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『俳諧宗匠 花の本聴秋』

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年 6月23日(火)12時34分2秒
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 未知の上田千秋様より、明治大正期に俳壇の“宗匠”として一世を風靡した「花の本聴秋」の伝記本『俳諧宗匠 花の本聴秋』(文藝春秋企画出版2020.4)の御寄贈に与りました。さきに拙サイト内にて公開しました戸田葆堂の『芸窓日録』が参考文献として活用されてをり、日記中に頻繁に現れる「上田」なる人物がその人、上田肇:号聴秋であったことを御教示頂き、吃驚してをります。

 上田聴秋(1852-1932)と戸田葆堂(1851-1908)とは同年輩、小原鉄心を伯父、祖父としてそれぞれ仰ぐ関係です。下図に示しました。

 俳句界は御存知のやうに、明治になると正岡子規による革新運動、所謂「月並み俳句」への批判が起こります。その温床ともいふべき、お代を払ってお点を頂く「宗匠:そうしょう」の制度は、しかし批判を受けて収まるどころか、活版印刷が始まると、俳句を大衆に浸透させる方向でむしろ勢力を拡大してゆきました。

 上田聴秋はその一人でしたが、他の宗匠とはことなり別に生計(副業)を持たず、二条家から拝領した称号「花の本:はなのもと十一世」といふお墨付きを盾にして、俳句だけで八十年の生涯を貫いた人です。
 明治17年に興した俳句雑誌は生前587号にも達し、最盛期には門人三千人を誇ったといひますから、名声のみならず経済的にも大衆に支へられた最後の職業俳人と言へましょう。この本は、聴秋のひ孫である著者により、宗匠俳人上田聴秋の生涯と事迹とを詳細にたどり、考察を交へた唯一の研究書と呼んでよいかと思ひます。

 本書中にふんだんに写真で紹介されてゐますが、芭蕉に倣ってパトロンのもとを「道のため、社のため」遊歴を重ねた南船北馬の半生、それが一面、蒲柳の質であった彼の健康法ともなり、各地の勝地には自句石碑が31基、揮毫石碑も15基が建てられました。
 生前の彼は名声に囲まれてゐましたが、宗匠「花の本」の称号は、昭和七年の彼の死後、時代の流れを感じ取った後継者(娘婿でもあった十二世會澤秋邨1875-1941)による断絶が選択されます。戦後に訪れる、俳句そのものを否定する「第二藝術論」を待つまでもなく終焉することとなり、石碑の多くはいま顧みられることなく、苔蒸す現状も報告されてゐます。

 そんな伊藤聴秋の俳句とは、いったいどんなものであったのでしょう。以下にすこし写してみます。

むかし龍が住みたる池や風かをる

長生きは山家に多し秋日和

明月や敵も味方も同じ秋

砕けても砕けてもあり水の月

美しく鯉はやせたり燕子花(かきつばた)

夜桜や篝(かがり)に春の裏表

降るだけは降りて五月の月夜かな

 本書中に紹介されてゐる、月並み俳句の存在理由を示した研究者青木亮人氏の一文には、同じく、鷹揚・駘蕩なる内容・作者も多い戦前の抒情詩人を愛する私の心にもいささか訴へるものがありました。

「聴秋や梅室などの宗匠の作品は活字では平凡だが、暮らしの中で短冊や軸として接するといいしれの魅力を発する。聴秋たちの句は生活の平凡さを脅かさず、むしろ認めてくれるもので、だからこそ暮らしの中で魅力を放つのではないか。生活とは平凡であり、変わらぬ習慣とささやかな秩序に支えられた「月並」の別名に他ならないためだ。しかし、虚子や碧悟桐の句はこうはいかない。彼らの作品には常識を揺るがす何かが潜んでおり、だからこそ「文学」として優れていると見なせよう。しかし、「文学」は暮らしの中で常に必要とされるものだろうか。仕事に家事や雑事、家族との団らんや他の趣味などで一日の大半が終わる日々の中、従来の習慣や常識を揺るがす力強い「文学」は必ずしも必要でないことを、多くの「月並」短冊や軸と接することで初めて実感した。(265-266p)」青木亮人『その眼、俳人につき』より

