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「パストラル詩社の終焉」

 投稿者:中嶋康博  投稿日:2020年10月 1日(木)09時41分48秒
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 一戸謙三御令孫の晃氏より、前回の「復刻版 パストラル詩社通信」に引き続いてA4版パンフレット、探珠「玲」別冊「一戸謙三の抒情詩 パストラル詩社の終焉」をお送り頂きました。
 
 今回は青森県最初の詩の結社パストラル詩社から発行された、10冊の同人アンソロジー(大正8年~12年)に載せられた一戸謙三の初期の抒情詩を通覧します。合せて詩人の自意識を窺ふやうな、当時の興味深い出来事(事件?)が一緒に記されてゐます。

 すなはち同人達の共通の師匠であった郷里の先輩詩人、福士幸次郎が、「パストラル第7集」に載せる詩篇を取捨選択するその現場に、たまたま田端の福士邸を訪れた謙三が立ち会ってゐるのですが、実力では盟主を任じてゐた自分の作が採り上げられず、代って事務方を仕切ってきた5歳年長の櫻庭芳露(さくらばほうろ)の「悔」が佳作として面前で激賞されたことであります。
 
 (※一週間程経って)「また福士さんを訪ねてゆくと、二階(※四畳半)で原稿を書いてあつたが、それを止めてパストラルの原稿を取り出し批評しながら見てゆく。○のついたのは今度の詩集に入れるもの、×のついたものは入れないものとして厳重にむしろ苛酷といふほどに批評してゆく。それだけ芸術に対して福士さんは妥協的態度を取らないのである。真先きに私の詩が、オリジナリテイがない、とやツつけられた。(※この後、原稿は散失してしまったと言う。)桜庭君も困つたものだ。熱心は芸術と違ふからなあ!しかしこの詩はいいぞ。おお、これア傑作だ、と「悔」(※といふ詩)を示して、これアいい、全くだ。二重丸にしてやれ。いや、いいぞ、も一つ丸をつけてやれ。しかしねえ、パストラル詩社の人たちみんなにこんな詩を作れと云ふのではないですよ。ねえ、めいめい自分には個性と云ふものがあるんですから。」「不断亭雑記(昭和36年より新聞連載)」No.524
 
 当時上京中だったのですが、謙三はこの第7集『五月の花』に載った作品に対する厳しい批評を、地元青森の一般新聞紙上で行ひます(画像参照)。そしてそれが因なのか、それまで櫻庭から一戸への通信文に擬へて福士幸次郎の言葉を伝へて来た「パストラル通信」も、(出てゐないのか、遺されてゐないのか)、当時のものが見当たらないのです。

 厳しい批評は、嫉妬であるより謙三が盟主を自任してゐた詩社の責任者としての自責を他の同人にまで及ぼした現れでありましょう。師の言葉の“厳重にむしろ苛酷といふほど”をそのまま写したものであったかもしれません。しかし、そののち櫻庭氏が自分と入れ違ふやうに教師を辞して上京してしまひ、パストラル詩社も解散のやむなきに至ったことについては、謙三も彼なりに理由の一端を担ったのではないか。バツの悪い思ひもしたのではなかったか。櫻庭芳露は昭和3年に、福田正夫や白鳥省吾の序文を得て『櫻庭芳露第一詩集』を刊行し、新詩人としては少々遅いですが詩集の刊行を果たします。その際、やはり新聞紙上に謙三が書いた当時の回顧には、上京した後の櫻庭氏が、詩作の上では芸術派だった謙三とは全く肌合ひの異なる民衆詩派詩人として、都会生活のなかで変質をとげていったこととは関係なく、正当な人物評として表れてゐるやうであります。
 
「その人(※櫻庭氏)の稟性はまことに誠実そして熱心である。」「あのパストラル詩社を経営した努力、それはわたしら郷土詩壇に今現在生きてあるものの誠に多としなければならぬところである。他日郷土詩史を書くものがあったならば必ずやパストラル詩社の名をまた櫻庭芳露氏の名を逸せぬことであろう。何故なら前者は郷土詩壇の草創の詩社であり、それを主宰し興隆せしめたのは後者であったからである。」昭和3年8月6日「東奥日報」「櫻庭芳露氏とパストラル詩社」
 
ところがその後、謙三の方では郷里にあってモダニズム詩人への変態を遂げ、さらにそこからも脱却すべく欝々と模索・煩悶してゐた時期を迎へて、よほど心に余裕のなくなったものか、昭和8年の「日記」にこんなことが記されてゐることに、晃氏は首を傾げてをられます。
 
8月6日「県教へ出す方言詩を直して書く。弘新(※弘前新聞)によって、新聞を東京に出す。万茶(※喫茶店)によると、成田君(※東奥義塾で今官一らと同級、画家志望)が来る。雑談して五時ころまでゐる。夜に、桜庭氏の歓迎座談会あり。逢って見たところで、大した話のあるわけでもなし、行きたくもないのだが、パストラル同人であって見れば義理である。」

9月8日「佐藤一英、福士さん(新聞)、高木恭造。桜庭先生からヘンなハガキ来る。黙殺す。」
 
 この日記の続きには、高祖保から激励のハガキを受けとり、かうも書いてゐることを以前紹介しました。
 
11月14日「返事を書かうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立つてゐるやうな気がする。この辺で詩集を出せたらと思ふ。」

 「ヘンなハガキ」とは如何なる内容のものだったのか。座談会での様子、当時の作品への短評、あるひは未だ詩集のない詩人に対する慫慂であったかとも私は勘ぐってみます。そして焦りからの斯様のメモとなったのでありましょうか。

