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棟方志功記念館

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年11月19日(金)21時11分49秒
編集済
   東京の自宅改築を機に拠点を一時富山県南砺市福光に移された石井頼子氏(棟方志功令孫)を、コロナ禍が収まりをみせた一日、車を飛ばして岐阜から一路北上。御挨拶にお訪ねしました。

 南砺市福光は志功の疎開先といふのみならず、“世界のムナカタ”に雄飛する直前の七年間をすごした、謂はば“蛹の時期”を過ごした土地です。故郷青森でなく血縁のない富山に家族で引き移り、戦争が終はっても東京に帰らなかったのは、ひとへに画伯の藝術に心酔し、その人となりを慕った地元支援者の高誼ゆゑといっていいでしょう。
 市では棟方志功本人のみならず、支援を惜しまなかった草莽の支持者との交流をふくめ、紹介と顕彰とに努めている様子が、小さいながらも誇り高い越中の町らしく、他所の棟方記念館との違ひとなって現れてゐるやうに感じられました。

 頼子氏は、祖父が世話になった頃と人情そのままの福光から、呼ばれるままに、旧家跡に建つ記念館の隣家に引越して、近くの青少年センターの一画でお手伝ひ二人とともに、自宅に遺された150箱もの資料を東京から運び込み、その整理を、すなはちパソコンによるデータベース化に取り組んでをられました。
 突然の推参にも拘らず懇切な対応にあづかり恐縮のいたり、御多忙中の作業を中断させて長々と話し込んでは反省もしきり。せっかく用意された御自身の弁当をよそにして近くの食堂に伴はれ、おでんを食べながら更に続けられたお話の数々は、予期せぬ発見に満ち楽しい記憶しか残ってをりません。

 予期せぬ発見――実は詩人一戸謙三(一戸玲太郎)の詩歴に関する原稿を書きあぐんでゐた先月、令孫の晃氏から資料(個人誌『玲』のバックナンバー)を送られ、そこに「イヴァン・ゴルに倣って」といふ昭和3年の詩が抄されてをり、イメージチェンジを模索してゐた当時の作品を発見した(!)と喜んでゐたのですが、この日、頼子氏がいみじくもその戦前青森の稀覯同人誌『星座図』の現物を、それも件(くだん)のその一冊のみを、

「先日もこんな薄っぺらい雑誌が箱の中から見つかって、びっくりしたんですよ。」

と、ロッカーから出してこられた時には息を呑み、何かのお導きかと思ひました。
 棟方志功にとっても資料の乏しいこの頃の挿画イラストについて、こちらからも折に触れ照会・連絡さしあげると約してセンターを後にしたのでした。

 そののち見学した、移築保存されてゐる旧居(鯉雨画斎)では、トイレや押入れいっぱいに描かれた絵に驚き、枕屏風に寄書された著名人の間に牧野徑太郎(山川弘至の盟友詩人)の名を見つけて喜び、さらに光徳寺に立ち寄り 南砺市立福光美術館の作品群を拝観して帰還しました。
 毎年すばらしいカレンダーをお送り頂いてゐる御礼だけでもと、残り少なくなった晩秋の晴れ間を見計らひ、ドライブがてらに思ひ立った北陸訪問でしたが、まことに思ひ出深い一日となりました。

 段ボール150箱のデータベース化を、講演ほか各種活動をこなしながら再来年2023年4月までにまとめたいとのことでした。お手伝ひと三人で着々とお仕事を進められてゐる現場を覗くことができたのも貴重でしたが、(資料庫、および御一緒に撮って頂いた写真をアップします)、すでに身近な「よりこ様」として、私にも現在翻刻中の「田中克己日記」につき逐次思ひ出を伺ってゐる先師御長女の諏訪依子さんがみえ、ここにもうおひと方「よりこ様」の知遇を得て大変不思議な、有り難い気持ちにもなったことです。

