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圓子哲雄氏の思ひ出

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 9月19日(日)23時10分12秒
編集済
   圓子哲雄様とはもう30年近く前のことになりますが、私が詩を書いて居た1992年の時分、杉山平一先生からの紹介ということで、圓子様主宰の詩誌『朔』の最新号(120号)を送って下さったのが御縁の始まりです。それを機に、田中克己先生の日記の翻刻を4回ばかり誌上で紹介させてもらひ、しばらくして再び同人に勧誘下さいました。

 まことに申し訳ないことながら有難いお誘ひを断ってしまったのですが(当時のことについては『詩と詩想』10月号に寄稿した拙文を参照下さい)、1998年以後、『朔』の寄贈に与り、お送り頂くたび毎に、いつも便箋一枚いっぱいに認められた近況をはるばる八戸からお聞かせ頂いては、岐阜からも返信を長々と書き送るといふ手紙の上でのやりとりを、思へば2015年の夏、『朔』が179号を以て休刊するまでの間ずっと続けてきたことになります。

 1971年の創刊このかた、『朔』は同人の作品発表の場のみならず、青森県が生んだ抒情詩人や、圓子様の詩情の拠り所にして自身のデビューを果たした『四季』にまつはる先達詩人の顕彰が(特輯号もしくは追悼号として)幾度となく組まれて来ました。

 寄稿者として、圓子様と同郷で隠棲中だった先輩詩人、村次郎の人脈を活かし、彼がかつて同人だった詩誌『山の樹』(『四季』第2世代の衛星誌)の盟友達から惜しまぬ協力をとりつけることに成功し、単なる同人誌の域を越え、近代詩の研究者にもその名を知らしめるに至りました。

 私は特輯された詩人のうち、とりわけ感銘した一戸謙三──郷里に籠って新詩型を模索し続けた抒情詩人(1899 – 1979)について深く興味を寄せるやうになり、やがてその詩集をネット上で紹介しようと思ったことから、令孫晃氏の知遇を得ましたが、思へば圓子様との文通に発するものでした。

 圓子様をめぐって最も思ひ出深いのは、私が田中克己に師事したのと同じく、圓子様が心酔されたその先輩詩人、村次郎について、手厚い追悼号を編集し(1998年137号)、以後「村次郎先生の思い出」を連載するとともに、長年にわたる聞き書きを『村次郎先生のお話』といふ2巻本にまとめられたことです(文学篇1999年、言語論・地名論・伝承芸能・植物相論2000年)。

 編集にあたっては恐らく自分の詩集より心を砕かれたことと思ひますが、戦後、家業を継ぐため帰郷し、潔く作品の発表を絶ってしまった詩人が、心安い地元の後輩詩人を話し相手に、本にされることなど予定せず、折々に語った詩人論・文学論が「聞き書き」の形をとってそのまま活字にされてゐます。

 所謂“炉辺の放談”であり、かつての朋友が次々に有名となっていった後も、皆から一目置かれ声を掛け続けられた存在だっただけに、ことさら身動きがとれなくなっていったのではないか──私が想像するさうした臆測を含め、編集後記を書いて詳しく事情を説明する責任が直弟子の圓子様にはあったとも思ふのですが、錚々たる文学者を一言で片づける態の「人物月旦」など(当たってる・当たってないかは別にしてとても面白いのですが※)、タイトルに「村次郎“先生”」とクレジットされた事と相俟って、誤解や反感を招くことはなかったかと、傍目ながら危惧したことです。

 当時のお手紙には、

「(前略)年金生活者となってヤレヤレ、ホッとして、と思っていましたのに、今回の2冊の本を出したことによって、新しい本性を出した人間たちから矛を見せて取り囲まれました、が、今は何も怖くない。(後略)」2000年11月11日付書翰より

 と認められてゐて、私は『朔』誌上に刊行を慶ぶ寄稿や書評が皆無で、雑誌の主宰者としてもさぞかし孤立感を深めてゐるだらうことを嘆き、一見平穏な編輯の仕上がりに、同人雑誌の存在意義を質したくなるやうな、もやもやした気持を抱いたことでした。

 そして圓子様の斯様な尽力と姿勢こそが「聞き書き」といふ形式の読物を価値付けてゐることを返信に託し、その当時に連載されてゐた「村次郎先生の思い出」も、むしろ圓子様の自叙伝としてまとめ直したら、きっと素晴らしい本になるだらうことを力説したのですが、エピソード満載の回想録はたうとう纏められることはありませんでした。

 2018年の夏、青森県近代文学館にて催された「一戸謙三展」に関り、青森まで公園に出向くことが決まった際、この機を逃しては、と数回お手紙を差し上げて御都合を伺ったのですが、代筆による御返事も頂けず、状況がつかめぬため電話も躊躇はれました。

 見舞訪問ならば控えた方が良いと一戸晃さんよりお聞きして断念、講演翌日の日程を弘前に変更して、一戸謙三の墓参を遂げて帰還しましたが、30年来、手紙を通じてでありましたが、師事する先生の顕彰についてお互ひを励まし合ってきたものの、終に謦咳に接する機会を持たぬまま永別となったことを悔いてをります。


圓子哲雄(1930.11.20 - 2021.8.24)


 受胎告知 Ⅰ

秋の山は急に深く色づいて
お前の瞳が不思議と明るくなって
振り返りながら僕に囁いた
一つの新しい木の実の話を
愛することを
生きることを
夢のように語りながら
お前は光り輝く瞳となって
不思識な啓示に打たれている僕を
やさしく包みはじめる

              『受胎告知』1973 より



 高飛込み

僕は僕から脱れようと
空高く羽博いていった
執拗に纏りついていた影は
あんなにも高く遠く
束の間の恍惚
影は急速な重力の前に項垂れ
水の中に起きた飛沫(さざなみ)は一瞬僕を消していた
プールの底にくっきりと映る影
僕は僕であるよりなかった

              『受胎告知』1973 より



 晩秋

庭を眺めていた父の影
今日も父の友達が死んだのだそうだ
一人二人 といなくなって
秋の陽はあまりに早く弱まって
枯木の陰に立つ父を影は忘れていた

              『父の庭』1981 より


※ちなみに田中先生については、

「若い頃の作品は好い。晩年「四季」を再刊すると、二号まで出して挫折した
(※11号までですよ)。誰も有力な人がついて行かなかったからだろう。中野清見の親しい友人だが、時々変な電話が来ると言っていた。」

 と一言(笑)。

http://

 
 

稲森宗太郎『水枕』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 9月11日(土)21時27分18秒
  「稀覯本の世界」管理人様より、三重県名張の夭折歌人、稲森宗太郎(1901年 - 1930年)の遺稿集『水枕』(昭和5年)を頂きました。

和歌にとんと疎い私ですが、季節ごとに目に触れる身近な自然に対する抒情は理解できます。
といふよりそれこそ我が本領とするところ。殊にも草花や虫たちに対する写生にたいへん感じ入りました。
気に入ったところを引き写してみます。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。



牡丹雪ことに大きなるひとひらはしばらく消えず葉蘭の上に 11

 伯耆三朝温泉にて
暁のいでゆの中に人あらずうすれし灯かげうつりてゐるかも 14

暁の湯浴みををへて春寒し人の起きねば独り坐りをり 14

柳の葉ちりこぼるなり庭檜葉の蜘蛛のいとにもひつかかりつつ 21

焼けくゆる秋刀魚の匂ひ、この夕の厨ゆすなり、さんま、さんま、嗅ぎつつもなつかしきかな、わだつみの潮のいろの、秋さるとむれ来し魚ぞ、油ぎる鱗の色の、さやかにも今は秋かも、くらひなむ秋刀魚。 23

