しここに敢えてお笑いぐさに家庭内の恥を書いて第二の「あとがき」といたします。

 平成十一年六月 日
                   和仁市太郎
 各位


 ある箴言 (意訳)
汝よ
 迫るべからず
 追ふべからず
誘うべからず

お前よ
 逃げる人に迫っていけない
 悪意もつ人を、追って[羞]かしめ(※誤植?不詳)
 忌避されてる人から逃げよ

汝よ
 負けるも[呵々]なり
 孤独また愛すべし
 自己に克つまた[呵]

お前よ
 負けて唯々諾々と従う
 孤りの独居また愉し
 自分に勝つのは敗け

汝よ
 人生は妙々奇天烈
 人生は不可解なり
 右条々逆また娯し

お前よ
 人生だから妙味術あり
 世事万端不可解で良し
 誓言の詞章逆も可なり。
(10・6・25)
 

(無題)

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 1月 2日(水)03時14分27秒
編集済
  昨年二月に母を亡くしました。
喪中につき年始のご挨拶を失礼させて戴きます。



思ひ出す雑煮ひとくち喪正月。


https://www.instagram.com/yasuhiro_nakashima1961/
 

看々臘月尽。

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年12月26日(水)22時32分29秒
   さて、書道家の韓天雍先生には、このたび素晴らしい蔵書印を造っていただきました。
 前に「中嶋蔵書」印をプレゼントしていただいたのですが、このたびは旧くからの古本仲間にはおなじみのハンドルネーム「cogito」に漢字を当てた一顆(大江健三郎の小説とは関係ありません)をリクエスト。早速、和本の復刻本に捺印してみました♪ ありがたうございます!

 また、石井頼子様より今年も棟方志功の素晴らしいカレンダーをお送りいただきました。
 去年は般若心経の一節、今年は宮沢賢治と、毎年気に入った絵柄を額に入れ、仏壇に飾ってをります。
 合せて棟方志功の福光時代展「信仰と美の出会い」のご案内もいただきました。
 お知らせかたがたここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 みなさま良いお年をお迎へくださいますやう。本年二月、内艱に丁たり喪中のため、年始の御挨拶を控へます。
 

今年の収穫から

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年12月26日(水)22時28分6秒
  〇舟山逸子『春の落葉』昭和53年。
丁度40年前1978年に刊行された第一詩集。今に変らぬ淒楚な抒情は、清潔ではあるけれどせつなさにふたがる気持にさせられる、といった方が合ってゐるかもしれません。
すこしばかり控えめに過ぎる自身の成長エピソードが20代でこんな具合に書けてしまふさびしさ。詩が生涯の心の支へになってしまふ所以であります。
著者とは手紙からやりとりさせて頂いて30年になりますが、我が詩的出発時に温かく同人誌に迎へ入れて下さった先輩詩人の真骨頂を、この年にして初見するとは、遅すぎました。

 不在

死んだ父の枕元で
白いかたまりになって うずくまっていた
ロニィは 小さな箱に入れられ
はるばる大阪まで運ばれてきた
二、三日はおびえたように 何も食べず
水ばかり飲んだ それから
どうしても なにかおかしいというように
私たちの顔をゆっくり見まわすのだ
そして 前足に黒い鼻先をつけて
くうくうと泣く
大阪に来てしまった私たちに抗議するように
くうくうと泣く
そうして泣いていると
父を呼んでいるとしか思えなくなって
せつなく 妹は
その頭をなぜてやりながら
うっすらと涙を浮かべるのだ
突然に父だけがいなくなった家族に囲まれて
ロニィは
父を追いかけて いってしまった
目を閉じたまま 私たちの呼ぶ声に
ゆっくりしっぽを振ってみせながら

ロニィよ
おまえは今も 九州の家の座敷で
父の大きな手に その前足をかけて
ちゃんとお手をしているか
ハムなどもらっているか
ロニィよ 今日も
父を見送った玄関先で
ワンと吠えているか
私たちが ときどき
胸の奥で思い出しては
ひそかに涙をこらえている かつての生活を
遠い空のどこかで
そうして 父と 続けているか



〇冨岡一成『ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫』
これまた30年来の友人の新著。斯界の生き字引である河原先生への「聞き書き」をもとに、小説・ドキュメンタリー・エッセイのかたちを借りたそれぞれの「章」と、そして季節ごとの「星空解説」によって構成された、全体がプラネタリウムの如く投影するファンタジーです。

河原郁夫先生はことし米寿を迎える。「八十八=米」のお祝いだけれど、天文ファンには八十八なら星座の数だ。ひそかにこれを星寿のお祝いとおよろこびし、このお目出度いさなかに先生の本を世に送りだせることに、おおきな幸せを感じている。「あとがき」より