 重ねてお礼を申し上げますと共に、ご健勝ご活躍をお祈り申し上げます。ありがたうございました。

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『菱』212号 特集 辻晉堂と詩歌

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年11月12日(金)08時49分5秒
編集済
  2021年11月07日の「日本海新聞」朝刊に紹介文を書きました。

 社会とおなじく、特に地方では、新陳代謝のなくなった同人誌メディアが軒並み高齢化問題に直面しているときく。鳥取の老鋪詩誌『菱』も歴史が長く、これまで幾多の同人を追悼号で送ってきた。しかし一方で、ベテラン詩人でなくては遺せぬ資料価値豊富な詩史的文章に出会えるのはありがたい。現在編集を司る手皮小四郎(てび こしろう)には、幻のモダニズム詩人といわれた荘原照子の評伝の長きにわたる連載があり、単行本化が待たれている。今回212号「特集 辻晉堂と詩歌」にも鳥取出身の彫刻家、辻晉堂(つじ しんどう1910-1981)に関する発見と称してよい報告があり注目した。

 抽象的な“陶彫”で有名な晉堂だが、力強い写実的彫刻が美術界で注目されたのは昭和8年。上京した彼が住んでいた、芸術家のたむろする界隈は当時「池袋モンパルナス」と呼ばれたが、そう名付けた詩人小熊秀雄との「相互不理解の上の奇妙な友情」(?)を、元県博物館学芸員の三谷巍(たかし)がまず紹介。ついで、モダニズムの後を受け、その地から独創的な定型詩の発信をはじめた佐藤一英のもとで、晉堂が詩人としても活動していたことを手皮が紹介している。

 小熊秀雄とは馬が合わなかったようだが、同じく我の強い同郷の僧侶小川昇堂とは好かったらしい。文学好きな二人はともに一英が昭和13年に創刊した『聯』という詩誌に参加して、しばらく「四行頭韻詩」という「聯詩」の腕を競っている。本名汎吉(ひろきち)から晉堂に改名したのは、歌人画家早川幾忠の弟子だった昇堂の許で得度したからでは、と推測する手皮だが、晉堂・昇堂ふたりの妻が浜坂出身の姉妹であることまで突き止めている。そうした発見が、一年前に追悼号で送ったばかりの同人西崎昌の岳父だった北村盛義、彼と晉堂とが親友だったことに発しているというのもまた長命詩誌ゆえの縁しというべきか。

 詩作品では足立悦男「正念場」の、「写実とは見たままではなく思ったままを描くことだ」「絶筆の薔薇に花の形はなかった 老画家に見えてゐたのは薔薇の命そのものであった」という、これも詩人画家だった中川一政の逸話を引いた一篇に心打たれた。(中嶋康博・詩文学サイト管理人)


 写真は辻晉堂による佐藤一英像(遺族蔵)。

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『谷崎昭男遺文』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年10月26日(火)09時14分47秒
  本日が発行日の『谷崎昭男遺文』(私家版,非売本)の寄贈に与りました。

ご出版のお慶びを申し上げます。紹介文はこちら
 

圓子哲雄氏の思ひ出

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 9月19日(日)23時10分12秒
編集済
   圓子哲雄様とはもう30年近く前のことになりますが、私が詩を書いて居た1992年の時分、杉山平一先生からの紹介ということで、圓子様主宰の詩誌『朔』の最新号(120号)を送って下さったのが御縁の始まりです。それを機に、田中克己先生の日記の翻刻を4回ばかり誌上で紹介させてもらひ、しばらくして再び同人に勧誘下さいました。

 まことに申し訳ないことながら有難いお誘ひを断ってしまったのですが(当時のことについては『詩と詩想』10月号に寄稿した拙文を参照下さい)、1998年以後、『朔』の寄贈に与り、お送り頂くたび毎に、いつも便箋一枚いっぱいに認められた近況をはるばる八戸からお聞かせ頂いては、岐阜からも返信を長々と書き送るといふ手紙の上でのやりとりを、思へば2015年の夏、『朔』が179号を以て休刊するまでの間ずっと続けてきたことになります。