八つ手の花咲ける門べに、豆腐買ふと立てるわが妹、藍さむき瀬戸の鉢にし、銅銭を添へていだしぬ、わが見てをれば。 24

けふの日の思はぬ入日わが部屋の電球の面にひそかにうつれる 27

たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 27

 新年をこもりをりて
元日のけふの大空、ほがらかに晴れわたりたり、がらす戸よ眺めてあるに、風船玉あかきが一つ、屋根の上にふとも浮き出づ、子が手よりのがれしならむ、ありなしの風にゆれつつ、庭松の梢をぬきて、向ひ家のあんてなをこえ、いや高く上りゆくかも、青き空の中。 37

 わが弟東京見物にと来りしを、我れたまたま心たのしまぬことありておのづから疎うす。一日伴ひて上野の動物園に遊ぶ。
春さむき水のほとりを、静かにも歩みゐる鶴、清らなりや二羽の丹頂、むかひゐるに憂へは忘れ、ひとりしも遊べる我に、のまずやと莨すすめぬ、うら若き弟。 44

畳にしおきてながむる鉢の罌粟かそかにゆるる人のあゆむに 51

さみどりの鸚鵡のぬけ毛ほのかにも畳にうごく土用のまひるを 59

曇りつつむし暑きかも昼まけてみんみん蝉の遠く聞ゆる 59

こがね虫かさなりてをり朝露のおどろが中の赤ままの葉に 63

落葉せし楢の鞘を逃ぐる小雀(こがら)追ひかくる鵙と杉にかくれぬ 68

落葉をいつぱい詰めし炭俵を人かつぎゆく落葉こぼしつつ 70

 秋の末に
鉢のままに庭にころがれる、一本の鶏頭、うちたたへし紅の色の、寂び寂びて目に沁むまでに深き秋かも。 71

 病弱なる人をその郷里におきて、ひとり東京に住みつつ、
夜ふけて帰りし部屋に、寒やとて炭火おこせば、たきつけの紙の白灰、外套のままなる我に、まひてはかかる。 78

読みさしし机の本にさせる月ひとの坐りて読みゐる如し 88
塩せんべいかむにはりはり音のしてかたへさびしき夕ベにもあるか 88

 春来る
出で来たり夕空見れば金星の光なまめく紫おびて 92

 盲学校の門前を過ぐるに、盲目の童ら、校庭にボールを投げて遊ぶ
盲学校校庭に咲く八重桜子ら遊びをり深き明るみに 97

フットボール空に投げたり下の子らうつむきて待つ地に落つる音を 97

ぎんやんま翅光らして、椎の木の若葉にとまれば、松葉杖つける少年、もち竿を腋にはさみて、木のもとにしのび寄るなり、杖ひきつつも。 105

まかがやく空をかぎれる棟瓦蜂一つとべり触れつ離れつ 106

松葉牡丹咲きて照りたる砂の上に赤蟻の道切れてはつづく 107

 ある時
自由をたたへたりし我れ諦めを尊しとせむこも亦誠なり 120

今の世の苦しき知らに肥えて笑ふ人に好かれじわが痩せ歌は 125

せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩せ歌は 125

 龍を詠ず
青雲の垂り光りたる海の上ひろらに遊ぶ雄龍と雌龍 135

 凧を聞く
戸をゆする風にきこゆる、凧のうなりよ。かきこもる我の心に、ひそみたるもののあるらし、空に誘はる。 137

濁りたるみどり堪へし川の面投げおとす雪をあやしく呑みぬ 142

 車中にて
ほの明くる山の麓の一つ藁家人はめざめず白木蓮の花 147

道の上のわが影法師ほのかにも帽子かむれりこの春の夜を 149

 井の頭公園にて
井の頭の池のおたまじやくし、かぐろくもむれて游げり。まろらなる頭そろへて、一群のより来と見るに、へろへろと尾をうち振りて、遠くしも迷ひ行く一つ、水ふかく沈み行きては、はろばろと浮き来る一つ、同じことくりかへしては、思ふことあらず遊ぶに、俄にもものうき心我をおそひ来ぬ。 151

 郊外に移れる夜
煙草すひて起きゐる我にころころと蛙きこえきて夜の静かなり 154

静かにも蛙の声のきこえ来るこの部屋に我はふみよみぬべし 154

わが部屋に我のこもれば隣室に我が妻もまた昼寝してをり 157

一本の庭の青草そよげる見れば、生涯をなるにまかせて、まどはじ我は。 162

雑草にまじるどくだみきはやかにま白き花を空にむけたり 166

古へ人この素朴さを愛しけむ青葉に咲ける白き卯の花 167

花びらの俄に散りし机の上けし坊主一つこちら見てをり 168

庭潦に落ちきたる雨ぼんやりとのぞける我を瞬かしめぬ 170

庭潦渚に出でし一つ蟻道をかへてはまた歩みゆく 176

星空のすそに伸びたる夏草のかぐろく動く星をかすめて 178

 土用の頃
雑草を出し蜆蝶光重きかみなり雲にやがてまぎれぬ 179

唐紙にとまれる馬追なきさしてあとをつづけず明るき部室に 185

灯をけして眠らむとすればさよ更けを蚊帳のべに来て鳴くも馬追 185

秋づきしま青き空にみんみん蝉鳴きすましたる声のよろしさ 186

野司(のづかさ)のいただきに立つ女の子きり髪みだし風に吹かるる 188

足のべにいなごとぶなりけふの日を妻と出で来て歩める野べに 200

土の上に吹き落されてまろき目を闇にひらきてありし芋虫 207

秋深き風のすさめる暁に盗汗をかきてわがめざめたり 208

暁の落葉ふまく風の音盗汗つめたく我はききをり 208

床の上に目ひらきて暁昏の空にすさめる風を思ひぬ 209

起き上りふらふらとゆく親犬に身ぶるひをして仔犬つきゆく 210

垣くぐり出でむとしては白き犬白ききんたまをあらはに見せぬ 211

肌ぬげるわが胸の上に聴診器しづかにうごき遊べる如し 212

聴診器胸にうけつつカーテンのひだにたまれる灯かげを見てをり 213

庭のべに身ぶるひをする犬の音ねつかれぬ我が床にきこゆる 223

木枯の吹ききわぐ中に雀十羽うちみだれては土よりまひ立つ 224

おとろへし身を養ひてあらむ我れ湧きくる思ひにまなこつぶりぬ 227

 新しき机を買ひて
電燈の照りほのかなるわが机ひとり見つつも手に撫でにけり 249

することなくわがむかひゐる机の上蛾の一つ来て灯かげをみだす 250

尿せるわが鼻の先にぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ 251

原稿紙めくりてゆけばここにしも刻み煙草のこなのちらばる 264

秋の雨ふれる柿の木幹の叉にかたつむり這へり首さしのべて 266

庭のべのやせたる菊の清らにも白き蕾を我に向けたり 269

ひと茎を伸びたる紫苑わが庭の秋のふかきにとぼしらにに咲く 271

外套をまろらに着たる十人の女学生の来る道いっぱいに 277

 8月31日、小沼逹死す、その家にて
苦しみて死ににきといふか庭の草青さに照るは今日の日影なり 279

雪つぶて胸にあてられし一人の子投ぐる忘れてよろこびをどる 291

 暖き日、都筑に見舞はる
落椿もちたる友の、物言へぬわが枕べに、言葉なくいぢりてはゐる、くれなゐの花を。 295

 初めてせる水枕を喜びて、十一日によめるもの(編者)
水枕うれしくもあるか耳の下に氷のかけら音たてて游ぐ 297

ゆたかなる水枕にし埋めをればわれの頭は冷たくすみぬ 297

枕べに白き小虫のまひ入りぬ外の面は春の夕べなるべし 300
 

八仙齋亀遊

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 8月19日(木)18時06分20秒
   いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様より、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
 御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
 短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
 ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。「金華まちづくり協議会公式HP」: https://gokinjyoai.org/group/kyouhai/1692/
 また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p
 そして『濃飛文化史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
 これらを合はせると以下のやうになります。

