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「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」拓本

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月25日(月)18時58分37秒
編集済
 
さきに旧大垣藩の戸田葆堂が遺した明治期の日記を公開しましたが、彼が碑石の由来を添書きしたといふ拓本の掛軸が、ネットオークションに現れました。
同じものは日本国内の博物館ほかに所蔵があり、デジタル公開もされてゐますが、かつて豊臣秀吉が犯した愚行、朝鮮征伐に抗して戦った義勇兵の戦捷記念に建てられたといふ「顕忠祠碑銘:北関大捷碑」の拓本です。

現物は明治時代に日本へ持ち去られた後、保管してゐた靖国神社から韓国政府を経て2006年、北朝鮮の現地に返還され、きな臭いニュースばかりの両国間の話題にも上った曰く付きの戦国時代の遺物。まさしく朝鮮民族にとっての国宝であり、拓本とはいへ落札の行方が興味深いですが、新しい持主のもとで大切にされることを願って已みません。

明治初期に大陸の詩人たちとの交流を大切にした戸田葆堂ですが、地元大垣から出征した日露戦役の兵士が持ち帰った拓本への添書きに、朝鮮半島侵攻の先鋒を務めた加藤清正を「鬼将軍」と称へる記述があるのは仕方ないでしよう。むしろ彼らを撃退した記念碑を、拓本にして「家宝」とするこだわりない心映えに、何かしら安堵するものを感じたことでした。
 
【添書き】
文禄元季豊公征韓之役加藤清正公勇武抜群雷名振於内外當[旹:時]稱云鬼将軍戦酣而生擒該國王子二人即韓軍激昂
憤戦不已鬼将軍一時退此地移它云韓人勒此碑為記念今茲明治[卅:三十]七季日露開戦後備第二師團出征韓国於会寧城發見
此碑師團長三好将軍凱旋日遂持帰以奉献於帝室長存置于振[?:天]府吾大垣高屋町清水仙太郎亦従軍在該地獲石摺一本
帰則装而為記念之家宝  明治[卅]八年乙巳十二月除日  葆堂戸田[炗:光]

文禄元季(元年1593)、豊公(豊臣秀吉)征韓の役、加藤清正公は勇武抜群にして雷名は内外に振ひ、當時稱して鬼将軍と云はる。戦ひ酣(たけなは)にして該國の王子二人を生擒る。即ち韓軍激昂して憤戦已まず、鬼将軍一時此地に退き、他に移る。云(ここ)に韓人、此の碑を勒(刻)して記念と為せり。
今茲、明治三十七季(年)日露開戦。後備の第二師團、韓国に出征し会寧城に於いて此の碑を發見す。師團長三好将軍(※三好成行)、凱旋の日、遂に持ち帰り以て帝室に奉献し、長く振天府(振天府)に存置す。
吾が大垣高屋町の清水仙太郎また従軍して該地に在り、石摺一本を獲て帰れば則ち装して記念の家宝と為す。  明治三十八年乙巳十二月除日(晦日)  葆堂戸田光

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【テキスト起こし】松本健一著『犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月16日(土)23時03分23秒
編集済
 


現在、香川大学図書館・神原文庫所蔵の広沢安住自筆「囚中八首衍義」が、国文学研究資料館サイトにてデジタル公開されてをり、この本を執筆当時、著者が拠ったと思はれる写本資料では「なかなか難解な文章だが」「意味がやや不明のところもあるが」と、解釈の滞ってゐた註に対して、より明確な訓読を施すことができるやうになってゐるので補足訂正を試みてみました。


「囚中八首衍義」第一の註(115p)の訓読

徳川右府(大納言(慶喜)復た右府を任ず)政柄を辞し、公(容保)亦た辞職す。(右府、人心騒擾して将に変を生ぜんとするを以て朝に白し、坂城(大阪城)に退く、公亦た之に従ふ)。藩に就き将に日(ひ)有らんとす。而して事情の迫切するを以て之を請うべからずの義有り、遂に伏水の役(伏見戦争)と為る。(右府命を受け上京、前列に邀へられ、[意](つひ:竟?)に発砲するに至る)。随ひて事敗れ以て今日に至る。豈に命に非ず哉。然れども人の尚ぶ所のものは義也、成敗する者は勢ひ也。而して勢に靡き義に背き、以て本を戕(そこな)ひ、宗を堙(うづ)むべけん哉。所謂大義親を滅するもの豈に其れ然らん乎。

