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和仁市太郎 詩集『流域』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年 2月11日(月)23時33分53秒
  通報 編集済
   電話して珍しく古書店の倉庫までお邪魔する。
 戦前から活躍する飛騨の抒情詩人、和仁市太郎の、せんから気になってゐた在庫、詩集『流域』(平成11年私家版)を購入した。
 その粗末な装釘に一瞬、唖然としたのだが、当の詩人も出来上がりに驚いたらしく、(ワープロで印字した原稿を、裏うつりする紙に印刷し、ホチキス止めして製本テープを貼っただけ。レイアウトも窮屈で、誤植散見)、もちろん憤然とされたらうが、刊行一切を素人にゆだねた自分の責であると半ばあきらめ、敢へて断り書きを入れた「あとがき」がも一つ、急遽あとから付け加へられて刊行されたといふ、異例の経緯をもつ本であることが、その「あとがき」を読んで判明した。

 「家族の者」に「発行を中止したら」とまで助言されたとのこと。なるほど往年の郷土詩壇の牽引者たる老翁の晩節を飾る詩集にして、この造本を提示されては、たとい印刷が終った後であっても考へ込まざるを得まい。
 刊行は平成11年6月25日、翁89歳の誕生日。収録された詩篇の執筆期間の多くは平成6年~8年、著者の83~85歳に当り、すでに詩誌からも勇退された詩人の、正に覚悟して出された最後の詩集なのである。

 あとがきにも記されてゐるが、それまでの6冊の既刊詩集は、久野治氏による評論伝記『山脈詩派の詩人』(1987年鳥影社刊行)の中に、その多くの詩篇が引用され、紹介収録され尽されて居る。もちろん善意ではあったのだが、これが為に、戦前に活躍した多くの詩人が当時、一人一冊といふ形で業績を何らかの叢書に加へられて『〇〇〇〇詩集』を遺してゐたのに倣ひ、彼も『和仁市太郎詩集』を持つ必要があった筈だが、この本が出たおかげで意義と採算が消えてしまった。
 自ら「遺稿詩集なども出版は絶対しない」と誓って来たといふ詩人にとって、本当のところ如何様に思し召されたのかは判らないのだが、『山脈詩派の詩人』の著者である久野治氏とは一面識もなく、刊行されたものを1000部も喜寿祝に寄贈していただいたとのこと。売れ残ったからであらうが、直情径行で名を馳す久野翁らしい仕業には違ひないと思ったことである。

 心に含むところのない、真正の詩人であり、この掲示板でもこれまでに何度か(高木斐瑳雄の後輩詩人として)紹介させていただいた、拙サイト縁の人物である久野翁だが、ことこの『山脈詩派の詩人』の一冊に限って云へば、かく言ふのには理由がある。
 思へば一地方のマイナーポエットを紹介する評伝だけが、その詩業テキスト刊行計画とは無縁のところで(大体両者は雁行して刊行されるのを常とする)、突然著されたことに、この本を初めてみつけた東京の古書店で、地元の人間として驚鄂したのだったが、読み始めると早々、斯界の有名詩人達を蔑ろにする残念な論調が展開されてゐて更に恐懼した。それが和仁市太郎といふ温和な抒情詩人の詩風とはどうしても関連付けることができず、書かれてある事実は嬉しく為になったものの、贔屓の引き倒しに対する違和感を、(地元だからこそなのか)拭ふことが出来なかったのである。
 おそらく和仁翁御本人がこの出版に関り、ゲラ稿に目でも通してゐれば、必ずや改稿を指示されたのではないかと、今回のあとがきの一文を読んでやうやく渙釈した次第である。
 さうして此の度の詩集も、御次男が自ら進んで出版を買って出られたのだといふ。
 未刊詩稿が本人の与り知らぬところで、こんなにも粗末な体裁にまとめられてしまふといふのは、人生に何度もないやうな「この詩人ならではの不運」といった趣きも、(実力に比して名が世に行われぬことも合はせ)、私には何となく感じられてならないのであった。