【八仙齋亀遊】

 岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
 性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
 作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
 明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
 門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
 以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。

 短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、

「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」

との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。


 さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
 確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
 裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
 まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。

 またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
 山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
 ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日  花屋善平建之」とあるのです。
 乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
 しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
 亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
 そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。


 そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
 狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。

[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」

 無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
 林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きましたが、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。
 

『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月12日(月)19時14分5秒
編集済
   旧臘より気になってゐた雑誌の特集号をやうやく閲読、編集の指揮を執られた小川英晴氏の“立原道造愛”を核として初めて成った特集であることが端々に感じられる一冊でした。

 執筆陣のなかでは、四季派の存在意義を現在最も説得力を以て語ることが出来る論客、國中治氏の一文が相変はらず鋭い一矢を放ってをります。

 戦後“四季派批判”を担った現代詩詩人達にわだかまった「自分達の問題意識が一般読者ばかりか、よりによって若き表現者たちにさえ」共有されない苛立ちと焦躁について。
 すなはち一言で云へば、いつまで経っても四季派の詩人の人気が衰へないことについて。
 その根拠を、彼ら批判者達が始祖として仰いだ萩原朔太郎の

「野放図と言えるほどの先鋭大胆な詩的言語の開拓」
「詩の沃土は沃土にはちがいないが不安定極まりなく、そのままでは朔太郎にしか歩くことが出来ない狷介な荒蕪地」

を、他の誰でもない彼らが目の敵にした三好達治が均して、口語自由詩の表現を現在あるやうな実のあるものに定着させていったのではないか、といふ直球を投げ、
 しかも戦争詩を書いた彼が精神的な耄碌に堕したとならば、どうして再びこんな作品が書けるのか、と戦後の作品「風の中に」を挙げて、これを

「『荒地』の詩群のなかに置かれたとしても読者に違和感を与えないだろう」

といふ見通しと共に述べる、話を逸らさぬ明快さ。

 立論は当時の詩に現れる「鳥籠」を象徴的に解釈しつつ説明されてゆきますが、その自由の制限者でもあり得、安息の保護者でもあり得る「鳥籠」とは、私の四季派に関する持論の、口語自由詩に必要な制約(定型のフレームのみならず、箱庭世界の創造だったり、時代の圧力さへも含む)なんだらう、とも思ったことです。

 そのほか、昨今の異常気象により自然現象としての四季の喪失から『四季』の存在意義を問うてゆく問題意識なんていふのは、特集の理由としては実に現代的で面白く思ったものの、そのことについて深く論及する文章がなかったことは残念でした。

 何より目玉であるはずの「対談」ですが、ただ現代詩詩人として有名であるといふだけで、四季派の抒情を全く認めない荒川洋治氏を相手に呼ぶといふ人選には疑問を感じました。
 また「鼎談」に於いても『四季』の詩人達に詳しい人が誰も参加しない会話に肩透かしを食らひました。

 荒川氏は新刊『江戸漢詩選』のレビューも新聞に書いてをられますが(毎日2021.4.3)、四季派同様、本場中国の漢詩と異なり反権威・反体制を事としない江戸時代の漢詩について、氏のやうな詩人が好意的な書評を書かされること自体、笑止であるし(梗概と解説のはしりを抄して後は自己の読書歴に紐づけて述べ、穏当に「これで勘弁下さい」といふ感じ)、ジャーナリズムが認める伝統的な抒情詩人の空位を、それこそ自然現象としての四季の喪失と同じ次元で考へさせられてしまったことでした。

 ただ立原道造も伊東静雄も田中冬二も認めぬ荒川氏が、地方生活者として里山の詩を綴る蔵原伸二郎や木下夕爾、そして一番外周に位置づけて杉山平一の三人を認めてゐる条り、また

「四季派を批判する戦後の人たちの詩も四季的な抒情に近い、というか、それ以上に甘ったるくて単純なものが多い」

と一刀両断するところだけは良かったです。地元の福井贔屓を平気でガンガン出してくるところも面白かった。



 本誌を読ませて下さった青木由弥子氏には、新刊詩集『しのばず』があり、合せて拝読しました。

 日ごろは敬遠してゐる現代詩ですが、久しぶりに快い抒情詩を堪能。小網恵子氏の『野のひかり』以来です。
 繊細な語感の持ち主であること、殊にも五感をたくみに絡ませた暗喩を繰り出すセンス、抒情詩ではあるものの、新しい表現をめざして自覚的に詩を書いてをられることが伝はってきました。
 特に前半に集められた詩篇には、四季派の抒情詩のカタルシス「抑制することに付随して噛みしめられる恢復感」を感じさせる言葉に満ちてゐて、四季派の遺伝子はかういふ所にこそ流れ続けて居るのではないかと思ったことです。


 ここにても厚く御礼を申し上げます。


『詩と思想』2020年11月号 「特集四季派の遺伝子」

対談:荒川洋治×小川英晴/四季派の詩人たちを巡って
座談会:城戸朱理 竹山聖 小川英晴/四季派・現代詩への継承
エッセイ:國中治/「四季」派の遺伝子 〈鳥のいない鳥籠〉を巡るささやかな追跡
小島きみ子/立原道造のメルヘンについて 見えるものの向こう
布川鴇/「四季」と詩人たち 立原道造の叶えられなかった夢
岡田ユアン/子育ての中でめぐるうた
池田康/四季派についての覚書
鹿又夏実/野村英夫 「四季」の最後期をかざるカトリック詩人
総論:小川英晴 四季派の遺伝子 立原道造を中心にして
ほか

21cm,202p 詩と思想編集委員会発行(土曜美術社)  \1300+税



青木由弥子詩集『しのばず』2020.10 土曜美術社 19.0×15.5cm 101p \2000+税 isbn:9784812025925
 

岩波文庫『江戸漢詩選』上・下巻

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 4月 5日(月)20時26分59秒
  【書評】新刊BookReviewに、揖斐高先生の『江戸漢詩選』上・下巻の紹介文を書かせて頂きました。

https://shiki-cogito.net/book/edokanshisen.htm
 

山崎剛太郎先生

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 3月26日(金)17時18分10秒
編集済
 

 今月、詩人でフランス映画の字幕訳者で著名の山崎剛太郎先生が亡くなられたといふ。

 親友だった詩人小山正孝の御子息正見様からは、いづれ詳細が入るのではないかと思ふが、103歳の御長寿ではあり、やすらかな旅立ちをお祈りするばかりである。
 
 先生の最晩年、といっても既に七、八年の前になるが、小山正孝研究誌『感泣亭秋報』を御縁に、拙詩集をお送りした際の通信が半年ほど続いた。御返信を待つような再信を出しづらく、そのままとなってしまったが、頂いたお手紙にはどれも御家族によりワープロで打ち直された“判読文”が添へられてをり、本も手紙も、文字を読むこと自体に大変な御苦労をされてゐることを最初のお手紙で知らされ、すでに詩を書かなくなった自分が、どこまで踏み込んでお話ができるものか、あやぶみ恐縮した所為もある。
 