昔者、我藩祖(二君に仕へた)馮道の事を以て時人を論ず。蓋し深意有りという。夫れ天朝は名義の存する所なり。倘令(たとい)右府、之を知らざらるとも、則ち安んぞ敝履を棄つる如く祖宗数百年の政柄を辞するを視んや。而して外には欺罔を以て誣(そし)り(徳川慶喜天朝を欺く等の語有り)、私には恭順を以て(慶喜公を)陥るる。(苟も恭順を勉むれば則ち社稷を保つべし云々と人をして伝播せしむる者少からず)。巧詐百変、実に人をして応接に遑(いとま)あらざらしむ。此れ乃ち人心の以て厭はざる所、而して成敗の以て分るる所なり。朝に臣僕為る者、夕には則ち相共に之を斃し、甚しきは之れ則ち其の賞を受けんとす。如何なる者、藩祖をして一たび之を視せ使むれば、其れ之を何とか謂はん哉。然らば則ち我が邸の荒蕪の此の状に至る者も、亦た数(運命)有りて然る耶(か)。余、敢へて酸嘆せざるなり。吁(ああ)。
 

「囚中八首衍義」第四の註(126p)の訓読

此の後、徳川氏監察某(勝海舟か)、書を余に致し、吉之助(西郷)との会期を報ず。余直ちに之に赴けば(書は林三郎に因って来る。乃ち共に休之助を訪ふ)、則ち然らず。(監察誤聞して(休之助を)吉之助と為す)。

海江田武治(薩人。時に参謀たり。余、在京時の交友なり)、休之助をして語を余に致さしむるや、辞、懇得(懇篤)を致せり。之に因って、公(天公)に上す所の書、蓋し二十余の疎(上疏書簡)中、達し得たる者は、只だ此れ有る耳(のみ)ならん。更に休之助に託するに吉之助との(会見の)期を以てす。

余、必ず吉之助を期するは只だ此れ有り。此れ有りとは抑も又た説有り、曾つて(吉之助の)其の人と為りを観、立談にて能く断ぜり(蓋し武治は則ち恐らく未だ能はざる也)。余、薀蓄の至誠を発し、天理人情の極まる者を弁ぜんと欲せり。彼、苟くも(我が言に)従はば則ち生民の幸、之に過ぐる無く、従はざれども亦た以て我が義を伸ぶるに足る。是れ其の人を得るに非ざれば、以てロを開く可からず。故に屢(しばしば)之(会見要求)を要せし也。

古へより聖哲の士、尚ほ囹圄に苦しむ者多し。唯だ心を動かさざるを貴しと為す。余、初め総督営に在る時、胸間、常と異なる者有るに似たり。因るに、此に投ぜらる故(ゆゑ)歟と謂ふ。何ぞそれ是の如きや。自ら羞ぢ自ら嗟く。居ること半日、下泄中に長虫あるを視て、意、初めて解けり。(蓋し宿酔の致す所也。)然して之が為に心を動かすは、拙劣の甚だしき也。
 

「囚中八首衍義」第六の註(135p)の訓読

坐隅、常に水を盛る(尿瓶?洗浄?)。(之を用ふ、故に時ならざれば置かず)。而して絶えて火気の入る無し、是を以て人の多くは湿気に中る。疥癬満身蟣虱(しらみ)衣に溢る。(義観、素衣を着し来る。のち虱の為に殆ど黒し。余亦た「開襟虱作群」の句あり。皆な然らざる者なし)毎朝一掃すれば虱の殻と疥癬と白、堆を作す耳(のみ)。且(しばら)く病疫者は常に絶えず、死す者は未だ必ずしも刑に就かざりし。
 

「囚中八首衍義」第七の註(142p)の訓読

大名街に在る時、始めて兄の北越に戦死せるを聞く。(友人の郷より来れる者あり。私(ひそ)かに之を余に報ず)

鳴呼、殉難は義也。余毎(つね)に思ふ。一家に男子三人。(少(わか)き姓(やから)は僅かに十歳。其の数にあらざる也)而して一死以て君恩に酬ゆる者無く、かつ余の如きは一事をも成す能はず孑孑(げつげつ)として(ひとり)此に在り。実に羞かしき一家なり。此の報を得るに及んで、稍(やや)責を塞ぐを覚ゆ。

既にして(しばらくして)又思ふ。余の兄、勇敢にして気有り、かつ数奇にして志を得ず。毎(つね)に奮いて以て当に難衝に当らんと欲したるは、一旦夕の願に非ざる也。故に、その死必ず醜ならざる也。後に之を問ふに果して然り。(時に我が軍有利たりし故に頗る厚く葬らる)

然れども母の情に在りては果して如何。二子すでに失ふ。(城の陥ちる日に及んで独り幼稚なる者の往来を許し使命の致す一の某、土州の営に入り謂て曰く、官軍残忍と。土人其の故を問ふ。某曰く、聞く、広沢安任の如き、官軍は之を市に磔に執す、残忍に非ずやと。土人曰く、敢へて之を磔にするには非ず、唯だ首を刎ねし耳(のみ)と。是に於て人皆な余の死を信ず。流説紛々、自ら母の耳に入りしは知るべき也)