 そして彼自身の俳句に対する態度はこんなものでありました。

「俳句をどう作ったらよいか、という問いに対して、聴秋は、「まあやってごらんなさい、そのうちに解ってきますよ」と言い、「無理に作りたれば、不自然なり美に感じて出来たれば、自然なり。句は作るべきものにあらず。出来るものなり」とも答えている。(215p)」

「聴秋は作った句をいちいち書き留めておくようなことをしなかったようだ。あとから念入りに推敵する、といったこともめったにしなかったらしい。ぱっと出来れば、それでよし、あとは顧みない。俳句とはそういうものだと考えていたのだろう。句集を刊行するにあたって、弟子の手帳から句をかき集めたというのも、うなずける。(233p)」


はなむけの分に過ぎたる牡丹かな 紅葉

牡丹切る心に似たる別れかな 聴秋 (明治26年読売新聞、別宴の席で)

 門人ではありませんでしたが、当代の人気小説家、尾崎紅葉や、当時は無名記者だった巌谷小波とも、俳諧を通じて交流は密でした。ただし批判の先鋒であり、現実を活写する「写生」をもって新しい文芸精神を掲げた正岡子規だけは別で、彼にとって「無学、無識、無才、無智、卑近、俗陋、平々凡々」と、口を極めて罵倒した月並み俳句の頂上に位置した彼らの作品は、煎じ詰めるところ

「宗匠派には遠回しに遠方から謎をかけると言うようにして面白がらせるところがある。それが理屈が入っているところである」(161p)

といふ文学的な立ち位置の違ひが物足りなさとして映り、我慢ならなかったもののやうです。対して聴秋はといふと、『帝国文学』(明治33年1月)誌上での対談で、

「「芭蕉翁は、格に入りて格を出ざる時は狭く、また格にいらざる時は邪路にはしる、格に入り格を出で、初めて自在を得べし」と言っているが、「子規ら」のいわゆる「新派といふ人々は初めより格に入らず邪路に陥って」いて、「師について学ぶといふことはない、みな初めから大先生です」。一方の、「正風、すなわち芭蕉派を称へている」人たちも、これまた、はなはだ弊風がある。概括していえば、芭蕉派一は「格に入りて格を出でず」、子規派は「初めより格に入らず」、両派ともこの道をきわめているとは言いがたい。」(148-149p)

と言ってゐる。そして「正岡子規その人を非難したり、その句を批判したりはしていない。あくまでも子規に連なる「新派」を対象として発言している。この姿勢はその後も変わっていない」といふ、個人への配慮もあったやうです。

 確たる学歴を持たず、酒も茶も飲まず煙草も吸わず、現存の俳人に対する批判や悪口をしなかった人柄、「枯木のごとき老体ながら、銀髯を秋風に吹かせた十徳姿」(277p)の風貌を携へ、聴秋は北海道へは七度も足を運んでゐます。開拓地を訪れて拠金し、北辺で果てた会津藩の敗将の墓参に根室まで「密かに」行ったりもしてゐますが、ご存知のやうに彼が参加した戊辰戦争に於いて会津は大垣藩の敵軍でありました。
 土地の親分から至れり尽くせりの接待を受け、観光客相手の呼び声に呼びこまれるままに招じられれば、「ご注文は」と訊かれて「休んでゆけというから坐ったまで」と嘯く「花の本聴秋」時代のエピソードも面白いですが、最も強烈なのは、さうした彼が俳人を志す以前、幕末から明治初年にかけて大垣藩士だった頃に見せてゐたサムライ少年、上田肇の面貌です。