 しかしながらその後も日常生活におかれては頭脳明晰にして矍鑠たること、詩集のタイトルにこそ「遺言」や「柩」などの語句を掲げられたが、思へばそれも晩年に書かれた作品が編まれてゐること自体バイタリティの証しであり、四季派の詩人、特に立原道造を偲ぶ集ひにおいては、東の山崎剛太郎、西の杉山平一、いづれかの先生をお呼びできるかどうか、といふのが会合の品格を左右するものと思ひなしてゐた自分がゐる。
 
 御存知マチネポエティク界隈の仲間達の一員にして、戦前抒情詩の気息を伝へる正真正銘最後の生き証人といふべき方を喪った。
 
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
(写真は第2詩集『薔薇の柩』より)

http://

 

『イミタチオ』61号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 2月 4日(木)20時52分27秒
   旧臘、金沢の米村元紀様より頂いたままになってゐた『イミタチオ』61号の論文を御紹介します。

 表題は「戴冠詩人の御一人者」とありますが、本題は次回以降。今回は朝鮮・中国への旅行中の保田與重郎に去来した、文筆家としての思ひや目論見、すなはち“戦争や農民の現場に即したい”といふ思ひ、しかし“えげつなさ”は見たくないといふ、彼らしいフィルターを通して当時のアジア展望を日本目線で探らうとする解釈(言挙げ)が述べられてゐます。故にタイトルには章題「『蒙疆』――戦場への旅」を掲げるべきだったかもしれません。

 さて、前回の論文に対して「彼の著作に「健全さ」をみるとすれば、それは論理にではなく生活に根差してゐる気が致します。」と感想を書いた私ですが、今回の文中で触れられてゐる保田與重郎の姿勢も同様で、それに殉じて悔いなしとするところが、異様かつ、彼が本領とするところの文人の覚悟でありましょう。

 文章は杉浦明平による「保田與重郎は戦争犯罪者だ」との有名なレッテル貼りの紹介から始まります。
 杉浦明平が云ふ「あの以て廻って本心を決して表へ出さない、きざっぽい言い廻しの下に隠された彼の本体」ですが、政治的な解釈を彼の立場から下せば確かに「きざっぽい」成心にしか映らないでしょう。
 私には「むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。」と、いみじくも新井白石が語った古人の心映えを、彼はことさら委曲を尽してほめまくりたかのではないか、そんな矛盾した情熱の迸りの結果であったやうな気がしてゐます。
 後世の評者が指摘した「イロニーの表情」も、「政治的無責任」も、近代人である彼が古人に憑依して体現するところに生じた矛盾を、そのまま顕現させたものであってみれば、そんな芸当はしない・できない現代人が読んだら、やはり感心するか、馬鹿にするかの二択しかできないに違ひありません。
 そんな一種神がかった文章に潜んだ文意が、戦場に赴く若者の、自ら酔はねば保ち得ない心の拠り所となり(故に厭戦主義の杉浦明平の怒りを買ひ)、また戦後も伏流を続けて読者を贏ち得てゐる理由ではないでしょうか。

 今回、論じられてゐる保田與重郎の各文章は、『戴冠詩人の御一人者』出版後の執筆にかかるものです。日本軍の大陸進出が、大和朝廷の手先となり命ぜられて発った倭建命の遠征と重ねられてゐる節を何とはなしに感じます。
 もちろん現地で触発された見聞は多々あったでしょうが、全て身に収めて、倭建命と同様、政治的な“えげつない”思惑は見ぬよう、あくまでも自分の世界観を補強するロマンを探しながらの旅だったのではないでしょうか。

 大陸戦線での勝ち戦さを重ねるなかで、内地に控へた功利的打算的な日本人が大衆に提示する新しい世界秩序と世界史観。それが決してコスモポリタンではあり得ぬ保田與重郎にとっては「わが国史に見ぬ大きな“恐怖”」であったのではなかったか。
 一方では、いくら自分が日本陸軍に倭建命のやうな詩的理想を重ねようとも、決してねじ伏せることなどできない中国人民の、彼には度し難いと映った現実にも恐怖したことでしょう。
 彼らが古代に創造した「神を畏れることを知らない大芸術」を目の当たりにしては、もはや戸惑はざるを得ない。
 彼はさうした際、古代日本が大陸からの影響を、血統を含め芸術の上で色濃く受けたことを素直に白状すると同時に、そののち独自の世界を築いて些かも風下に立つ必要のないことをつとめて書き綴ってゐますが、そこには当年の世界情勢を笠に着て、いくらか風上に立たうとする「民俗的な優越感」も感じます。
 ただしそれはあくまでも文化の上のことであり、高圧的な気配は感じられない。譬へていふなら杉浦明平が憎悪したファシズム的でなく、シュペングラー的な貴族主義(彼の場合は大和が一番偉い)を纏ってゐるだけのやうにも感じます。

 このさき論究される予定の「戴冠詩人の御一人者」は、私の一番好きな文章の一つです。甞て瞠目したのは、出雲健を騙し討ちにするシーンで日本武尊が言ひ放つ「さみなしにあはれ」の解釈でした。
 今回の論文中、彼が「戦場での武士に対する礼儀は人道的休戦でも勧降でもなく、全体を虐殺するか虐殺されるかである」といふ、秋山好古や乃木将軍の軍人精神を擁護し、森鴎外の詩をほめてゐる条りに、それが色濃く反映してゐるやうに感じました。
 もちろん保田與重郎がどんな賛辞を呈さうが、これは武人にとっての「誇るべき伝統」ではあれ、国民皆兵制下の近代戦では決して「誇るべき伝統の今日の光り」ではあり得なかった筈です。
 また農民の現場の苦労を偲びつつ、彼らが防人として潔く死んでゆける理由と根拠に「詩」しか用意できなかった美学も、杉浦明平に恨まれるまでもなく余りにも脆弱ではある。

 ただし国家が掲げた理想にひたすら即してゆくといふことは、敢へて表現の表舞台から逃げないといふ覚悟です。杉浦明平のやうに弾圧を恐れて沈黙はしない。建前で保身を図る打算的な大人達の嘘を峻拒して、最後までお付き合いする見届けてやる。
 さういふ、いじらしくも毅然とした態度は、早く「戴冠詩人の御一人者」の一文に昂然と現れてをり、それが実際に戦争に駆り出される若者達の心をつかみ、抵抗のすべを閉ざされた心情に、ぴったり寄り添って彼らを従容と死にいざなったのだ、とは云へるやうに思ひます。

 米村氏がライフワークとして取り組んでゐる真摯な文章は毎回、難しい文章を読めなくなった私に、コギト的・日本浪曼派的な心情を呼び起こし、考へさせる契機に満ちてをります。このたびも労作の御寄贈に与り、誠にありがたうございました。ここにても深謝申し上げます。