一孫亦た未だ何処に戦死しかを知らず。(初め越後に出で、のち庄内に転じ、今は高田に在り)老を扶け幼を提げて流離身を置く処無く、身は亦た如何為るやを知らず。(流離中、祖母病死。鳴呼、悲哉。)而して日に城中を望めば、黒煙簇々、砲声轟々たるのみ。

今年二月に及び、余出でて病を養ふ。始めて書を裁して母に贈る。母、之に報ゆるに曰く、巷説粉々、去歳三月某日を以て書して(わが)臨終と為す。豈科らんや、今日この書を視んとは。以て想ふべきなり。乃ち知る、余唯に母を夢みしのみにあらず、母また余を夢みしこと、其れ幾回ならん。
今、我が公幸ひに先祀を奉ずるを得たれば、則ち余等また闔家相見るを得て、共に夢中の事を語るは、其れ近きに在らん耶。実に意外の幸せ也。
 

「囚中八首衍義」第八の註(145,146p)の訓読

鳴呼、彼も一時也。此も一時也。一藩滅びて赤土と為り、主従分散し、骨肉また相見る能はず。遂に天下の笑となる。蓋し亦た此を極度と為す。
今雲霧稍(やや)開け再び天日を拝するを得たれば、則ち極度また漸く(次第に)回(めぐ)らん。

是より日に新たなる者(『大学』)得べしと為すは庶幾(ちかから)ん哉。然らば則ち何ぞ以て此の恥を雪(すす)がん。生々世々(何世代にもわたって)雪がざるべからざるもの也。蓋し一世は変遷して測る可らずと雖も。唯だ天理の正に因て人事の極を尽す者、百世と雖も以て知るべき也(『論語』)。

夫れ天の大地球を視るや、安んぞ其の中に就き、而して人位等品と生別するの暇(いとま)あらんや。唯だ推功(献身)して本に報ゆるの義を以て、世襲世禄自ら形を為す。その弊の、人位等品に至っては亦た種を定む人ありと為す。人々自ら喩へざる也。

故に交際、愈よ広く、眼界愈よ大なるに至らば、則ち人位等品の説、自(おのづか)ら廃せざるを得ず。之を廃すれば則ち予に自主権を与えざるを得ず、而して人をして其の家産を自立せしむる也。(人の家産あるは猶ほ国産あるが如く、亦た天理なり)是を初頭下手の第一着眼となし、而して之を導くに科学を以てす。

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【テキスト起こし】『明治百家文選』序

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 5月13日(水)21時17分45秒
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   『明治百家文選』 隆文館, 明治39年(1906) 9月刊

 序

 不薄今人愛古人、清詞麗句必爲隣(※李白)。千秋の公論、実に此に在り。古今相及ばずとなす勿れ。孔子の聖、猶ほ且つ後生畏るべしといはずや。乃ち知る、かの徒らに故を悦んで、新に即く能はざるものは、眞に弱者、未だ與に語るに足らざるを。
 これを刻下の世に見るに、諸種の文體、紛然雑出、互に其の長を競ひ、殆んど適従するところを知らざるが如しと雖も、融會貫通、渾然一となる、亦た必ず其日あるべく、而して、熙朝の文章、百代に傳ふべきもの、豈に遂に出でずして止まむや。その未だ然らざるは、氣運なほ熟せざるが故のみ。若し既往の事、果して来者を卜すべくむば、勢の赴くところ、断じて、此の如くあるべきこと、智者を待つて後に知らざるなり。
 文を學ぶ、必ず先づ標的を定めざるべからず。その法たるや、今人、名あるものの中、わが性の最も近きを擇び、その得意の作、數篇を取り、文法の在るところに就いて縷陳して分析し、しかる後、心を潜めて誦讀し、久うして已まざれば、文氣自然に我が胸臆の間に浸潤し、筆端遂に窘束せず、操縦自在、はじめて能く堂に上るべし。ここに於て、更に其源に遡り、古今を兼綜し、観るところ愈よ廣く、且つ愈よ精に、悉く諸家の長所を併せ集めて之を大成すれば、やがて模倣より獨創を出し、遂に一家の特色を發揮するを得べく、その欲するところ、之に投じて意の如くならざるなきに至らむ。作文の秘訣、更に他法なし。而して、この特に今人を先として古人を後にするは、たとへば、高枝攀ぢ難く、低花折り易きの類、力を勞すること少く、得るところ多きが故のみ。
 この書、収載するところ、現代名家の文、凡そ百篇。捜羅未だ至らず、或は碔砆(※珠に似た石)を珠玉となし、累を作者に及ぼすを恐るもの、時に之なき能はずと雖も、これを一概して、深思極構の作、初學これに熟せば、その自ら文を為(つく)る、古様の監鹹、時に入らざるの迂をなすことなく、聲響歩趨を模するの餘、善く法度に循ひ、幸に倒行逆施の弊に陥るなきに庶幾(ちか)からむか。
 若し夫れ編纂その他に就いては、學弟河井君の咀華を勞すること最も多く、予は大體に於て指畫を與へしに過ぎず。これ其名を掲げ、特に謝意を表すると云爾(しかいふ)。