 すなはち伯父小原鉄心同席の場で、木戸孝允や後藤象二郎といった貴顕に臆せず議論を挑んだり、曲がったことが嫌ひで刃傷沙汰を起しかけたり、或ひは後先考へず路銀を乞食に寄付してしまひ、なんとかなるさと旅路を続けてなんとかなってしまふ顛末などなど。
 のちの協賛者の錚々たる肩書を思ひ合せるに、その性情と立ち位置には何かしら典型的な明治の蒼莽、頭山満を髣髴させるやうなものがあり、若い頃から気骨と鷹揚とを併せ持つ“人物”だったことを証してゐるのが滅法面白い。「和歌」に比してパッションを載せづらい「俳句」ですが、斯様の人物がどうして俳諧一本で生きてゆくといふ世捨て人の道を選ぶに至ったのでしょう。

若草や大の字に寝て空をのむ

高鼾 年がこぬなら来ぬでよし

百万の富より春のきまま旅

 冒頭にも記しましたが、俳誌『鴨東集』の創刊(明治十七年)編集にあたっては、先行して漢詩雑誌『鷃笑新誌』を出してゐた戸田葆堂から出版のノウハウ全般を学んだらしいなど、当時を記録した『芸窓日録』を通して、大垣人脈とのふんだんな交流も窺はれます(葆堂と同じく清国の詩人胡鉄梅とも親交があった由)。
 「秩禄処分」が行はれた大垣藩に交付された国債運用のため、家老戸田鋭之助が頭取となって興された第百二十九銀行(大垣共立銀行前身)、彼もまたここからの借入金があったことなど、勉強になりました。

 若年のエピソードについて、適宜端折って下記に抄出してみましたので、興味のある方は実際に本書を手にとってみてください。『論語』を俳句で解いていった試み(「論語俳解」)には驚かされましたが、遺された肖像からも、俳人といふより漢学者にみられるやうな遺臣の面影を感ずることが出来るやうであります。

 ここにても厚くお礼申し上げます。

【若き日のエピソード】

30-32p
 肇は、明治新政府の「参与」に就任した伯父の小原鉄心に連れられて、京都へ出た。「参与」とは、王政復古によって、明治政府に創設された最高政治機関、「三職」(総裁、議定、参与)の一つである。鉄心は慶応四年(一八六八)一月三日にこの職についた。

 肇が木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎らと知り合ったのも、このころである。みな参与として新政府に仕えていた。肇は伯父に伴われて、しばしばこういう人たちとの会合の末席に列なることもあった。そんな折に、いつも奇抜な議論を口にするので、要人たちに可愛がられたという。

 木戸孝允は、ある日、肇に「世の中は議論ばかりでは行かぬものだ」とたしなめて、「世の中は角力の外に角力あり勝負の外に勝ち負けはある」という一首を与えたという。

 肇(聴秋)は後年、日出新聞の記者、黒田天外にこう語っている。

「維新の際、私の叔父、小原鉄心が朝廷に召し出されて参与になりましたから、私もそれにつられて京阪のあいだにおり、木戸公や大久保公などにも世話になりました。そのころはまだ十五、六で、ムチャクチャに議論が好きで、それで木戸公に戒められたことがございます。」(黒田譲『名家歴訪録』上編)(中略)

 後藤象二郎は、肇をこう評したと伝えられる。「舞妓の踊りと肇さんの議論は、無為の天法、人間(じんかん)に落つ」。(『俳諧 鴨東新誌』より)

 肇の議論好きは天性のものだ、と褒めたようにもとれるが、この少年の言うことは舞妓の踊りのように、たわいない、可愛いものだ、というほどの意味かもしれない。


39p
「箕作(みつくり)塾に松本荘一郎という塾生がいた。将来を嘱望された秀才であったが、家計が窮迫して学資の支給ができなくなり、学業を辞めて郷里へ帰ることになった。塾生に上田肇という大垣の藩士がいた。後に花の本聴秋と称して俳譜の宗匠となる人物である。彼は松本の才華を惜しみ、大垣藩に藩士として取り立てるよう推挙し、尽力した。松本は大垣藩士となり、藩から給付を受けて大学南校に進み、明治三年アメリカに留学して工学を学んだ。」(『西濃人物誌』より)