『イミタチオ』61号(2020.11金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート7「戴冠詩人の御一人者(1)」米村元紀……53-85p
  1.『戴冠詩人の御一人者』の「緒言」
  2. 『蒙疆』――戦場への旅
  3.朝鮮古代芸術への旅
  4.おわりに
 

田中克己先生の命日に

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月14日(木)23時46分46秒
編集済
 

田中克己先生が亡くなって来年で30年になる。1992年の1月15日のことであった。

当時、私は上京して8年目。いつまで経っても正職員にはなれぬ下町風俗資料館での勤めに見切りをつけ、民間企業に転職したものの勤まらず。心の洗濯と称して初めての外国一人旅を決意して、ネパールくんだりをひと月余りかけて周り、帰ってきた後であった。すなはち失業中の身であり、しかし何をするでも無く、東京下町の下宿にひきこもり、三十を目前に将来の不安を漠然と抱へる無聊の日々を過ごしてゐた。思へば人生の節目において訪れる、一種、危機の季節にあったのかもしれない。

先生は年末に風邪をひかれた後、阿佐ヶ谷からはずいぶん遠い八王子の病院に入院されてゐた。その以前、半年以上前からだと思ふが、先生夫妻と同居されるやうになった長男御夫婦は、末期癌と宣告された悠紀子夫人の看病に付きっきりになってをられた。私はそれを知らなかったが、“詩人”の夫に振り回され、子供たちの為に生涯辛抱を続けて来られた夫人に、不治の病が発覚したことが哀れでならぬ令息夫婦にとって、母親との残された時間が何より大切であり、父親が風邪をひいたとて、かまふことができない状況にあったのだとは、後からお聞きした。

先生自身、自分が先に倒れるなど考へたこともなく、駅を挟んで河北病院までの見舞を日課として欠かすことがなかったらしい。しかしそれさへ夫人のストレスの種となってゐたといふに至っては致し方ない。初期の認知症もみられたのであらう、大事をとって一時の入院を勧められた先生は、病院の検査で、どこで感染したのか知れぬが、黄色ブドウ球菌による肺炎の診断を下された。

田中克己先生と出会ってそれまでの5年間、私は月に一度、電話をしてから御自宅をお訪ねしては、詩と関係ない四方山話に興じ、悠紀子夫人が作って下さる魚の煮つけ等の“おばあちゃんの手料理”を食べて帰るのが常となってゐた。核家族で育ち、上京してアパートの独り暮らしだったこともあり、帰途はいつも祖父母から慈愛を享けたやうな幸福感で満たされたが、斯様の事情も知らず、旅からの帰還報告に上がった11月17日が、お元気な先生夫妻と会った最後の機会となった(日記には「夫人憔悴」とだけ追記してある)。

そして翌月(12月4日)電話すると、先生が11月25日に入院されたことにつき、件の肺炎についてと共にあらましを伺った訳である。「治ったらまたね。」と、こじらせるとは思はれなかった令息夫人から電話口でお聞きすること、その後も二、三度に及んだか、結局見舞ふ機会をズルズルと逸してしまった。

先生そしてその後先生のあとを追ふやうに亡くなった悠紀子夫人からも、だから私は遺言らしい言葉を聞いてゐない。しかし少なくとも病状が革まる三日前までは、先生もまさか自分が亡くなるとは思ってゐなかったやうだ。あとでお聞きしたところによれば、病院では見舞に来た長女を見間違ひ、そのくせナースから自分も均しなみに「おじいちゃん」呼ばはりされることには、大変怒ってゐたといふことである。

そんなことで新年(1992年)を迎へ、悠紀子夫人の要望(許可)もありやうやく17日には初見舞をする約束をしたところで突然の、容態急変を報せる電話だった。愕いて病院に駆けつけたときにはすでに意識は朦朧。吸入器を当てられ、荒い息で苦しさうに呼吸を継いでゐる先生を、ベッドの脇で見守ることしかできなかった。あの痩せて細長い指が、信じられない程むくんでふくれあがってゐる。そして冷たいのだ。瞬きのなくなった瞳には湿ったガーゼが当てられてをり、取って呼びかけると眼差しを向けてくれたが、私と認めて下さったらうか。

その夜の1時24分に先生は亡くなった。

翌日、訃らせがあり、阿佐ヶ谷の自宅に走ったが、教会に留め置かれた遺体は、神様が護って下さるとのことで、その夜も、翌日の前夜祭も、寝ずの番は不要との事であった。

しかしながらこの時、私は教会に夫人の姿がなかったことが不審でならなかった。悠紀子夫人は自宅でテレビの真ん前に座ったまま、観るともなくじっと画面を見つめてをられた。これまでみたことのない、言葉を掛けるのが憚られるその横顔が忘れられない。亡骸をみるのがお辛いとのことだったが、そもそも先生の見舞には一度もゆかれなかったといふ。あれほど熱心に通ってをられた教会だが、本葬にも、結局出席はされなかったのである。



告別式は寒い一日であった。遺族以外、誰とも面識のないプー太郎であるが、詩人の弔問客の対応をしてほしいと、私も受付に立つことになった。しかし先生の交遊関係について『四季』『コギト』時代のことしか知らぬやうな文学青年であるし、記帳と香奠受取の手伝ひをさせてもらったものの、或は不審人物と思はれたかもしれぬ。もとより弔問は葬儀全般の世話に当たられた令息勤務先の官僚の方々が多かった。先生が成城大学を退職してからも五年が経ってゐたし、そして田中家のキリスト教徒は老夫婦だけであり、晩年の先生がもっとも懇意にしてをらた信者の皆さんも、高齢かつ夫人不在のため話す相手とてなく、漫然と教会の隅に寄り添ひ見守ってをられたのが何かしら哀れだった。

それでも私は、存じ上げてゐる詩人の名が書かれるたび、ハッとして面を上げ、詩名を存じ上げてゐることを申し上げると一様に驚かれる、その方々の心情を忖度したことである。長身痩躯の紳士、富岡鉄斎研究の一人者である小高根太郎さんが、

「とうとうコギトは僕ひとりになってしまったね。いつまでも年寄りが頑張ってちゃいかん。後進にゆづらなくては。」

と仰言り、なほ私が詩を書いてゐることを伝へると、

「詩はよした方がいい。あいつも私も気狂ひだった。詩をやると気狂ひになるよ。」

との一言を賜はったのが忘れられず、日記に記してある。

不明にも程があるが、『コギト』で活躍された旧ペンネーム“三浦常夫”先生に拙詩集をお送りしてゐなかった。これを聞いては送るのも憚られ、また漢詩の世界に目を啓かれる前の事とて、手紙もせずその時かぎりの挨拶に終ってしまったことを、今に遺憾に思ってゐる。

最晩年のある日、突然大阪にやってきた先生夫妻を最後にもてなされた福地邦樹さん、そして杉山平一先生も関西からその姿を現すことはなかった。

先生が訳された讃美歌を歌った。初めて聴いた。

御遺族に促されて私はそのあと焼き場までついてゆくことを得た。先生のニックネーム通りの、真白で喉仏がきれいに残ってゐた、お“骨”を、令孫と共に拾はせて頂いた――。

 