 明治三十九年九月上澣  久保天随

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終日家居・外出自粛中に思ったこと

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 4月15日(水)22時31分20秒
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【その一】 「端本上等主義」について
 
 むかし、近代詩書を収集してゐたころ、古本通の先輩からよく
 
「cogito(私は旧い古書仲間にはハンドルネームで呼ばれます)が買ふ本は、函やカバーの無い汚い本ばかりだねえ。」
 
と揶揄されたものですが、初版本であればそれでよく、もっと言へば、再版でも同じ装釘で安ければそれで満足でした。余った資金でまた別の本を買ひたい「並本上等主義」を奉じて、乏しいコレクションを増やしてきたのです。

 それが近頃、収集の鋒先が和本の漢詩集に転じました。
 漢詩集は戦前モダニズム詩集のやうに人気の高いジャンルとは言へません。ただ、この世界を充分に愉しむためには、予備知識、現在のわれわれには結構高いハードルが設けられてゐる為に愛好者が少ない。和本のみならず、掛軸なんかも漢詩を書いたものは絵画骨董の好事家から敬遠され、ヤフオクでは真贋不明の“お宝”が玉石混淆で売り叩かれてをります。

 四季派の口語抒情と江戸漢詩の訓読抒情とは親和性が高いものらしく、私も中村真一郎や富士川英郎の著作によってこの世界に目を開かれます。そして和本を小脇に抱へて徘徊する老人になりたいものだ、なんぞとあこがれるやうになり、戦前口語詩から明治新体詩を素通りして、皆目見当もつかぬ江戸漢詩の世界へといざなはれてゆきました。ヤフオクや日本の古本屋サイトがなかった当時、新村堂古書店や藤園堂の目録、そして鯨書房の山口さんから折々「こんな本が入ったよ」と店頭で教へられつつ、江戸時代には漢詩のメッカだったといふ地元美濃詩壇を中心に、クタクタの和本詩集をぼつぼつと買ひ揃へていったのでした。
 
 明治発祥の洋装本に較べれば、和本の世界といふのはさらに50年100年と古い訳ですから、本が汚いのは当たり前で「極美本」なんてものは殆どありません。旧世代の読書人が消え、だれにも顧みられず長年蔵の中で眠ってゐたやうな本も多く、染みや虫喰ひなど普通で、書込みなんかは、ある方がむしろ価値が増す位です。洋装本で謂ふところの「函、カバー」にあたるものとしては、「袋」といふやつが一応はあって、これが残って付いてる本は状態もよいのですが、お目にかかることは珍しい。高価な稀少性を洋装本で例へるなら「アンカット本」の比でしょうか。函やカバーとは同列に扱ふべきものではない「めっけもの」の類ひであります。

 さて、さうして漢詩集を集め始めて分かったのが、「上・下」「上・中・下」「一・二・三・四」と分冊されて刊行されることの多いこの和本の世界では、「揃ひ:そろひ」か「端本:はほん」か、これが決定的な古書価の違ひをもたらす評価となってゐることでした。つまり近代詩集ならば必ず拘るべき「初版本」、すなはち和本の「初刷り本」に関する情報が全くもって不明瞭で、目録にも詳しく記されてゐないことが多い。そもそも初刷りか後刷りか判定するための書誌的な指標が、浮世絵のやうな美術的価値を云々されてこなかった和本に対してはそんなにも気にされず、本ごとに差異が論じられることもなく、書誌学的に研究もされてこなかった。あくまでも中身が学術的に大切だった、といふことであります。だから一冊欠けてゐるだけで、使ひ物にならない資料として、まるで洋装本なら落丁本や函がない本のやうに半額以下になってしまふ訳です。

 言はんとするところはもうお判りでしょう。私もこのごろは懐具合がさらに悪くなり、この分野でさへ欲しい本がなかなか買へなくなりました。それで思ったのが、この端本。
 
 考へてみれば、江戸時代の本は早稲田大学図書館や国文学研究資料館など、インターネット上に一次情報が公開されてゐるものも増へてきました。読むだけなら画像でよい。さうなると何を以て究極的な価値を古書にもとめるのか、結局は書かれた情報そのものではなく、原本がもつ感触・風合を和紙や刷り文字の上に確かめ、それを刊行し大切に読み継いでいった古への著者や読書人の想ひを肌身で感じたい、近代詩集と同様、さういふものへ落ち着いてゆくのではないか、情報化のさきにある古書としての価値は、やがて原質にのみやどる骨董価値へと収斂してゆくのではないか、と思ひ至るやうになりました。
 
