teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

新着順:4/783 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

『詩人一戸謙三の軌跡』第8集

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2018年11月 8日(木)00時58分40秒
  通報 編集済
  津軽の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡』の第8集の寄贈に与りました。

第八集 平成30年11月3日発行
第16篇 戦後(昭和30年前後)と詩人一戸謙三 国鉄五能線での往来の頃Ⅱ (1952-1961) 1-120p
  1.続弘前での単身生活(昭和27年) (1)富田大野 (2)松上町への転居
  2.孫と母(昭和29年)(1)孫の誕生 (2)母の死
  3.退職(昭和31年) (1)弘前市立第一中学校(2)「一中生徒の歌」(3)一戸先生の想い出(4)昭和三十年度弘前市立第一中学校二年四組(5)「當用日記1955(昭和三十年の日記)」
  4.福士幸次郎詩碑除幕式(昭和32年) 特別稿「福士幸次郎の遺墨を巡って」(1)詩碑(2)詩碑除幕式(3)除幕式の人々(今官一・齋藤吉郎・平川カ)
  5.「連」(昭和13年から16年、34年) (1)「連」と一戸謙三(2)「連詩集椿の宮」(3)書評(4)一戸謙三詩集「椿の宮」出版を喜ぶ会
  6.青森県文化賞受賞(昭和35年)(1)授賞者の決定(2)授賞式
  7.弘前詩会(昭和34~36年)(1)弘前詩会と一戸謙三(2)詩会リーフレット(3)詩「習作」
おわりに 121-124p

著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11


今回は昭和27年から36年まで。
写真の数々にみとれてをります。詩人のお母さんはやはり美人だったこと。また当時の同僚・生徒たちが遺した印象記にも、詩人の人となりが、詩友からのものとは異なる教育者として髣髴してゐます。

(前略)勤めて数か月たったころ、初代校長先生が一戸謙三先生という詩人をつれて来た。我々の父親ぐらいの年配で、痩せて背が高く、いつも黒いマントを着て歩く飄々とした人物である。校長の話では、一中には勿体ない学識のある有名人だそうだ。年寄りだと思っていたら、卓球の試合でこっ酷く打ち負かされたことがあった。この先生が一中生徒の歌の作詞者であり、これに猪股徳一先生が作曲して、皆でいろんな場合に歌った。そしてやがて数年後、一中校歌となった。(後略)」 (『記念誌』「創立当時の思い出」九代校長 境辰五郎)

教へ子を集めて「りら・そさえて」といふ文芸研究会で『偽画』といふ雑誌を出してゐたとのことですが、『偽画』は(詩人が知ってゐたかどうか分かりませんが)、立原道造たちが一高時代に興した同人誌と同名ですし、インスパイアされたことを記してゐる「ぐろりあ・そさえて」は、戦時中に日本浪曼派関係の本を棟方志功の装釘でたくさん刊行してゐた出版社です。
斯様なネーミングを敢へて行ってゐるのは、言ってみれば戦時中は翼賛運動にコミットしなかった彼が(『聯』との絶縁理由もそこにあったのを今回知りましたが)、戦争が終はったら左翼になって威張るのではなく、むしろ今度は無念の死を遂げた先師福士幸次郎をフォローし(遺墨展・詩碑の周旋は主に彼の功による)、戦前抒情詩との縁を大切にするといふ、彼らしい確固たる中庸の態度を、図らずも示してゐるもののやうな気がしたことです。もちろん八戸の村次郎の「あのなっす・そさえて」といふネーミングも念頭にあったでしょう。

連詩へ傾倒を深めてゐた当時、現代詩なるものとの対決すべく、

「その昔みたいに大いに論争(昭和10年、津軽方言論争)をやりたくなる。」

と意気込みを書き記している条りも面白く、と同時に、

「彼らの作品を、わたしの仕事とならべてみると、わたしはもはや古色蒼然たるものがある。」

と白状してゐるところは、その昔のライバルたる「プロレタリア詩」が脆弱な思想性をよりどころにしてゐて負ける気がしなかったのと違ひ、この度のライバル「現代詩」には戦後民主主義がバックについてをり、さすがに老いや、気おくれを感じさせます。
思ふに晩年の彼が連詩と並走して書きはじめたシュールレアリズム詩ですが、自覚的に時代精神と対峙してきた彼が、若き日に「索迷」で示したところの疾風怒涛的発揚によって書かれた詩作とは異なり、「若い者にはまだまだ負けんぞ」といふ、アプレゲールに伍せんとする気概が多分に感じられる作物だったのかもしれません。

一方では、自ら先鞭をつけた筈の方言詩の分野で、詩友高木恭造がマスコミジャーナリズムにとりあげられ、その分野の一人者になってゆく。
日記でも彼についての記述が増へてゆくらしいですが、もちろん喜ばしいことであるにせよ、複雑な心境も思ひやられました。

後半には福士幸次郎の遺墨展(併せて彼が応援した菊池仁康の選挙運動)のことや、詩碑の話題が収められています。
一戸謙三とおなじく福士幸次郎の弟子を自称した今官一ですが、何度も破門されたといふ先師について回想する彼と、その彼を評した謙三の言葉。
片や上京して人気作家となり、師と距離を置いた後輩。片や故郷に戻るも、ひき続き師礼を執り続けた先輩。
今官一が一戸謙三について書いた文章があったら読みたいところですが、二者の関係につき、高木恭造の場合同様、いろいろ忖度するところがありました。

そして最後に「連詩」のこと。
『一戸謙三詩集』には収録されていないので、書影とともに今回抄出された詩集『椿の宮』詩篇を興味深く拝読しました。

 秋風の碑

秋風の碑門とざす白菊の花
求めなく夕をひらけ
散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ


戦時中の疎隔は措き、その刊行を祝って賛辞を寄せてくれた佐藤一英の一文も、東海地区の私にはうれしく、また出版記念会の写真に岐阜女子大学の国文学科教授であった相馬正一先生(退職後2013年没)や、田中克己先生の初期モダニズム時代の詩友である川村欽吾氏が映っていたことにも驚いたことです。


ここにてもお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 
 
》記事一覧表示

新着順:4/783 《前のページ | 次のページ》
/783