先生が亡くなって、それから丁度ひと月後の2月15日、形見分けに呼ばれた私は、先生の蔵書を数冊、それから戦争中、三好達治から貰ったといふ朝鮮土産の筆箱を頂いた。特に自分から所望した松下武雄の『山上療養館』を頂いて喜んだ私は、そのとき夫人が病院から自宅に移された意味もピンと来ず、ベッドの袂で手を握り、なにごとか語り合ってゐた堀多恵子さんの様子からも、何も察することができなかった鈍感ぶりであった。夫人は更にひと月後の、3月10日に亡くなった。二日前に河北病院まで駆けつけた時、初めて癌のことを伺ったが、先生の時と同様、もはや夫人にお詫びを申し上げることもできなかった。もし悠紀子夫人が御元気であったなら、私はおそらくその後も足しげく阿佐ヶ谷のお宅に通ったらう。さうしてこれまでは聞くことが叶わなかった田中先生の面白可笑しいエピソードの数々を(先生同席の場で話せることは既に幾つか聞いてゐたが)、根掘り葉掘り聞きだしに掛かったらうと思ふ。

しかし運命といふのは分からないもので、夫人が亡くなる直前のことであったが、私は年度末のその頃になって、たまたま足を運んだ岐阜県事務所に出されてゐた求人に導かれ、地元私立大学の職員として奉職、帰郷することが決まった。夫人の危篤を見舞った日、令息夫人より、労ひの言葉とともに多額の餞別と、さらに田中先生の遺品から腕時計を頂いたのだが、思へば天国の夫妻から、先の見えない上京生活に見切りをつけさせて、国の両親を安心させるべく、いみじき因縁を以て故郷に帰るやう引導を渡されたものではなかったか、とは、後になって学園理事長が田中先生の教へ子であると判って驚いたことである。

また近年になって長女の依子さんから、「こんなものがみつかりましたよ」と一通の封書が送られてきた。同封の便箋をみれば、先生が亡くなったあと、悠紀子夫人が先生の後輩詩人でいっとき岐阜の名士であられた岩崎昭弥さんにあてた私の就職を依頼する一文を認めた手紙の下書きであった。目を通した途端、私はみるみる涙が滲んでくるのを覚えた。

敗戦後の昭和二十年代、詩人としての田中克己は、国家圧力の下における詩史的な役割の荷を、もはや降ろしたかにみえた。当時のことを、それまで特段注意して見てこなかった私は、岩崎さんをはじめ、福地邦樹さん、高橋重臣さん等々、当時田中先生と詩的に私的に深いつながりを保ち、困窮の極にあった田中家と親しく交はった在阪時代の後輩の恩人の方々について、気に留めること尠く、先生の集成詩集を編集する際にも一切相談せず事を進めた。先生没後「田中克己全詩集を出しましょう」と手を挙げられないのを、ひとり勝手に恨んでゐたものか。

このときの職探しにせよ、失業報告をした時から、先生と夫人と口をそろへて「帰省して一度訪ねてみたらどうか」とお言葉を頂いてゐたにも拘らず、政治家のコネで就職が決まる事に気後れを感じ、保田與重郎全集が応接間の壁面にずらりと並んだ岩崎さんの邸宅にも、思ひ込んだバツの悪さから、一度しかお邪魔することができなかった。しかしながらその直後、運よくみつかった大学職員の口にせよ、思へば父の職業(お堅い県庁事務職)故に決まったのに違ひない。

私は自分が知らない時代の“詩人田中克己”のエピソードを聞いて回るフィールドワークのチャンスを、みすみす自分の偏狭な了見で何度も失ってゐる。小高根太郎先生に限らない。芳賀檀先生、小山正孝先生、そして上記の、後輩にあたる方々についても、訃報に接する度に臍を噛んで、もう取り返しがつかない。

 


茫々、実に三十年。とまれ今年還暦を迎へる私は、再びのお導きかどうか解からないが、咎なく閑職となった身を利用して、先生が遺した膨大な日記の翻刻を続けてゐる。丁度いま、先生が六十になった頃のノートを終へたところである。

人は誰も、いつか自分の命日となる日を知ることもなく、うかうかと過ごしてゐるが、ちなみに60年前の当時、すなはち1971年の1月15日前後のページを繰ってみれば、夫婦で新幹線に乗って名古屋の孫らに会ひ、その足で故郷の大阪に向かひ、教へ子の同窓会と披露宴とに出席してをられる。同じく60歳とはいへ、半世紀前の日本における親族・同窓・教へ子人脈の親密さ、冠婚喪祭の在り方、等々、つまり大人の社会人としての出来上り具合を日記から読みとるたびに、余りにも自分と異なることに驚かされてゐる。

さうしてさきにも書いたが、先生葬儀の日、記帳の名前を拝見しても誰か分からず、声をかけることが出来なかった方々のことを本日は考へる。この日記にもっと早く、できれば先生の生前に許しを得て目を通す機会があったなら、詩史的な役割の荷を降ろした後の、詩人としての田中克己の面白さを率直に伝へて下さる方々から、もっとお話を伺ふ機会もあったらうにと、残念に思ふのである。



今年の田中克己先生の忌日にあたっては、当時の「メモ兼・作詩ノート」を引っ張り出してきて、記憶の訂正も兼ねて備忘録となるやう少々長く書き綴ってみた。手を合はせ、現在の体たらくを天国の先生夫妻に御報告したい。(実は30年忌と思って書いてゐました。笑)

葬儀の当日、だれか始終パチパチ写真を撮ってた人が居たが、涙目で思ひ詰めたプー太郎の姿がしっかり収められてゐる。後日頂いたのを、どうせだから掲げて置く。(2021.01.15)

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謹賀新年

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2021年 1月 1日(金)21時02分20秒
  旧臘、子孫を名乗る方よりメールを頂いたのをきっかけに、美濃加納藩の儒者、長戸得齋の『得齋詩文鈔』の目次作りを始めたのですが、序跋の崩し字の御教示を賜った中国美術学院からの招聘教授および、その知友の岐阜市在住の中国の方々と、年末年始は御馳走と歓談とに明け暮れ、楽しい少人数の正月を過ごしをります。これまで自分を胃弱と思ったことはなかったのですが、さすがに食べ過ぎ飲みすぎ、休みの後半は養生したいと存じます(笑)。


昨年2020年のおもな収穫は

『江戸風雅』第7~15号 9冊 平成25~29年
『太平詩文』第1号~69号 63冊 平成8~28年
『星巌集』8冊 天保12年初版(『紅蘭小集』欠)
頼山陽「山水画」印刷掛軸(誤字の印が判らず難儀しました)
山川弘至詩集『ふるくに 特製版(檀一雄宛署名)』昭和18年
柴田天馬訳『聊斎志異』全10巻 昭和26~27年
和仁市太郎詩集『石の獨語(孔版)』昭和14年
『詩集日本漢詩』16巻/全20巻中 昭和60~平成2年
村瀬藤城「犬山敬道館」「養老泉」掛軸
後藤松陰「松菌」掛軸、書簡(岡田正造:伊丹酒蔵元)宛

といったところでした。



さて、年末に津軽の一戸晃様から、王父である詩人一戸謙三が、昭和10年に弘前新聞に連載してゐた「津輕えすぷり噺」といふ記事の翻刻の労作(A4 32p)をお送り頂きました。