 さすれば、貧乏コレクターとして拘るべきところは「揃ひ」ではなく「刷り」にあり、といふことになります。この観点から渉猟し、安価な端本でも良い刷り状態の本をみつけてゆけば、まことにリーズナブルでハイブロウなスローライフが約束されるのではないでしょうか。かう思って『山陽詩鈔』を探し回ってゐたら、たまさかそれが後藤松陰の手澤本だった。そしてこの度は天保12年、最初に刊行された『星巌集』の甲~丁集の端本8冊(『紅蘭小集』欠)をオークションで落札、さらに合本された天保8年刊行と思しき『星巌集』の丙集を註文しました。ずっとひっかかってゐた漢詩集の二大ベストセラーの収集を了へたところで、「端本上等主義」に転換したことを自ら標榜してみた次第であります。
 


【その二】 国立国会図書館はデジタル化データを開放せよ。
 
 新型コロナ禍のもと、各地の図書館が次々と休館に追ひ込まれてゐます。

 その最中にあって、国立国会図書館は、所蔵する著作権切れが不明瞭となってゐる資料を、デジタル化の完了したものからすみやかに、インターネット公開するべきであると考へます。斯様の資料の閲覧・複写は図書館間で行はれる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に限られてをり、かつ現在、コピーをとらうにも遠隔複写サービスの受付も休止してしまひました(2020年4月15日~)。そもそも外出自粛を余儀なくされてゐる利用者は、供されたデジタル化資料を閲覧しに図書館にもゆけません(やってませんが)。

 少なくとも戦前の著作物などは、全てオープンにしてよいのではないでしょうか。序跋、挿絵、装釘者の著作権(公衆送信権)も、書物の成立経緯を考へれば、著者に一任されて文句を垂れる御仁がありましょうか(あったらその時点でひっこめたらよろしい)。また著作権者の没年が不明とならば、一般からも情報源の申告をシステムとして設けるべきです。

 とりわけ詩集などは古今、極く一部の職業詩人を除いて「自分の声を理解してくれる人になるべく多く読んでもらいたい」、そのやうな志を以て刊行されるものであります。銅臭の強い権益は全くそぐはない。そしてテキストが開示されることによって、先般にも述べました「原本がもつ原質にのみやどる骨董価値」が、コレクターのみならず古書店に対しても開示されるものと考へます。

 


 かつて駈け出しのコレクターの頃に、小寺謙吉の『現代日本詩書総覧』や、田村書店の『近代詩書在庫目録』などを紹介しながら、詩集収集の手引きみたいなコーナーをサイト上にupしてゐたことがありましたが、これは終日家居・外出自粛中に思ったこと、和本収集に関する提言と、国立国会図書館のデータ管理について、つれづれに記してみました。

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京摂展墓の旅

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 3月21日(土)22時08分16秒
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   週の始め、新型コロナ(「子年の大風邪」)騒ぎで人出が少なくなった京都に出向いて、長楽寺、永観堂、南禅寺、西福寺と東山界隈の古刹に漢詩人の墓参を敢行。さらに一泊して大阪の天徳寺へ、此度の資料紹介論文の発表に伴ひ、宿願となってをりました、後藤松陰先生の墓前報告に行って参りました。

 長楽寺(頼山陽・牧百峰・藤井竹外ほか)、南禅寺(梁川星巌夫妻)は二度目でしたが、このたび御案内を頂いて参加した、墓地移転法要の行われた柏木如亭の塋域のある永観堂へは初参詣。おまけに法要に参加された篤志家の先生方のおかげで、西福寺の上田秋成の墓所にも立ち寄ることを得た次第。当夜はその“柏木如亭クラスタ”の皆様と、江戸時代漢詩人の濃いい話題にて歓談を尽し、田舎では経験できない愉しい想ひ出となりました。

 しかしながら翌日訪れた大阪の天徳寺は、住職のお話によれば第二次大戦時の兵燹に遭った由、加之、さきの阪神大震災の際に台座から倒れたのでしょうか、碑石の表面が層ごと剥がれ落ちかけ、泯滅寸前なのに驚き、心傷んだことです。近い将来どうなることか、近世文学の研究者はこの現状を御存知でしょうか。写真および動画にて御覧頂きたく、こちらに報告いたします。

 時節柄、人混みを警戒しつつの旅行となりました。お世話になりました皆様、寔にありがたうございました。
 

鯨書房の閉店

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 2月12日(水)23時27分12秒
   今日、出かけようとしたところ郵便受けに入ってゐた一枚の葉書。鯨書房の閉店(廃業)を記す一報でした。
 2013年の年末に先代の名物店主山口省三さんが不慮の事故で亡くなられたあと、東京から帰郷した御子息が急遽家業を継ぐこととなり、慣れない仕事を母堂とおふたりで奮闘される様子を遠目より拝見、やうやく順調に回り始めたと思ってをりましたが、この1月10日、このたびはその二代目行人さんの急逝に遭ひ、半世紀近い店の歴史(HPには35年とありますが私が大学生の頃には開業してをられた筈)に突然幕が下ろされることとなった、との文面。
 驚き隠せず、早速永らくご無沙汰してゐたお店に伺ひ、短い立ち話でしたが、お話を聞いて参りました。

