teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

新着順:2/798 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

『イミタチオ』60号「日本浪曼派とイロニー」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2019年11月 2日(土)12時47分16秒
  通報
  金沢の米村元紀様より『イミタチオ』60号の御寄贈に与りました。

保田與重郎ノート6は、『コギト』創刊から『日本浪曼派』の顛末の頃までの、保田與重郎の文章を彩った「イロニー」についての考察です。一般的に「皮肉」や「逆説」として解されるアイロニーのことです。

同人雑誌『コギト』が、文壇デビューの準備の場ではなく、「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ方向性を掲げた文学運動体として創刊されたこと。今回のノートは、その実体が、同人を形成してゐた旧制大阪高等学校時代の友情、とりわけ資産家だった肥下恒夫が負担した雑誌運営資金と、ドイツ語を得意とした松下武雄・服部正己・田中克己といった翻訳陣の訳業資源をバックにした「協同の営為」によるものであったことを押さえるところから、説き始められてゐます。

つまりその「非群衆的」「啓蒙的」「超俗的」「アカデミズム容認」といふ強面(こはもて)の方向性ですが、「古典を殻として愛する」彼らは、その一皮下には旧制高校で培はれた共通理解の友情のグルント(土台)があったといふこと。(そこへ入ってゆけなかった東京者の立原道造はもとより、世代を異にした伊東静雄も、この連中は会合で集まっても世間話ばかりでお互いの批評を全然し合はない、って怒ってます。)

保田與重郎が、資金面で問題のない自由に話せる場所を確保し、力強い翻訳陣の援護射撃を得て、「題からして眼がキラキラし、その内容に至っては到底何のことやら分からない」文芸批評を次々に展開してゆく。「ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆」とか「後退する意識過剰」とか、これは確かに高見順みたいなリベラルな先輩知識人を、タイトルだけで以て聞きかねさせ、なにかしらイライラさせる「毒の魅力」があったと思ひます。

しかしてドイツロマン派から直輸入されたといふ「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったか。

『コギト』の二人の詩人、伊東静雄、田中克己にも、かうしたイライラさせる修辞、言ってみれば機嫌の悪い「あてこすり」の精神がスパイスとして効いてゐて、その点、所謂「四季派」のポエジーとは区別される訳ですが、「皮肉」や「逆説」として解される「一般的イロニー」ではなく、本場のドイツロマン派にあらわれた「ロマン的イロニー」とは、どんなものだったのか。

語学不足で原典には深入りできなかった筈の保田與重郎が多用した「イロニー」といふ言葉ですが、米村氏はシュレーゲルが開陳した「ロマン的イロニー」の原義に沿って見てみて、「それほど間違ったものではなかった」と結論づけてゐます。その後半の条り、私自身はたして「イロニー」って理解してゐたんだらうか、と案じながら興味深く拝読しました。

読みつつ思ったのが、「ロマン主義は自己破壊、自己創造を同時に実現する実践活動(65p)」であるという定義。これは実存主義の概念がなかった時代の「企投」に似たものであったのか。

そして「われわれは同一人にしてかつ別人でなければならない(65p)」といふのも、「イロニーとは古代の文献解読の態度である(67p)」ことを念頭に、すなわち自分を無にして当時の人たちによりそって(のりうつって)考へること、畢竟、現在の知性で過去を断ずるな、といふ教条的なマルクス史観の否定、そしてその後は便乗「日本主義」を退け、結局当局に睨まれることにもなった、彼の歴史に対する姿勢の大本をなしてゆくものではなかったか、といふ感想でした。

ひとつ気になったのは、「デスパレートになったのは社会主義文芸に携わった青年たちであり、日本浪曼派の人々ではない(62p)」とあったところ。「何を(社会主義文芸)」でも、「どのように(モダニズム文芸)」でもなく、「なぜ」文学をするのかに執拗に拘った初期の保田與重郎ですが、「デスパレートな心情」を、社会主義文芸に携はった青年たちと同じくした時代もあったんじゃなかったかな、といふ理解を自分はしてゐます。

思ふに両者を相反する立場に分けてしまったのは、文学デビューしたものの(言論弾圧による)デスパレートな状況に陥り、自省をつきつめて「転向」していった「社会主義文芸に携わった青年たち」と、デビュー時期自体がすでにデスパレートな閉塞環境にあって正義感の表出を「イロニー」を弄して韜晦せざるを得なかった保田與重郎たちと、ほんの数年にすぎない世代の差にすぎなかったのではなかったか。かうしたたった数年の違ひによる世代の断絶は、こののちアプレゲールとの間にもう一度起きています。

そして興味深いことに、現在の日本に照らしてみると、同様の若々しいヒューマニズムが、以前なら反権力の文脈でリベラルに言ひ捨てて当り前だったことが、後ろ楯だった共産主義国家の実体によって裏切られ、かたや弱肉強食のグローバリズムが資本主義陣営を跋扈し始めるに至って、守るべきアイデンティティがコスモポリタリズムではあり得なくなった現状と、ほぼ類比されうるものとなってきてゐるとは言へないか。示唆されるところ多く観ぜられるのです。

ここにても御礼を申し上げます。まことにありがたうございました。

『イミタチオ』60号 (2019.10金沢近代文芸研究会184,5p \800)

評論 「保田與重郎ノート6「日本浪曼派とイロニー」米村元紀……31-74p
 『コギト』創刊の頃
 共同の営為
 独逸浪曼派特集
 ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆
 群衆の復讐と萩原朔太郎
 『日本浪曼派』の創刊から終刊へ
 後退する意識過剰と純粋小説論
 内的貧困と巨大なロマン
 文藝雑誌編集方針総じて未し
 ドイツロマン派から日本の古典へ
 『日本浪曼派』以後、所謂「日本主義」との闘い
 ロマン主義的イロニーについて
 
 
》記事一覧表示

新着順:2/798 《前のページ | 次のページ》
/798