「私が津軽方言詩集を刊行し始めたのは、地方主義の文学という立場であったが、その行動を津軽エスプリ運動と名づけた。そうして地方主義思想が如何にしてこの津軽地方に展開したかを一般に広めるため、弘前新聞紙上に昭和十年の一月から「津軽エスプリ噺」と題する閑談を連載し始めた。」「津軽方言詩の事」(『月間東奥』昭和15年)

といふ、全91回にもわたる回顧記事ですが、変転する自身の詩歴を整理しつつ、折々の節目ごとに過去を振り返る、いかにも律儀なこの詩人らしい文章であり、戦中戦後のバイアスのかかった思ひ出でなく、記憶も心情もまだ鮮明な、当時の発言であるところが貴重です。



また同じく津軽からは、詩人の藤田晴央様より新刊詩集『空の泉』(思潮社2020,21cm,93p)の御恵投にも与りました。私がいちばん気にいった作を一つ御紹介させて下さい。


 ロッキングチェア

まだ二十代だったころの
おまえのアパートにあったロッキングチェア
六畳間に不似合いだった大きな椅子
ぜいたくを嫌ったおまえの
ただひとつの嫁入り道具となった椅子
東京から津軽へと
いくたびもの引越しをへて
今も我が家の居間にある
高い背もたれに
おまえのカーディガンがかかったままの
楢の木でつくられた
かたく丈夫な飴色の椅子

そこにすわる人はいない
西日をうけても
黒ずんだ肘掛はほのぐらく
そこにはただ
ゆったりとした沈黙がすわっている
沈黙が
手編みをしたり
本を読んだり
ときおり
庭をながめたりしている
沈黙とはだまっていることではない
沈黙とは
そこにあること
そこにいること
誰もいない椅子を
かすかにゆらすもの



そして津軽といへば、棟方志功の令孫、石井依子様より今年もすてきなカレンダーをお贈りいただきました。
東京のマンション改築に伴ひ、来春より富山県南砺市福光にある棟方志功記念館の館長としてしばらく拠点を移動されるとのことですが、時代も事情も異なるとはいへ、かつて当地に疎開された画伯が聞いたら、さぞかし満面の笑みを以て、当時のあれやこれやを愛孫に語り聞かせて下さったことでしょう。またそれを肌身で感じる三箇年となるやうにも思はれることです。
けだし富山は40年前の私にとっても、大学時代を過ごした思ひ出深い土地。福光は白川郷や五箇山の川筋ですから山国の醇風も期待されます。資料館には暖かくなってから、ぜひ伺ひたく楽しみです。

福光の隣の金沢からは、米村元紀様より『イミタチオ61号』も御寄贈いただいてをりますが、また別の機会に。みなさまには、ここにても御礼を申し上げます。


首都圏はいよいよ危険信号点滅とか。皆様には感染防止に留意の上、お体の御自愛、切にお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。


付記:カレンダーの表紙は毎年画伯の「書」が飾ります。今年は「拈華微笑」。
おもむきは大いに異としますが、富山時代のわが弱冠の面立ちと、ことし還暦を迎へます金柑頭とを、画伯おなじみの破顔一笑とならべてみました。先生為諒否。(再咲)
 

『感泣亭秋報』15号 特集『未刊ソネット集』を読む

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年12月12日(土)21時06分13秒
編集済
   詩人小山正孝およびその周辺人脈を顕彰する目的で、毎年刊行されている『感泣亭秋報』も今年で15号。
 後記にて編集・発行者である御子息の小山正見氏の語るところ、

「今号をもって感泣亭秋報の元々の使命は果たしたと思う。いつ終刊しても悔いはない。」

とございました。しかしながら、今号も充実した内容をもって過去ページ数を更新(227p)。結局、

「こうなると、面白くて簡単にやめられない気もする。今後の編集は、風の吹くまま気の向くままということになりそうだが、それはそれでいいのではないかとも思う。」


 私も同感申し上げる次第です。


 そして一通り既刊詩集を特輯してきた本誌ですが、このたび俎上に上がったのが、没後刊行された『未刊ソネット集』です。

 各詩篇にタイトルもなく、発表されないまま篋底に蔵(しま)はれてゐた草稿を集めて一冊にしたものであるとはいふものの、これの編集に当った故坂口昌明先生が「編者識」において、

「私は(※その後に出た第二詩集の)『逃げ水』よりも愛すべき作品に、初めて何度となくお目にかかったという感慨で、長嘆息したものである。(『未刊ソネット集』436p)」


と喝破された通り、「またと還らない青春の記念碑として、明晳な意識のもとに書かれた(『未刊ソネット集』436p)」作品群です。

 常子夫人に対するあからさまな愛のメッセージでもあるため発表が憚られたのでは、との臆測もなされてゐますが、第一詩集の『雪つぶて』と第二詩集『逃げ水』の間に介在する「ミッシングリンク」の意味合ひが濃いことを、いづれの評者も指摘してをられます。

 かつ坂口先生が仰言ったやうに、愛の諸相に迷ひ込んでゆく、その後に書かれた第二・第三詩集よりも清純な作品が並んでをり、小山正孝を謂はば「四季派の詩人」としてのみ語らうとする際には、もし彼が『雪つぶて』を刊行したきりで夭折してゐたら、この内容といふのは、正に立原道造における『優しき歌』になぞらふべき意味を持った筈なのであります。

 書き継がれたこれら抒情の純粋化を志向する作品群が、当時のまま「手付かずの状態」でみつかったことは、その後あたらしい歩みを始めた彼、「日本の敗戦を境にした《四季》的情の崩壊を体現するかのように傷だらけで生き抜いたすえ、独自の詩境に到達した(『未刊ソネット集』401p)」彼個人にとってはスキャンダルであったかもしれませんが、四季派の詩情が戦後たどった命運を、詳細に跡付けてゆく作業の上では、たいへん重要な発見だと私は思ってをります。

 作品はみつかったノートごとに整理されてをり、処女地の雪原を思はせる余白の白い一冊から、みなさん思ひ思ひの佳篇を選んでゐますが、やはり坂口先生が「若かりし日の小山氏の本領ここにあり(『未刊ソネット集』443p)」と仰言ったやうに「Iノート」の諸篇の完成度が高い。

 今回執筆の『詩と思想』編集委員の青木由弥子氏(※11月号特輯「四季派の遺伝子」は未読ですが、まさに気鋭の論客かと)が、何でも自由になり過ぎた戦後現代詩の在り得べき姿、その手綱のとり方として、加藤周一が小山正孝の第三詩集『愛し合ふ男女』に贈った言葉を引き、「一巻の詩集を、一つの主題を語る一箇の作品として、つくる」ことによる可能性を語ってゐますが、この「Iノート」に収められた12篇についてもそれが証せられないか、やはりこのノートに着目した渡邊啓史氏の丁寧な論考が、今号の秋報においても光彩を放ってをります。

 私の好きな詩を4つほど上げます。


小雨が ひたひをぬらしてゐる
私は それをぬぐふ元気もない
しづくは 眉のあたりを 横に流れ
走る都内電車の窓のあたりもぬらしてゐる

お前も どこかの街を歩いてゐるのではないか
立ち止つて 飾り窓を のぞきこんでゐるのかもしれない
水たまりの中も 雨はぬらしてゐる
走る自動車の屋根は少し白く光つてすぎる