〇亀井俊介『若い日に読んだ詩と詩人』平成30年。この本については、別に解説と内容をupしてあります。こちらよりご覧ください


〇風間克美『地方私鉄 1960年代の回想』平成30年。
〇今井誉次郎(たかじろう)『おさるのキーコ』昭和37年。
ともに道路が舗装してなく、水たまりだらけだった懐かしい昭和30年代の日本の記録。
『おさるのキーコ』は、小学校3年の時、担任の先生から、教室に据えてあった本箱の中から買ふやうすすめられ、選んだ最初の一冊でした。
岐阜県出身の、いかにも綴り方教育畑らしい先生が書いた、日本の田舎くさい子供たちの姿を描いた童話です。


ほかにも
〇吉村比呂詩『白い人形』昭和8年『雪線に描く』昭和10年。飛騨清見村のモダニズム詩人。
〇伊福部隆彦『無為隆彦詩集』昭和36年。書道界に薀蓄一家言ある詩人の自筆詩集200部非売折帖版。
〇深田精一『黙々餘聲』弘化2年刊行、幕末名古屋の漢詩人。茶書にて有名。
〇梁川星巌の処女詩集『西征詩』文政12年正月版。
〇村瀬藤城「天王山(美濃市大矢田)観紅葉之詩」掛軸。

などの古書類を購入しました。年額は20~10年前の全盛期から較べると1/4以下になりました。
 

宮田佳子様のこと

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年12月 5日(水)16時41分38秒
編集済
 
宮田佳子(みやたよしこ)氏が今夏7月21日、御自宅にて老衰で亡くなられてゐた由(87歳)、喪中はがきにて知り、本日御仏前へ焼香に上りました。

昨年は、翻刻成った戸田葆逸の日記抜刷をお送りしたところ、御実家の菩提寺である大垣全昌寺に働きかけて下さり、御住職より戸田葆逸の墓碑につき御教示をいただいたのでありましたが(野村藤陰の娘婿である戸田鋭之助の次男の嬢が佳子氏)、御子息の話により、御病気で長患ひをされたのではなかった由を伺ひ、吾が母とひきくらべせめても心なでおろして帰って来た次第です。
 
思へば漢詩に関心を持ち始めた2003年の末、職場の図書館に、江戸後期の地元漢詩人である宮田嘯臺の詩集『看雲栖詩稿』の復刻本が寄贈されてあったことから、発行元の御自宅にお便り差し上げのが最初にして、快く在庫を賜ったばかりでなく、以後、嫁ぎ先である宮田家(旧造り酒屋で加納宿脇本陣)に、江戸時代から保管されてゐる「維禎さま(嘯臺翁)」の遺墨類を、たびたび拝見させて頂き、また撮影もさせて頂き、写真を拙サイト上にて公開させて頂いてきたのでありました。

毎度伺ふごとに昔の詩人の紹介に執心する私のことを「若いのに物好きな」と微笑みながら、長話に興じて下さった佳子様でしたが、御自身もまた地元に伝はる狂俳を解読する文芸サークルに所属し、奇特な我がライフワークに対しては応援の声を惜しまれませんでした。

穏やかな物腰の中に旧家の余香を凜と漂はせられた居住まひが忘れられません。

このたび御遺族には、画像公開許可とともに、岐阜県図書館、岐阜市歴史博物館に寄贈・寄託された資料を閲覧したい際には、紹介のお口添えについても引き続いて頂けるとのことにて、寔にありがたく存じます。

現在進めてゐる大垣漢詩人の資料公開事業が了り次第、これら未整理のものを含む資料群についても、精査・考察ができればと考へてをります。

あらためてこの場にても佳子様のご冥福をお祈り申し上げます。

 



さて佳子様の曽祖父、野村藤陰については、珍しくオークションに詩稿が現れたので、合はせ紹介いたします。

「正」を乞うてゐるのは(小原鉄心と共に師と仰いだ)齋藤拙堂なのでしょうが、朱筆が入ってをらず、遺稿詩集に収められたものとも殆ど変りがないので、或ひは藤陰本人の許から流出した草稿であるかもしれません。



四月三日、湘夢書屋(江馬細香宅)雨集。長州の山縣世衡(宍戸璣:たまき)、高木致遠、阿州加茂、永郷越前、大郷百穀及び我が加納の青木叔恭と邂逅す。世衡、時に蝦夷より帰る。故に句、之に及ぶ。

霪霖幾日掩柴關。霪霖、幾日柴關を掩ふ。
忽熹高堂陪衆賢。忽ち熹(よろこ)ぶ。高堂、衆賢に陪するを。
今雨相逢如旧雨。今雨(新知)相逢ふ、旧雨(旧友)の如し。
吟筵只恨即離筵。吟筵ただ恨む。即ち離筵するを。
筆鋒揮去紙還響。筆鋒、揮ひ去って紙また響き。
蠻態談來語亦羶。蠻態、談來って語また羶(なまぐさ)し。
此會僻郷知叵数。此の會、僻郷にしてしばしばするは難きを知る。
不妨詩酒共流連。妨げず、詩酒ともに流連するを。

 正(批正を乞ふの謂)   藤陰 生 未定(稿)

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