 1971年の創刊このかた、『朔』は同人の作品発表の場のみならず、青森県が生んだ抒情詩人や、圓子様の詩情の拠り所にして自身のデビューを果たした『四季』にまつはる先達詩人の顕彰が(特輯号もしくは追悼号として)幾度となく組まれて来ました。

 寄稿者として、圓子様と同郷で隠棲中だった先輩詩人、村次郎の人脈を活かし、彼がかつて同人だった詩誌『山の樹』(『四季』第2世代の衛星誌)の盟友達から惜しまぬ協力をとりつけることに成功し、単なる同人誌の域を越え、近代詩の研究者にもその名を知らしめるに至りました。

 私は特輯された詩人のうち、とりわけ感銘した一戸謙三──郷里に籠って新詩型を模索し続けた抒情詩人(1899 – 1979)について深く興味を寄せるやうになり、やがてその詩集をネット上で紹介しようと思ったことから、令孫晃氏の知遇を得ましたが、思へば圓子様との文通に発するものでした。

 圓子様をめぐって最も思ひ出深いのは、私が田中克己に師事したのと同じく、圓子様が心酔されたその先輩詩人、村次郎について、手厚い追悼号を編集し(1998年137号)、以後「村次郎先生の思い出」を連載するとともに、長年にわたる聞き書きを『村次郎先生のお話』といふ2巻本にまとめられたことです(文学篇1999年、言語論・地名論・伝承芸能・植物相論2000年)。

 編集にあたっては恐らく自分の詩集より心を砕かれたことと思ひますが、戦後、家業を継ぐため帰郷し、潔く作品の発表を絶ってしまった詩人が、心安い地元の後輩詩人を話し相手に、本にされることなど予定せず、折々に語った詩人論・文学論が「聞き書き」の形をとってそのまま活字にされてゐます。

 所謂“炉辺の放談”であり、かつての朋友が次々に有名となっていった後も、皆から一目置かれ声を掛け続けられた存在だっただけに、ことさら身動きがとれなくなっていったのではないか──私が想像するさうした臆測を含め、編集後記を書いて詳しく事情を説明する責任が直弟子の圓子様にはあったとも思ふのですが、錚々たる文学者を一言で片づける態の「人物月旦」など(当たってる・当たってないかは別にしてとても面白いのですが※)、タイトルに「村次郎“先生”」とクレジットされた事と相俟って、誤解や反感を招くことはなかったかと、傍目ながら危惧したことです。

 当時のお手紙には、

「(前略)年金生活者となってヤレヤレ、ホッとして、と思っていましたのに、今回の2冊の本を出したことによって、新しい本性を出した人間たちから矛を見せて取り囲まれました、が、今は何も怖くない。(後略)」2000年11月11日付書翰より

 と認められてゐて、私は『朔』誌上に刊行を慶ぶ寄稿や書評が皆無で、雑誌の主宰者としてもさぞかし孤立感を深めてゐるだらうことを嘆き、一見平穏な編輯の仕上がりに、同人雑誌の存在意義を質したくなるやうな、もやもやした気持を抱いたことでした。

 そして圓子様の斯様な尽力と姿勢こそが「聞き書き」といふ形式の読物を価値付けてゐることを返信に託し、その当時に連載されてゐた「村次郎先生の思い出」も、むしろ圓子様の自叙伝としてまとめ直したら、きっと素晴らしい本になるだらうことを力説したのですが、エピソード満載の回想録はたうとう纏められることはありませんでした。

 2018年の夏、青森県近代文学館にて催された「一戸謙三展」に関り、青森まで公園に出向くことが決まった際、この機を逃しては、と数回お手紙を差し上げて御都合を伺ったのですが、代筆による御返事も頂けず、状況がつかめぬため電話も躊躇はれました。

 見舞訪問ならば控えた方が良いと一戸晃さんよりお聞きして断念、講演翌日の日程を弘前に変更して、一戸謙三の墓参を遂げて帰還しましたが、30年来、手紙を通じてでありましたが、師事する先生の顕彰についてお互ひを励まし合ってきたものの、終に謦咳に接する機会を持たぬまま永別となったことを悔いてをります。