 桜庭芳露といふ詩人は、職場では「非社交的」であり「ものごしがおだやかではあったが、どこか毅然としたものが」あって、「重々しい北国の人の魂」を東京生活のなかでも忘れることがなかった人であったやうです。(本田秋風嶺「青森を生きた人―桜庭芳露君のこと―」)

 ふたたび戦後も随分経って、詩人が「不断亭雑記」の中でさきにあげた当時の顛末を余さず書いてゐるのは、気持の上ではわだかまりも貸し借りもなくなった彼が、事実を重んじ有りのままを書いたものであったのでしょう。送って頂いた冊子(探珠「玲」別冊)の今回、前回とに載せられた文章(画像)と、合せて補足する意味で当時のパストラル詩社のことを回顧した福士幸次郎の一文とを紹介しておきます。


福士幸次郎『櫻庭芳露第一詩集(地上楽園叢書第七編)』昭和3年大地舎刊行 序文より

(前略)『詩を見てくれ』といふ郷土の若い人々の声は、すぐオイソレとは引き受けられない破戒の道だつた。幾度も躊躇したあと、究極の心に基いた感情的承認で、引き受けられた仕事であつた。もし断ったら、わたしはまた故郷を失ふであらう。これは私には折角の与へられた機会に対し、芸術を失ふことよりも或る点辛いことであった。

 承知の旨の返事を出すと、この若い人々は早速同人をあつめて、『パストラル詩社』といふ見事な名をつけ地方文壇に旗上げをし、その作つた詩を集めては、東京のわたしに送つて来た。わたしは之れを個々に熱読し、その個性がその儘に延びるやうにと、其の面白いと思はれた個所に、或は面白くないと思はれた個所に、細かい注意書を赤インキで書き入れ、殆ど一作毎に評をつけ、全体の作品に対する個人評を加へ、同人全体に総評を下し、かうしてパストラル同人に返送した。

 この仕事には室生犀星、百田宗治君等が見て驚嘆したものだ。さうであらう。これだけの事をするのに完全に二昼夜も掛つた。そして同人はといふと未だその頃初歩で、先輩詩人への露骨な模倣時代であつて、民衆派一方のものあり、萩原朔太郎君張りあり、単なる童謡めいたもの等があつた。

 わたしは或る時は持て余してふた月ほども原稿を抛つて置いた事もあった。だが、かういう間に同人は殖え、心境や技量は進み、同人集のパンフレット『田園の秋』『太陽と雪と』『芽ぐむ土』等が次ぎつぎに刊行され、パストラル詩社は地方に於ては文芸上の優勢な地位を作り、当時までここでも全盛だつた短歌歌人を圧倒した。

 この活動の期間は凡そ大正十二年頃まで四五年間継続した。それは私にとつても愉快な仕事であつた。なぜといふに同人はこの間に各自、自分の心の上で延び、わたしも亦、これ等郷土詩人を通じて、故郷に立派に繋がつたのであつた。

 わが桜庭芳露君は、実にこの中の一人であり、最初の社の代表者後藤健次君が出郷したので一戸玲太郎、安田聖一君等の助力のもとに、そのあとズッと社の統率、経営に当つて、地方詩壇に貢献した人であつた。この点わが郷土では同君は隠然、地方詩壇の草分けと見られ、同君の名を今に到つても慕ふものが多い。実際また同君のこの前述四五年間の貢献はすばらしかつた。同人集はこの間に九種も出た。それは地方の印刷なので活字こそ汚なかつたが、表紙はやはり同人の手になる色刷りの木版画で飾り、素朴な中にも可愛らしいパンフレットで、その時の事を知つたものは誰しも懐しがるに違ひない。わたしはこの点、或は不親切な先輩であつた事に成るかも知れぬが、中央詩壇当て込みの野心は同人諸君に厳に抑へてゐたので、中央には余程あとで自然に名を認められるやうになったが、事実地方に於ける気持のいい詩の運動で、そして其の努力には桜庭君に負ふ処が多かつた。

 パストラル詩社の揺藍時代を経て、桜庭君はその後東京に出た。丁度大震災の年の初夏であつた。そして桜庭君はこの新生活で、地方ではまた見られない現代社会の広い波に漂ひ、サラリーマンの劇務のなかに今迄とは違つた精神の芽生えを経験し、新しい心境に彷徨し、都会生活の澱のなかに同情の深い詩材を探るやうになつた。そこには誠実な人の心から迸る怒りや、嘆きや、希望や、激励やが如何にも誠心こめて現れた。わたしの郷土の人は嘘はつけない。また空虚な技巧を娯しむやうな心ももつてゐない。この点桜庭君がここに進出して来たのは当然であつた。ただしこの時期には私は丁度桜庭君と入れかはりに故郷に行って生活し地方主義運動に着手したので、桜庭君についてはその後わたしの手を放れて独り見るみる変つてゆく心境を、ただ遠くから見まもつてゐる外なかつた。

 それは悪い方向ではない。時にあぶないナと思った事もあるが、同君の誠実と努力とに充ちた心は、何かなし底のあるものを掴み、読者をして共鳴を起させる力あるものが現れて来た。わたしは桜庭君がたうとう見つけ出したこの独自性について、パストラル詩社最初の精神を壊しく想ひ出し、心からお祝ひするものである。桜庭君よ、その真つ直ぐな道をなほも開け。誠実は矢張り何時も芸術上で貴い光を放つものである。

 昭和三年五月 世田ケ谷にて 福士幸次郎
 

 10月1日は弘前の詩人一戸謙三の祥月命日です。(1899年2月10日 - 1979年10月1日)
 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございます。

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