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期待したモダニズム雑誌や稀覯本が次々に繰られるものの、戦前の知性的な詩は目で味はふ要素が強いから朗読はそぐはず、BGMの前衛ピアノも(昔のNHK「新日本紀行」みたいに陰気で)いただけなかった。
本場シュルレアリストの絵画作品とのコラボや、フィルムの逆回しといふ古典的手法による新たに追加された映像も、この映画の主人公たち──『椎の木』に拠った楊熾昌(水蔭萍)にせよ、『四季』執筆者には名前がみつからなかった林永修(林修二、南山修)にせよ──彼らとは気質を異にするもののやうに、私には思はれた。
監督の手腕にかかるドラマ演出部分であるが、役者の顔が見えないのはよいとして、ならば西川満をしっかり役に入れ、日本人との交流、日本人による日本語を絡ませてほしかったところ。何より詩人の実生活が(食卓と子供が纔かに描写されてゐたものの)殆ど描かれてゐないことが惜しまれた。後半の歴史的事実が告げるやうに、さうして監督がパンフレットのインタビューのなかで語ってゐるやうに(これは読みごたへあり)、この映画は、単なるシュルレアリスム的手法によりかかった芸術映画であってはいけない内容だからである。
画面の中で、当時の彼ら学生らしい視点を垣間見せてくれてゐるのは、同世代人である師岡宏次といふ孤独な青年写真家によって切り取られたアングルの視覚的効果に拠るところが大きい。これだけは成功してゐた。
もろ手を挙げて好意的に迎へたい内容であるだけに、期待が大きすぎたのだらうか。パンフレットにおける巖谷國士氏の解説も、あらためてよく読み返してみれば、「ああ、確かにさうとも言へるなあ」と、苦笑をさそふ誉め方において関心させられたことであった。★★☆☆☆
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