 図書館から退いた後は、私も仕事上で本の依頼をすることはもとより、自分の本の収集傾向も変はってしまひ、店主とお話を交はしながら探究書を依頼したり、店頭で漁書する愉しみといふものからも遠ざかってしまったので、貴重な店売り店舗が自宅のすぐ近くにあるにも拘らず、先代が亡くなられて以降、すっかり疎遠になってしまったのですが(一旦遠のくとなかなか再び敷居を跨げなくなる)、まだ齢40と伺った息子さんを亡くされた御母堂には(突然ご亭主を亡くされた時も同様でしたが)、おかけする言葉も無く、まだ心の整理がつかぬ御様子のお言葉に耳を傾けながら、こちらからも拙いお悔やみのご挨拶を返すしかすべがありませんでした。

 謹んで御店主のご冥福をお祈り申し上げますとともに、岐阜市の古書店「鯨書房」(〒502-0071 岐阜県岐阜市長良191番地15 TEL 058-294-5578 FAX 058-294-8461 )の閉店(廃業)につきまして御報告いたします。

(許可をいただきましたので本日の店内の様子とともに掲げます。)
 

よいお年を。

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月31日(火)09時30分23秒
   さて今年は台風災害に見舞はれた年でありました。うちも雨漏りに遭ひました(苦笑)。
 シーボルト台風が来襲した文政11年(戊子1828年)、大晦日にあたって感慨を記した、当時31歳だった後藤松陰の詩を掲げます。
 来年こそ良き年になりますやうに。

「歳暮戊子」 後藤松陰

昨日了鹹虀。今朝舂歳餻。
貧家亦随分。粗為迎春労。
今年知何年。四方災変数。
颶母鼓西溟。水妃燎北陸。
百里委灰燼。千人葬魚腹。
物価皆驟騰。豈唯菽与粟。
人情頗不安。況我桂玉酸。
猶勝罹溺焚。酒有且須醺。
已張不復弛。天意豈其然。
待彼載陽日。家々開笑顔。

「歳暮戊子」 後藤松陰
昨日、鹹虀(漬物)を了へ、今朝、歳餻(餅)を舂(うすづ)く。
貧家また分に随ひ、粗なれど春を迎へる為に労す。
今年、知んぬ何の年ぞ。四方に災変の数(しばしば)す。
颶母(台風)西溟に鼓し、水妃(洪水)北陸に燎す。
百里、灰燼に委ね、千人、魚腹に葬らる。
物価みな驟かに騰がる、あに唯に菽と粟のみならんや。
人情は頗る不安、況んや我が桂玉の酸(生活苦)をや。
猶ほ溺焚(洪水・火事)に罹るに勝るごとし。
酒有り、且(まさ)に須(すべか)らく醺(酔)ふべし。
すでに張れば復た弛(ゆるま)ず、天意あにそれ然らん(どうしてそうであらうか)。
彼の「載(すなは)ち陽(あたたか)き日(『詩経』豳風)」、家々笑顔を開くを待たん。


(あっ、シーボルト台風って「子年の大風」か!来年も気を引き締めて参りましょう。)
 

2019年回顧

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月31日(火)00時21分56秒
編集済
  恒例となりました「今年の収穫」より10冊(点)を披露。

野澤一詩集『木葉童子詩経 復刻版』 平成30年
田中克己『詩集西康省』「道造匠舎」蔵書印入り 昭和13年
第三次『椎の木』復刻版 (全11巻・別冊1:コピー) 平成29年
『詩人・一戸謙三展』図録 令和元年
佐藤一英詩集『われを咎めよ』 昭和14年
『高木恭造詩文集』全3巻 昭和58年~平成2年 (青森での嬉しいお土産)
『尾張に生きた詩人 佐藤一英展』図録 令和元年
梶浦正之『詩文学研究』1-6集 昭和12~15年
赤田臥牛・赤田章斎父子の色紙 江戸後期
『江戸風雅』20号 令和元年

 今年は生誕120年・没後40年を迎へて催された、二人の近代詩人(一戸謙三・佐藤一英)の企画展が、一番の思ひ出となりました。
 一戸謙三については、令孫晃氏および青森県近代文学館の伊藤文一室長に励まされながら、夏に青森で催された「特別展 詩人・一戸謙三」の文学講座の任を、無事果たすことができました。
 そして佐藤一英については、謙三の盟友であったことを講演でも話すため墓前報告に詣ったところ、たまたま居合はせた地元の方の導きで御遺族と知り合ふことを得、両詩人に所縁の貴重資料(書簡・写真・詩集)を電子公開できることとなり、翻刻や解題の執筆にいそしみました。
 秋に一宮博物館で催された「佐藤一英展」に合せて、資料面のサポートをWeb上で(勝手に)させていただいたことは、自分の視野を開く喜びにもなりました。
 さらに年末にかけて、以前入手した漢詩の新出資料(『山陽詩鈔』『木村寛齋遺稿』『河合東皐遺稿』)の発表に目途がつきました。
 いづれも地元出身の後藤松陰にまつはるものでしたが、早速斯界の学術誌『江戸風雅』上での刊行の栄に浴したことは、昨日コメントで記した通りです。
 生涯の思ひ出に残る、収穫多き年となりました令和御宇の元年。お世話になりました皆様にはあらためて御礼を申し上げます。


