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いつも拝見してゐるdaily-sumus2の林哲夫様より、下鴨納涼古本まつりでこんな掘り出し物があったのであなたに、と古い短冊をお贈り頂きました。
御当地ものといふことで賜ったにも拘らず、当方狂俳のことは無知にて、さきに小原鉄心や戸田葆逸に係る人物として、俳句の宗匠だった花の本聴秋(上田肇)について知ったばかりです。
短冊裏に「岐阜細味庵亀遊先生筆」とあり、亀遊とは、さて如何なるひとにや。
ネット上で検索すると関連HP記事が一件のみヒットしました。「金華まちづくり協議会公式HP」: https://gokinjyoai.org/group/kyouhai/1692/
また郷土の文人に関する基本文献『濃飛文教史(伊藤信:昭和12)』924p
そして『濃飛文化史(小木曽旭晃:昭和27)』、『岐阜市史通史編近代/文芸(平光善久:昭和56)』にも記述がありました。
これらを合はせると以下のやうになります。
【八仙齋亀遊】
岐阜市今町の製紙原料商、長屋亀八郎(1818-1893)。
性風流を好み、無欲恬淡、早く隠遁の志あり、金華山麓竹林中に草庵を結び、俗塵を避け専ら風流韻事に耽る。
作句弄巧、狂俳選者として知られ、また俳諧を能くし、指導親切のため多くの門人を抱え、推されて宗匠「八仙斎」の第一世となる。
明治26年10月21日76歳で病歿、 辞世に曰く、「きれ雲をあきあき風に冬の月」。墓は末広町の法圓寺。
門弟中の高足、渡邊浅次郎(金屋町の味噌溜商山城屋)、推されて第二世八仙斎一秀の文台を継承するも翌月、明治26年11月18日没、享年42。
以後、第三世巴童(平尾半三郎)、第四世秀雅、第五世右左、第六世松濤、第七世梅溪と、岐阜小学校校区から宗家を輩出。歌仙形式を取り入れた“岐阜調”と呼ばれる、狂俳としては格調を目指した一派を興し、現在も子孫のもとに石碑や古文書等が伝へられてゐる、由。
短冊に「細味庵」とあるのは、狂俳の始祖、三浦樗良(志摩の人)が安永2年、岐阜に滞在した折に指導した、鷺山生まれの桑原藤蔵(美江寺在住、文政6年4月12日没75)が宗匠として名乗った庵号の細味庵が、代々受け継がれて有名であったから、らしい。すなはち、
「狂俳の活動は、細味庵と、(※後発の)八仙斎の二宗家によって伝統が守られ、江戸時代を経て明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛を極めました。現在では、岐阜県を中心に50結社、約400名でその伝統が守り続けられています。」
との紹介がHPでなされてゐます。歴代細味庵は素性が分かってをり、亀遊を細味庵と書いたのは旧蔵者の誤謬のやうです。
さてHP記事にある「狂俳発祥の地」の石碑を、岐阜公園に訪ねて参りました。
確かにその右隣には「八仙斎亀遊翁之碑」が。
裏面の草書の碑文が磨滅して読み辛いのですが、こちらが古く、辛丑とあるのは明治34年(1901)。
まんなかの大きな「狂俳発祥の地」の建立は昭和47年で、左隣には東海樗流会なる狂俳団体による三浦樗良を顕彰する句碑(昭和55年)がありました。東海地方の雑俳史の権威だった小瀬渺美先生が御存命なら詳しいことがお聞きできた筈で残念です。
またお墓があるといふ法圓寺にも行きました。
山門をくぐったすぐのところ、「剣客加藤孝作翁之碑(直心影流)」の隣に「八仙斎亀遊」の墓碑はすぐにみつかりました。
ただ裏をみると、写真のやうに「終年七十六」はよいのですが、「明治乙巳十一月十八日 花屋善平建之」とあるのです。
乙巳なら明治26年ですが11月18日は『濃飛文教史』には、二世八仙斎の没年月日だと書いてあります。石碑の方が正しい筈ですよね。
しかし亀遊の命日が11月18日ならば、それよりひと月溯った10月21日といふ『濃飛文教史』の記述はいったい何の日でしょう。
亀遊の没年月日はやっぱり10月21日で、11月18日とは花屋善平さんがこの石碑を建立した日??ちょっとそれは…。
そもそも辞世句「きれ雲をあきあき 風に冬の月」ってどういふ意味なのでしょう。磨滅した石碑に再度あたりたいと思ひます。
そして、頂いたこの短冊にしても、はっきり書いてある最初の字から読めません(汗)。
狂俳(7.5 / 7.5)なのか、俳句(5.7.5)なのか、擦れ箇所は措いても、何のことを詠んでいるのかさへ判らないのです。わが解読力の不甲斐無さが悔しく、情なく、悲しい。
[祭・緑・絲][祈][是・春(す)][礼(れ)・能(の)]砂■■[頭]二同[章・筆] 亀遊(之繞欠損)」
無知を痛感してをりますが、その道の方々より教へを乞ひたく存じます。
林様よりは、以前にも『種邨親子筆』の写本をお贈り頂きましたが、読めるまで紹介をためらってゐると、いつのことになるやら分かりませんので、面目ないことながら途中報告かたがたこちらにても御礼を申し上げます。このたびはありがたうございました。
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