心のやり場に困つてしまつて
私はお前をうらんでゐる
西の空が明るくなり 雲が走りはじめた

お前のレインコートの雨のしづくが
一筋ひいて 落ちるやうに 私の手の中に
お前の心が 落ちこまないだらうか           100pノートDより



置き去りに されたやうな
氣持で すごした 午後
私はゆつくりと街を歩いた
商品を一つ一つ見て歩いた

お前に 何を送らうと思ひながら
腕輪 時計 首飾り…
眞珠は 圓みを帯びて
色々ににぶく光つてるた

廣い 野原に立つてゐる 一本の木
お前と いつしよに休んだ
その下の 石のベンチ

思ひ出の中のお前の姿勢をめぐつて やがて
不思議なことに 私は さうしたお前に
いろいろ値段などつけてみたりしはじめてゐた        108p ノートDより



窓から雪のふるのを見てゐると木の枝の上にとまるときに
ためらふやうにして枝にすひよせられて行く
カーテンをそつとしめながら 私は お前を抱きよせる
ガラス窓の向ふ側は寒い風が吹きはじめたにちがひない

お前も雪のつぶが枝にとまるところを見てゐたのか
ふりかへりながら美しい目で私に笑ひかけた
人生があのやうにしづかにすぎるならばと言つてゐるやうに
お前のからだの重みが私の兩腕に急にかかつて来た

檜の木の葉末からよろこびの叫びをあげて
キラキラ輝く朝日の光の中でとけて歌ふ歌はどんなだらうか
水たまりに落ちるあの雪の亡びの歌はどんなだらうか

お前に やさしく 出来るかぎりやさしく 私は心がける
私たちのすごしてきた生活のあひだに お前が
雪のやうに 重く 大切に はかなく 感じられてならないので       298pノートIより



お前に花束をさし出しながら言つてやれ
別れだよ これが 私の愛の最後の別れだよ
小さい蜂が花束から飛び出すだらう
ガラス窓の上に一寸とまるだらう

お前はびつくりして私の顔を見るだらう
さうね お別れしませう あなたを自由にしてあげませう
小さいゑくぼが出来るだらう
ほほの上を一すぢの涙が流れるだらう

あたたかいお前の指と私のつめたい指とが
花束の根もとの所でふれあふだらう
それでも 花束の重みはお前の腕に移るだらう

私は知つてゐる やはりはつきりと別れることが
涙を涙として流させること
美しい花を花として咲かせることだといふことを             312pノートIより



 特集の二つ目は現今の立原道造をめぐる環境について。

 前号では旧立原道造記念館の運営姿勢に筆誅を下した渡邊俊夫氏の一文が圧巻でしたが、今号も鈴木智子氏から「立原道造の会」について、これまでの経緯と向後の方針とについて説明がなされてゐます。
 また立原道造をめぐる「研究」環境については、蓜島亘氏が、昨今顕著な新世代研究者の動向について、論文数のみを偏重する文教行政の現状に苦言を呈し、さらに筑摩書房版の新修『立原道造全集(2006-2010)』が、「立原個人の嗜好含め、日本の詩の流れ、立原の時代の文学・文化の周辺事情の理解に乏しい」編集委員によって監修されたことにさかのぼって疑義を突きつけてをります。
 研究者個人に対する批判も名指しで、

「当時の文章を鏤めることで、立原をその時代の中に浸らせて、あたかも立原が彼らの意見を自分の意見としていたかのように論を展開している。必然性や論拠が示されず、(中略) そこに立原ではなく、中原中也がいてもいいし、他の一詩人がいてもいいのではないか。」87p

 等々、各所で辛辣を極めてゐますが、もっともつまるところは、

「詩や小説は、そもそも研究を必要とする対象ではなく、娯しむ対象であり、一人一人の読者がそれぞれの読み方をすればいいものではないかと思われる。」90p


 といふことであって、もしそれ以上の研究を学術的に試みるとするならば、戦前の日本を肌で知ることのない後世の研究者はもっと謙虚に資料に当るべきであり、そして国際基準に則ったルールを守って、文科省の指導に阿って本数に拘った浅薄な「研究」論文は書かないで頂きたい、さういふことなのだと思ひます。

 前号の渡辺氏、そして今回の蓜島氏と、斯様な文章が載せられるところにも、口当たりの良いリベラルな批評がならぶ文芸誌とは一線を画した、この雑誌ならではの個性が存するやうに思ふのは、また私も癖の強い詩の愛好者だからなのかもしれません。

 他には『雪つぶて』所載の詩篇「初秋」の解説を、鋭い読解力によって試みた鈴木正樹氏の一文「私の好きな小山正孝:過ぎ去っていく青春」。そして映画評論家「Q」のペンネームで名を馳せた津村秀夫を追悼して、愛娘の髙畠弥生氏が書かれた長文の回顧譚を興味深く拝読しました。女優杉村春子の恋人だったことを知らなかった私は、弟である津村信夫の追悼文集にどうして彼女の名があるのか初めて合点がいったやうなうっかり者です。

 この場にても寄贈のお礼申し上げます。ありがたうございました。



年刊『感泣亭秋報』15号 (2020年11月13日発行) A5版227p 定価1,000円 (送料とも) 発行:小山正見 oyamamasami@gmail.com

  目次

詩 林檎に          小山正孝 4

  特集Ⅰ 『未刊ソネット集』を読む

愛は静謐である──『未刊ソネット集』を読む          永島靖子 6
十四行詩をやめたまへ          山本 掌 10
愛憎の迷路──十二の愛の十四行詩のために          渡邊啓史 15
『逃げ水』から『愛しあふ男女』へ          青木由弥子 41
小山正孝は日本最大のソネット詩人である          小笠原 眞 46
『未刊ソネット集』と思い出すこと          宮田直哉 50
愛の詩人が視た風景          服部 剛 55

新出資料 十一冊目の「ノート」について          渡邊啓史 60

  特集Ⅱ 立原道造をつなぐ

立原道造を偲ぶ会の思い出          秋山千代子 64
立原道造を偲ぶ会の思い出──ヒヤシンスセミナーのこと          後呂純英 67
立原道造の会の歩みとこれから          鈴木智子 70
立原道造研究序論          蓜島 亘 75
東アジアの抒情詩人──立原道造と尹東柱          益子 昇 94

  回想の畠中哲夫
真実を求め続けた人、畠中哲夫さん          萩原康吉 101
三好達治と萩原葉子さん、そして父のこと          畠中晶子 106

  同想の津村秀夫
わが愛するQ、父津村秀夫          高畠弥生 108

  追悼 比留間一成
比留間一成アンソロジーを読んで          岩渕真智子 136
一条紫烟秋容満千里 または時人の矜恃          渡邊啓史 141

詩          大坂宏子・里中智沙・中原むいは・松木文子・柯撰以 174-185

 《私の好きな小山正孝》 過ぎ去っていく青春          鈴木正樹 186

  感泣亭通信
ファミリー・ヒストリー          若杉美智子 189
山崎剛太郎さんを撮る          堀田泰寛 191
マチネ・ポエティクとソワレ・ポエティク          深澤茂樹 196

実験小説「面影橋有情」          田浦淳子(渡邊俊夫)  199

信濃追分便り3初夏          布川 鴇 214
常子抄          絲 りつ 215
坂口昌明の足跡を辿りて5          坂口杜実 217
鑑賞旅行覚書5蛇          武田ミモザ 220
《十三月感泣集》2他生の欠片          柯撰以 221

感泣亭アーカイヴズ便り          小山正見 223

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