 また棟方志功令孫、石井依子様より、すてきなカレンダーをお贈りいただきました。
 石井様には南砺市立福光美術館での企画展「棟方志功の福光時代」が終了したのちも、引き続き志功の疎開先である富山に拠点をつくり、資料整理に当られる由。
 御研鑽、御健筆をお祈りしまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 

『江戸風雅』20号

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月30日(月)15時31分39秒
   近世文学の専門雑誌『江戸風雅』20号が到着いたしました。

 「『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について」と題して資料紹介の一文を載せて頂きました。

 「江戸風雅の会」を主宰・監修される徳田武先生には、2013年の御著書、小原鉄心を中心に野村藤陰や菱田海鴎ら、江戸末大垣藩の文人の事迹を討尋した『小原鉄心と大垣維新史(勉誠出版)』といふ評伝本を読んで驚き、その喜びを直接お伝へすべく、公刊五年後でしたが年甲斐もなく“ファンレター”を認め、お見知り置きを頂いてをりました。

 もとより専門外の自分は漢詩も読むだけ、それさへ全くの独学で「下手の横好き」が昔の和本を集めてゐるにすぎません。手許の『山陽詩抄』があらうことか後藤松陰の旧蔵本だったことを知り、その紹介文を書いて看て頂いたところ、訓読の御指摘かたがた「発表場所がなくて困ってゐるなら」と仰言り預って下さったのでした。私の職場は教員でなければ紀要に論文を発表することも叶ひません。

 いかなるお導きか、先日『江戸風雅』バックナンバーの1~6号を手に入れたところでした。はるかに嬉しい媒体の末席に名を連ねる光栄に、門外漢の飛び入りながら抃舞雀躍を隠せません。

 目次を一覧、此度の一冊が江戸後期の美濃詩壇に篤い一冊となってゐることもうれしく、この正月にゆっくり繙きたいと思ひます。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『江戸風雅』20号 26cm,210p 発行:江戸風雅の会

『江戸風雅』創刊の辞 1p
徳田 武  張斐と魏叔子―付 張斐年譜 3p
中嶋康博  『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について 35p
小財陽平  村瀬太乙の贋作考 53p
岩田恭  美濃における幕末・明治の七名僧~風雅を胸に刻み時代を駆け抜けた禅宗僧侶たち~ 63p
鈴置拓也  林鶴梁年譜稿 86p
徳田 武  吉田松陰と佐久間象山 104p
陳鵬安  「精神病」、「「憑き」及び批判性の欠失――「黒衣教士」の重訳におけるモダンと伝統 139p
徳田武・神田正行  『金毘羅船利生纜』初編翻刻と影印 155p
 

『敬子の詩集』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年12月 2日(月)11時35分18秒
編集済
   「詩歌療法」研究の権威である小山田隆明先生を通じまして、久しく病の床にあるといふ林敬子さんの詩集『敬子の詩集』をお送りいただきました。果たしてどのやうな詩集かと、身の引き締まる思いでページをめくってゆきました。病の身を見据え、全篇が死と対峙しているやうな緊迫した作品で埋められてゐるものを想像したのですが、現代詩の作品集であることがわかり、安堵しました。

 現代詩が難しいのと言はれるのは、読者からの理解をことさらに求めない、偽りのないつぶやきを、ある意味、断絶をも厭はずに遠心的に投げかける姿にありましょう。言葉と言葉との衝突、あるいは一行一行の間隙に、火花を散らす面白さがあり、詩人として選択するセンスに、私は面白さと真摯さとを探すやうにしてゐます。
 拝見した詩集に収められた作品のほとんどが、そのやうな姿をもって、私に跳躍する言葉と行間とを辿らせるものであり、フレーズの数々に著者の感受性の鋭さがみられます。

 現代詩音痴を自認する私の感想などあてになりませんが、詩篇として素晴らしいと感じられたのは、終盤に至っての「真夜中」「生きている」「約束」の三篇でありました。そしてこれらが残酷にも病気を発症されてからの作品ばかりであることに驚かされてをります。


  真夜中

家を抜けだす
ポケットには小銭入れ
ゆるい坂道 とおい終電車
青白い蛍光灯の照らす
黒いゴミ袋がひとつ

星空がきれいです
風はやや強く
街路樹がなみ打ちます
なんという木なのでしょう
まいにち会うのに名まえを知りません

自動販売機
冷たい缶ビール
あかりの消えた
軒先の犬が吠える
中央線をまたぐと
どこかで走りつづける
サイレンの音      (1998.8.23)