圓子哲雄(1930.11.20 - 2021.8.24)


 受胎告知 Ⅰ

秋の山は急に深く色づいて
お前の瞳が不思議と明るくなって
振り返りながら僕に囁いた
一つの新しい木の実の話を
愛することを
生きることを
夢のように語りながら
お前は光り輝く瞳となって
不思識な啓示に打たれている僕を
やさしく包みはじめる

              『受胎告知』1973 より



 高飛込み

僕は僕から脱れようと
空高く羽博いていった
執拗に纏りついていた影は
あんなにも高く遠く
束の間の恍惚
影は急速な重力の前に項垂れ
水の中に起きた飛沫(さざなみ)は一瞬僕を消していた
プールの底にくっきりと映る影
僕は僕であるよりなかった

              『受胎告知』1973 より



 晩秋

庭を眺めていた父の影
今日も父の友達が死んだのだそうだ
一人二人 といなくなって
秋の陽はあまりに早く弱まって
枯木の陰に立つ父を影は忘れていた

              『父の庭』1981 より


※ちなみに田中先生については、

「若い頃の作品は好い。晩年「四季」を再刊すると、二号まで出して挫折した
(※11号までですよ)。誰も有力な人がついて行かなかったからだろう。中野清見の親しい友人だが、時々変な電話が来ると言っていた。」

 と一言(笑)。

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稲森宗太郎『水枕』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 9月11日(土)21時27分18秒
  「稀覯本の世界」管理人様より、三重県名張の夭折歌人、稲森宗太郎(1901年 - 1930年)の遺稿集『水枕』(昭和5年)を頂きました。

和歌にとんと疎い私ですが、季節ごとに目に触れる身近な自然に対する抒情は理解できます。
といふよりそれこそ我が本領とするところ。殊にも草花や虫たちに対する写生にたいへん感じ入りました。
気に入ったところを引き写してみます。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。



牡丹雪ことに大きなるひとひらはしばらく消えず葉蘭の上に 11

 伯耆三朝温泉にて
暁のいでゆの中に人あらずうすれし灯かげうつりてゐるかも 14

暁の湯浴みををへて春寒し人の起きねば独り坐りをり 14

柳の葉ちりこぼるなり庭檜葉の蜘蛛のいとにもひつかかりつつ 21

焼けくゆる秋刀魚の匂ひ、この夕の厨ゆすなり、さんま、さんま、嗅ぎつつもなつかしきかな、わだつみの潮のいろの、秋さるとむれ来し魚ぞ、油ぎる鱗の色の、さやかにも今は秋かも、くらひなむ秋刀魚。 23

八つ手の花咲ける門べに、豆腐買ふと立てるわが妹、藍さむき瀬戸の鉢にし、銅銭を添へていだしぬ、わが見てをれば。 24

けふの日の思はぬ入日わが部屋の電球の面にひそかにうつれる 27

たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 27

 新年をこもりをりて
元日のけふの大空、ほがらかに晴れわたりたり、がらす戸よ眺めてあるに、風船玉あかきが一つ、屋根の上にふとも浮き出づ、子が手よりのがれしならむ、ありなしの風にゆれつつ、庭松の梢をぬきて、向ひ家のあんてなをこえ、いや高く上りゆくかも、青き空の中。 37

 わが弟東京見物にと来りしを、我れたまたま心たのしまぬことありておのづから疎うす。一日伴ひて上野の動物園に遊ぶ。
春さむき水のほとりを、静かにも歩みゐる鶴、清らなりや二羽の丹頂、むかひゐるに憂へは忘れ、ひとりしも遊べる我に、のまずやと莨すすめぬ、うら若き弟。 44