49-57p
 肇は後年、大学南校での学業を諦めて東京を去ったときのことを回想している。その回想はいくつものエピソードを重ねたものだが、大学南校を去らねばならなかったことが、いかに残念であったか、その心の傷跡を暗に語っているように読み取れる。本人はそんなことはおくびにも出していないけれどもこれは『鴨東新誌』385号(大正5年1月1日)に掲載された。六十四歳のときの回想である。

 実兄が幸に海外視察から帰朝したので、そのわけ(大学南校を中退して郷里に帰ること)を話して旅費をもらったが、船賃だけを残してめちゃめちゃに使ってしまった。

 蒸気船というものに初めて乗り込んだが、赤(赤切符のことで三等船客の意)であるから、荷物と同居というありさまであった。やりきれないので、甲板に上がると、遠州灘の荒波は夢の間に過ぎ、伊勢湾の入り口で神崎という島が目の先にあらわれた。

「この船は二見の浦へ寄港しますから、伊勢大廟でも参詣したい方は上陸なさい」
と、船員がふれてきた。無一物では上陸ができず残念であるから、二等室へ行き、室の中央に立って、

「時に、諸君、四海兄弟ということはご承知でしょう。してみると、拙者は君らの弟である。その弟が無一物のために、伊勢大廟へ参詣ができぬから、上陸費わずか二分(今の五拾銭)だけ恩借にはあずかれぬでしょうか」

 と、君父より下げたことのない首を下げて頼んでも、くつくつと笑って誰一人、取り合ってくれぬ。取り合ってくれる人がいないから、大いに立腹して、大声を発した。

「諸君はお見受け申すところ、衣服といい立派なる方であるが、男児たるものが首をさげ、お願い申してもお聞き入れないのは、よもや二分の金がないのでもなかろう。まったく温き涙や赤き血のない人だ。こんな腐った根性の人に、旅費を借りて大廟へ参拝したところで、神への不敬であるから、これまでのことは取り消します。」

 船客のなかに骨のある人がいて、船長に余が不礼を訴えた。船長に叱られて、しほしほ三等室へ帰ろうとしていたときに、青年の男児があらわれて、

「君はまだ年がゆかぬから無頓着であるが、人を罵倒してはいけない。謝罪したまえ。失札ながら僕が二分だけ貸してあげるから」

 と、こんこんと忠告されたので、その人の赤心に惑じて、乗客に謝罪し、大枚二分を借りた。

「君はなかなか面白い男だから、吾輩とともに二見で昼飯を食おう。来たまえ」というのでついて行った。二見の某楼に対座して、ご馳走になった。

「いったい君はどこの人だ?」とたずねたから、
「日本人だ」と答えた。
「なんというか」
「上田いうものだ」
「ふふん、それでは、神戸の箕作の塾にいたことがあるか」
「あるよ」
「快闊男児の評判の高い男は、君であったか」
「そういう君は、誰だ?」
「おれか、おれは新宮涼樹だ」 註)鯖江藩士。
「箕作の塾で才子の名を博し、色男然と気取っていた酒落ものは、君か?互いに逢わんとして逢わなんだが、今ここで邂逅したのは不思議だ。やはりお伊勢様の引き合わせでもあろう」

