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終日家居・外出自粛中に思ったこと

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 4月15日(水)22時31分20秒
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【その一】 「端本上等主義」について
 
 むかし、近代詩書を収集してゐたころ、古本通の先輩からよく
 
「cogito(私は旧い古書仲間にはハンドルネームで呼ばれます)が買ふ本は、函やカバーの無い汚い本ばかりだねえ。」
 
と揶揄されたものですが、初版本であればそれでよく、もっと言へば、再版でも同じ装釘で安ければそれで満足でした。余った資金でまた別の本を買ひたい「並本上等主義」を奉じて、乏しいコレクションを増やしてきたのです。

 それが近頃、収集の鋒先が和本の漢詩集に転じました。
 漢詩集は戦前モダニズム詩集のやうに人気の高いジャンルとは言へません。ただ、この世界を充分に愉しむためには、予備知識、現在のわれわれには結構高いハードルが設けられてゐる為に愛好者が少ない。和本のみならず、掛軸なんかも漢詩を書いたものは絵画骨董の好事家から敬遠され、ヤフオクでは真贋不明の“お宝”が玉石混淆で売り叩かれてをります。

 四季派の口語抒情と江戸漢詩の訓読抒情とは親和性が高いものらしく、私も中村真一郎や富士川英郎の著作によってこの世界に目を開かれます。そして和本を小脇に抱へて徘徊する老人になりたいものだ、なんぞとあこがれるやうになり、戦前口語詩から明治新体詩を素通りして、皆目見当もつかぬ江戸漢詩の世界へといざなはれてゆきました。ヤフオクや日本の古本屋サイトがなかった当時、新村堂古書店や藤園堂の目録、そして鯨書房の山口さんから折々「こんな本が入ったよ」と店頭で教へられつつ、江戸時代には漢詩のメッカだったといふ地元美濃詩壇を中心に、クタクタの和本詩集をぼつぼつと買ひ揃へていったのでした。
 
 明治発祥の洋装本に較べれば、和本の世界といふのはさらに50年100年と古い訳ですから、本が汚いのは当たり前で「極美本」なんてものは殆どありません。旧世代の読書人が消え、だれにも顧みられず長年蔵の中で眠ってゐたやうな本も多く、染みや虫喰ひなど普通で、書込みなんかは、ある方がむしろ価値が増す位です。洋装本で謂ふところの「函、カバー」にあたるものとしては、「袋」といふやつが一応はあって、これが残って付いてる本は状態もよいのですが、お目にかかることは珍しい。高価な稀少性を洋装本で例へるなら「アンカット本」の比でしょうか。函やカバーとは同列に扱ふべきものではない「めっけもの」の類ひであります。

 さて、さうして漢詩集を集め始めて分かったのが、「上・下」「上・中・下」「一・二・三・四」と分冊されて刊行されることの多いこの和本の世界では、「揃ひ:そろひ」か「端本:はほん」か、これが決定的な古書価の違ひをもたらす評価となってゐることでした。つまり近代詩集ならば必ず拘るべき「初版本」、すなはち和本の「初刷り本」に関する情報が全くもって不明瞭で、目録にも詳しく記されてゐないことが多い。そもそも初刷りか後刷りか判定するための書誌的な指標が、浮世絵のやうな美術的価値を云々されてこなかった和本に対してはそんなにも気にされず、本ごとに差異が論じられることもなく、書誌学的に研究もされてこなかった。あくまでも中身が学術的に大切だった、といふことであります。だから一冊欠けてゐるだけで、使ひ物にならない資料として、まるで洋装本なら落丁本や函がない本のやうに半額以下になってしまふ訳です。

 言はんとするところはもうお判りでしょう。私もこのごろは懐具合がさらに悪くなり、この分野でさへ欲しい本がなかなか買へなくなりました。それで思ったのが、この端本。
 
 考へてみれば、江戸時代の本は早稲田大学図書館や国文学研究資料館など、インターネット上に一次情報が公開されてゐるものも増へてきました。読むだけなら画像でよい。さうなると何を以て究極的な価値を古書にもとめるのか、結局は書かれた情報そのものではなく、原本がもつ感触・風合を和紙や刷り文字の上に確かめ、それを刊行し大切に読み継いでいった古への著者や読書人の想ひを肌身で感じたい、近代詩集と同様、さういふものへ落ち着いてゆくのではないか、情報化のさきにある古書としての価値は、やがて原質にのみやどる骨董価値へと収斂してゆくのではないか、と思ひ至るやうになりました。
 
 さすれば、貧乏コレクターとして拘るべきところは「揃ひ」ではなく「刷り」にあり、といふことになります。この観点から渉猟し、安価な端本でも良い刷り状態の本をみつけてゆけば、まことにリーズナブルでハイブロウなスローライフが約束されるのではないでしょうか。かう思って『山陽詩鈔』を探し回ってゐたら、たまさかそれが後藤松陰の手澤本だった。そしてこの度は天保12年、最初に刊行された『星巌集』の甲~丁集の端本8冊(『紅蘭小集』欠)をオークションで落札、さらに合本された天保8年刊行と思しき『星巌集』の丙集を註文しました。ずっとひっかかってゐた漢詩集の二大ベストセラーの収集を了へたところで、「端本上等主義」に転換したことを自ら標榜してみた次第であります。
 


【その二】 国立国会図書館はデジタル化データを開放せよ。
 
 新型コロナ禍のもと、各地の図書館が次々と休館に追ひ込まれてゐます。

 その最中にあって、国立国会図書館は、所蔵する著作権切れが不明瞭となってゐる資料を、デジタル化の完了したものからすみやかに、インターネット公開するべきであると考へます。斯様の資料の閲覧・複写は図書館間で行はれる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に限られてをり、かつ現在、コピーをとらうにも遠隔複写サービスの受付も休止してしまひました(2020年4月15日~)。そもそも外出自粛を余儀なくされてゐる利用者は、供されたデジタル化資料を閲覧しに図書館にもゆけません(やってませんが)。

 少なくとも戦前の著作物などは、全てオープンにしてよいのではないでしょうか。序跋、挿絵、装釘者の著作権(公衆送信権)も、書物の成立経緯を考へれば、著者に一任されて文句を垂れる御仁がありましょうか(あったらその時点でひっこめたらよろしい)。また著作権者の没年が不明とならば、一般からも情報源の申告をシステムとして設けるべきです。

 とりわけ詩集などは古今、極く一部の職業詩人を除いて「自分の声を理解してくれる人になるべく多く読んでもらいたい」、そのやうな志を以て刊行されるものであります。銅臭の強い権益は全くそぐはない。そしてテキストが開示されることによって、先般にも述べました「原本がもつ原質にのみやどる骨董価値」が、コレクターのみならず古書店に対しても開示されるものと考へます。

 


 かつて駈け出しのコレクターの頃に、小寺謙吉の『現代日本詩書総覧』や、田村書店の『近代詩書在庫目録』などを紹介しながら、詩集収集の手引きみたいなコーナーをサイト上にupしてゐたことがありましたが、これは終日家居・外出自粛中に思ったこと、和本収集に関する提言と、国立国会図書館のデータ管理について、つれづれに記してみました。

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