畳にしおきてながむる鉢の罌粟かそかにゆるる人のあゆむに 51

さみどりの鸚鵡のぬけ毛ほのかにも畳にうごく土用のまひるを 59

曇りつつむし暑きかも昼まけてみんみん蝉の遠く聞ゆる 59

こがね虫かさなりてをり朝露のおどろが中の赤ままの葉に 63

落葉せし楢の鞘を逃ぐる小雀(こがら)追ひかくる鵙と杉にかくれぬ 68

落葉をいつぱい詰めし炭俵を人かつぎゆく落葉こぼしつつ 70

 秋の末に
鉢のままに庭にころがれる、一本の鶏頭、うちたたへし紅の色の、寂び寂びて目に沁むまでに深き秋かも。 71

 病弱なる人をその郷里におきて、ひとり東京に住みつつ、
夜ふけて帰りし部屋に、寒やとて炭火おこせば、たきつけの紙の白灰、外套のままなる我に、まひてはかかる。 78

読みさしし机の本にさせる月ひとの坐りて読みゐる如し 88
塩せんべいかむにはりはり音のしてかたへさびしき夕ベにもあるか 88

 春来る
出で来たり夕空見れば金星の光なまめく紫おびて 92

 盲学校の門前を過ぐるに、盲目の童ら、校庭にボールを投げて遊ぶ
盲学校校庭に咲く八重桜子ら遊びをり深き明るみに 97

フットボール空に投げたり下の子らうつむきて待つ地に落つる音を 97

ぎんやんま翅光らして、椎の木の若葉にとまれば、松葉杖つける少年、もち竿を腋にはさみて、木のもとにしのび寄るなり、杖ひきつつも。 105

まかがやく空をかぎれる棟瓦蜂一つとべり触れつ離れつ 106

松葉牡丹咲きて照りたる砂の上に赤蟻の道切れてはつづく 107

 ある時
自由をたたへたりし我れ諦めを尊しとせむこも亦誠なり 120

今の世の苦しき知らに肥えて笑ふ人に好かれじわが痩せ歌は 125

せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩せ歌は 125

 龍を詠ず
青雲の垂り光りたる海の上ひろらに遊ぶ雄龍と雌龍 135

 凧を聞く
戸をゆする風にきこゆる、凧のうなりよ。かきこもる我の心に、ひそみたるもののあるらし、空に誘はる。 137

濁りたるみどり堪へし川の面投げおとす雪をあやしく呑みぬ 142

 車中にて
ほの明くる山の麓の一つ藁家人はめざめず白木蓮の花 147

道の上のわが影法師ほのかにも帽子かむれりこの春の夜を 149

 井の頭公園にて
井の頭の池のおたまじやくし、かぐろくもむれて游げり。まろらなる頭そろへて、一群のより来と見るに、へろへろと尾をうち振りて、遠くしも迷ひ行く一つ、水ふかく沈み行きては、はろばろと浮き来る一つ、同じことくりかへしては、思ふことあらず遊ぶに、俄にもものうき心我をおそひ来ぬ。 151

