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昭和25年につづいて昭和26年の日記を解説ともupしました。
天理図書館からの脱出を、引越しを以て宣言してしまった詩人でしたが、当てにしてゐた大阪大学への転任ままならず、結局彦根短期大学での一年を経て帝塚山短期大学に腰を落ち着けることになります。住まひも、天理~京都~彦根~布施へとめまぐるしく替はります。
その際、就職のコネとして頼った京都大学の東洋学研究グループの間を頻繁に行き来し、文学上でも天野忠や井上多喜三郎をはじめとする関西詩人たちと広く交はり、コルボウ詩話会と近江詩人会とを結成に導きます。他方、保田與重郎の雑誌「祖国」や前川佐美雄の「くれなゐ」歌壇にも参加し、誼を通ずる桑原武夫の主張とは相反する戦前抒情派としても活躍。翻訳『ハイネ恋愛詩集』も順調なれば、恋愛の実践の方はともかく(?)、詩人としては実り多き時期だったと申せましょう。
翻刻は続きます。
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