「上田君、きみはどうしてこの船に乗っていた?」
「おれは体を少し痛めたから、命あっての物種と、故郷へ帰って母の乳でも吸って、健強の体にして、必ず天下に名をなして見せる。一生貧乏は覚悟しているよ」
「上田は若いだけに馬鹿なことを言っているなあ、おれは箕作の塾にいて、文典や万国歴史くらいひねくっていても駄目だと悟って、学問はやめて横浜のフランスの商館へ入りこんで、金を作る稽古をしているのだ。世の中は金でなければ夜が明けぬよ。上田はいつもの壮語豪邁にも似ず、僕の二分の金に頭を下げたではないか。だから病気で学問を中止したのは、君の好機だ、逸すべからず、病が治りしだい横浜に来たまえ。また世話をしてあげるよ」
「新宮君は名誉も義理も捨てて、金銭の奴隷になるつもりか」
「もちろんだ、上田も白髪でも生える時代には、新宮が言ったことを思う時があるよ」
「おれもまた新宮に羨まれる時代があると信じている。ここで君と別れて三十年の後に互いに成功して会いましょう。君は黄金の人となれ、僕は天下の人となる」
と言って、大声で笑った。

 新宮と別れて、伊勢の古市をさして歩を運んだ。その出で立ちは、頭にはボーイのかぶる帽子、破れ袴をはいて、羽織は脱ぎ、杖の先に飲みさしの葡萄酒の瓶をくくりつけ、この杖をかついで、
「児を産めば玉のごとくあるべし、妻を娶らば花のごとくあるべし、丈夫天下の志、四十いまだ家をなさず」
 と、河野鉄兜の詩を声高に吟じつつ、ふらふらと歩いた。
 尾上町まで行き着いたが、どの家でもみな断られて泊まるところがないので困った。裁判所(今の県庁)へ談判に行ったが、門は閉まっていて、小使が一人いるだけで何の役にも立たない。陽は西山に暮れ、塒を急ぐ鴉が羨ましいというありさまであった。
 そこへ兵隊が隊列を組んでやって来たので、近寄って見れば、その隊長は可児春琳である。
    註)大垣藩士(1847-1920)。戊辰戦争の鳥羽伏見の役では、実兄・小原忠辿(軍事奉行)の指揮下で戦い、北越や高岡では肇と戦場をともにした。
余を見て、「上田さんですか。お宿はどこです?」
 と問われたから、事情を話すと、
「ともかく私の宅までいらっしゃい」
 とのことで、行軍中の隊長と話をしながら、可児の宿まで行った。そのあと旅亭に案内してくれた。古市いちばんの割烹店で、朝吉楼(嘉永四年創業の麻吉楼のことか?)という大きな青楼であった。朝からご馳走が出るし、芸者は来るし、四絃(琵琶)の声は耳を聾するほどであった。ここに一両日、厄介になった。

 山田を離れて少しばかり来たところに、年寄りの乞食が病気らしく路傍に寝て、幼き女の児が介抱している。見るに見かねて足をとめた。
「おい、乞食、きみは病気か。飯は食ったか?」
「昨日から何も食べていません」
「そうか、それは気の毒だ。あの女の児は何歳だ?」
「はい、あれは私の孫ですが、歳はようやく八つであります。行人の袖にすがり、少しのお恵みをいただいて、それで親子が食するようなわけです」
 余は心に感じて、虎の子のように大事に持っていた二分金をそのまま乞食の親子にやって、
「君、これで飯を食いたまえ、薬も飲みたまえ」といえば、乞食の云うには、
「これは二分金です。この辛き世の中に一文のお銭さへなかなか下さらぬのに、二分というような大金を乞食が持っていては、盗みでもしたのではないかと、かえって人に疑われます。お恵み下されしお志はありがたく頂戴いたしますが、このお金はご返却いたします」
 というので、付近でこまかい金と換えて、乞食に与えて別れた。
 宮川という川に渡し船がある。何も気がつかずに船に乗って向こう岸に着いたが、二分しかない金を乞食にやってしまったので、船賃がない。恥ずかしかったが、船人にその訳を話して頼んだら、同情のある舟守で、
「おまさんは、まだ子供あがりでありながら、感心なことだ」
 といって、無銭渡船をさしてくれた。
 まだこの頃は、俳句のはの字も知らず、年はようやく十六歳と半分ばかりであった。

 ここで「十六歳と半分」というのは、これが明治五年ごろの出来事だとすると、十九歳か二十歳の思い違いであろう。

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