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『イミタチオ』58号 「芸術の限界と限界の芸術」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2017年10月21日(土)20時38分40秒
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   金沢近代文芸研究会、米村元紀氏より『イミタチオ』58号の御寄贈に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 保田與重郎を論ずるライフワークも四回目。今回は、初期の『コギト』同人たちが創作理論の眼目として重要視した「リアリズム」について。それが解体期の左翼文壇とどのやうな関りをもってゐたのかを第一章に、そして当時のソビエトにおけるスターリン独裁体制の現実を、保田與重郎がどのやうに理解し評してゐたのかを第二章に、二つに分けて論じられてゐます。

 先づ第一章「ナルプ解体と社会主義的リアリズム」では、昭和8~9年にかけての、プロレタリア文学運動が解体してゆく過程を説明。その理由として、小林多喜二虐殺を象徴とする国家暴力といった外的要因だけでなく、
「昨日までの正しかった創作理論(唯物弁証法的創作方法)が突然誤りとされ、(創作精神の個々に自立を要求する社会主義リアリズムといふ)新理論が登場したのである。」39p ※( )内中嶋
といった内的要因の大きかったことが指摘されてゐます。そして昭和9年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散し、左翼文学者たちが見舞はれた混乱を紹介。
そんな最中、「反帝国主義」を掲げた学生運動の気運のもとで、昭和8年4月創刊された雑誌『現実』に集った同人の一人として、保田與重郎の姿を追ってゐるのですが、雑誌の中心人物であった田辺耕一郎の回想はなかなか意外なものでした。

 保田与重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく知っていた。
 その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとした優雅でねばりのある文章で、 東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。
 文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情とをもつ珍らしい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じ「コギト」の人たちとも親しくした。
 三木清、豊島与志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。
 彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメムバーになって手伝ってくれたりしたのである。」 (田辺耕一郎「学芸自由同盟から「現実」まで」)


 雑誌『現実』はしかし、折角「リアリズム」を問題意識として共有しながらも僅か半年五冊をもって廃刊してしまひます。こののち象徴的なナルプ解散を経て、左翼陣営の文学者たちは、「人民文庫陣営」・「日本浪曼派陣営」へと分れてゆくことになる訳ですが、その過程において、内外でものされた批判の応酬を紹介しつつ、保田與重郎と左翼系文学者との関係(友情と齟齬と)に即した省察がめぐらされてゐます。(森山啓に対して行はれた批判の応酬が、日本浪曼派に合流する亀井勝一郎からのものとともに詳述されてゐるのですが、私の荷に余る話題なので措きます。)

 当時『コギト』の内部では、保田與重郎とは異なる考へ方をもつ高山茂(長野敏一)が突出して左翼思想を標榜してゐました。彼は東大在学中の昭和7年、構内でアジ演説を行った廉で退学処分となり、コギト同人では唯一学生運動の犠牲者となりますが、その際、演説を聞いてゐて共に警察に検束された田中克己は、一晩泊められた拘置所で正義感の表明方法に対する反省をし、文芸の指向も以後モダニズムへと傾斜してゆきます。文中この演説事件のことが触れられてゐますが、当時を記した日記がこの期間のみ残ってゐないのは残念でならぬことです。
『コギト』同人の中でもすぐ頭に血が上る正義漢だったのでしょう、長野敏一・田中克己の二人は、高校時代の同盟休校ストライキの際の行動においても急進派らしい振舞をしてゐますが、イデオロギーより人間を重視し、しがらみも無視しなかった保田與重郎にしてみれば、さぞ付合ひに苦慮するクラスメートだったことでありましょう。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一とわたしが「再起しよう。今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだが、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。(田中克己『コギト』解説:昭和59年臨川書店復刻版)

 さうして左翼陣営の人々の「抵抗する生きざま」には共感を示しつつ、保田與重郎が具体的な政治的課題を責任を以て担ふことができぬ自分の弱さを認め、軽率な行動をいましめていった要因には、実はこの身近な友人たちの決起に逸った顛末も、大きく影響してゐるやうに思はれてならないのです。

 ★

 さて第二章の表題「芸術の限界と限界の芸術」は、保田與重郎の『コギト』寄稿タイトル。
マルクス主義が実践されてゐるロシアの文学者、ゴーリキーが言挙げる「社会主義的リアリズム」。その任務と、彼が夢見た芸術の将来像について、そしてそれを完膚無く裏切った独裁者スターリンによる「ソヴェート的現実」に対して、保田與重郎がめぐらせた思惑についてが語られてゐます。

 そして恐怖政治の実際を実見して一転、ソビエト批判に転じたフランスのジイドについて、彼の言葉を信じない左翼陣営の教条主義者たちを嗤ったのはもちろんですが、個人主義者ジイドの西欧ヒューマニズムにも加担せず、保田與重郎は「ソヴェート的現実」の本性から目を背けようとする左翼ヒューマニストたちに対して、政敵を次々に粛清してゐる「スターリンに感心する」と殊更に言ひ放ってみせたりする。自身の良心にも匕首を当てつつイロニーを弄する、これが保田與重郎ならではの立ち回りとは云ふものの、誤解の危険の代償ある言挙げであるといへましょう。

苛烈な政治の場で芸術がどうあるべきか、また何を背負はされるかを自問する彼にして、これよりさき「芸術の力を用いて人民を功利的に思想教育するプロパガンダ」といふものに対する拒絶反応といふのは、右左に関係なく、物事や人物の善し悪しを見分ける際にほとんど生理的な嗅覚となって発動し、働くやうになったもののやうに思はれます。

 さうして独裁者のもとで華ひらく芸術の様相を比較してみる際にも、ふと豊臣時代に成った桃山文化の豪壮を念ひ泛かべるなど、まことにこの時期の彼の言辞には、米村氏が冒頭に引いた高見順の言葉、「彼の「精神の珠玉」を信ずる」ことのできる人とは、如何に時代と自分の弱さとに絶望した人でなければなければならなかったかと、そんなことを思はされたのでありました。

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 このたびも冊子の過半頁を占める力作ですが、これまでの分量から察して『イミタチオ叢書』の一冊として単行本にまとめられる予定も立てられて来たのではないでしょうか。広く戦前文学を研究される方々に報知させていただきたく目次を掲げます。

『イミタチオ』58号(2016.10金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート4「芸術の限界と限界の芸術」米村元紀……37-91p

第一章 ナルプ解体と社会主義的リアリズム
  1. ナルプ解体声明書
  2.森山啓と社会主義的リアリズム
  3.保田與重郎と社会主義的リアリズム
  4.学芸自由同盟と『現実』創刊
  5.新たな友情
  6.「委托者の有無」
  7. 森山啓の反論
  8.保田の再批判
  9.亀井勝一郎の森山批判
  10.森山啓の「転向」

第二章 芸術の限界と限界の芸術
  1.「ソヴェート的現実」と芸術の将来
  2.十九世紀文学の死滅とロマン
  3.ジイドと「ソビエトの現実」
  4.スターリンと「ソビエトの現実」
  5.保田與重郎と「ソビエトの現実」
  6.「誰ケ袖屏風」
 
 
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