  生きている

むくわれない積み重ねがある
きみがどんなに恋い焦がれ体当りで近づこうとしても
たどり着かない 手に入らない 選ばれない
ことや ものや 楽園がある
こんなに夢をみさせて
こんなにも力を奪ってゆく
物質や知識や情報や言葉のなか
知力も体力も能力も 努力さえ
むくわれない大地のうえ
きみは生きている      (2000年頃)



  約束

音もなく
とおり過ぎてゆく
誰もいないのに
何度もふり返る

待ち続けたのは
何であろうか

音もなく
過ぎてゆく

誰もいないのに
何度もふりかえる

足あとだらけの
約束

私がふみしめた道は
だれと約束したわけでもなく

君と私をへだてる      (2007.7.16)


 以降、長い闘病生活に入られ、現在に至るまで詩作からは遠ざかってゐるやうであり、けだし、のっぴきならないところで詩が発火したやうな気がいたします。そして「詩歌療法」といふ観点から申し上げるなら、かうして自己に向き合ひ、虚無を見据ゑて作品を仕上げてゆく求心的な努力といふのは、作品としての手ごたへを詩人にもたらすものであると同時に、どこまでも続くトンネルのやうな闘病生活にとってプラスになるものであるとは必ずしも言へなかったのかもしれません。

 この一冊は従姉である光嶋康子さんが編集されたとのこと。これだけの詩を書く力量ある著者にとって、おそらくは意を尽くさぬであらうタイトルが物語ってゐるのは、詩集が刊行されたのが時宜を逸して遅すぎた気のすることです。清楚なイラストが添へられたのはなによりでした。

 小山田先生よりのご縁をもちまして大切な詩集をお送りいただきましたこと、ここにても御礼を申し上げますとともに、切に敬子様のご健康ご自愛をお祈り申し上げます。


【追記】(2019.12.27)
光嶋康子さんから頂いたお手紙を読みました。慫慂の結果、お便りをもとに書きあらためて下さった「あとがき」を掲げます。本冊をお持ちの方、またお持ちでない方にも出版の経緯について一斑を知って頂けましたら幸甚です。


 あとがき

 私と従姉妹の敬子さんとは、かなり年齢も離れていますし、住んでいる地域も違いましたので、実際の交流が始まったのは、ちょうど4年前の同じ病気で亡くなった彼女の弟のお葬式が始まりでした。

 私は敬子さんの父親の叔父とは、姪というより、少し年の離れた妹の扱いなので、頼みやすかったのでしょうか、お葬式のときの、車椅子の彼女の世話を頼まれました。そのときに、彼女から詩を作っていることを打ち明けられました。

 同じ頃発病した弟を見送ることは、どれだけ辛いだろうか…と思い、何か慰めになることが出来ないだろうか、と考えました。そのとき、フッと小山田隆明先生が出版された「詩歌に救われた人びと」の本が彼女の慰めになるかもしれないと思い彼女に贈ったのです。

 すると、彼女から9篇の詩が送られてきました。私自身、文学の素養は残念ながら全く持ち合わせていないため、内容については難しくて分からず、正直途方に暮れました。そこで、小山田先生に送られてきた詩を見ていただいたこところ、「優れた詩がいくつかあるから自費出版したら。」と勧めてくださったことが、自費出版へのキッカケとなりました。  

9篇では詩集にならないので、最初は断念いたしましたが、叔父が、押し入れの奥から彼女の詩を見つけたので、最初は叔父が、近くのプリント会社で薄い詩集を作りました。

 「敬子の詩集」という名前は、そのとき叔父がつけた題名です。

 この詩集が出来て、小山田先生にお見せすると「イラストを入れてもう少し女性らしい装丁にすると素敵な詩集になりますが、出版社を紹介しましょうか?」と言っていただきました。確かに、灰色の装丁の詩集は少し淋しいような気がしました。叔父に掛け合い、イラストを描いて下さる方を探し、先生から色々なアドバイスや、出版社をご紹介頂き、出版出来ましたのが今回の詩集です。

 イラストは猫を描いて欲しいとの敬子さんのリクエストが有り、彼女の今まで飼っていた猫を写真から描いてもらいました。猫の写真は彼女の亡くなった弟の部屋から見つかりました。そこには、猫と一緒に写っている小さい頃の弟の写真もありましたので、そのイラストを私の好きな詩「約束」に入れさせてもらいました。お姉さんの詩集の中で生きてもらいたいと願ったからです。

 今回、出版に際しましては、小山田隆明先生を始め、イラストを描いて下さった安江聡子様、彼女を紹介してくれた友人の横井歩様には、本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます。そして天国から出版を後押ししてくれたような敬子さんの弟俊宏さんにもお礼を言いたいと思います。
 
                            光嶋康子

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