 亡くなるや否や、遺族が蔵書を二足三文で売り飛ばし、その業績も顧みないといふケースは詩人に於いて儘あると聞く。けれども生きてるうちに、遺産を少なからず消尽させる自費出版を、印刷製本所に依頼するのを回避され、斯様な形に造られてしまひ(そこには謄写版印刷で自ら原稿を切って詩集を作ることに長けてゐた詩人だけに、楽観的な予断も働いたのであらう)、さうして本人もまた、その結果に対し「これも長く生き過ぎた咎なのだ」と諦め、そのまま詩集を世に送り出してしまふといふのは、この温和謙譲で滋味深くはあるものの、抒情の美意識は鋭かった詩人にして、如何にもさびしい仕儀のやうに思はれたのであった。
 飛騨地区で最初に謄写版で刷られた、簡素であっても魅力がふんだんに詰まった彼の手造りになる第一詩集『暮れゆく草原の想念』を、私は幸運にも所蔵してゐるが、おそらく稀覯度だけは自慢できる最後の手造り詩集を、押し頂いて帰ってきたのである。
 さすがに地元の高山市立図書館には所蔵があるが、詩人の業績を知らなければ寄贈されても図書登録されないかもしれない。一体何冊刷られて誰に送られたものであらうか。今少し、じっくり読んでみたいと思ってゐる。

 (以下にあとがきと、最後の詩を書き写してみました。)


   あとがき   和仁市太郎

 この詩集は平成六年六月から同じく八年五月まで約二年に亘って飛騨新聞(旬間発行)に「小詩片語」という題号で発表したもので、せいぜい十三行くらいまでの作品という制約があって、主幹の桐山さんが貴重な紙幅を提供してくれたからだと思う。前社主の藤森一雄(美水)以来の悪縁?の賜であろう。
 本年正月、富山にいる次男が来遊、去年の夏、勤め先を定年で退職しその閑職についたが、暇があるようになった。帰宅すると、早々、お父さん、ワープロでよかったら詩集作製してあげる、と言ってきかない。第六詩集『私の植物誌』を出版して二十四、五年、感ずることもあって身に資力もないのが第一の理由だが、遺稿詩集なども出版は絶対しないと自分に誓ってきた。(それに、多治見の詩人で、かつて一度もお会いしたことのない、全く未知の、久野治さんが私の全詩集の作品をピックアップされて、評論集『山脈誌派の詩人 和仁市太郎の詩業』という厖大なA5判360頁余りの評論集を1000部も喜寿を祝って寄贈された。『すみなは』の初期の作品も少なからず採用されている。)次男が親孝行のため作成するのなら好きなように、やったらいいと非情なことを言って出版を全部任せたのがこの詩集である。過去に幾冊かの自費出版した粗末な詩集の出版の喜びと、また違った意味の感激を感じておる。本詩集の編集も連絡が巧みにゆかず、その後計画が変更されご覧のようになったが、慣れない仕事の製版、印刷を引受け奉仕してくれた次男夫婦ならびに表紙絵を賜った同郷出身の沖野清先生、発行所の飛騨新聞社・桐山千明氏の、永年に亘る新聞への執筆など貴重な紙面を提供してのご理解ご援助に対し感謝し、ここにお礼申し上げる。
 平成十一年六月二十五日(89歳誕生の日)


 あとがき 二

 本詩集の出版までのいきさつは「あとがき」に記しました。何かと連絡がスムーズにゆかず二度ほど校正もし、ふくめて)校正、製版印刷してくれた次男が富山市にいるので、何かと連絡がスムーズにゆかず二度ほど校正もし、なかの題などある程度指示しました。印刷用紙(表紙もふくめて)校正、製本も次男に委かせて気にいるようにいいましたが、去る十一日詩集を持参来宅しました。帰宅後よく検討してみると、校正の間違い、表紙の背クロスの貼り方、化粧截ちもしない等々……。印刷紙もB紙五十五㎏では裏うつりします。せめて七十㎏にして欲しかった。
 家族の者は発行を中止したらとまでいうのですが、せっかく好意にしてくれた厚情を思いますと、進退きわまった感じです。
 そんなわけで進呈できる代物でないのですが、苦しい胸中を吐露しここに敢えてお笑いぐさに家庭内の恥を書いて第二の「あとがき」といたします。

 平成十一年六月 日
                   和仁市太郎
 各位


 ある箴言 (意訳)
汝よ
 迫るべからず
 追ふべからず
誘うべからず

お前よ
 逃げる人に迫っていけない
 悪意もつ人を、追って[羞]かしめ(※誤植?不詳)
 忌避されてる人から逃げよ

汝よ
 負けるも[呵々]なり
 孤独また愛すべし
 自己に克つまた[呵]

お前よ
 負けて唯々諾々と従う
 孤りの独居また愉し
 自分に勝つのは敗け

汝よ
 人生は妙々奇天烈
 人生は不可解なり
 右条々逆また娯し

お前よ
 人生だから妙味術あり
 世事万端不可解で良し
 誓言の詞章逆も可なり。
(10・6・25)
 
 
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