 郊外に移れる夜
煙草すひて起きゐる我にころころと蛙きこえきて夜の静かなり 154

静かにも蛙の声のきこえ来るこの部屋に我はふみよみぬべし 154

わが部屋に我のこもれば隣室に我が妻もまた昼寝してをり 157

一本の庭の青草そよげる見れば、生涯をなるにまかせて、まどはじ我は。 162

雑草にまじるどくだみきはやかにま白き花を空にむけたり 166

古へ人この素朴さを愛しけむ青葉に咲ける白き卯の花 167

花びらの俄に散りし机の上けし坊主一つこちら見てをり 168

庭潦に落ちきたる雨ぼんやりとのぞける我を瞬かしめぬ 170

庭潦渚に出でし一つ蟻道をかへてはまた歩みゆく 176

星空のすそに伸びたる夏草のかぐろく動く星をかすめて 178

 土用の頃
雑草を出し蜆蝶光重きかみなり雲にやがてまぎれぬ 179

唐紙にとまれる馬追なきさしてあとをつづけず明るき部室に 185

灯をけして眠らむとすればさよ更けを蚊帳のべに来て鳴くも馬追 185

秋づきしま青き空にみんみん蝉鳴きすましたる声のよろしさ 186

野司(のづかさ)のいただきに立つ女の子きり髪みだし風に吹かるる 188

足のべにいなごとぶなりけふの日を妻と出で来て歩める野べに 200

土の上に吹き落されてまろき目を闇にひらきてありし芋虫 207

秋深き風のすさめる暁に盗汗をかきてわがめざめたり 208

暁の落葉ふまく風の音盗汗つめたく我はききをり 208

床の上に目ひらきて暁昏の空にすさめる風を思ひぬ 209

起き上りふらふらとゆく親犬に身ぶるひをして仔犬つきゆく 210

垣くぐり出でむとしては白き犬白ききんたまをあらはに見せぬ 211

肌ぬげるわが胸の上に聴診器しづかにうごき遊べる如し 212

聴診器胸にうけつつカーテンのひだにたまれる灯かげを見てをり 213

庭のべに身ぶるひをする犬の音ねつかれぬ我が床にきこゆる 223

木枯の吹ききわぐ中に雀十羽うちみだれては土よりまひ立つ 224

おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ 227

 新しき机を買ひて
電燈の照りほのかなるわが机ひとり見つつも手に撫でにけり 249

することなくわがむかひゐる机の上蛾の一つ来て灯かげをみだす 250

尿せるわが鼻の先にぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ 251

原稿紙めくりてゆけばここにしも刻み煙草のこなのちらばる 264

秋の雨ふれる柿の木幹の叉にかたつむり這へり首さしのべて 266

庭のべのやせたる菊の清らにも白き蕾を我に向けたり 269

ひと茎を伸びたる紫苑わが庭の秋のふかきにとぼしらにに咲く 271

外套をまろらに着たる十人の女学生の来る道いっぱいに 277

 8月31日、小沼逹死す、その家にて
苦しみて死ににきといふか庭の草青さに照るは今日の日影なり 279

雪つぶて胸にあてられし一人の子投ぐる忘れてよろこびをどる 291

 暖き日、都筑に見舞はる
落椿もちたる友の、物言へぬわが枕べに、言葉なくいぢりてはゐる、くれなゐの花を。 295

 初めてせる水枕を喜びて、十一日によめるもの(編者)
水枕うれしくもあるか耳の下に氷のかけら音たてて游ぐ 297

ゆたかなる水枕にし埋めをればわれの頭は冷たくすみぬ 297

枕べに白き小虫のまひ入りぬ外の面は春の夕べなるべし 300
 

八仙齋亀遊

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 8月19日(木)18時06分20秒
   いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様より、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
 御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
 短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
 ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。「金華まちづくり協議会公式HP」: https://gokinjyoai.org/group/kyouhai/1692/
 また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p
 そして『濃飛文化史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
 これらを合はせると以下のやうになります。

【八仙齋亀遊】

 岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
 性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
 作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
 明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
 門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
 以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。

 短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、

「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」

との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。


 さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
 確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
 裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
 まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。

 またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
 山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
 ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日  花屋善平建之」とあるのです。
 乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
 しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
 亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
 そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。


 そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
 狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。

[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」

 無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
 林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きましたが、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。
 

『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月12日(月)19時14分5秒
編集済
   旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。

 執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。

 戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
 すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
 その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の

「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地」

を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
 しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを

「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」

といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。

 立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。

 そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。

 何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認めない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
 また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。

 荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。

 ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また

「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘ったるくて単純なものが多い」

と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。



 本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。

 日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
 繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
 特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。


 ここにても厚く御礼を申し上げます。


『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか

21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社)  \1300+税



青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925
 

岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月 5日(月)20時26分59秒
  【書評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。

https://shiki-cogito.net/book/edokanshisen.htm
 

山崎剛太郎先生

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 3月26日(金)17時18分10秒
編集済
 

 今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。

 親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。
 
 先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
 
 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。
 
 御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。
 
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)

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『イミタチオ』61号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 2月 4日(木)20時52分27秒
   旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに
 

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